夜の部の最初は、「暫」で、朱塗りの社殿も鮮やかな鶴岡八幡宮の社頭をバックにした華麗な舞台で展開される荒事の代表作だが、中身も内容もない魅せるだけの芝居と言うと御幣があるのだが、私には、何回見てもいまだに馴染めない。
その点、最後の舞踊劇である「馬盗人」の方は、如何にも人を食った他愛もない話だが、底抜けに馬鹿馬鹿しくて、馬が主役(?)と言う至ってコミカルな舞台で、これだけ徹底しておれば、それはそれで面白い。
この二つの芝居に挟まれた、極めて真面目で深刻な舞台が、近松門左衛門作の「傾城反魂香」の「土佐将監閑居の場」で、吉右衛門が、真面目一方実直そのものでうだつの上がらないども又を、死を賭して手水鉢に描いた会心の作が認められて免許皆伝を許されると言う、夫婦の慈愛溢れる泣き笑い人生を、感動的に演じていて爽やかである。
この舞台の主役は、当然、吃音の言語障害があって思うように喋れないので、何事も妻お徳(芝雀)の陰に隠れて代弁をさせて自己の思いを伝えている冴えない又平なのだが、この又平が、土佐の苗字を許されたいばっかりに、悪戦苦闘しながら大変身すると言うところも、この吉右衛門・又平の芸の見所である。
毎日、律儀にも、大津から山を越えて山科まで、蟄居の身の師匠将監(歌六)の見舞いに妻と通っているのだが、この日は、狩野元信の描いた寅が絵から抜け出たのを弟弟子の修理之助(種太郎)が描き消した功績で土佐の苗字を許されたので、必死になって、お徳を焚き付けて自分への苗字下付を願うのだが一蹴される。お徳の陰に隠れて懸命に意を伝えようとする又平の姿が哀れである。
ところが、そこへ、息も絶え絶えに、将監の旧主にあたる女性・銀杏の前が浚われたので助けてくれと雅楽之助(歌昇)が飛び込んで来る。
土佐の苗字を許されたいばっかりに、画才でなくても何でも良いから、どんな手段であっても手柄を立てて師匠に報いて功を立てたいと思った又平は、吃音も何のその、必死になって自分を助太刀に行かせてくれと止めるお徳を地べたに押さえ込んで、階を駆け上がって将監に直訴する。それも許されず、命じられた修理之助が発とうとするのを、必死で止めて役を変わってくれと哀願する。
しがない大津絵を描いて旅の客に売って糊口をしのいでいた弱気な又平が、必死で自分の道を自分で切り開こうと飛び出した瞬間である。
しかし、将監に、絵で功績を立てよと一蹴され望みを絶たれた又平夫妻は、万策尽き果てて、死を決心する。
切腹しようとするのを止められて、せめて遺作をとお徳に勧められた又平は、手水鉢に自画像を描くべく、一筆一筆精魂込めて筆を運ぶ。
描き終えて座り直した又平のために、死に水を取りに手勺を拾い上げて手水鉢に向かったお徳が、描いた自画像の裏側の石の表面に、同じ自画像が浮かび上がっているのに気付いて仰天する。
妻に促されて半信半疑で手水鉢を前後左右から見た又平、「かか、抜けたァ!」
この手水鉢の反対側、すなわち、客席側の絵だが、一寸、タイミングがずれて表れるので、四角柱の手水鉢の中に入った黒子が描いているのであろう。
一部始終を家の中から見ていた将監が表れて、当然、即刻免許皆伝。
北の方(吉之丞)から、紋付と羽織袴、脇差を下付された又平は、喜び勇んで、お徳の鼓に合わせて大頭の舞を舞う。
免許状と筆を貰った又平夫妻は、意気揚々と銀杏の前救出に向かう。
このような地獄から天国への、起承転結の激しい泣き笑い人生、それも、たったの一日の又平の心の軌跡を、吉右衛門は、万感の思いと感動を込めて、丁寧に描き切っている。
舞の文句を口上で言えばどもりが治るだとか、舞を舞うなどと言うことが近松の原作にあるのかどうかは知らないが、大頭の舞は、中々面白く、歌舞伎の舞台でのサービスのような気がしている。
夫思いで健気な世話女房を、芝雀が、可愛く器用に演じていて好感が持てる。
特に、冒頭の、無口な夫の代わりに、ぺらぺら喋り続ける表情や仕草など、有りがちな嫌味がなくて好ましい。
吉之丞の渋い北の方、沈着重厚、それに、実に品のある歌六の将監、歌昇・種太郎父子の溌剌とした演技など、脇役の素晴らしさも特筆モノの、素晴らしい舞台であったと思っている。
(追記)口絵写真は、新橋演舞場のロビーだが、歌舞伎座と雰囲気が随分違う。
その点、最後の舞踊劇である「馬盗人」の方は、如何にも人を食った他愛もない話だが、底抜けに馬鹿馬鹿しくて、馬が主役(?)と言う至ってコミカルな舞台で、これだけ徹底しておれば、それはそれで面白い。
この二つの芝居に挟まれた、極めて真面目で深刻な舞台が、近松門左衛門作の「傾城反魂香」の「土佐将監閑居の場」で、吉右衛門が、真面目一方実直そのものでうだつの上がらないども又を、死を賭して手水鉢に描いた会心の作が認められて免許皆伝を許されると言う、夫婦の慈愛溢れる泣き笑い人生を、感動的に演じていて爽やかである。
この舞台の主役は、当然、吃音の言語障害があって思うように喋れないので、何事も妻お徳(芝雀)の陰に隠れて代弁をさせて自己の思いを伝えている冴えない又平なのだが、この又平が、土佐の苗字を許されたいばっかりに、悪戦苦闘しながら大変身すると言うところも、この吉右衛門・又平の芸の見所である。
毎日、律儀にも、大津から山を越えて山科まで、蟄居の身の師匠将監(歌六)の見舞いに妻と通っているのだが、この日は、狩野元信の描いた寅が絵から抜け出たのを弟弟子の修理之助(種太郎)が描き消した功績で土佐の苗字を許されたので、必死になって、お徳を焚き付けて自分への苗字下付を願うのだが一蹴される。お徳の陰に隠れて懸命に意を伝えようとする又平の姿が哀れである。
ところが、そこへ、息も絶え絶えに、将監の旧主にあたる女性・銀杏の前が浚われたので助けてくれと雅楽之助(歌昇)が飛び込んで来る。
土佐の苗字を許されたいばっかりに、画才でなくても何でも良いから、どんな手段であっても手柄を立てて師匠に報いて功を立てたいと思った又平は、吃音も何のその、必死になって自分を助太刀に行かせてくれと止めるお徳を地べたに押さえ込んで、階を駆け上がって将監に直訴する。それも許されず、命じられた修理之助が発とうとするのを、必死で止めて役を変わってくれと哀願する。
しがない大津絵を描いて旅の客に売って糊口をしのいでいた弱気な又平が、必死で自分の道を自分で切り開こうと飛び出した瞬間である。
しかし、将監に、絵で功績を立てよと一蹴され望みを絶たれた又平夫妻は、万策尽き果てて、死を決心する。
切腹しようとするのを止められて、せめて遺作をとお徳に勧められた又平は、手水鉢に自画像を描くべく、一筆一筆精魂込めて筆を運ぶ。
描き終えて座り直した又平のために、死に水を取りに手勺を拾い上げて手水鉢に向かったお徳が、描いた自画像の裏側の石の表面に、同じ自画像が浮かび上がっているのに気付いて仰天する。
妻に促されて半信半疑で手水鉢を前後左右から見た又平、「かか、抜けたァ!」
この手水鉢の反対側、すなわち、客席側の絵だが、一寸、タイミングがずれて表れるので、四角柱の手水鉢の中に入った黒子が描いているのであろう。
一部始終を家の中から見ていた将監が表れて、当然、即刻免許皆伝。
北の方(吉之丞)から、紋付と羽織袴、脇差を下付された又平は、喜び勇んで、お徳の鼓に合わせて大頭の舞を舞う。
免許状と筆を貰った又平夫妻は、意気揚々と銀杏の前救出に向かう。
このような地獄から天国への、起承転結の激しい泣き笑い人生、それも、たったの一日の又平の心の軌跡を、吉右衛門は、万感の思いと感動を込めて、丁寧に描き切っている。
舞の文句を口上で言えばどもりが治るだとか、舞を舞うなどと言うことが近松の原作にあるのかどうかは知らないが、大頭の舞は、中々面白く、歌舞伎の舞台でのサービスのような気がしている。
夫思いで健気な世話女房を、芝雀が、可愛く器用に演じていて好感が持てる。
特に、冒頭の、無口な夫の代わりに、ぺらぺら喋り続ける表情や仕草など、有りがちな嫌味がなくて好ましい。
吉之丞の渋い北の方、沈着重厚、それに、実に品のある歌六の将監、歌昇・種太郎父子の溌剌とした演技など、脇役の素晴らしさも特筆モノの、素晴らしい舞台であったと思っている。
(追記)口絵写真は、新橋演舞場のロビーだが、歌舞伎座と雰囲気が随分違う。