熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・狂言・金藤左衛門、能・氷室

2012年07月08日 | 能・狂言
   7月最初の国立能楽堂の定例公演は、大蔵流の狂言・金藤左衛門と宝生流の能・氷室であった。
   金藤左衛門は、和泉流にはなくて、類作「痩松」が演じられると言うことであり、能の氷室もそうだが、今回の両作品とも、岩波講座・能・狂言には、記述がなく、殆どの能・狂言関係の本にも載っていないのだが、初歩の私など、当然、はじめての鑑賞だったが、結構楽しませて貰った。

   狂言は、山賊のシテ・金藤左衛門(茂山正邦)が、最近幸運に恵まれないので今日こそは良い仕事をしたいと張っていると、実家に帰るアド・女(茂山逸平)が、道に迷って通りかかったので、長刀を振るって脅し上げて、土産物の入った持ち物を奪って、その幸運を喜ぶ。ところが、喜んで品定めをしている隙を見て、激怒した女が長刀を奪い取って、今度は、逆に、山賊を脅し上げて、自分の所持品を取り返したばかりではなく、山賊に脇差を差し出させて奪い、身ぐるみ剥いで、父様への土産にと持ち去る。山賊は、施しをすれば必ず良い報いが将来来る筈と無理に喜ぼうと、泣き笑いの体で帰って行く。

   とにかく、この山賊だが、女に強盗など許される道理などないと詰め寄られると、お許しの御状(泥棒許可書)を持っていると言って懐から出して読み上げるところなど、正に狂言の世界だが、
   折角、里への土産にと用意した大切なものをムザムザト奪われて、思いがけない貴重な収穫にほくそ笑む山賊の姿を見て、頭に来た弱い筈の女が、一転して山賊の上前を撥ねて意気揚々と退場するところなど、実にウイットとアイロニーの香り豊かで面白い。
   最初は、シテが茂山七五三で、アドが正邦であったのだが、七五三が病気休演で、正邦がシテに回って、アドの女を、逸平が代わって演じたのであるから、エネルギッシュな正邦と、軽妙かつコミカル・タッチで器用に笑いを誘う逸平との相性が抜群で、何かの拍子に一気に運命が逆転する凡人の泣き笑い人生のアヤを存分に見せてくれて、非常に面白かった。

   氷室とは、ウィキペディアによると「氷や雪を貯蔵することで冷温貯蔵庫として機能する専用施設のこと。」
   日本各地に氷室を冠した地名が残っているが、この能の舞台は、丹後の国の氷室山で、
   亀山院に仕える臣下たち(ワキ/臣下 殿田健吉)が、天橋立の智恩寺からの帰途、氷室山の氷室を守る老人(前シテ/氷室神 朝倉俊樹)に出会い、老人は平和な治世の目出度さを祝う「氷の御調の祭」を見ることを薦めて姿を消す。中入り後、天女(後ツレ/ 金井賢郎)が現れて天女の舞を舞い、天地が振動して氷室明神(後シテ/ 朝倉俊樹)が出現し、氷を守護して宮廷に送る様を現して豪快に舞う。
   冷蔵庫など冷蔵冷凍施設のない時代には、夏場の氷は、極めて貴重品であり、長らく朝廷や将軍家など一部の権力者のみの特権であり、そのために、氷室が神憑り的な存在となり、毎年無事に朝廷に届けれれると言うことは、帝王の徳のお蔭であり、平穏無事な治世の素晴らしさを称えると言うことになる。
   解説によると、その希少さゆえに、夏の氷は、延命長寿の霊験があると言うことで「賜氷」の儀礼がおこなわれて、無病息災を祈って氷片を口にしたと言うから、あくまで有難いのであろう。

   この能は、アイ/社人が二人(千三郎、あきら)登場し、アイ語りの後、扇を振り上げながら雪乞いの踊りを踊り、雪が降ってきたので雪をころがし雪玉を作り、あら冷たやと手がかじかむ様子を演じるなど、面白い。
   上演時間95分とかなり長時間なのだが、前半の方が長くて、中入り後の天女の舞の優雅さや、髭癋見と言うもの凄い異相の尉面をつけた白頭の氷室明神の剛直な舞など見せ場の突出したシーンが、やや短く感じたのは、それだけ素晴らしかったと言うことであろうか。

   野村萬の「花子」の後、先月は、国立劇場で、狂言を「千切木」と「簸屑」、能を「鍾馗」と「敦盛」を鑑賞した。
   千切木の山本東次郎師が、日経に「舞うチョウ追う能楽師」と言う記事を投稿していて、一芸に秀でた大芸術家の別な奥深い一面を垣間見て興味深かった。
   敦盛は、今回は熊谷直実との出会いだが、少し前に、敦盛の子供が登場する「生田敦盛」を見ていたので、その対照が面白かったし、鍾馗は、科挙試験に落ちて絶望して自殺したが篤く葬られたのでお礼に玄宗の悪鬼退治に登場したと言う話を知らなかったので、自分や能での鍾馗像とを対照させながら見ていて楽しませて貰った。
   まだまだ、能は私には異次元の世界だが、この頃は、楽しめれば上出来だと肚を括っている。
   
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和田秀樹著「経営者の大罪」

2012年07月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「なぜ日本経済が活性化しないのか」とサブタイトルの付いた精神科医の和田秀樹先生の経済・経営書だが、心理経済学が脚光を浴びている昨今であるから、経済や経営学の専門の学者が書いた本と全く異質感がない。
   この本は、今、日本の経営者なり為政者たちが、正面切って対処すべき問題点を浮き彫りにした、示唆に富んだ本だと思うが、その視点なり論拠は、先日、このブログで紹介したロバート・ライシュの「余震」で展開されている論点と殆ど同じで、それを、アメリカではなく日本の現実問題として論じているところに、意義がある。
   
   まず、ライシュ論の根幹をなすのは、アメリカ経済の担い手であった中間層が没落したことによって慢性的需要不足を惹起して経済を苦境に追い込んでしまったと言う論点だが、著者も同じで、今日の無能経営者は、国際競争力と言えば価格競争だと勘違いして、自国のブランドを地に落としたのみならず、自分たちの給料は上げるけれど、従業員の首を切ったり給料を減らしたりして、この中間層の疲弊・没落が、内需を大幅に縮小させてしまって、日本経済の悪化を招いたと言うのである。
   特に、経済が、史上初めて、生産が消費を追い越す(すなわち、「作るのは簡単だが売るのが難しい時代」に突入)と言う成長トレンドの転換に呼応して、70年代に入って、日本経済が、発展途上国型の「加工貿易国」から、先進国型の「内需国」に生まれ変わって以降は、消費需要を牽引する中間層の没落は致命傷だと言う見解は、ライシュ説の日本版そのものである。

   失われた10年の時代に、「アメリカ型の競争社会に変えないと日本は生き残れない」と言う考え方が台頭し始めて、企業も終身雇用や年功序列に代表される日本的経営を捨てて、成果主義に走り、社会そのものも、最高税率を引き下げて「金持ち減税」をしながら逆に「弱者切り捨て容認社会」に変貌し、小泉政権下での「痛みを伴う構造改革」の本格化で更に拍車をかけ、今日の異常な格差社会を作り上げてしまった。
   消費性向の高い中間層を崩壊させて、買い物も投資もしない金持ちを増やすと言う格差拡大政策ばかりを打ち続けて来たのであるから、需要が冷え込んで、日本経済が悪化するのは当然だと言う訳である。

   ところで、タイトルの「経営者の大罪」とは何かと言うことだが、著者は、国の経済を発展させる上で根本的に重要なのは、その民間のリーダーである「経営者」の資質だとして、かっては、「家族的経営」に徹した尊敬すべき能力と品格を兼ね備えた経営者が居て、労使協調の信頼関係を醸成してモラルの維持を図って来たのだが、今日の経営者は、従業員を単なる「金儲けの道具」としてしか考えず、企業のブランド・イメージまで毀損してしまったと言うのである。
   「社員を死に追いやる経営者たち」と言う章では、国際競争力の強化の名目で人件費コストを出来るだけ削って生産性向上に励み、安売り競争に没頭するのであるから、生産者であり消費者でもある国民の購買力を削いで「需給ギャップ」を拡大して「豊作貧乏」に追い込んでいると指摘するなど、かなり激烈に経営者を批難している。
   また、消費者を、パチンコや携帯やゲームやアルコールなどの依存症に追い込む業界や、無駄な薬漬けにして死亡率を高めている医療界や、ダイエット礼賛ビジネスは犯罪に等しいなどと、売らんかなビジネスのモラル欠如の激しさを糾弾している。
   
   しかし、著者は、かっての経営者が、給与や福利厚生など従業員の生活の向上に意を用いた家族的経営で、モラルの高い経営を行っていた為に、従業員の企業へのロイヤリティが高く士気も高揚して、ブランド価値も上がって世界に冠たる日本経済を築き上げて来たが、今の経営者は、従業員を生産手段としてしか見ずに、人件費関連のコストカットばかりが念頭にあると非難しているが、それもこれも、時代背景が全く変って来てしまったと言う一事に帰着する。
   かっての日本は、生産すれば必ず売れて、今日よりも明日、明日よりも明後日と先に行けば行くほど明るい未来が開けると言う高圧経済で、未来に希望と余裕があったのだが、バブル崩壊後の日本経済は、急速なグローバル化とICT革命による大きな潮流の変化によって齎された熾烈な国際競争に翻弄されて、国家も企業も、生き抜くこと自体が、極めて難しくなってしまって、国民の生活第一と言った悠長なことを言っておれなくなってしまったのである。

   尤も、過去の成功体験に胡坐をかいて、時流の変化に対応した成長戦略を打てなかった国にも企業にも大きな責任があるのだが、供給過多需要不足の成熟経済への突入に呼応して、生産要素とコストの安い新興国の追い上げにあって、日本経済が長期的なデフレ経済に陥ってしまった以上、無為無策であれば、現状のような政治経済社会に陥る以外に仕方がなかったのである。
   この我々日本人が苦しんでいる経済社会状態は、ある意味では、アメリカにおいてはもっと深刻であり、同じ先進国のヨーロッパの諸国も似たり寄ったりの筈で、謂わば、先進国共通の問題なのである。
   しかしながら、アメリカの大統領選の論戦を聞いていても分かる通り、弱肉強食の市場原理を追及する自己責任の個人主義的な自由市場経済政策が良いのか、あるいは、ライシュやこの本の著者が説く如く福利厚生や安全・安心を重視した平等と公正を追及する厚生経済学的なアプローチが良いのか、いまだに、大変な論争となっていて、現在は、やや後者へ振り子が揺れかかっているのだが、先は全く見通せないのである。

   著者は、罪深く能力が足りない日本の経営者に、品格、思考力、主体性、状況判断力、洞察力、決断力、教養、そして、日本を愛する気持ちがあれば、今の日本のような状態にはならなかっただろうと言う。
   日本の経営者は、品格だけではなく知性と教養を高めて、まず自分たちの社員を大事にすることからやり直すべきだとも言う。
   そして、日本を今の苦境から救おうとするのなら、中間層を増やして消費不況を克服するしかなく、その為には、以前の様な累進税に戻すのが最も手っ取り早い方法であり、最高税率のアップに反対する経営者の強欲には鉄槌を振るうべきで、この日本と言う国を悲惨な状態に追い込んだ「経営者の大罪」を今裁かなければ、国民に幸福は訪れないと言うのである。
   余談ながら、これ程悪しざまに罵倒する程、日本の経営者は、お粗末ではないし、十分に能力はあるが、グローバル対応の遅れや文化的な背景の差などで、激変する世界の潮流に上手く乗れないだけであって、裁くべきは、一億総平和ボケの日本国民全体であろうと言う気がしている。

   なぜ「高齢者」に目を向けないのかと言う章で、「超高齢社会」に入った日本社会を、正面切って見据えた商品やサービスへの戦略欠如の日本企業に活を入れようとした理論展開など非常にユニークで面白いし、日本企業経営の特殊性などを論じた独自の視線なども興味深いが、
   円高対策や会社は誰のものかと言ったカレント・トピックスに関しては、どこかの理論の焼き直しであったり、
   また、日本を代表するような超一流企業のトップなら、インタビューを受けて「日本」について語る時くらいは、着物姿で人前にでるのが、教養人の振る舞いと言うものでしょうと言った変わった提言をするなどチャンポン的要素が強いのだが、硬軟取り混ぜた豊かな理論展開が、考えるヒントを与えてくれる。
   著名な精神科医の描いた経済・経営書と言うユニークさが、この本の値打ちでもある。
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東京国際ブックフェア開幕

2012年07月05日 | 展覧会・展示会
   恒例の国際ブックフェアが開幕されたので、瀬戸内寂聴さんの基調講演「「本」の送り手が、いま考えるべきこと~変化を受け入れ、新たな活力を~」を聴講するのを愉しみに出かけた。
   60年以上の作家生活を語り、出版業界の劇的な変化を紐解きながら、今や、電子ブックの時代であると、初期の作品を中心に既に8作品を電子ブック出版をしたことも含めて、90歳とは思えない程明快で迫力のある話を1時間以上に亘って語り続けた。
   編集者との生活ピッタリの密着した関係など、非常に興味深い話をしたのだが、後日、感想を書くことにしたい。

   ところで、紙媒体の本だが、非常に展示スペースが小さくなって、大手の出版社などの出店も殆どなく、やや専門的な難しい本を出す出版社や、宗教関係など特殊な本の出版社の展示ブースが目立った感じで、殆ど、20%引きで本を売っていたが、興味が湧かなかった。
   私が本を買ったのは、「震災復興支援チャリティーコーナー」で、各出版社から3・11や福島原発事故などに関する本が集められて、50%ディスカウントで売り出されていた。
   帰途、電車の中で、竹森俊平の「日本経済 復活まで」を半分くらい読んだのだが、震災直後に書かれた本なので、やはり、世の中の急激な変化と潮流の流れの激しさについて行けず、一里塚としては価値があっても、このような本は軽々に書くべきではないと感じた。
   最近でも、まだ、書店によっては、大震災関連コーナーがあって、本が並んでいるが、正直なところ、これ程、沢山の本や雑誌や写真集が出ているとは思わなかったので、一寸、びっくりした。

   他の展示で興味深かったのは、今年から始まった、クリエーターEXPO東京で、作家や絵本作家や漫画家、写真家、映像・ゲーム等のイラストレーター、グラフィックデザイナーなどが、小さなブースを持って、自分の作品を展示宣伝していたことで、実にユニークな作品が目白押しで、面白かったし、作者や芸術家の素顔が見えて興味深かった。
   

   2階展示場では、「電子出版EXPO]が開かれていて、電子書籍端末は勿論、デジタル・コンテンツやコンテンツ・ソリューションなどに関する色々な展示がなされていた。
   私には何となく縁の遠い分野のディスプレイだったが、印刷関連の出展者による専門セミナーを聞いていて、地球環境への配慮やユニバーサル・デザインなど、かなり、先進的な技術の開発によって差別化を図ろうとしている姿を感じて、興味深かった。

   電子書籍端末については、発表直後でもあったので、1階の書籍コーナーに開かれていた楽天の<kobo>に人が集まっていて、用意されていた端末を試用していた。
   普通の単行本程度の大きさで、非常に軽いので操作には便利だとは思うのだが、紙の本主義者である私には、まだ、しっくり来ない。
   私の読む本は、あまり売れそうにない本が多いようなので、何十万冊収容と言われても、出ないかも知れない。
   アマゾンが、近くキンドルを発売するようなので、それが出てから、他の電子端末と比較しながら考えようかと思っている。
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わが庭の歳時記・・・バラとユリの咲く庭

2012年07月04日 | わが庭の歳時記
   わが庭で、今一番幅を利かせているのは、プランター植えのトマトだが、季節の花は、二番花のバラとユリである。
   この口絵写真のバラは、イングリッシュ・ローズのウイリアム・モーリスで、アプリコットピンクのたっぷりとした花で、カップ咲きからロゼット咲きに変化して、潔くパッと散る。
   枝が細くてしなやかで、花首もほっそりとしているので、重い花を支え切れずに、下を向いて咲く。
   つるバラ仕立ても可能なので、高く這い上がらせて、桜花のように、下から鑑賞するのが良いのであろう。
   

   もう一つ咲いているアプリコットピンク色のイングリッシュ・ローズは、アブラハム・ダービーで、これも、ウイリアム・モーリスに良く似た花だが、茎がしっかりしているので、雰囲気が大分違う。
   淡いピンクのイングリッシュ・ローズが、セント・スウィンザンで、肥料過多で枯れかけていたのだが、蘇って花を咲かせてくれた。
   
   

   赤い花のイングリッシュ・ローズは、エル・ディ・ブレスウェイトで、咲き切ったところで、コガネムシが飛んできて、密を吸うために、花びらを掻き分けてもがいていた。
   もう一つの赤いバラは、ファルスタッフで、垣根を這わせてつるバラ仕立てにしているのだが、横長なので、どうしても、途中から出た枝の先端に花を咲かせる。
   一寸、花びらが深い濃桃の渋い色なので、垣根には向かなかったのかなあと思ったりしているのだが、私の好きなイングリッシュ・ローズである。
   
   


   これらのイングリッシュ・ローズと並んで咲いているのが、ギヨーのフレンチ・ローズで、コラールピンク色の花は、フランシス・ブレイズで、クリームイエローの花弁が幾重に重なる大輪花は、ネルソン・モンフォート。
   フランシス・プレイスの方は、先のイングリッシュ・ローズより、少しシンプルだが、非常に優雅で、そのあたりが、イギリスとの違いかも知れない。
   ネルソン・モンフォートは、クリームイエローと言うのだが、蕾が開き始める時の花芯は、ややオレンジがかった黄色い鮮やかな色で、徐々に、その黄色が白っぽく変わって行くのだが、そのグラジュエーションが美しい。
   
   
   
   
   ところで、綺麗な花を求めて蝶や昆虫が集まって来るのだが、先日、小さなミニバラに、ハチが飛んできて蜜を吸っていた。
   大きな花の方が蜜が多いと思うのだが、花の色か香りか、何かに誘われて来るのであろうが、蓼食う虫も好き好きと言うことであろうか。
   


   今、咲き誇っているのは、ユリで、この花は、結構、咲いている時期が長くて、大輪で派手なので、存在感が大きい。
   垣根に這わせたイングリッシュ・ローズのガートルード・ジェキルの横に植えたユリが、肥料の所為か、2メートル近くも枝を伸ばして大きな花を咲かせた。
   垣根を越えているので、一寸した見ものである。
   
   
   
   
   

   もう一つ、庭に彩りを添えたのは、八重クチナシの花である。
   風車のような一重の実成りクチナシは、殆ど花を落としてしまったが、八重はこれからで、強くて甘い芳香を放ち始めた。
   しかし、私の庭で、今、一番元気で頑張っているのは、トマトである。

   一つ一つの花に向かって対話をしていると、創造主は、何と美しくてこんなに素晴らしいものを創って、共に生きるチャンスを与え賜うたのか、いつも感動しながら眺めている。
   
   

   
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妻は旦那を忘れ、旦那は妻を忘れない!

2012年07月03日 | 生活随想・趣味
   先日、日経ホールで、「ストップ・ザ・ボケ」と言うタイトルの講演で、長谷川嘉哉氏の認知症に関する興味深い話を聞いた。
   非常に面白かったのは、旦那に先立たれた妻が、非常に活き活きと暮らしているのに、逆に、妻に先立たれた旦那が、意気消沈して落ち込むのは何故かと言う話であった。
   確かに、夫に先立たれた婦人(大体老人が多いが、昔から比べるとまだまだ非常に若々しい)を見ていて、落ち込んで生活が惨めになったと言ったケースなどは全くなく、旦那が生きていた時よりも元気になったと思える人の方が多い感じである。
   それに比べて、妻に先立たれた男(こんなケースは、非常に少ないのだが)の場合には、元気がなくなって老け込む人が多いような気がする。

   私自身は、常識的に、今まで一切の世話をして来てくれていた妻が亡くなると、何もできない男にとっては、自分の生活の世話を自分で十分にできないので毎日の苦労が大変だが、妻の場合には、何でも生活一切自分で出来るし、「主人は丈夫で留守がいい」と思っていた夫が定年後家にいて世話が厄介だったのが、居なくなったのだから楽になって羽を伸ばせるからだと考えていた。
   しかし、実際はそうではなく、「妻は旦那を忘れ、旦那は妻を忘れない」からだと言う。
   実際に起こる認知症関連の男女別の周辺症状から考えれば、この男女差が影響すると言うことらしい。

   女性の場合には、「物取られ妄想・・具体的な物事に拘る」と言う症状が現れて、財布がなくなったとか誰かに取られたと言った妄想が起きて来るらしい。
   ところが、男性の場合には、「妻取られ妄想(=嫉妬妄想)・・妻を所有?」に陥って、妻が浮気していないかどうか気になって仕方がないと言うことらしい。
   私など、全く、その意識も感覚もなかったのだが、
   長谷川先生によると、男は妻を自分の所有物だと思っているので、それを失いたくないと言う気持ちが強くて、妻のことが絶えず気にかかる。しかし、女性の場合には、元より夫を自分の所有物だと言う意識はないから、取られても取られなくてもそれ程気にならないし、夫のことなどは、すぐに忘れてしまうので、居なくなっても心配なく、伸び伸びと暮らせるのだと言う。
   確かに、熟年離婚は、妻から申し出るケースの方が多いようだし、そう言われれば、そうかも知れないと言う気がしない訳でもない。

   最近、私立探偵が活躍しているようだし、夫の素行調査や浮気調査で、妻が探偵社を雇って調べさせることが多いと聞くのだが、これは、若くて元気な時と言うか、夫が現役でバリバリ活躍していて、生活のかなりの部分が、夫にかかっている場合で、妻に生活の自由が利かないからであって、長谷川説によると、夫取られ妄想は、それ程強くないと言うことであるから、お互いに老境に入ってしまえば、妻の方は、何も失うものはないから、夫のことなどは気にならないと言うことであろう。
   尤も、婦人の中には、夫に先立たれて元気を亡くする人もいるのだが、これは、愛情と言うよりは、茶飲み友達が居なくなって、一人残されたので、寂しいと言う気持ちが強いと言うことであろうか。 

   いずれにしろ、配偶者を所有物だと考えると言う意識に差があると言うのは、人類固有の生理的な理由によるのか、或いは、生活や社会制度など後遺的な現象によるものなのか、それとも、他の要因から来るものなのか、興味深い問題である。
   しかし、男女が社会生活上、殆ど同等の地位を与えられるならば、女性の方が相手に執着しないということであるから、どちらかと言えば、今の男尊女卑で女性が弱い立場にある場合と違って、男女の仲は、女性の方に主導権が移りそうだと考えられるのが、非常に興味深い。
   考えてみれば、良き子孫を残すために、女性の方が、種を選ぶと言うのが、自然の摂理であるから、当然かもしれないと言う気になる。
   妻が夫に執着しないのなら、案外、モーションをかければ、憧れのマドンナにお近づきになれるかも知れないと友が宣う。

   余談だが、隣に座っていた、気の弱そうで実直そうな熟年男が、何故か、一生懸命にメモを取っていたのが、気になった。
   先約があったので、私は、鳥越俊太郎が登場するパネルを諦めて会場を出た。

   ところで、プラトンが「饗宴」の中で、ギリシャ神話を引用して、お互いにベター・ハーフを求めて恋焦がれる男女の愛の摂理について語っていて面白い。
   太古の人間は力が強く傲慢で、神々に叛乱を企てるので、ある時、ゼウスは、人間を真っ二つに両断しようと決断し、一人残らず真っ二つに切断した。しかし、いずれの半身も、もう一方の半身に憧れ、これを追い求め、一緒になろうとしており、それ以来、人間は己の失われた半身を焦がれ求め続けることとなり、これが、男女の恋心を燃え立たせ続けているのだと言う。
   
   ギリシャ神話には、もっとロマンチックで素晴らしい話がある。
   理想の女性を、ベター・ハーフ探しでは見つけられずに、ピグマリオンは、自分自身で作り上げたのである。
   現実の女性に失望したピュグマリオンは、自ら理想の女性・ガラテアを彫刻したのだが、その彫刻に恋をして人間に変身することを願うようになった。その彫像から離れなくなり次第に衰弱して行ったので、その姿を見かねたアプロディーテが、その願いを容れて彫像に生命を与えたので、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。
   この話が、バーナード・ショーに、戯曲『ピグマリオン』(Pygmalion )を書かせて、更に、それが、ヘップバーンの映画「マイ・フェア・レディ」になった。

   私は、あの香港を舞台にした慕情と言う映画が好きなのだが、その原題は、”Love Is a Many Splendored Thing”
   人間、死ぬまで、恋焦がれて生き続けて行くと言うことであろう。

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ピーター・F・ドラッカー著「ドラッカーの遺言」

2012年07月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本は、ドラッカーが、死の直前に行ったインタビューを記録したもので、非常にシンプルで明快に、新しい時代に直面しながら、行く末を見失った観のある日本について、論述している個所など、非常に興味深くて、参考となる。

   まず、最初に、隆盛を極めた日本の歴史こそが、20世紀の世界史そのものであり、現在の世界経済を生み出したのは日本であると前置きして、その大成功に導いた旧来の日本の手法が、時代の変化に通用しなくなって、足枷になってしまっていると指摘する。
   失われた10年などと日本が危機的な状況に瀕していると言われているが、これは、危機ではなく、時代の変わり目=移行期だからだと言う。
   したがって、日本が今なすべきは、この変化を拒絶することではなく、その変化に対応して行くための意識改革に取り組むことだと言うのである。

   一つ目の変化は、情報がグローバル化して、トランスナショナルな経済の勃興で、今まで日本を成功に導いてきた原動力である「保守主義」が息の根を止められたこと。
   製造業でも農業でも、或いは、日本で最も護送船団方式で保護されて来た銀行でも、時代は変わって、企業活動がグローバル化して、保護政策の有効性は完全に失われてしまった。
   更に、保護主義とは、「変化への拒絶」であるから、前近代的な因習を引きずり、日本の変化を阻止してきた「官僚制度」も喫緊の改革要件であろう。
   しかし、最も効果的に日本を外部から保護しているのは、「言語」で、外国人が務められるのは経営トップだけで、実務担当には言葉の壁が厚すぎて、仕事は日本人に任せる以外にはなく、また、唯一グローバル化しているのは情報であり、正に、その情報時代でありながら、その情報の大半が英語であることに鑑みれば、日本人は情報へのアクセスに苦労して、この言語の壁によって、外国人とともに協労する絶好のチャンスをミスって来ていると言うのである。

   従って、日本が直面している問題は、経済の停滞ではなく、日本が、情報技術の分野、ひいては、グローバル化した情報に基盤を置く世界経済=情報経済の進展の中で、ひどく立ち遅れてしまっている点だと強調している。
   国際的な金融(?)や製造業においては強みを持つ日本だが、革新技術や情報の分野ではリーダーにはなり得ていず、情報経済が主軸となる今後の世界経済の中では、日本が最も苦労する国になる。
   日本経済の成功は、自国で事業を行い、独自の伝統的経営手法と労働力を保ちつつ、西洋の最新技術を導入することによってであって、日本の台頭とは、「和洋の統合に成功した企業の台頭」であった。
   東洋に属しながら西洋の一部になり得たことが、日本を成功に導いた最大の要因であり、その結果、日本は、非常にハイコストな国になってしまい、このハイコストな日本が生きて行くためには、絶えざるイノベーションと、それによって生み出される新しい価値を輸出し続けることが大切である。
   すなわち、日本の生きる道は、情報技術の分野でイノベートする術を学び、進展する上方経済の中でリーダーにならなければ、日本が生きる道はないであろうと言う。

   ドラッカーは、前節でも、グローバル経済で、真にグローバル化したのは、インターネットの普及によって国境が取り払われて国と国との距離がゼロとなった、ただ一つ「情報」のみで、その最大の武器は英語であり、世界に冠たる「知識国家」となるであろうと、英語と情報技術に恵まれたインドを、非常に高く評価している。
   ドラッカーが、その死を迎えるまで、インターネットを駆使したり、アップルやマイクロソフトに入れ込んだと言う形跡はないが、知識情報化産業社会の到来は、最も早く予見し、知識情報が、価値を生み出す源泉であることを主張し続けていたことは事実であり、最後に、この本では、情報技術の分野での更なるイノベーションを強調している。
   この本の最後、The Last Wordsで、個人のイノベーションに言及して、常に教育に立ち返る真の「生涯教育」を薦めているのだが、ドラッカーの経営学の要諦は、同郷の巨人シュンペーターに触発されたイノベーション論であり、絶えることなき知と価値の創造こそが、国家であろうと企業であろうと個人であろうと、成長するための唯一の源泉であることを唱え続けて来た。

   私自身は、経済成長(ただし、現在の国民経済指標であるGDP主体ではなくて、出来れば人類にとってプラスとなる国民総福祉( Gross National Welfare 》や地球幸福度指数(The Happy Planet Index)等々をも加味した経済成長指数で表現された経済成長)が、人類の文化や文明のみならず、生活を向上させる最も有効な手段だと思っており、その源泉となり推進力であるイノベーションを追及することが、我々の最大の使命であると確信して、ずっと、このブログで主張し続け来たので、絶えざるイノベーションなければ、日本の明日はないと言うドラッカーの主張に全く異存はない。
   付け加えるとすれば、情報技術のイノベーションとは限定せずに、更に、人類の未来にとってプラスとなり、文化文明を止揚するイノベーション総てを進めるべきであると思っている。

   今回のドラッカーの主張で肝に銘ずべきは、日本がハイコスト国であると言う現実で、国民生活の向上を図るためには、新興国と対抗するような並みのイノベーションではダメで、情報技術等世界の最先端を行くクリエイティブで他の追随を許さないような付加価値の高いイノベーションを日本が生み出し続けて、他を凌駕する以外に生きる道はなく、それが出来なければ、要素価格平準化定理の作用するグローバル経済では、益々、窮乏化して窮地に立つと言う厳粛なる事実である。
   このことを、ドラッカーは、最後の遺言として残して、日本の未来にエールを贈ったのだと思っている。

   蛇足ながら、ドラッカーは、他にも、インドや中国との関係にも触れて、新しい秩序へ向かう混迷した世界の下で、日本の果たすべき重要な役割は、太平洋を挟んだアメリカと中国・インドを結ぶ「橋」になることだと説いている。
   また、中国・インドは、アメリカにとってもヨーロッパにとっても、それ程問題にはならないが、その台頭が最も脅威になるのは日本である。しかし、脅威はチャンスでもあり、これまでの『問題重視型」の思考様式に囚われずに、「機会重視型」で対処すべきと説いている。
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トマト栽培日記2012~(9)アイコ色付きはじめる

2012年07月01日 | トマト・プランター栽培記録2012
   最初に植えたトマトより一週間遅れで植えたアイコが色づき始めた。
   同じ時に植えたイエロー・アイコは、庭木剪定の時に、第一花房を、誤って落としてしまったので、少し遅れる。
   両方とも、花房が枝分かれして塊状になるミニトマトとは違って、一本の房状に花をつけるので、花数はそれ程多くならないのだが、間違いなしに花が咲き実がなるので、比較的育てるのに楽なトマトである。

   他に色づき始めたトマトは、前回に触れた黄色いゴールデン・ライブと、ミニトマトのキャロル7である。
   キャロル7は、塊状の花房なので、多いと、一房に30個以上の実が成る。
   
   


   前回、台風の被害を受けたと書いたトマト苗だが、第4花房以上の主枝が折れた、スィートルビー・ガーデンだが、小さかった脇芽が、写真のように伸びて、先に花房が見えて来た。
   このまま伸ばして、2~3花房を付けさせようと思っている。
   


   もう一つ、根元から折れて、半分しか機能しなくなって枯れかけていたフルーツルビーEXだが、どうにか、弱々しいながらにも水を吸い上げていて、枯れずに済んでいて、一番成長の早い第1花房の一つが色づき始めた。
   上部の花は、受粉せずに落ちており、付いた実が大きくなるとは思えないが、少しでも色づけば嬉しい。
   弱いように思うのだが、挿し木すれば、すぐに挿し木苗を作れるのもそうだが、結構、トマトは生命力が旺盛なのである。
   
   
   ところで、挿し木苗を作って、10本ほど植えたのだが、もう、早いものは、1メートル以上の背丈になり、第一花房が結実するなど、市販のトマト苗と少しも変わらずに順調に生育している。
   夫々、苗木も大きくなって、花や実を沢山付けているので、もう、植え時期の違いを無視して、化成肥料を一斉に株もとに撒いて、水撒きをした。
   ここ何日かは、空梅雨の感じなので、夜、毎日水をやっている。
   背丈が伸びて、支柱の2.1メートルを超えかけた苗の先端部を、花房の数に関係なく、総て摘心した。
   尻腐れ病だが、イエローアイコの第2花房で、二つ見つかったが、二つだけに止まっているので、そのままにしておこうと思っている。
   多少黄ばんだりした葉があるが、今のところ、トマト苗には、問題になるような異変はないので、安心している。


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