狂言の「重喜」は、人間国宝の野村萬が、孫の可愛い眞之介を相手にして展開する面白い舞台である。
シテ/住持(萬)が、修行中の若い僧の子方/重喜(眞之介)に、頭を剃らせることにするのだが、剃刀の切れ味を手に当ててて試している途中、住持にぶつかって、「弟子七尺去って師の影を踏まず」と窘められたので、重喜は、長い杖の先に剃刀を付けて、影を踏まぬように遠く離れて「いでいで髪を剃らん」と長刀を使うように剃るのだが、剃刀を住持の眼前に振り下ろして鼻の先を削いでしまう。重喜は、急いで逃げて退場し、住持は鼻を押さえて留める。
大蔵流では、この前に、旦那が登場して、斎を申し入れるところから始まるようである。
冒頭、住持に重喜も連れて行くと言われて、自分にもお布施が出るのかと問うたので窘められるのだが、住持も、お布施の金額によって機嫌が変るではないかと口答えして叱られるところなど、最初から笑いを誘う。
いくら短くても棒の先に剃刀を括りつけて、髪を剃るなどと言うことは、ベテランの理髪師さえ無理な筈なので、当然結末は見えているのだが、これを、後半は、重喜の派手な剃刀使いに合わせて、5人の地謡が重喜に唱和して謳い上げるのであるから、奇想天外の発想とそれを狂言に仕立てる舞台展開が面白い。
余談だが、私は、海外生活が長かったのだが、一番困ったのは散髪で、どうしても、異人に剃刀を使って髭を剃って貰いたくなかった。
日本人の散髪屋や美容院のあるところは別だが、他の散髪屋では、一切、カット・オンリーで通したのだが、その後、随分経ってから、QBハウスが、同じシステムの1000円散髪を開業して、ブルーオーシャン、破壊的イノベーションと持て囃されたので、面白かった。
能の「兼平」は、平家物語の第八十三句「兼平」の「義仲最後」を殆どそのまま踏襲した曲で、同じ、この部分に想を得て脚色した能「巴」と対比して観ると非常に興味深い。
宇治川や瀬田での戦いに惨敗した義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延び、近江国粟津で、とうとう、主従五騎となり、最後の戦に女と討ち死にしては悪しかりなんと、巴を去らせて後世の弔いを命じ、手塚別当自害、手塚太郎討ち死にで、木曾義仲は、乳母子で義仲四天王の一人今井兼平と主従2人となる。
義仲の最後には、この平家物語以外に、色々な異説・異聞があって定かではないのだが、ここでは、義仲は、兼平が最も恐れていた雑兵に射抜かれると言う無惨な最期を遂げており、兼平は、それを見届けて、太刀を抜いて口にくわえて、馬上より真っ逆さまに落ちて壮絶な最後を遂げている。
義仲は、「一所にていかにもならん」と契った仲だからと抵抗したが説得され、粟津の松原に逃げ込んで自害せんと駆けて行くのだが、薄氷の張った深田にのめり込んで身動きとれず、後ろを振り向いた瞬間、相模の住人石田次郎為久の追っかけよつ引いた矢に内兜を打ち抜かれて、兜の真向を馬の頭にあててうつ伏したところを首をかき切られて、太刀の先に刺し貫いた首を高く差し上げられて、功名名乗りを上げられてしまうのである。
「武士は、日頃いくら高名であっても、最後に不覚あれば永く傷がつく。取るに足りない雑兵に討たれて名乗りを上げられるなどあっては、あまりにも口惜しい。ただ松の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と勧めた兼平の願いが虚しかったのである。
義仲は、源氏で最初に平家に攻め込み都に上った一族でありながら、如何せん、御大将の義仲に、体制も整わず確たる哲学もなく統治能力に欠けていたが故に、朝敵となり同族に討たれると言う悲惨な運命を辿ったのだが、やはり、若年なりと言えども、都で暮らし都を知っていた頼朝の知勇と才覚には及びもつかなかったのであろう。
平家物語から多くの能の大曲が生まれているにも拘わらず、主人公は、巴や兼平であって義仲ではなかったと言うのは、このあたりにあるのかも知れない。
この兼平は、源平の名のある武将を主題にしたもので、戦闘にまつわる題材で、修羅道の苦患を描くものであり、「死」に直面した武人たちの人生を悲哀を漂わせながら描いている曲であるから修羅物で、修羅物は総て夢幻能だと言う。
ところで、シテは、中入り前も、自分の氏素性を明かさずに消えて行き、最後は、主君の最期のことを語り、自らの最期を再現して終わり、主君の回向は頼むが、他の曲のように、自分の菩提の弔いを依頼して終わる形式ではなく、少しバリエーションがある。
前シテも後シテも、殆ど動きがないので、私などの初心者には理解に困るのだが、床几に座り続けていた後シテ/兼平が、主君の最期を語る<クセ>の終わりで、床几を離れて、主君の討ち死にを知って、覚悟を決めて、大勢を相手に奮戦の末、自害して果てる姿を舞うのだが、あの平家物語の描写のように迫力があって感激であった。
今回の「兼平」は金剛流で、シテは、種田道一師、ワキは、森常好師。
シテ/住持(萬)が、修行中の若い僧の子方/重喜(眞之介)に、頭を剃らせることにするのだが、剃刀の切れ味を手に当ててて試している途中、住持にぶつかって、「弟子七尺去って師の影を踏まず」と窘められたので、重喜は、長い杖の先に剃刀を付けて、影を踏まぬように遠く離れて「いでいで髪を剃らん」と長刀を使うように剃るのだが、剃刀を住持の眼前に振り下ろして鼻の先を削いでしまう。重喜は、急いで逃げて退場し、住持は鼻を押さえて留める。
大蔵流では、この前に、旦那が登場して、斎を申し入れるところから始まるようである。
冒頭、住持に重喜も連れて行くと言われて、自分にもお布施が出るのかと問うたので窘められるのだが、住持も、お布施の金額によって機嫌が変るではないかと口答えして叱られるところなど、最初から笑いを誘う。
いくら短くても棒の先に剃刀を括りつけて、髪を剃るなどと言うことは、ベテランの理髪師さえ無理な筈なので、当然結末は見えているのだが、これを、後半は、重喜の派手な剃刀使いに合わせて、5人の地謡が重喜に唱和して謳い上げるのであるから、奇想天外の発想とそれを狂言に仕立てる舞台展開が面白い。
余談だが、私は、海外生活が長かったのだが、一番困ったのは散髪で、どうしても、異人に剃刀を使って髭を剃って貰いたくなかった。
日本人の散髪屋や美容院のあるところは別だが、他の散髪屋では、一切、カット・オンリーで通したのだが、その後、随分経ってから、QBハウスが、同じシステムの1000円散髪を開業して、ブルーオーシャン、破壊的イノベーションと持て囃されたので、面白かった。
能の「兼平」は、平家物語の第八十三句「兼平」の「義仲最後」を殆どそのまま踏襲した曲で、同じ、この部分に想を得て脚色した能「巴」と対比して観ると非常に興味深い。
宇治川や瀬田での戦いに惨敗した義仲は、今井兼平ら数名の部下と共に落ち延び、近江国粟津で、とうとう、主従五騎となり、最後の戦に女と討ち死にしては悪しかりなんと、巴を去らせて後世の弔いを命じ、手塚別当自害、手塚太郎討ち死にで、木曾義仲は、乳母子で義仲四天王の一人今井兼平と主従2人となる。
義仲の最後には、この平家物語以外に、色々な異説・異聞があって定かではないのだが、ここでは、義仲は、兼平が最も恐れていた雑兵に射抜かれると言う無惨な最期を遂げており、兼平は、それを見届けて、太刀を抜いて口にくわえて、馬上より真っ逆さまに落ちて壮絶な最後を遂げている。
義仲は、「一所にていかにもならん」と契った仲だからと抵抗したが説得され、粟津の松原に逃げ込んで自害せんと駆けて行くのだが、薄氷の張った深田にのめり込んで身動きとれず、後ろを振り向いた瞬間、相模の住人石田次郎為久の追っかけよつ引いた矢に内兜を打ち抜かれて、兜の真向を馬の頭にあててうつ伏したところを首をかき切られて、太刀の先に刺し貫いた首を高く差し上げられて、功名名乗りを上げられてしまうのである。
「武士は、日頃いくら高名であっても、最後に不覚あれば永く傷がつく。取るに足りない雑兵に討たれて名乗りを上げられるなどあっては、あまりにも口惜しい。ただ松の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と勧めた兼平の願いが虚しかったのである。
義仲は、源氏で最初に平家に攻め込み都に上った一族でありながら、如何せん、御大将の義仲に、体制も整わず確たる哲学もなく統治能力に欠けていたが故に、朝敵となり同族に討たれると言う悲惨な運命を辿ったのだが、やはり、若年なりと言えども、都で暮らし都を知っていた頼朝の知勇と才覚には及びもつかなかったのであろう。
平家物語から多くの能の大曲が生まれているにも拘わらず、主人公は、巴や兼平であって義仲ではなかったと言うのは、このあたりにあるのかも知れない。
この兼平は、源平の名のある武将を主題にしたもので、戦闘にまつわる題材で、修羅道の苦患を描くものであり、「死」に直面した武人たちの人生を悲哀を漂わせながら描いている曲であるから修羅物で、修羅物は総て夢幻能だと言う。
ところで、シテは、中入り前も、自分の氏素性を明かさずに消えて行き、最後は、主君の最期のことを語り、自らの最期を再現して終わり、主君の回向は頼むが、他の曲のように、自分の菩提の弔いを依頼して終わる形式ではなく、少しバリエーションがある。
前シテも後シテも、殆ど動きがないので、私などの初心者には理解に困るのだが、床几に座り続けていた後シテ/兼平が、主君の最期を語る<クセ>の終わりで、床几を離れて、主君の討ち死にを知って、覚悟を決めて、大勢を相手に奮戦の末、自害して果てる姿を舞うのだが、あの平家物語の描写のように迫力があって感激であった。
今回の「兼平」は金剛流で、シテは、種田道一師、ワキは、森常好師。