熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

参議院議員選挙:私の雑感

2010年07月12日 | 政治・経済・社会
   昨日の参議院議員選挙には、当然行って投票した。
   私は、学生時代から、大体、穏健な左派系の考え方をしていたので、社会党か民主社会党に投票することが多かった。
   と言っても、労働組合的な考え方や組織的な社会主義的な政治行動に同調したのではなく、思想としての民主社会主義的な考え方を取っていたのである。
   しかし、長い海外生活を終えて帰って来てからは、是々非々主義を通していて、その都度考えて候補者を選び、自民党に投票することもあった。
    
   前回の衆議院議員選挙には、改革を期待して地方区は民主党に入れて、比例区には社民党に入れた。社民党については、過去の痕跡と言うか、主張にはあんぐりせざるを得ないほど同調の埒外だが、毒にも薬にもならない化石のような政党だと思うけれど、一種のセイフティバルブとして、その存在は価値があると思っていたからである。
   今回は、一応民主党に見切りをつけて、取りあえずと言うのが正直なところで、みんなの党に、地方区も比例区も投票した。
   考え方が、みんなの党に近いからであって、民主党を見限ったからではない。

   私自身は、どちらかと言えば社会民主的な考え方に傾いており、このどうしようもない状態でデッドロックに乗り上げている日本を救済する為には、過去の自民党的な政治や政策を払拭して、民主党的な視点に立って政治を行うべきだと考えている。
   しかし、昨今の民主党の政策で、やや引っかかるのは、労働組合傾斜的な傾向で、日本の経済産業の活力を再生する為には、企業やアンテルプレナー、起業意欲に燃えた事業主体に強力なインセンティブを与えない限り不可能だと考えているからである。

   いずれにしろ、私自身は、今回の民主党大敗と言う選挙結果には、非常に失望している。
   民主党の敗北は、菅首相が、消費税アップを公言したからだと言う批判が一般的だが、鳩山政権の崩壊と、鳩山・小沢の政治と金の問題で、既に、民主党人気は地に落ちており、国民に民主党に対する幻滅感が充満しており、選挙で勝利する目などは完全に消え失せていたはずである。

   尤も、所得統計を確認した訳ではないが、年収200万円以下の労働者が1000万人以上も居ると言われている最悪の貧困格差社会国家日本の総選挙で、消費税を、今の5%から倍の10%に上げるなどと、政権を担っている総理大臣が言えば、生活苦に悩む人々は不安を感じ、国民の多くが危機感を持つのは当然で、そんな空気さえ読めない総理に国政を任せていること自体がが問題であろう。
   昔から、古今東西を問わず、いくら正しい国家政策でも、増税については、一般国民は理由の如何を問わず須らく反対してきた、数少ない唯一の常識である。だから、イギリスなどでは、政府が決めれば、付加価値税(消費財)は、いつでもいくらでも上げられるようになっているのである。

   余談だが、今回の選挙で、理解に苦しむのは、自民党の厚顔無恥とも言うべき対応で、民主党の政策やたった10ヶ月の治世を、口を極めて罵り糾弾していたのだが、今日のように日本の政治経済社会をどうしようもない最悪の状態に追い込んだ当事者は、自民党自身だと言うことが分かっているのであろうかと言うことである。
   10ヶ月前に崩壊寸前であった筈の自民党が、救世主のように脚光を浴びて、返り咲いたのみならず、大勝したと言うのだから驚きだが、節操のなさと言うか主体性のなさと言うか、国民は一体何を考えているのであろうか。
   三つ子の魂100までと言う諺があるが、何十年もの長い間、国政を誤り、日本人が敗戦の廃墟から必死になって築き上げてきた貴重な財産と誇りを、悉く叩き潰して世界最悪の借金国家に陥れた張本人が、たったの10ヶ月で真人間に生まれ変わるなどと言う芸当が出来ると思っているのであろうか。
   喉元過ぎれば熱さを忘れる、こんな悲劇を、日本人は、この歴史の中で、何度も何度も性懲りもなく繰り返して来たのである。
   (このような表現をして、自民党を批判するのは、間違っているであろうか。)

   幸か不幸か、期せずして、衆参両院がねじれ国会となってしまったが、無茶苦茶な一党独裁よりはましであろう。
   民主党も、政権前に、このねじれを利用して相当あくどい手段を行使してきたし、政権後も議会制民主主義を逸脱するような手段にも出ていたと思うのだが、今回は、衆議院議員の3分の2を抑えていないので、野党の反対に会えば法案さえ通らないので、ごり押しは一切出来なくなってしまった。
   根回し掻き回し、周知を集めてコンセンサスを得てことを進めて行くのが日本社会の特質。
   政局が混乱して政界再編成が起これば別だが、少なくとも3年間は、民主党内閣が続くのであろうが、とにかく、政局を安定させて、遅ればせながらも、グローバル社会の波に乗らない限り、日本の明日はなくなる。
   
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世界の文化と日本の文化・・・ドナルド・キーン

2010年07月11日 | 学問・文化・芸術
   後世の人が、20世紀を振り返って褒めるとしたら、それは、東洋と西洋の邂逅であろう。
   初めて、東洋と西洋が接触して、理解しようとした、画期的なことである。
   こんな語り口で、ドナルド・キーン先生は、「知の役割 知のおもしろさ」と言うシンポジウムの基調講演「世界の文化と日本の文化」を始めた。

   ケンブリッジで勉強していた頃、(どうも、1950年代の前半のようだが、)何を勉強しているのかと聞かれて「日本文学」だと答えると、何故、猿真似の国の文学を勉強するのだと、10人中9人から聞かれたようで、当時、日本に関して欧米人が知っていた唯一のことと言えば、日本が猿真似の国であると言うことだったと語って、それ程、日本のことが知られていなかったのだと言う。
   また、日本の明治時代の西洋事情は、欧米への日本人留学生によって齎された翻訳本などからだが、その多くは、留学生の下宿のおばさんの知識情報から出ていたので、その知的水準に止まっており非常に怪しかったと言う。
   どうも、まともな知識情報の流れの最初は、アーサー・ウイリーの「源氏物語」の翻訳と、坪内逍遥のシェイクスピアの翻訳あたりからのようである。

   キーン先生は、源氏物語に関する興味深い話を語った。
   ウイリーが翻訳した「源氏物語」の初版本は、3000部の出版で、半分ずつが、イギリスとアメリカで販売されたと言う。
   しかし、現在は、3種類の英訳本があるが、毎年2万部ずつが売れていると言う。

   最近、キーン教授は、ポルトガル領のマデイラに行ったが、
   1000ページを超える源氏物語の訳本が良く売れていた。
   これは、エキゾチックな日本趣味を味わいたいからではなく、この物語には、普遍性と魅力があり、また、外人読者が、日本人と同様に、美しくて悲しい物語を読みたいと思うからだ、と語った。

   外人に対する日本人の質問は、決まって、刺身を食べるか、箸を使うか、だったが、日本人は、自分たちがユニークだと言うことを欲しているようだが、そんなことを証明する必要もないし、また、それを誇りに思うのはおかしい。
   欧米人が、能の値打ちを認めているのは、普遍的な魅力を持っているからで、日本の素晴らしい文学や芸術が価値あるのも、その特異性にあるのではなく、全く同様の理由だと言うのである。
   従って、近松門左衛門や井原西鶴のどこが猿真似か、奥の細道しかりで、正しい日本の姿が、欧米に知られて行くにつれて、日本は猿真似の国だと言うのが嘘だと分かって来たのである。
   
   私自身、欧米に14年住んでいたし、一泊以上滞在した国は40くらいあると思うので、多少、普通の人よりは、外国経験があると思うのだが、外国の人々と付き合ってきた接点の殆どは、自分が日本人であって外人とは違っていると言う感覚ではなくて、世界中どこへ行っても人間は皆同じなんだと言う強い感慨とその確認以外の何ものでもなかったような気がする。
   私など、先入感が強くて頭の固い、どちらかと言えば、日本愛の強い人間だと思うのだが、
   世界中を歩いて見て、色々な文化や伝統に触れて、素晴らしい芸術などに遭遇して来たが、例えば、どこでオペラやシェイクスピア劇を見ても、あるいは、ボカでタンゴを聞き、ブダペストでジプシーバイオリンを聞き、リスボンでファドを聞き、グラナダでフラメンコを見、そして、日本で歌舞伎や文楽を観るなど色々なパーフォーマンス・アートを鑑賞して、その素晴らしさに感激し続けて来たような気がする。
   そのオリジンには一切関係なく、人類が営々と築き上げてきた文化遺産の素晴らしさ、人間が人間として生きる喜びと悲しみを凝縮爆発させて生み出して来た普遍性が、時空を超えて人々を感激させるのではないかと思っている。

   私は、キーン先生の、源氏物語を外人が読むのは、美しくて悲しい物語を読みたいのだと言う言葉に、限りなく感動を覚えた。

   会場で、即売されていたキーン先生の「私と20世紀のクロニクル」を買って、帰りの電車の中で拾い読みをした。
   まず、目を引いたのは、「ナチ侵攻のさなか、『源氏』に没頭」と言うタイトルである。
   タイムズ・スクエアのゾッキ本書店で山積みにされているウィリー訳の『源氏物語』を見つけて、好奇心から読み始めて、その夢のように魅惑的で、どこか遠くの美しい世界を鮮やかに描き出しているのに心を奪われてしまった。
   1940年のことだから、日本が脅威的な軍事国家だとばかり思っていたのだが、世界の嫌なものすべてから逃れるために、源氏物語に没頭したのだと言う。
   源氏は深い悲しみと言うものを知っていて、人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだと感じながら生きていた、その源氏の世界にどっぷりとつかりながら、まだ見ぬ、しかし、人生を変えてしまった異国日本に思いを馳せていたのかも知れない。

   この本のあとがきで、世界は随分変わったが、一番大切なものは同じままだとして、「源氏物語」を語っている。
   ”私たちの生活が千年前の貴族の生活といかに大きく違っていても、この小説が自分のことのようにわかるのは、紫式部が描いた感情の数々が私たち自身のものであるからだ。愛、憎しみ、孤独、嫉妬その他は、生活様式がいくら変わろうとも不変のままである。「源氏物語」であれシェイクスピアであれ、昔の文学を読む大きな楽しみのひとつは、時空を超えて人々が同じ感情を共有していることを発見することである。”
   東西の邂逅によって、お互いに理解し合おうと言う努力が、お互いの世界の価値ある普遍的なものを発見し理解が深まった。日本の文化や芸術が輝いているのは、日本人の生み出した人間精神の根本に根ざした普遍的な魂の輝きが認められたからであって、日本人が拘る日本は特異だと言う意識など末梢的で、日本文化は、世界、人類共通の普遍性に培われた価値あるものだと言うことを日本人自信が認識すべきだ、とキーン先生は言いたかったのであろう。

   キーン先生を、歌舞伎座やロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演などで見かけたことがあるが、講演を聞くのは初めてで、非常に面白かった。
   日本語に対する日本人の思い込みの強さを語っていたが、特に、面白いのは、外人は日本語が読めないので日本語は暗号のようなものだと思っていたことで、米兵には禁止されていた日記を日本兵は熱心に書いていたのだが、海軍で日本語の文書を翻訳する部署に配属されて、この日記を翻訳して機密情報をキャッチしていた。
   しかし、日本兵の心情を吐露した日記に感動した。時たま、ページの最後に、英文で戦争が終わったら日記を家族に届けて欲しいと書いてあり机の中に隠していたのだが、没収されてしまい痛恨の極みだと言う。

   これに関連して、キーン先生の日本文学に対する博学多識を、英文などへの翻訳を通じて得たものと思っていた東大教授が居たようで、日本人の学者以上に日本語に精通しているキーン先生の実力を分かっていない日本人が多いようである。
   今や、日本文学の講座のない外国の大学は一流ではないと思われていると、キーン先生が言う時代なのである。
   これに良く似た話を、昔、名文章家で有名な高峰秀子が、(子役から多忙極めていて学校も出ていないので)、誰かに書いて貰ったのだろうと言ったこれも東大教授が居たと言う話をしていたのを思い出した。
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東京国際ブックフェア~電子化への傾斜

2010年07月10日 | 展覧会・展示会
   毎年、VIPの招待状を頂いているので、初日に、ビッグサイトで開催されている「第17回東京国際ブックフェア」に出かけて、一日を過ごした。
   今回は、ノンフィクション作家の佐野眞一氏の基調講演「グーテンベルクの時代は終わったのか」で始まり、続いて、昼のレセプションが賑やかに行われ、その後、三々五々、広い展示場に赴くと言う寸法である。
   今正に、アマゾンのキンドルが先行し、超人気のアップルのiPadの爆発的な発売によって、電子書籍が、急速に脚光を浴びており、佐野氏の演題のテーマにあるように、グーテンベルクの紙媒体からインターネット経由の電子媒体への革命的な移行期であり、話題の大半が、このテーマに集中している感じである。

   佐野氏は、紙であろうと電子であろうと、これらは、所謂、ビークル、すなわち、情報の伝達手段であって、肝心なのは、そのビークル(乗り物)に何を乗せるかであって、本の伝える情報、知識、感動の質を高めることで、出版関係者は、とにかく、そのコンテンツの質を高めることに腐心すべきであると発破をかけていた。
   iPadの使用観について、やはり、活字の大きさを自由自在にコントロール出来るのが、e-bookの良さで、高齢化への朗報だと語った。
   また、電子書籍の最大のメリットは、あらゆる書籍を電子化して収容出来るタテに掘り込める力だと言う。
   青春文庫が、iPadで総て読めるのを確かめて、その中の「おじいさんのランプ」を読んだ感想を語り、ランプ売りのおじいさんが、電灯の普及ででランプが駆逐されて行くのに怒って抵抗するのだが、ランプも電灯も同じ「あかり」なのだと気付くと言う話をして、本は、正にそのあかりなのだと強調する。

   展示会場では、私の目当てである紙の本、紙媒体の出版社などの展示コーナーの方は、このブックフェアの効果に見切りをつけたのか、年々、面白みがなくなって来ているような感じがして寂しい。
   熱心だったNHKや讀賣新聞もブースを畳んでいたし、とにかく、子供の本のコーナーも下火で、寂しかった。
   私が、今回買った本は、河出書房新社のバーバラ・エーレンライク著「ポジティブ病の国、アメリカ」の一冊だけ。家内に、バーゲンブックコーナーに面白い料理関係の本があったので二冊。
   孫には、今人舎から出ている、オロジーズと言うドラゴン学や魔術学、海賊学、神話学、エジプト学などをテーマにしたドゥガルド・A・スティールのしかけ絵本シリーズを買って託送した。流石にイギリスで、かなり工夫を凝らした高度な内容の興味深い本なのだが、資料や模型を組み込んだ精巧な豪華本で、多少難しいが、興味を持ってくれればと思ったのである。
   
   その後、電子書籍の息吹を感じられればと思って、グーグルのブースに出かけて、グーグル・エディションの電子書籍「Googleブックス」の説明を聞いた。
   出版社は、グーグルに登録して、一冊だけ本をグーグルに送るだけで良く、登録した書籍をそのまま電子書籍として販売する。利用者は、ウエブプラウザを通してアクセスするので、PCからでもスマートフォンからでも、プラウザを搭載した様々なデバイスで読むことが出来、Googleブックからは勿論、オンライン書店や電子ブック販売サイトからも購入できるのだと言う。
   本屋での立ち読みと同じで、印刷、コピー、保存は出来ないが、書籍の20%までは閲覧可能だと言う。
   とにかく、検索情報は、アマゾンの比ではなく、無尽蔵にあるのだから、この検索情報を駆使して、利用者がアクセスする電子書籍に関する有用な情報の提供には、大いに期待が持てる筈であろう。

   アマゾンは、電子書籍として出版されたe-bookを販売しているのだと思うのだが、問題は、紙媒体の本と違って、電子書籍の場合には、一度、電子書籍として取り込めば、その後の印刷コストや流通コストなど一切不要で、限界コストは限りなくゼロに近くなるので、グーグルの場合には、売れば売るほど、儲かることとなる。
   また、電子書籍の場合には、技術の進歩によって電子化に伴う物理的な製造販売コストが、限りなくゼロに近づくと考えられるので、本のコストが、紙媒体の場合と違って、限りなくコンテンツのコスト・値打ちに収束して行き、本の販売コンセプトが根本的に変わってくると考えられよう。
   再販売制度の見直しは勿論、古本などと言う概念もなくなってしまうのである。

   国立国会図書館のブースでも、壮大な電子化計画について話を聞いた。
   「近代デジタルライブラリー」では、今でも、明治大正期の本15万6000冊がパソコンで閲覧できるのだと言う。

   今や、このパソコン一台で、英語が出来ればと言う話ではあるが、世界中の書籍やドキュメント、絵画や写真等々、情報や知の世界へ、好きなだけアクセスして楽しめる時代になっている。
   日本語だからと言う理由だけで、遅れていることも多いのだが、もう時代は、グーテンベルクからはる遠くへ来てしまったと言うことであり、知の世界は、天地ほどの差で変貌してしまっているのである。
   本も、アナログの世界から、限りなくデジタルの世界へ、急速に変化して行くのだろうと思う。
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古書寄贈を嫌がる市立図書館

2010年07月09日 | 生活随想・趣味
   読書好きには、本に対する人と違った一寸した思い入れと言うかこだわりががあるような気がする。
   沢山の本に囲まれていても、その一冊一冊が気になるのである。

   娘が結婚して家を離れたので、部屋を整理していると、沢山の本が残っていて、その中に、結構立派な宝塚歌劇関係の本が多数出てきた。
   英国留学中に、娘の依頼で、宝塚の舞台放送を、WOWWOWやNHKのBSの番組で録画して送っていたので、宝塚ファンであることは知っていて、帰ってきた時などには、チケットを買ってやっていた。
   しかし、これほど、熱心に(?)宝塚関係の本を集めているとは思っていなかった。

   この下の娘は、イギリスで大学と大学院生活を送っていたので、現代っ子で合理的なものの考え方をしていて、本には全く執着がないので処分を任されたのである。
   一番簡単な方法は、ブックオフに持って行けばよいのだが、折角の本を、定価の100分の1以下の一冊10円くらいにしか引き取ってくれないので、読書家の私にとっては、全人格を否定されたような気がして、あまりにも切なくなるので、そうしたくはない。

   一度、経済・経営関係書の寄贈を申し出ていやな目にあっているので、止めればよかったのだが、近くの市民音楽ホールに併設されている市立図書館(千葉県佐倉市)には、場所柄か、舞台や音楽などの藝術関連やパーフォーマンス・アートなどの本があるので、ここで利用して貰えるようなら有り難いと思って、引取り可能かどうか電話して見た。
   正式な図書館員が留守だったので、本部のあると思える図書館に電話してみたら、図書は、まず、本のリストを書いて提出して、それをチェックしてから、受けるか突き返す(持って帰って貰うと表現)か判断するとの返事であった。
   そうでなければ、定期的に図書館で、古書処分のために市民に自由に持ち帰って貰う場を設けているので、そこに並べて処分すると言う返事であった。
   取りあえず、場所が狭いので、お任せ頂けるのなら、南図書館へ持ち込んでくれれば対応すると言う返事であった。

   しかし、南図書館へは遠いので、躊躇して日が経ってしまったので、近くの市民音楽ホールの図書館に行って、南図書館への便があれば、その時に届けてくれないかと頼んでみた。
   図書館員が、本部図書館に電話をしてどんな指示をしたのか問い合わせてくれたら、7月3日に、南図書館で古書処分会を開くので、その時並べるので、持ち込めと言う意図で指示したのだと言う答が返って来た。
   私としては、担当者が本を見て、図書館に置く本を残して、他の本を古書処分で市民に持ち帰って貰うのだろうと善意に解釈していたのだが、そんな気持ちは毛頭もなく、望みもしないのに持ち込まれた邪魔な本だけれど、仕方がないから、右から左で一緒に処分してやろうと言うことだったのである。
   (これほど、本好きを侮辱する言葉があるだろうか。それも、本を扱う(?)プロの司書の対応である。)
   
   名誉のために言っておく。
   この音楽ホールの図書館には、市立図書館なのでまともな司書が管理しているからであろうか、学問的に分類された名札だけは立派についた書棚に、かなりの本が麗々しく並べられているのだが、しかし、悲しいかな、殆どの本は古くて手垢に塗れて手に取るのも億劫になるほどで、蔵書の選択も極めて杜撰で揃ってもおらず(これは、例えば、私の趣味であるクラシック音楽や舞台芸術関係の棚をチェックすれば分かることで、そのほかの特定の分野などでも、私の書棚の方がはるかに充実していると思えるほど)非常に貧しいのである。
   宝塚歌劇の存在は、歌舞伎にも匹敵するほど、日本の女優の登竜門であり、女優や芸能タレントの育成のみならず日本芸能の質の向上と裾野の拡大などに計り知れない貢献をしていると思うのだが、この図書館には、まともな本が皆無に近い。
   宝塚歌劇関係の本は、専門的な出版社が書物を出版しているので、一般的ではないのだが、娘の残して行った本は、例えば、宝塚の舞台芸術の歴史を語っていると言う一面だけから見てでも貴重であり、まず、大切に扱っていたので、新本同様の新鮮さである。
   
   何かの文章で、図書館の司書だって新本が良く古本は嫌だと書いてあったのを読んだことがあるし、何しろ人材不足で多忙を極めており、寄贈本リストを見て必要な本だけを選択すると言う気持ちも分かるのだが、正直なところは、市民の持ち込む古書になど構っている暇などないのだと言うのが現状であろう。
   しかし、赤字赤字で破綻寸前の市の限られた予算で、大衆迎合型の本しか買えない筈なのに、と思うと、やはり、この対応は徹頭徹尾役所仕事であり、となりの市役所分室では、偶に、住民票などを取りに行くと、暇を持て余していた所員が、何人も窓口に飛んで来るのと似たり寄ったりであろうと思うと、民主党のお題目が空しく聞こえてくる。

   この本の顛末だが、母校の宝塚中学校に電話を掛けて、引取って貰うことにした。
   宝塚歌劇は、故郷である宝塚の誇りであるので、一冊でも二冊でも中学校の図書室の書架に並べて頂ければ幸いだし、また、ファンの女子中学生にあげて頂いても良いので、先生にお任せすることにしたのである。
   あの宝塚歌劇場で聴いた最高のコンサートは、デイビッド・オイストラッフのリサイタルだが、小中学生のディズニー映画の団体鑑賞には、この歌劇場に通ったし、映画のない時には、この劇場で、子供でも観れる宝塚歌劇の豪華絢爛な舞台を楽しませて貰った。
   学芸会で、キングの役をした時に、劇場の衣装室の倉庫に入って、お姉さん達が身につけて舞台に立った筈の衣装を借りたこともあった。
   激しく燃えていたあの頃の甘酸っぱい思い出とともに、はるか昔の故郷の中学時代を思い出して懐かしくなってしまった。
   
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浜矩子著「ユニクロ型デフレと国家破産

2010年07月08日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ユニクロに象徴される価格破壊とも言うべき物価値下がりは、所謂、喜ぶべきイノベーションではある反面、経済を蝕みつつある新型デフレの元凶で、これに呼応した賃金安との歯止めの掛からないスパイラル現象が、世界中に波及して、財政破綻国家の出現などグローバルベースで展開し危機的な様相を呈している。
   何時もの浜流の語り口で、ユニクロ型デフレから説き起こして、現在のギリシャ問題やイギリスの政権交代に至るカレントトピックスまで交えて、国際経済とグローバル恐慌の歴史や問題点浮き彫りにしながら、日本のあるべき姿を、丁寧に説いていて面白い。
   この本で、私が興味を持ったのは、日頃の経済論議ではなく、浜教授が、経済論を展開しながら、人生観を語っていることである。

   「ユニクロ栄えて国滅ぶ」とまで言うのだが、何故、ユニクロ型デフレが問題かと言うことだが、歯止めなき安売り競争を激化させるだけで人々の生活を益々窮地に追い込み、「貧すれば鈍する」と同時に「鈍すれば貧する」で、デフレの齎す負のスパイラルが、日本人の感受性を鈍磨させ、日本人が伝統的に保持してきた「質へのこだわり」を失わせ、日本人の魂さえ破壊しつつあると言うのである。
   更に、このようなデフレ社会において、生きる為に、むき出しの自己利益追求の果てに待つものは、共食い・共倒れの世界であり、「自分さえ良ければ」病の蔓延で、死に至るのだと言う。

   デフレの元凶は、歯止めなき低価格競争だとすると、もうひとつの要因は、賃金の下落・失業の増加による購買力の低下で、何故、労働組合が、もっと経営者に強力に対峙して賃上げを要求しないのかと詰問する。
   デフレだからこそ労働分配率を引き上げて、労働者であると同時に消費者でもある人間にモノを買わせるべきで、そうしなければ経済活動は行き詰る。
   需要としての側面の賃金と言うだけではなく、浜教授は、decent wage すなわち、まともな、きちんとした賃金であるべきだと言う考え方をしている。
   
   
   浜教授の頭には、深刻なデフレ下においては、企業がひたすら安いものを造り続けて、体力の弱い企業から倒産して失業者がふえ、従業員への分配率を下げ続けると言ったタコが自分の足を食うような「恐怖の自分食い」状態から脱却する為には、一人勝ちの思想から「みんながそこそこやって行ける」方向を目指すしかない、「あまねき富の均霑」以外にないと言う考え方がある。
   従って、今日のような成熟経済下の日本には、経団連が唱えている「新産業の必要性」などいくら追求しても、激しい競争を惹起して新型デフレの種を蒔くだけだと言うのである。

   世界の国は順繰りに豊かになって行くもので、中国やインド、ブラジルが急成長する番なのだから、今度はスネを齧る国になって「コバンザメ的」な生き方を目指すのも選択肢の一つだと言う。
   尤も、浜教授も好き好んでこのような考え方に立っているのではなく、あまりにも、バブル崩壊後の国の舵取りの稚拙さ故に、今日の凋落があるのだと説く。もう、日本人は疲れてしまったのである。

   まず、1980年代の『時点で、日本経済を外に向かって大きく開き、内においては多様性を追求すると言う方向へパラダイム・チェンジをすべきであったのに、輸出と言う一点のみに集中して世界と繋がり、後は全部閉じて、グローバル化の夜明けに向かう世界と完全に決別して、歴史を逆行してしまったこと。
   そして、小泉・竹中時代に、不況下にあって、貧富の格差を拡大する傾向を持つ「新自由主義経済」を押し進めて、放置すれば弱者が淘汰される社会でありながら、社会のセイフティネットを十分に張らずに、弱者救済ではなく、グローバル・ジャングルになったのだから、もっと競争努力せよと、自分の身は自分で守れと追い込みをかけて、益々、経済格差を強化してしまったこと。
   
   浜教授は、この本の最後の章「二十一世紀型への処方箋」で、中央集権的管理から競争的分権へ、そして、国民国家の解体への傾向を論じて、将来に日本像を、夫々の地域共同体が「開かれた小国」になって行くと考えている。
   「三方一両損」に二十一世紀の共存共栄を見ると言った見解なども含めて、成長発展とは決別した、と言うよりも、諦めたと言うか、世の中が変わってしまったんだから、人間の幸せとは何なのか、原点に戻って考えてみるべきだと言う人生観のようなものが滲み出たような経済書になっているのが面白い。

   経済成長に関する見解については、私自身、違った考え方をしていて、多少、言い分があるのだが、これまでに、何度も議論を展開しているので、今回は止めて置きたい。
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榊原英資著「ドル漂流」

2010年07月06日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   金融危機後、オバマ政権は、矢継ぎ早に景気対策を打ち、アメリカ経済は景気回復局面に入ったものの、今や財政政策も息切れ気味で、既に、2009年末で米国債の発行額が、対GDP非で60%を超えててしまっており、これほど、財政赤字が年々増加し、米国債の比率が上がってくると、米国債の格付けが格下げされることが有り得ないことではないと、榊原教授は、E.トッドの「帝国以後」やS.ローチのグローバル・リバランシング論を引用して、述べている。
   中国や日本が、米国債を多量に保有しているが、売れば価格が急落して簡単に処分できないのだが、しかし、このような状態が永続する筈がなく、いつかは米国債の金利が上昇し、消化が困難となる時期が到来し、その時こそ、米ドルも急落し、帝国の崩壊となると言うのである。

   まだ、アメリカの経済力はかなりなものなので、直ぐにとは言わないにしても、イギリス中心の金本位制度、それを支えていた国際通貨ポンドが凋落して行き、基軸通貨、金・ポンドが消滅して行ったあの時代の陰がちらつき始めたと言うことであろうか。
   このドルのトレンドとしての弱体化、ユーロの創設、アジアの通貨の今後を考えると、為替の世界は、無極化(多極化ではない)して行くのではないかと言う。

   榊原教授の指摘で面白いのは、ドルの下落は、アメリカにとって大変有利であるから、おいそれと、巷のドル暴落説が裏切られて来たと言うことである。
   何故なら、アメリカにとって債務の殆どはドル建てで、中国や日本のように、ドルの下落によって債務が増加することはない。若干持っている外貨建て債務も、バランスシート上、ドル安はプラスである。
   更に、ドル安は、輸出を増加させ、輸入を減少させることによって、他国と同じように、通貨安は、GDPを増加させ経済成長を促進する。
   したがって、ドル安は、アメリカにとって大きなプラスに成りこそすれ、殆どマイナスはないと言うのである。

   しかし、問題は、そんな簡単のものではなく、例えば、通貨発行特権を考えれば分かるが、日銀が、1万円札を発行する原価は20円くらいだと言うから、その差額は、総て日銀の利得であるのだが、
   ドルの場合には、更に、基軸通貨であるから、膨大な量のドルを輪転機を回して刷り続けて来て、この通貨発行利得をフル活用して、世界中の富を好き放題、勝って放題にに食い潰して来た。
   その結果が、アメリカ経済、アメリカ資本主義の凋落なのだが、更に、ドルが崩壊すれば、アメリカ経済そのものの崩壊であり、世界の秩序を維持していた世界の覇権国家アメリカの軍事、経済、政治力等総てが地に落ちて、アメリカは元も子もなくしてしまう。
   ドル安は、アメリカ経済にとって有利だなどと悠長なことを、賢いアメリカ人が考えているとは、到底考えられない。

   榊原教授の論点は、世界経済が大きな構造変化の局面に入ってきたと言うことで、その大きな特徴の二つは、先進国が成長段階から成熟段階に入ってきたこと、その結果もあって世界経済の重心が中国・インド等の新興市場国に移って来たと言うことである。
   しかし、特に、中国やインドの躍進は、長い人類の歴史を見れば、殆どの期間超大国であり続けたのであるから、リオリエント現象であって、中国やインドが新たに世界経済の中心に躍り出てきたのではなく、長い歴史の通常のパターンに戻っただけだと言う。

   アメリカ中心の世界経済が次第にアジアに移って行き、ドル中心の為替市場も緩やかに無極化へ向かって指向し始めていると言う榊原教授の世界経済の大きな構造変化が分かったとして、それでは、日本としてどのように対処すれば良いのか。
   これについては、この本のスコープ外なので、榊原教授は、何も突っ込んで語っていない。読者自身で考えろと言うことであろうか。

   今、参議院議員選挙合戦で喧しいが、民主党は勿論のこと、自民党も、この問題については、問題意識さえなく、議論の俎上にさえ載せていない。
   日本のあるべき姿、国のかたちについて、真剣に考えられた選挙は、もう、はるか彼方に去ってしまって久しい。
   国民の最大の関心が、年金や社会保障、そして、消費税値上げだと言うのだから、あまりにも悲しいではないかと思っている。
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七月大歌舞伎・・・祗園祭礼信仰記「金閣寺」

2010年07月05日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   国立劇場の五月文楽で観た同じ「金閣寺」が、時を置かずに歌舞伎の舞台にかかったので、今回は、その比較の意味でも興味を感じて出かけた。
   この歌舞伎は、小田信長が、足利義昭を擁立し、足利義輝を滅ぼして金閣寺に立て篭もる松永大膳(團十郎)を討伐すると言う話になっているから、丁度室町から安土桃山への時代の転換期で、この舞台でも、木下藤吉郎(真柴久吉・吉右衛門)が活躍する。

   この「金閣寺」の場では、大膳が、人質として幽閉している先の将軍の母・慶壽院(東蔵)の要望である雲龍の天井画を描かせる為に、雪舟の孫娘・雪姫(福助)夫妻を捉えているのだが、大膳は、雪姫を我が物にしようとの下心があり、夫狩野之介直信(芝 )を牢に入れて雪姫に迫る。
   この雪姫だが、貞淑な妻かと思いきや、幼い3人の子供の命を救う為に清盛に身を任せた常盤御前の故事もあり、夫の命を救う為に、大膳の意を受け入れる決心をする。
   それに、この舞台で、全く解せないのは、大膳の強要に悩み苦しみ逡巡する様子を、上手横に設えられた離れで御簾の上げ下げや仕草でさんざん見せた雪姫が、おずおずと部屋から抜け出して久吉と熱心に碁を打っている大膳に擦り寄って受け入れを伝えると言うあり得ないようなシチュエーションである。
   碁に夢中の大膳が、それに気付かず、頓珍漢な受け答えで場を混乱させるのだが、やっとそれと察して嬉しくて動転した大膳が、われを忘れて碁に負けてしまって碁盤をひっくり返すのだが、芝居とは言え、随分軽々しい筋運びである。

   尤も、この場の主題は、大膳と久吉との腹の探り合いの碁盤の上での鬩ぎあいなので、挿話として楽しめば良いのかも知れない。
   しかし、あの本朝廿四孝の八重垣姫のような赤姫の美しい御簾ごしの印象を髣髴とさせるような印象的なシーンなので、余計に気になるのである。

   さて、この雪姫だが、何故、八重垣姫と時姫とともに、三姫と呼ばれる大役なのであろうか。このあたりの役柄ではなく、次の爪先鼠の場で、後手に縛られて不自由な身で、父の仇が大膳であることを夫に伝えたくて必死にもがき、雪舟が涙で鼠を書いてその鼠に助けられた故事を思い出して、桜の花吹雪で散った花びらを掻き集めて、足の爪先で鼠を描くなど、微妙な舞台表現の難しさであろうか。
   爛漫と咲き誇る桜から舞い落ちる花吹雪の中を、後ろ手に縛られ桜の木に繋がれた雪姫が、綱を引き摺りながら行きつ戻りつ舞台を憂いに満ちた表情で彷徨うのだが、鴇色の美しい衣装に映えて正に一幅の3D名画である。
   私には、前回に観た玉三郎の雪姫の強烈なイメージが目に焼きついているので、好き嫌いは別にして、福助の雪姫には異質な印象を持たざるを得なかった。
   特に、肝心の桜の花びらを掻き集めて鼠を描く仕草など、随分無造作で荒削りな感じがして一寸違和感を禁じえなかったのである。
   
   前回観たこの金閣寺の舞台では、大膳が幸四郎で、久吉は同じ吉右衛門が演じていた。
   大膳は、天下を乗っ取ろうとする大悪人とも言うべき大悪の典型なので、それなりの貫禄と風格が求められる役柄なのだが、幸四郎の時には、あくどさと言うよりは無色透明と言うか無味乾燥ながらも恐らく芝居にすればこれこそ大膳そのものであろうと思える舞台を勤めていた。
   今回の團十郎の大膳だが、貫禄と風格に加えて、もう少しどろどろとした人間臭さが滲み出ていて、雪姫をものにしたいと言う助平心の片鱗を覗かせていたところが面白い。

   吉右衛門は、流石に上手いが、久吉、すなわち、藤吉郎をどう見るかによって、印象が違ってくる。
   天下人としての類稀なる太閤秀吉と言う視点に比重を置けば、大膳に井戸に投げ込まれた碁笥を手を使わずに取り出せと言われて、滝の水を流し込んで碁笥を浮かせて取り上げると言う才知を見せたシーンや、最後の桜の木をよじ登って金閣寺の上階に上がって慶壽院を助ける猿面冠者を捩ったシーンなど大衆迎合型のこの舞台など、あまりにも、次元が違った話であろう。
   それに、小田信長が落ち目だから大膳に鞍替えしたいと宗旨替えし、大膳がころりと行くなど考えられない筋書きだが、これが、大衆歌舞伎の大衆娯楽の由縁であってつまらぬことを言うなと言うことであれば、私は、吉右衛門の久吉は役不足で、大膳を演じた方が、面白いだろうと思っている。
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イングリッシュローズ:エル・ディ・ブレスウェイト

2010年07月03日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今回、鉢植えしたイングリッシュローズ4本の最後の花、L.D.ブレスウェイトが咲いた。
   鮮やかな濃い赤紫色の花で、咲き始めの僅かな時間は、カップ咲きだったが、すぐに、ロゼット咲きになった。
   他の花より花弁の数は少ない感じで、開花すると真ん中の黄色い蘂が表れており、花びらも薄いので、梅雨の合間なのに雨水が少なかったのか、急に日が差して直射日光を受けると、水切れを起こして萎れ始めた。
   水を含むと、すぐに、立ち直り、鮮やかで凛とした真紅の花姿が、そこだけ、強烈な存在感を示していて不思議な感じである。

   この花もそうだが、大輪のモダンローズに慣れていた私にとっては、10センチ足らずの中輪のイングリッシュローズは、丁度、親しみの涌く花の大きさで、それに、一輪咲きの場合もあるが、2~3輪の房咲きであるのが面白い。
   咲き切った感じで切り花にして、アブラハム・ダービーと一緒に、バカラに生けて部屋に置いたのだが、イングリッシュローズの芳香は強いので、甘いバラの香りが部屋の中を漂って来て、久しぶりに、イギリスのバラ園でのひと時を思い出した。

   椿の場合も、庭に咲くと、気に入った花を切って来て、花瓶に生けて楽しむのだが、この調子だと、バラの花も、当分、今回植えた鉢植えの花を、庭植えのバラと一緒に、花瓶に生けて楽しめそうである。
   自然に咲いている花を、途中で、切花にして、命を絶つのは、何となく抵抗を感じるのだが、逆に、放置したままでは、雨に打たれて傷むだけで、それも可哀想だしと思って、雨や嵐の前には、切って来て生けることにしている。
   私自身、生花を勉強した訳でもないし、何の素養もないのだが、自分の育てている花を、気が向いたら切って来て、生花にして楽しめると言うのは、大変贅沢なことだと思って感謝することがある。

   今、ユリの花が最盛期で、大きな花瓶に負けじと、派手に存在感をアピールして、梅雨で沈んだ部屋の中を、明るくしている。
   白や黄色やピンクのユリに混じって、昨年末に、黒百合の球根も植えたので、花の一部を切花にして、生けてみたのだが、存在感はあるとしても、他のユリとのマッチングが、もう一つであり、庭で、そのまま咲かせておいた方が良いような気がしている。

   まだ、今回鉢植えしたバラの木は、小さいのだが、花後でも、枝葉が伸びて大きくなって来ているので、丁度、行燈仕立てにして育てている朝顔と同じ、プラスティックのワッカとポールを買って来て、当分、窮屈だろうが、円筒形に囲って育ててみようと思っている。
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経営学書の古典は役に立つのか~三省堂の企画

2010年07月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先日、神保町の三省堂を訪れたら、3階の経済・経営・法律関係のフロアーの一角に、面白い経営学書コーナーが設置されていた。
   壁面いっぱいに、東洋経済新報社115周年記念企画と銘打ってディスプレイされた経済や経営学書をバックに、三省堂と英治出版との共催で、「ドラッカーだけではない。世界のトップマネジメントシンカーたち。」と言うコーナーが設けられていて、一種の独善と偏見で選ばれた本が並べられていて、それが、結構、興味深いのである。

   「マネジメント・ブームを、ブームだけに終わらせないためにドラッカー以外のマネジメントシンカーを紹介したい。」と言うことだが、私にとって、まず、非常に面白かったのは、私が、もう、何十年も以上も前に勉強した、骨董品とも思うべき経営学書の、新刊翻訳本が沢山出ていると言うこと。言い換えれば、誰が読むのかと言うことでもある。
   古いところでは、F.D.テイラー著「科学的管理法」、ドラッカーと同時代と言うことでは、A.マズロー著「完全なる経営」、アルフレッド・スローン Jr著「GMとともに」、D.マクレガー著「企業の人間的側面」、それに、ワトソン、アンゾフ、サイモン、パーキンソン等々、一々手にとって見なかったけれど、このあたりの本である。
   もう、何十年も前に、大学やアメリカのビジネス・スクール時代に私自身が手に取った本で、今の時代に、このようなかなり大部の原典を読むことに、どれほど価値があるのかと言う素朴な疑問を感じたのである。

   私自身は、経営学書は、それを取り巻く経済社会政治環境のみならず、経営主体が時代とともに大きく変化するので、哲学・宗教・文学・芸術のように普遍性の強い分野と違って、非常に賞味期限の短い学問であり、ドラッカーは別格としても、時代に耐えて行ける作品は、非常に少なく、時には害になることもあるような気がしているので、経営学の古典には、限定的な価値しか認められないと思っている。
   特に、ここで集められている「ドラッカー以前、伝説のマネジメントシンカー」や、「ドラッカーと同じ時代を生きたマネジメントシンカー」についての骨董書で、経営学や近代経営の発展に貢献した一里塚としての価値は認めるが、今現在、拝み読むべき本かどうかは別問題である。

   ところで、この経営学書フェアを企画したのは、英治出版の岩田大志さんと言う営業の方と三省堂のようだが、その他の経営学書の選択ジャンルは、「経営論、戦略論の大家たち」「組織と行動、リーダー論を紐解くマネジメントシンカー」「マーケティング思考するリーダー」「世界に誇る日本人メネジメントシンカー」などだが、あくまで営業政策上の企画だと言うことならそれでも良かろう。
   しかし、今回の経営学書を先のキーワードで選択したと言うのだが、何の脈絡もなければ、統一性もないし、各ジャンルで、何らかの形で話題になったり知られている本を列挙しているに過ぎないとしか思えないのだが、「ここに並んだ本たちは、すべて時代を超えて読み次がれる名著たちです。」とまで言っている。
   
   その前に、もっと奇怪なのは、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』ブームでドラッカーが広く知れ渡ったが、世界のマネジメントシンカーはドラッカーだけではないと言うことを、このブームが去り読者が離れる前に、ドラッカー以外のマネジメントシンカー&その著作を紹介したいと思って、このフェアを企画したと言うのだから恐れ入る。
   こんな場合、書店や出版社(自社出版物でない場合)の人が本を紹介なり推薦する場合には、まともに読み終えていると言う前提があってのことなのであろうが、今回紹介図書は、ビジネス・スクールの教授でも、とてもとてものボリュームで、理解咀嚼となると気が遠くなるほどである筈である。
   (余談だが、唐突に選ばれた、2009年・世界で最も影響のある思想家(タイム誌)と言うジャンルで、急逝したC.K.プラハラードの3書籍が紹介されているのだが、これについては、私自身は、文句なく素晴らしい本だと思っている。)
   
   色々な人の推薦を得た企画で著名な経営学書を集めたまでで、気に入った書物があれば読んで貰えれば良いと言う程度のことなら無難なのだが、時代を超えた名著だとか、読むべきだと言うのなら、僭越ではないかと思っている。
   少し前に、経済書の何かのブームで、店頭に、ケインズの「一般理論」やマルクスの「資本論」やスミスの「国富論」と言った原典が、さも、ベストセラーであるかのようにディスプレイされて売られていたが、経済学を一寸勉強した人なら、如何に難解な骨のある古典であるかが分かっている筈で、一般読者が手にとって簡単に御せる書物ではない。
   先の経営学書の中にも、ビジネススクールで、まともに勉強しないと分からないような難解な、または、内容の深い本があり、一般書店で一般読者に推薦するような本ではないものがかなりあるのである。

   また、経営学関連の推薦本について、東京駅近くの丸善の「読み継がれるビジネス名著」と言うコーナーを見て、同じようなことを感じた。
   ここには、スキルアップ、サービスアップ、自己啓発、組織を動かす、リーダーシップ、経営者、等々と言った銘を打って本が並べられているのだが、本当に読み継がれる名著に値するのか疑問に思えるような本(と言うと語弊があるので、もっと適切な素晴らしい本があるのにそれを無視して選んだ本)が並んでいるのである。
   
   結論としてのわたしの感想だが、書店に、まともに読んで理解もせずに、無責任ないい加減な専門書の推薦書コーナーを設けて読まねばならない名著だとのたまうなと言いたいと言うことである。
   この程度の書店経営では、e-bookに駆逐されて、消えてゆかざるを得ないのは当然だと言えないであろうか。
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三菱UFJフィナンシャル・グループ株主総会

2010年07月01日 | 経営・ビジネス
   株主総会の集中日だとかで、三菱と三井住友とがかち合ったので、今年も、武道館の三菱UFJの方に出かけた。
   今回は、ベテランの畔柳氏に代わって新任の永易克典社長の司会で始まった。
   第一声の印象は、極めて覇気に欠ける陰気な感じで、慣れてくれば、気にならなくなるのだが、才気煥発でトップを行く金融機関の長とは思えないほど穏やかな議事進行であった。
   時々、当たり障りのない極めて常識的な自分の見解を述べることがあるが、初めてであったからかも知れないが、最初から最後まで、バックに陣取る事務局の指示が手元の机のディスプレイに映し出されるのであろうか、それを見ながら、株主の質問を、総て担当者に振って答えさせており、前任の畔柳前社長とは大分違っていた。

   決議事項は、剰余金処分と取締役16名選任の件の2件だったが、これについては、株主の質問などはなく、また、株主の一般的な質問や意見も、特に、カレントトピックスもとぼしかったので、目だったものはなくて平穏無事であった。
   先約があったので、行員で組合員の株主から雇用条件の改善などを訴える最後の質問が終わったところで、私自身は会場を出た。
   武道館前で、九段下から上がってくる株主に、この組合員たちが、要望書ビラをくわっていたが、労使問題が激しい時ならいざ知らず、この程度のことを事前に、解決できないようなメガバンクであるところに、三菱UFJの陰に篭った経営問題があるのかも知れないと思った。

   しかし、ビラを見ると、主は、誰でも一人でも入れると言う「金融ユニオン」の要望であり、そのビラの裏には、組合員株主の「定時株主総会質問書」が書かれている。
   全国金融産業労働組合と銀行は、団体交渉を行っているが、経営者側から、組合の質問に対して、経営問題について明確な回答が出てこないので、総会時の質問に及んだと言うことらしい。
   問題の焦点は、10年来定例給与の改善がないと言うことで、その論点の大半は、中小企業対策も含めて、日本の左派系政党の主張と殆ど同じである。
   今、選挙戦でも論点のひとつだが、労働分配率が悪化して給与水準が上がらないのが原因で、需要が伸びず日本経済が益々悪くなっていると言う論点と、この20年間、殆ど経済成長がなくて益々日本経済の地盤沈下が進展して、国際競争力の強化の為にも、企業に活力を与えて経済成長を図らねばならないと言う論点との鬩ぎあいでもあろう。
   問題は、この三菱UFJでも開示されたが、畔柳前社長他2名の取締役の報酬が、いつの間にか、1億1千万円まで上がっていると言う現実をどう見るかである。

   さて、三菱UFJの業績だが、前年の連結粗利益と連結当期純利益が、夫々、32,729億円とマイナス2,569億円であったのが、当期のそれらは、夫々、36,004億円と3,887億円で、大幅な回復を見たと言うことだが、自慢出来るような業績では決してない。
   収益向上に貢献したのは、グループ挙げての経費削減と株式相場の好転に伴っての株式等償却が減少したことなどと言うのであるから、積極的な経営努力や経営革新あっての業績アップではなく、また、金融再生法開示債務比率が上昇しており、先行きの明るさは、景気次第で、特に感じられなかった。
   連結自己資本比率及びTier1が、14.87%、10.63%と向上して、世界でも最高水準だと誇るのだが、株主利益を無視して、大幅増資を強行すれば、数値が上がるのは当然である。

   株主から、何故、外銀と比べて、三菱UFJなど日本の銀行の株価が極端に悪いのだと聞かれて、収益力の差だと答えていた。
   日本の長期にわたる異常な低金利水準が収益の足を引っ張っており、また、外銀が、利益が見込める投資銀行業務や海外業務を指向して事業を展開しており、その差が大きいとも答えていた。
   そのために、モルガン・スタンレーとの戦略的提携が、これからの三菱UFJの最大の切り札だと言うのであるが、モルガン・スタンレーのグローバル・ネットワークと先進的な商品開発能力、グローバル・ベースでのM&A指向の投資関連業務などに対するノウハウを、三菱UFJの幅広い顧客ときめ細かいサービスとを結びつけることによって、日本の証券会社などには出来ない投資銀行業務を推進するのだと言うことのようである。

   野村證券も同じようなことを言っていたが、要するに、サブプライム関連で露呈しアメリカ資本主義を破綻させたような投資銀行業務は避けるけれども、それ以外の欧米の投資銀行業務こそが、これからの金融機関の目指すべき道であり、出来るだけ早くこの体制を整えて、one stop shoppingを実現するのだと言うことであろうか。
   気になるのは、このone stopと言う三菱UFJで総て完結すると言うビジネス感覚で、いまだに、グループを挙げての総合力を結集してことに当たろうとする時代錯誤ぶりなのだが、総合なんとかと言う業態が、既に、ICT基調のグローバル経済社会環境下で、破綻齟齬を来たして暗礁に乗り上げているのが、分かっての話であろうか。
   話は違うが、株主から、三菱UFJから投信を買ったが対応が悪すぎたとの苦情が出たのに対して、色々な証券会社の合併直後なので体制が未整備だと答えていたが、能書きと実態の違いを示していて面白い。

   相変わらず、実際の銀行窓口では門前払いされて不満を持っている株主からの苦情が絶えず、今回は、90歳の老人にマンション建設資金を貸し付けて、その損失の穴埋めのために資産を切り売りして返済を続けていて大変苦しんでいると言う例を紙芝居形式でボードを示しながら老人を食い物にしている(?)銀行の実態を訴えていた。
   ところが、驚いたことに、このような苦情トラブルは無数にあって、多数が係争中であり、苦情処理は、ここに届け出て頂けば・・・と言った三菱UFJからの回答があり、銀行にも銀行の言い分があるのだと言うことで、然るべきところで解決しようと言うことらしい。

   他にも、支店を作る時は良い顔をして協力依頼の挨拶をするがゴーストタウンになるとさっさと支店を閉鎖して駅前にATMだけのこすのはケシカランと、千里ニュータウンから来た老人株主が訴えていたが、
   武道館に、何百人と言う三菱UFJの優秀な行員を糾合して立たせて、「ありがとうございました」と挨拶させるだけの人的無駄をするのなら、会場に、2~30人くらいの人材を割いて、臨時のお客様相談・苦情処理室を設置して、株主顧客の「物申す」に対応して貴重な情報を得ると言う多少頭を使った対応が出来ないものだろうかと思っている。

   
   
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