最近の新橋演舞場の歌舞伎には、感激するような舞台が少なかったのだが、今回の昼の部の歌舞伎は、結構、楽しませて貰った。
どうしても、同じ出し物だと、前回に見た舞台を思い出して比較してしまうことが多く、今回は、役者が大分代わっていて、雰囲気やニュアンスの差が出ていて興味深かった。
山科閑居は、今回、初役が多かったようで、特に、前半の女の代理戦争とも言うべき戸無瀬(藤十郎)とお石(時蔵)、そして、戸無瀬と小浪(福助)との親子の対話など、これまでの、戸無瀬の玉三郎や芝翫と小浪の菊之助、そして、お石の勘三郎とは、大分違っていて、藤十郎の戸無瀬の強さと言うか、押し出しの強さのような重みが前面に出て、これも、毅然たる態度できっぱりと対決姿勢の時蔵との火花が散るような対決が面白かった。
この山城閑居では、許嫁していた娘の小浪を、大星力弥(染五郎)に嫁がせるために、義母である戸無瀬が、大星家の住居を探し当てて、連れて来ており、戸無瀬の方には、全く悪気がなく当然だと思っている節があって、対話が進むのだが、一気に対決ムードに変ってしまう。
問題は、夫・加古川本蔵(幸四郎)が、殿上での刃傷の時に、塩谷判官を後ろから羽交い絞めにして止めたので、判官が、高師直の殺害に失敗して本懐を遂げることが出来なかったのだが、このことに対する思いが、加古川家と大星家では全く違うところにある。
本蔵は、全く身分違いで判官を止める立場にもなかったにも拘わらず、抱きとめたのは、判官が自分の娘の許婚の主君であり、「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」ととっさに判断したからであった。
この娘可愛さが、「山科閑居」の一つの重要なサブテーマになっていて、力弥の槍に故意に突き刺され、瀕死の状態で本蔵は、由良助に、「約束通りこの娘を、力弥に添わせて下さらば未来永劫御恩は忘れぬ。」と手を合わせて頼み込み、「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心、推量あれ」とかき口説く。
お石の方は、お家断絶で浪々の身となった今日、身分違いだと言って嫁入りを拒絶してケンモホロロに奥へ退席するのだが、お家大事で師直に賂の限りを尽くして追従する本蔵のへつらい武士としての節操のなさが許せない上に、殿の本懐を横からしゃしゃり出て妨げた張本人であるから、絶対に許せないと言う思いがある。
結局、絶望して死ぬ覚悟に至った母娘の姿を見て、本蔵の白髪首を差し出すと言う条件で、お石は、嫁入りを許すのだが、しかし、本心は、仇討のために江戸へ旅立ち死ぬ運命にある力弥との結婚は、あまりにも可哀そうだと言う母としての思いがある。
席を立って奥に下がる時も、時蔵お石は、そっと、戸の隙間から二人の姿を覗き込み、隣の部屋から一部始終を観察していたのであろう、戸無瀬が、刀を、小浪に振り下ろそうとした時に、「御無用」と声を掛けて止める。
一方、戸無瀬は、当時としては、お殿様大事で、お家安泰のために家老が決某術数を弄して仕えるのは当然であって、また、判官の安泰を願って刃傷を止めたのであって、何も、本蔵には、悪いところはないと思っていたであろうし、それよりも、殆ど実情を知らずに、愛しい力弥と早く一緒になりたいとそのことだけを念じて遠い旅路を上って来た小浪の心情のいじらしさが傑出している。
住大夫が、「小浪は処女でっせ」と何度も師匠に言われ続けたと語っていたが、この殺伐とした忠臣蔵の世界から、あまりにも世間離れした小浪と言う存在があるから、その前の、戸無瀬と小浪の道行の場が、美しくて感動的なのであろう。
文楽では、最初、お石が、京都見物の話をするのだが、この母親対決は、お石の方は、最初から肚が据わっていてびくともしない強さと沈着さがあるが、戸無瀬の方は、嫁入りをコテンパンに叩き潰されて、結婚できなければ死にたいと泣く小浪にかき口説かれて窮地に立ち、二人で自害に及ぼうとし、最後には、娘の許嫁に、目の前で夫が槍で突き立てられ瀕死の状態になるのを見届けると言う、実に天から地に落ちるような悲哀を味わい続ける。
藤十郎は、でかしゃった、でかしゃったと言う台詞を聴くと、政岡を思い出したのだが、一寸、存在感が有り過ぎたきらいはあったが、このあたりの心情の変化や心の微妙な揺れなどニュアンスの表現と芸の細やかさは、流石であった。
時蔵のお石は、実に、きっぱりとした凛とした爽やかさがあって、温かさ思いやりをちらりと覗かせて人間味を出すところなど上手いと思った。
福助の小浪は、初々しさも健気さも十分で上手いと思ったが、一寸、年齢的な先入観の所為もあって、お石の方が、似合ったのではないかと思って見ていたのは、失礼だったであろうか。
さて、主人公の本蔵だが、主家を暇乞いして京都に赴いて来ており、冒頭で、放蕩三昧の由良之助(菊五郎)を罵倒するのだが、大星の本心と動向をすべて認識した上で、虚無僧姿で山科に来ており、娘の嫁入りのために力弥の手にかかって首を差し出すことも覚悟して、そして、大星達の師直殺害を助けるために、高師直住居の絵図面を携えて来ている。
悪人で通っていた本蔵が、味方となって大星を助けると言う「もどり」だが、それを知った大星が、総てを本蔵に明かして、本蔵の虚無僧の衣装を借りて、大阪に出立して行く。
たった一夜の余裕だけ力弥に与えて出て行くのであるが、さて、小浪は幸せであったのであろうか。
幸四郎の本蔵と染五郎の力弥は、間違いなく決定版で、素晴らしいと思うのだが、菊五郎の由良之助も、中々重厚で品があって、光っていた。
これだけ、役者が揃って、重厚な舞台となると、グンと舞台に輝きが出て来て、観劇後にも余韻を引き楽しい。
真山青果の「荒川の佐吉」だが、随分前に見たのは、佐吉が仁左衛門で、今でも、幕切れの夜明け前の薄暗い向島の土堤の茶屋のシーンを覚えており、目が見えない姉の乳飲み子を置いて出奔してしまったお八重(孝太郎)との、しみじみとした再会シーンが忘れられないのだが、今回も、染五郎と梅枝が、実に印象的な素晴らしい舞台を見せてくれていた。
「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(幸四郎)が、惜しいなあと言って止めるのを断り、鍾馗(錦吾)の二代目継承を棒に振って旅立って行くのだが、物語の底流には、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が自分であることが邪魔になると言う慙愧の思いがあり、万年三下奴で押し通した自分の器の大きさを知っていると言う現実を考えると、一寸、複雑な思いである。
中々役者もそろっていて素晴らしい舞台であったが、前回の大工辰五郎を演じていた染五郎が、仁左衛門の代わりに佐吉になって、素晴らしい佐吉像の新境地を開き、その後の辰五郎を演じた亀鶴が、また、実に呼吸ぴったりと染五郎佐吉に付きつ離れつ寄り添って、小気味の良い演技を見せて秀逸であった。
どうしても、同じ出し物だと、前回に見た舞台を思い出して比較してしまうことが多く、今回は、役者が大分代わっていて、雰囲気やニュアンスの差が出ていて興味深かった。
山科閑居は、今回、初役が多かったようで、特に、前半の女の代理戦争とも言うべき戸無瀬(藤十郎)とお石(時蔵)、そして、戸無瀬と小浪(福助)との親子の対話など、これまでの、戸無瀬の玉三郎や芝翫と小浪の菊之助、そして、お石の勘三郎とは、大分違っていて、藤十郎の戸無瀬の強さと言うか、押し出しの強さのような重みが前面に出て、これも、毅然たる態度できっぱりと対決姿勢の時蔵との火花が散るような対決が面白かった。
この山城閑居では、許嫁していた娘の小浪を、大星力弥(染五郎)に嫁がせるために、義母である戸無瀬が、大星家の住居を探し当てて、連れて来ており、戸無瀬の方には、全く悪気がなく当然だと思っている節があって、対話が進むのだが、一気に対決ムードに変ってしまう。
問題は、夫・加古川本蔵(幸四郎)が、殿上での刃傷の時に、塩谷判官を後ろから羽交い絞めにして止めたので、判官が、高師直の殺害に失敗して本懐を遂げることが出来なかったのだが、このことに対する思いが、加古川家と大星家では全く違うところにある。
本蔵は、全く身分違いで判官を止める立場にもなかったにも拘わらず、抱きとめたのは、判官が自分の娘の許婚の主君であり、「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」ととっさに判断したからであった。
この娘可愛さが、「山科閑居」の一つの重要なサブテーマになっていて、力弥の槍に故意に突き刺され、瀕死の状態で本蔵は、由良助に、「約束通りこの娘を、力弥に添わせて下さらば未来永劫御恩は忘れぬ。」と手を合わせて頼み込み、「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心、推量あれ」とかき口説く。
お石の方は、お家断絶で浪々の身となった今日、身分違いだと言って嫁入りを拒絶してケンモホロロに奥へ退席するのだが、お家大事で師直に賂の限りを尽くして追従する本蔵のへつらい武士としての節操のなさが許せない上に、殿の本懐を横からしゃしゃり出て妨げた張本人であるから、絶対に許せないと言う思いがある。
結局、絶望して死ぬ覚悟に至った母娘の姿を見て、本蔵の白髪首を差し出すと言う条件で、お石は、嫁入りを許すのだが、しかし、本心は、仇討のために江戸へ旅立ち死ぬ運命にある力弥との結婚は、あまりにも可哀そうだと言う母としての思いがある。
席を立って奥に下がる時も、時蔵お石は、そっと、戸の隙間から二人の姿を覗き込み、隣の部屋から一部始終を観察していたのであろう、戸無瀬が、刀を、小浪に振り下ろそうとした時に、「御無用」と声を掛けて止める。
一方、戸無瀬は、当時としては、お殿様大事で、お家安泰のために家老が決某術数を弄して仕えるのは当然であって、また、判官の安泰を願って刃傷を止めたのであって、何も、本蔵には、悪いところはないと思っていたであろうし、それよりも、殆ど実情を知らずに、愛しい力弥と早く一緒になりたいとそのことだけを念じて遠い旅路を上って来た小浪の心情のいじらしさが傑出している。
住大夫が、「小浪は処女でっせ」と何度も師匠に言われ続けたと語っていたが、この殺伐とした忠臣蔵の世界から、あまりにも世間離れした小浪と言う存在があるから、その前の、戸無瀬と小浪の道行の場が、美しくて感動的なのであろう。
文楽では、最初、お石が、京都見物の話をするのだが、この母親対決は、お石の方は、最初から肚が据わっていてびくともしない強さと沈着さがあるが、戸無瀬の方は、嫁入りをコテンパンに叩き潰されて、結婚できなければ死にたいと泣く小浪にかき口説かれて窮地に立ち、二人で自害に及ぼうとし、最後には、娘の許嫁に、目の前で夫が槍で突き立てられ瀕死の状態になるのを見届けると言う、実に天から地に落ちるような悲哀を味わい続ける。
藤十郎は、でかしゃった、でかしゃったと言う台詞を聴くと、政岡を思い出したのだが、一寸、存在感が有り過ぎたきらいはあったが、このあたりの心情の変化や心の微妙な揺れなどニュアンスの表現と芸の細やかさは、流石であった。
時蔵のお石は、実に、きっぱりとした凛とした爽やかさがあって、温かさ思いやりをちらりと覗かせて人間味を出すところなど上手いと思った。
福助の小浪は、初々しさも健気さも十分で上手いと思ったが、一寸、年齢的な先入観の所為もあって、お石の方が、似合ったのではないかと思って見ていたのは、失礼だったであろうか。
さて、主人公の本蔵だが、主家を暇乞いして京都に赴いて来ており、冒頭で、放蕩三昧の由良之助(菊五郎)を罵倒するのだが、大星の本心と動向をすべて認識した上で、虚無僧姿で山科に来ており、娘の嫁入りのために力弥の手にかかって首を差し出すことも覚悟して、そして、大星達の師直殺害を助けるために、高師直住居の絵図面を携えて来ている。
悪人で通っていた本蔵が、味方となって大星を助けると言う「もどり」だが、それを知った大星が、総てを本蔵に明かして、本蔵の虚無僧の衣装を借りて、大阪に出立して行く。
たった一夜の余裕だけ力弥に与えて出て行くのであるが、さて、小浪は幸せであったのであろうか。
幸四郎の本蔵と染五郎の力弥は、間違いなく決定版で、素晴らしいと思うのだが、菊五郎の由良之助も、中々重厚で品があって、光っていた。
これだけ、役者が揃って、重厚な舞台となると、グンと舞台に輝きが出て来て、観劇後にも余韻を引き楽しい。
真山青果の「荒川の佐吉」だが、随分前に見たのは、佐吉が仁左衛門で、今でも、幕切れの夜明け前の薄暗い向島の土堤の茶屋のシーンを覚えており、目が見えない姉の乳飲み子を置いて出奔してしまったお八重(孝太郎)との、しみじみとした再会シーンが忘れられないのだが、今回も、染五郎と梅枝が、実に印象的な素晴らしい舞台を見せてくれていた。
「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(幸四郎)が、惜しいなあと言って止めるのを断り、鍾馗(錦吾)の二代目継承を棒に振って旅立って行くのだが、物語の底流には、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が自分であることが邪魔になると言う慙愧の思いがあり、万年三下奴で押し通した自分の器の大きさを知っていると言う現実を考えると、一寸、複雑な思いである。
中々役者もそろっていて素晴らしい舞台であったが、前回の大工辰五郎を演じていた染五郎が、仁左衛門の代わりに佐吉になって、素晴らしい佐吉像の新境地を開き、その後の辰五郎を演じた亀鶴が、また、実に呼吸ぴったりと染五郎佐吉に付きつ離れつ寄り添って、小気味の良い演技を見せて秀逸であった。