熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

少しずつ慣れてきた能・狂言の鑑賞

2012年03月04日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先月、式能を能楽堂で見てから、その後、3回能狂言の鑑賞に出かけて、少しずつ、能楽堂の雰囲気にも慣れてきて、面白くなり始めて来た。
   都民劇場能で、宝生能楽堂で、「羽衣」「樋の酒」を見た以外は、国立能楽堂で、女性能楽師による「百万」と「天鼓」、そして、3月に入ってから「縄綯」と「箙」であった。
   狂言の方は、比較的分かり易くて、面白さ・可笑しさ、諧謔を感じて、楽しめれば、駆け出しとしては、まずまずの出来だと思うのだが、能の方は、今のところ、どのように能の舞台が展開されるのか、その進行具合や能の形らしきものが、おぼろげながら分かって来たと言うところであろうか。

   色々バリエーションはあろうが、例えば、こんな話。
   諸国行脚の旅の僧(ワキ)がまず出て来て名乗りをあげて着座すると、何か曰く因縁のありそうな人物やその化身がシテとして登場して、問答を交わして舞いながら曰くを謡い消えて行く。狂言方のアイが登場して、ことの経緯などを詳しく語ってくれるので、話が分かってくる。その後、前シテの在りし日の姿や霊などが後シテとして再び登場して、故事来歴などを披露述懐して舞い謡い華麗な舞台を展開して、後世の弔いを頼んで消えて行く。
   このような二場からなる形式の能は、「複式夢幻能」と言うらしいのだが、これが、徹頭徹尾、無駄を削ぎ落してエッセンスだけにシンプリファイ様式化された舞で表現し、笛、小鼓、大鼓、太鼓の4拍子の囃子の伴奏に乗って、美文調の美しい謡などが、シテと地謡で謡い続けられ、最後には、静かに、橋掛かりから退場して行く。

   私は、能楽堂に出かける前に、一応、話の筋を読んでおくのだが、ロンドンに居た時に、RSCやロイヤル・シアターなどに通い詰めて、シェイクスピア劇の鑑賞を通じて観劇に慣れ親しんだ身にとっては、全く勝手が違うので、多少話が分かったくらいでは、殆ど役に立たない。
   まだ、文楽の方は比較的物語性があって親しみやすいけれど、歌舞伎になると、中には、奇想天外で、全く筋が筋になっていないような見せる舞台があって、最初は違和感を感じたのだが、能になると、もっと、極端で、筋があっても、理解し楽しむためには、かなりの年季と修練が必要なようである。
   先の観世銕之丞さんは、能は、外国の演劇に例えると、オペラよりは、音楽を通して表現し演じるので、ミュージカルに近いと言っていたが、私も、ミュージカルを、ブロードウエイやウエスト・エンドで良く見たし、オペラも、一時期通い詰めたのだが、形だけ似ていても、表現方法は勿論、パーフォーマンス・アーツとしての質も芸術性も全く異質であって、この能の奥深さは、600年の歴史と伝統を背負っていて、例えにならないように思う。
   ところが、私の席の後ろに、白人の家族が座っていて、熱心に観劇していた。

   まず、能への取っ掛かりだが、「天鼓」は、初春番組でNHKが放映しており、「羽衣」は、たけしの番組で、観世清和が演じていたりしていて、参考になったし、題材が、「箙」の場合には、梶原源太景季が梅花一枝を箙にさして戦に出た話だし、「羽衣」や「高砂」などは、知っている話であり、能の曲の多くは、歴史上の人物や名所旧跡などを題材にしたケースが多いので、手探りながら、多少、イメージが湧いてくるので、そのあたりからアプローチしていると言うことである。
   能・狂言から題材を取った歌舞伎が多いので、その元となった能や狂言のオリジナルの舞台を見て比較できるのを楽しみにしている。

   ところで、先に記した様に、女性能楽師による能を見た。
   囃子の中にも女性奏者が居たし、地謡はすべて女性陣であった。
   私は、男性能楽師と、そんなに差があるとは思っていないのだが、茂山千之丞が、「狂言三人三様 茂山千作の巻」の中で、女性狂言師は、絶対反対だとして、狂言や能は始めから男がやるようにできていて、それを女の人がやるのは、狂言や能に対する侮辱とかではなく、アホだと思う、と語っている。
   女形と言うのはそもそも男で、歴史的な必然の中で女形の技術が生まれた。あれは男を否定しないと女にならない。しかも男は女の魅力、色気を女の人以上に知っています。それを男の体を生かして表現する。だから、女優さんが女形になろうと思ったら、いっぺん男にならないといけない。男になって、それから女形になると言う二重の手間が要ります。そういう意味で、女優がやる女形はコピーにすぎない。と言うのである。
   先ほど亡くなった雀右衛門が、この世にない女を演じるから女形は美しく魅力的なのだと語っていたのだが、同じことを言っているのであろうか。

   能や狂言が、日本独特の古典芸能であり、現在の姿が決定版だとするのなら話は別かも知れないが、あのシェイクスピアも、当初は、すべて、男優が演じており、かってのオペラも、去勢したカストラートがソプラノを歌っていたのだが、今では、男役は男優が、女役は女優が演じていて、本来の姿に戻って、素晴らしい芸術を作り上げている。
   歌舞伎は、当初の阿国歌舞伎が、風紀を乱したと言うことで、江戸幕府が男歌舞伎を命じたので、歌舞伎は、その伝統に従って出来上がっているのであって、もし、阿国歌舞伎の伝統が継承発展しておれば、どのような歌舞伎になっていたかは、分からないし、どっちとも言えないのではないかと思っている。

(追記)口絵写真は、NHKテレビより転写。観世清和の「羽衣」
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