先日、日経ホールで、「ストップ・ザ・ボケ」と言うタイトルの講演で、長谷川嘉哉氏の認知症に関する興味深い話を聞いた。
非常に面白かったのは、旦那に先立たれた妻が、非常に活き活きと暮らしているのに、逆に、妻に先立たれた旦那が、意気消沈して落ち込むのは何故かと言う話であった。
確かに、夫に先立たれた婦人(大体老人が多いが、昔から比べるとまだまだ非常に若々しい)を見ていて、落ち込んで生活が惨めになったと言ったケースなどは全くなく、旦那が生きていた時よりも元気になったと思える人の方が多い感じである。
それに比べて、妻に先立たれた男(こんなケースは、非常に少ないのだが)の場合には、元気がなくなって老け込む人が多いような気がする。
私自身は、常識的に、今まで一切の世話をして来てくれていた妻が亡くなると、何もできない男にとっては、自分の生活の世話を自分で十分にできないので毎日の苦労が大変だが、妻の場合には、何でも生活一切自分で出来るし、「主人は丈夫で留守がいい」と思っていた夫が定年後家にいて世話が厄介だったのが、居なくなったのだから楽になって羽を伸ばせるからだと考えていた。
しかし、実際はそうではなく、「妻は旦那を忘れ、旦那は妻を忘れない」からだと言う。
実際に起こる認知症関連の男女別の周辺症状から考えれば、この男女差が影響すると言うことらしい。
女性の場合には、「物取られ妄想・・具体的な物事に拘る」と言う症状が現れて、財布がなくなったとか誰かに取られたと言った妄想が起きて来るらしい。
ところが、男性の場合には、「妻取られ妄想(=嫉妬妄想)・・妻を所有?」に陥って、妻が浮気していないかどうか気になって仕方がないと言うことらしい。
私など、全く、その意識も感覚もなかったのだが、
長谷川先生によると、男は妻を自分の所有物だと思っているので、それを失いたくないと言う気持ちが強くて、妻のことが絶えず気にかかる。しかし、女性の場合には、元より夫を自分の所有物だと言う意識はないから、取られても取られなくてもそれ程気にならないし、夫のことなどは、すぐに忘れてしまうので、居なくなっても心配なく、伸び伸びと暮らせるのだと言う。
確かに、熟年離婚は、妻から申し出るケースの方が多いようだし、そう言われれば、そうかも知れないと言う気がしない訳でもない。
最近、私立探偵が活躍しているようだし、夫の素行調査や浮気調査で、妻が探偵社を雇って調べさせることが多いと聞くのだが、これは、若くて元気な時と言うか、夫が現役でバリバリ活躍していて、生活のかなりの部分が、夫にかかっている場合で、妻に生活の自由が利かないからであって、長谷川説によると、夫取られ妄想は、それ程強くないと言うことであるから、お互いに老境に入ってしまえば、妻の方は、何も失うものはないから、夫のことなどは気にならないと言うことであろう。
尤も、婦人の中には、夫に先立たれて元気を亡くする人もいるのだが、これは、愛情と言うよりは、茶飲み友達が居なくなって、一人残されたので、寂しいと言う気持ちが強いと言うことであろうか。
いずれにしろ、配偶者を所有物だと考えると言う意識に差があると言うのは、人類固有の生理的な理由によるのか、或いは、生活や社会制度など後遺的な現象によるものなのか、それとも、他の要因から来るものなのか、興味深い問題である。
しかし、男女が社会生活上、殆ど同等の地位を与えられるならば、女性の方が相手に執着しないということであるから、どちらかと言えば、今の男尊女卑で女性が弱い立場にある場合と違って、男女の仲は、女性の方に主導権が移りそうだと考えられるのが、非常に興味深い。
考えてみれば、良き子孫を残すために、女性の方が、種を選ぶと言うのが、自然の摂理であるから、当然かもしれないと言う気になる。
妻が夫に執着しないのなら、案外、モーションをかければ、憧れのマドンナにお近づきになれるかも知れないと友が宣う。
余談だが、隣に座っていた、気の弱そうで実直そうな熟年男が、何故か、一生懸命にメモを取っていたのが、気になった。
先約があったので、私は、鳥越俊太郎が登場するパネルを諦めて会場を出た。
ところで、プラトンが「饗宴」の中で、ギリシャ神話を引用して、お互いにベター・ハーフを求めて恋焦がれる男女の愛の摂理について語っていて面白い。
太古の人間は力が強く傲慢で、神々に叛乱を企てるので、ある時、ゼウスは、人間を真っ二つに両断しようと決断し、一人残らず真っ二つに切断した。しかし、いずれの半身も、もう一方の半身に憧れ、これを追い求め、一緒になろうとしており、それ以来、人間は己の失われた半身を焦がれ求め続けることとなり、これが、男女の恋心を燃え立たせ続けているのだと言う。
ギリシャ神話には、もっとロマンチックで素晴らしい話がある。
理想の女性を、ベター・ハーフ探しでは見つけられずに、ピグマリオンは、自分自身で作り上げたのである。
現実の女性に失望したピュグマリオンは、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻したのだが、その彫刻に恋をして人間に変身することを願うようになった。その彫像から離れなくなり次第に衰弱して行ったので、その姿を見かねたアプロディーテが、その願いを容れて彫像に生命を与えたので、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。
この話が、バーナード・ショーに、戯曲『ピグマリオン』(Pygmalion )を書かせて、更に、それが、ヘップバーンの映画「マイ・フェア・レディ」になった。
私は、あの香港を舞台にした慕情と言う映画が好きなのだが、その原題は、”Love Is a Many Splendored Thing”
人間、死ぬまで、恋焦がれて生き続けて行くと言うことであろう。
非常に面白かったのは、旦那に先立たれた妻が、非常に活き活きと暮らしているのに、逆に、妻に先立たれた旦那が、意気消沈して落ち込むのは何故かと言う話であった。
確かに、夫に先立たれた婦人(大体老人が多いが、昔から比べるとまだまだ非常に若々しい)を見ていて、落ち込んで生活が惨めになったと言ったケースなどは全くなく、旦那が生きていた時よりも元気になったと思える人の方が多い感じである。
それに比べて、妻に先立たれた男(こんなケースは、非常に少ないのだが)の場合には、元気がなくなって老け込む人が多いような気がする。
私自身は、常識的に、今まで一切の世話をして来てくれていた妻が亡くなると、何もできない男にとっては、自分の生活の世話を自分で十分にできないので毎日の苦労が大変だが、妻の場合には、何でも生活一切自分で出来るし、「主人は丈夫で留守がいい」と思っていた夫が定年後家にいて世話が厄介だったのが、居なくなったのだから楽になって羽を伸ばせるからだと考えていた。
しかし、実際はそうではなく、「妻は旦那を忘れ、旦那は妻を忘れない」からだと言う。
実際に起こる認知症関連の男女別の周辺症状から考えれば、この男女差が影響すると言うことらしい。
女性の場合には、「物取られ妄想・・具体的な物事に拘る」と言う症状が現れて、財布がなくなったとか誰かに取られたと言った妄想が起きて来るらしい。
ところが、男性の場合には、「妻取られ妄想(=嫉妬妄想)・・妻を所有?」に陥って、妻が浮気していないかどうか気になって仕方がないと言うことらしい。
私など、全く、その意識も感覚もなかったのだが、
長谷川先生によると、男は妻を自分の所有物だと思っているので、それを失いたくないと言う気持ちが強くて、妻のことが絶えず気にかかる。しかし、女性の場合には、元より夫を自分の所有物だと言う意識はないから、取られても取られなくてもそれ程気にならないし、夫のことなどは、すぐに忘れてしまうので、居なくなっても心配なく、伸び伸びと暮らせるのだと言う。
確かに、熟年離婚は、妻から申し出るケースの方が多いようだし、そう言われれば、そうかも知れないと言う気がしない訳でもない。
最近、私立探偵が活躍しているようだし、夫の素行調査や浮気調査で、妻が探偵社を雇って調べさせることが多いと聞くのだが、これは、若くて元気な時と言うか、夫が現役でバリバリ活躍していて、生活のかなりの部分が、夫にかかっている場合で、妻に生活の自由が利かないからであって、長谷川説によると、夫取られ妄想は、それ程強くないと言うことであるから、お互いに老境に入ってしまえば、妻の方は、何も失うものはないから、夫のことなどは気にならないと言うことであろう。
尤も、婦人の中には、夫に先立たれて元気を亡くする人もいるのだが、これは、愛情と言うよりは、茶飲み友達が居なくなって、一人残されたので、寂しいと言う気持ちが強いと言うことであろうか。
いずれにしろ、配偶者を所有物だと考えると言う意識に差があると言うのは、人類固有の生理的な理由によるのか、或いは、生活や社会制度など後遺的な現象によるものなのか、それとも、他の要因から来るものなのか、興味深い問題である。
しかし、男女が社会生活上、殆ど同等の地位を与えられるならば、女性の方が相手に執着しないということであるから、どちらかと言えば、今の男尊女卑で女性が弱い立場にある場合と違って、男女の仲は、女性の方に主導権が移りそうだと考えられるのが、非常に興味深い。
考えてみれば、良き子孫を残すために、女性の方が、種を選ぶと言うのが、自然の摂理であるから、当然かもしれないと言う気になる。
妻が夫に執着しないのなら、案外、モーションをかければ、憧れのマドンナにお近づきになれるかも知れないと友が宣う。
余談だが、隣に座っていた、気の弱そうで実直そうな熟年男が、何故か、一生懸命にメモを取っていたのが、気になった。
先約があったので、私は、鳥越俊太郎が登場するパネルを諦めて会場を出た。
ところで、プラトンが「饗宴」の中で、ギリシャ神話を引用して、お互いにベター・ハーフを求めて恋焦がれる男女の愛の摂理について語っていて面白い。
太古の人間は力が強く傲慢で、神々に叛乱を企てるので、ある時、ゼウスは、人間を真っ二つに両断しようと決断し、一人残らず真っ二つに切断した。しかし、いずれの半身も、もう一方の半身に憧れ、これを追い求め、一緒になろうとしており、それ以来、人間は己の失われた半身を焦がれ求め続けることとなり、これが、男女の恋心を燃え立たせ続けているのだと言う。
ギリシャ神話には、もっとロマンチックで素晴らしい話がある。
理想の女性を、ベター・ハーフ探しでは見つけられずに、ピグマリオンは、自分自身で作り上げたのである。
現実の女性に失望したピュグマリオンは、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻したのだが、その彫刻に恋をして人間に変身することを願うようになった。その彫像から離れなくなり次第に衰弱して行ったので、その姿を見かねたアプロディーテが、その願いを容れて彫像に生命を与えたので、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。
この話が、バーナード・ショーに、戯曲『ピグマリオン』(Pygmalion )を書かせて、更に、それが、ヘップバーンの映画「マイ・フェア・レディ」になった。
私は、あの香港を舞台にした慕情と言う映画が好きなのだが、その原題は、”Love Is a Many Splendored Thing”
人間、死ぬまで、恋焦がれて生き続けて行くと言うことであろう。