熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・スーパー能「世阿弥」

2013年04月26日 | 能・狂言
   国立能楽堂開場30周年記念公演として、梅原猛作 梅若六郎玄祥演出のスーパー能「世阿弥」が二日に亘って上演された。
   幸い、取得困難であったチケットを手に入れることが出来たので、二回貴重な舞台を鑑賞する機会を得た。

   この能は、世阿弥の京都での活躍の最晩年、すなわち、世阿弥・元雅父子が、将軍・足利義教に疎まれ完全に干された時期を舞台にして、元雅の客死を軸に、元雅の幽霊が現れて、死の真相を語り、世阿弥の能芸術の継承を願って、明日への能を願う舞で締めている。

   ストーリーは、ほぼ、次の通り。
   世阿弥と妻・寿椿が、世阿弥父子が義教に疎まれて身の危険が迫っているので、京の私邸で、息子・元雅のことを案じていると、元雅の庇護者で妻の父・越智が元雅を伴って現れ、元雅を匿う為に伊勢に出立することを告げる。
   越智の説得と元雅の願いで、世阿弥夫妻は、今生の別れと思いながらも、涙ながらに二人を送り出す。
   一か月後、越智が、夫妻の前に飛び込んできて、元雅の死を伝える。
   責任を感じて絶望した夫妻は、供に死のうとしたところに、どこからともなく元雅の声が聞こえて来て、元雅が二人の前に現われる。
   元雅の幽霊が、両親の心を慰めるために現われたのであるが、意外にも、素晴らしい能芸の創造者である世阿弥が死ねば観世の能は絶えるので、自分がかわりになる方が良いと考えて、殺されることを覚悟で喜んで伊勢に行ったのだと語る。
   世阿弥と元雅が手を取り合うと、元雅は、形見の面を残して、こつ然と消えて行く。
   世阿弥を思い、世阿弥の芸を思う元雅の優しい心に、夫妻の心は静まり、世阿弥の心に新たな光が灯る。
   そこへ、元雅の死を聞いて世阿弥を心配して、娘婿の禅竹と甥の音阿弥が来訪したので、元雅の意思を伝えて、新たな気持ちで、三人で、明日への能を思って舞い続ける。

   梅若六郎玄祥の世阿弥、味方玄の寿椿、片山九郎右衛門の元雅、宝生欣哉の越智、観世芳伸の禅竹、山階彌右衛門の音阿弥、野村万作の語り手、藤田六郎兵衛の笛、大藏源次郎の小鼓、安福光雄の大鼓、観世元伯の太鼓、大槻文藏・山本博通等の地謡 等々錚々たる演者たちによる舞台である。
   私には、この舞台をコメントする資格はないので止めるが、ただ、野村万作の語りを聴くだけでも、鑑賞した値打ちがあったと思っている。
   芭蕉や一茶を思わせるようなスタイルで、杖をついて揚幕からゆっくりと登場して、丁度、アイ狂言風に、観阿弥・世阿弥の能芸を語り、”伊勢へ行った元雅はどうなったか。そして一月が経ちました。”と語り終えて、舞台後方へ消えて行く。
   観阿弥は天才で能と言う新しい芸術を興したとして、チャールズ・チャップリンのような人だと、チャップリンの名を上げる時に、杖を大きく右手に広げて、茶目っ気たっぷりに足踏みしたり、義満公は深くご寵愛になって、男色の道かは存じませんが・・・と言うくだりで、男色の後、急に口を手に当てて声音を変えるなど、芸の細かいところを見せていたが、しみじみとした滋味深い語りが実に良い。

   
   
   この能の最大の特色は、詞章が、梅原猛が著した現代語が基本になっており、節付には能の独特のリズムと美しい言葉の繰り返しなど、能の技法を生かしつつ、今喋っている言葉を能のふしにのせたのだと言うことである。
   それに、普通の能では、照明を遣うことは殆どないのだが、この世阿弥の舞台では、照明を使用して、時間の移り変わり、光と言うよりも影を作り出そうとしたのだと言う。

   オープニングは、完全に照明が消えた真っ暗な舞台から、笛の音が奏されて能「世阿弥」が始まる。
   何時もなら舞台に陣取っている囃子と地謡、後見が、口絵写真のように舞台にセットが設えられているために居場所がないので、この能では、ワキ柱後方の舞台外の控室に陣取っている。
   従って、囃子や地謡の出退場がなくてスタートし、舞台が明るくなって、地謡座前に置かれた作り物の覆いが取られると、中に座っていた世阿弥・寿椿夫妻が現れる。
   また、もう一度舞台が真っ暗になるのは、元雅の死に前途に希望を失った世阿弥夫妻が、”寿椿、二人で死のう””・・・二人で極楽浄土にまいりましょう””いざ、いざ”と言って、世阿弥が、扇を短刀代わりに寿椿の胸に宛がった時で、暫く、暗闇が続いて、元雅の声が聞こえて来ると、舞台が少しずつ明るくなって、世阿弥夫妻は、先ほどの姿のままだが、作り物の中に座っている元雅が現れて、世阿弥との対話が始まる。

   この能は、基本的に現在能なので、直面なのだが、現実と対比したら面白いのではないかと言うことで、元雅の亡霊が出るところでは、二人は面をかけており、世阿弥の面は、天河大瓣財天社に元雅が奉納したと言う重文の「阿古父尉」の写しを特別に打ってこれを使ったと言う。

   ところで、この能では、特に、能の創造性を重視していて、観阿弥、世阿弥、元雅は、夫々に、観世大夫として、新しい独自の能を生み出してきたのだが、音阿弥は、芸は立つが能は作らないので、将軍・義教が、観世大夫の職を音阿弥に譲れと強要しているのだが、芸の道に賭けても絶対に認めないと、世阿弥は息巻いている。
   寿椿が、将軍は絶対の権力者であるから、音阿弥に職を譲れば、可哀そうな元雅の命は救われるのにと説得するのだが、世阿弥は、天照大神の昔より伝わる芸の道に命を賭けており、芸の道は将軍でもどうにもならぬ、それはできないと突っぱねる。

   この激しい世阿弥の音阿弥否定だが、確かに、能作者としても幾多の作品を残して傑出した観阿弥、世阿弥、元雅とは対照的に、音阿弥作の能も、伝書の類も一切残っていないと言う。
   しかし、能役者としては傑出していたようだし、将軍・義教や義政の寵愛とバックアップを受けて、観世座と幕府権力との強力な結びつきによって、観世流が他の流派を圧倒して、能楽界の中心を担う契機を作った偉大な功績を残しており、現在の観世流宗家は、この音阿弥の直系であることを考えれば、無下に、世阿弥を持ち上げ過ぎて、音阿弥を否定することもなかろうと思う。

   尤も、この能の終幕では、甥の音阿弥が登場して、世阿弥が、”元雅の亡霊がここに現われて。私を助けるために死んだのだと言い。汝らとともに能の繁栄を願って消えた”と言うと、”私も能を未来へ伝える志において。世子に劣るものではありません。元雅は私にも能の秘伝をお伝えくださいました”と応えていて、世阿弥に従って、禅竹とともに、三人で舞を舞ってハッピーエンドとなっている。
   世阿弥の能芸が、音阿弥に継承されて行ったと言う梅原先生の思い入れであろうか。  

   この能の設定時代は、義教の音阿弥贔屓が頂点に達した時で、義教の世阿弥父子の冷遇が高じて、永享元年(1429年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が後小松院の意向にも拘わらず中止となり、翌年、世阿弥から醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪されて音阿弥に与えられ、興福寺薪猿楽の大夫が、元雅から音阿弥に代わるなど、世阿弥の活躍の場は、殆どなくなってしまっている。
   したがって、この能のように、世阿弥と音阿弥が親しく会って、能の将来を語って一緒に舞ったかどうかは疑問だが、1932年の元雅の死の2年後に、世阿弥が佐渡へ配流されているので、この時代では、世阿弥自身の演能の機会は殆ど閉ざされていたのであろう。

   さて、根本的な問題だが、何故、義教は、これ程徹底的に、頂点を極めていた筈の世阿弥父子を窮地に陥れて、音阿弥贔屓に没頭したのであろうか。
   世阿弥が、観阿弥以降の秘伝書を、義教の命令にも拘らず、音阿弥に見せなかったり譲らなかったからだとか、養子とした音阿弥よりも、禅竹を愛して秘書を相伝したからだとか世阿弥に失態があったからだ言われているのだが、今泉淑夫教授は、理由のないところに理由を見出す義教の専断志向の特質であった不条理であろうと言う。
   総てのことを我意に従わせようと言う権力者の横暴が義教には突出していて、義教の内部に鬱積の因となる存在を排除する衝動が生まれて、その衝動が配流の動機にもなったのだと説いている。

   
   能鑑賞を本格的に始めて、一年半。もう、この国立能楽堂に、月4回弱としても50回以上は通っている筈だが、今回のスーパー能「世阿弥」は、少しずつ、世阿弥に近づいているのかなあと感じさせてくれた記念すべき素晴らしい能であったと思っている。
   
   
   
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