熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立演芸場で正藏の落語、そして、夜の歌舞伎座

2013年04月10日 | 今日の日記
   朝遅く家を出て、東京に向かった。
   13時からの国立演芸場の林家正藏がトリの上席を聞く為である。
   本を読んでいて、九段下での乗り換えをミスって乗り越してしまったので、時間ぎりぎりとなった。
   歳の所為ではないと思うのだが、この頃、専門書を読んでいても興味が湧いてくると、電車を乗り越すことが多くなっている。

   最近、この国立演芸場で落語を聞く機会が増えたのだが、特別なプログラムの国立名人会などは別として、普段は、常設でもある上席や中席を聞いている。
   ついでと言うと何だが、歌舞伎やコンサート、能・狂言の鑑賞が夜の場合、時間が合うとチケットを手配している。
   貸切など特別な日を除いては、大体、1日から20日まで上演しているので、必ず、席は空いている。
   正味3時間弱だが、プログラムの殆どは、落語で、奇術や曲芸、漫才や浪曲などもあるが、私にはあまり興味がないので、落語の話術を楽しみに行く。
   大阪にいた時には、漫才を聞いていたが、ミヤコ蝶々南都雄二、いとしこいし、A助B助の時代で、実に面白かったが、やはり、今も漫才は吉本の全盛で、東京で聞く漫才は、今のところ、良い舞台に巡り合えておらず、面白くもおかしくもない。

   さて、私は、トリを取る名人の落語を楽しみに行くのだが、真打は勿論、前座も二つ目も結構上手いし、同じ外題の古典落語を何回も聞きたいとは思はないが、噺家が、バカバカしくて役に立つ話ではないと言いながら、一生懸命に語るのが、面白く、また、聞きたいと思うので、通っている。
   圓朝物など、芝居芸術の域に達していて、時には、近松やシェイクスピアにも負けないくらいに感動する噺もある。

   さて、今回の正藏の落語は、「ねずみ」。
   仙台を訪れた左甚五郎の話である。
   12歳の男の子が客引きをする宿屋に泊ることにしたが、行ってみると実にみすぼらしい鼠屋と言う旅館。布団がないので借りて来るから前金20文欲しいと言うし、夕食の料理ができないので、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしいと言い出す始末で、訳ありと思って事情を聞くと、卯兵衛と言うもとは前の立派な旅館・虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、後添いにした女中頭と番頭・丑蔵に旅館を乗っ取られた。子供の卯之吉が、このままでは物乞いと変わらないからお客を一人でも連れてくるから商売をやろうと訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、階段から落ちて動けないおやじと子供では商売にはならず、極貧芋を洗うがごとき状態。
   宿帳に書いた名前から、日本一の彫り物名人左甚五郎と知って卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎は、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかける。そして、「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊りを」と書いて、看板代わりに入口に揚げさせ出発する。木製ながらチョロチョロ動く甚五郎のねずみが有名になって、鼠屋は、押すな押すなの盛況となる。
   虎屋の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は寂れたので、丑蔵は怒って、鼠を動かなくするために、仙台一の彫刻名人・飯田丹下に大金を積み大きな木の虎を彫らせてそれを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけると鼠はビクとも動かなくなった。
   卯兵衛は怒った拍子にピンと腰が立ったのだが、甚五郎に「わたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」と手紙を書いたので、不思議に思った甚五郎は、二代目政五郎を伴って仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り良い出来とは思えない。鼠に向かって「わたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いのか」としかると、「え、あれ、虎? 猫だと思いました」。

   こう言う人情噺を語ると、正藏は実に味があって上手い。
   登場人物は、子供の卯之吉とおやじ卯兵衛と甚五郎と政五郎だけだが、特に、子供の卯之吉の声音が可愛いいのみならず陰のない健気な孝行息子を彷彿とさせていて嫌味がなく、それに、大人たちの善意の会話が爽やかで気持ちよく、しみじみと聞かせる。
   単なる安直な人情噺に終わらせずに、上質な笑いを誘いだしながら、表情豊かに語りかける正藏の話芸は冴えわたっている。
   私の聞いたのは、10日の最終日だったのだが、前の「正藏が正藏を語る」の時と違って、客の入りは、3~4割くらいで、一寸、惜しい気がしたのだが、平日だとこういうところなのであろうか。

   1階の演芸資料展示室で、「ニューマリオネットの人形展」をしていた。
   あの東欧などでポピュラーなマリオネットの日本版だが、糸繰りと言うことで、寄席の名物であったと言うから面白い。
   チェコなどに何度か行きながら、まだ、マリオネットを観たことがないのだが、本場では、オペラもやればバレーもやるし、本格的な芝居もやるのだが、日本では、安来節などの人形踊りや寸劇のようである。
   
   ヨーロッパでは、伝統的糸繰りが、人形遣いを隠す舞台機能を必要としたのだが、日本では、出遣いがタブーではなかったので、人形遣いが舞台に登場して直接人形を遣う人形浄瑠璃文楽のような高度な芸術が生まれたのである。
   最近では、欧米の演出家たちが、文楽の手法を真似て、オペラやミュージカルの舞台にも、黒衣が登場して人形を遣うケースが出て来て面白い。
   展示には、人形や、その細部の部材や資料が展示されていて、文楽の人形とは大分違っていて、興味深かった。
   
   
   
   
   6時10分開演の柿葺落四月大歌舞伎の第3部まで、時間があったので、何時ものように、神保町に出て、本屋散策で小一時間過ごした。
   新しい本は、
   ポール・アレン著「ぼくとビル・ゲイツとマイクロソフト」、そして、複雑系の本、
   ジョン・キャスティ著「Xイベント」
   そして、古書店で、新書の新古書本3冊 を買った。

   歌舞伎座の周りは、夕刻であったためか、先日の芋の子を洗うような混雑ぶりはなく、劇場のなかも、ある程度正常に戻っていた。
   しかし、やはり、こう言った記念興行になると、日頃歌舞伎などには縁のない金回りの良い俄か歌舞伎ファンが多くて、売店などは人盛りで一杯であり、それに、マナーが悪くて、最後の「勧進帳」など、富樫の菊五郎が、登場して、名乗りの口上を述べているにも拘わらず、客席のあっちこっちで私語が治まらず、歌舞伎を鑑賞すると言う雰囲気ではなかった。
   仁左衛門・吉右衛門の「盛綱陣屋」と幸四郎・菊五郎・梅玉の「勧進帳」の素晴らしい舞台であったが、印象記は後日に譲りたい。
   
   
   
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中国は宴の後・・・ルチル・シャルマ

2013年04月09日 | 政治・経済・社会
   ルチル・シャルマの新著「ブレイクアウト・ネーションズ Breakout Nations In Purusuit of the Economic Miracles」を読み始めたのだが、書評は後日に譲るとして、今回は、冒頭の「宴の後 中国」と言う章の中国分析が、非常に興味深いので、これについて考えてみたいと思う。

   シャルマは、上海浦東空港から出ているリニア・モーターカーから話を始めて、豊かな国でさえ考えられなかった、ワクワクするような実験に取り組めるだけの国民所得を生み出す驚異的な経済成長を続けてきた中国も、コストや一般大衆への配慮が必要な、新しい段階に移ろうとしていると、これまでのような一本調子の高度成長は望めなくなったと問題提起をしている。
   見直しは既に始まっており、対GDP比で見た債権残高の合計は、急速に膨れ上がっており、また、高度経済成長の原動力であった安い労働力の枯渇等による人件費の高騰は物価全体の上昇へと広がり、北京政府も、インフレが経済成長鈍化の元凶だと認めていると言う。

   農村にはあぶれた労働者が居なくなり、高速道路の総延長距離は、アメリカの水準に近づくなど、これまでの成長の原動力は今や成熟段階に到達し、高度成長を続けてきた輸出も、債務問題に苦しむEUなどの落ち込みなどで多くを望めなくなった。
   賃金の急騰とコストアップが、インドネシアやバングラデシュなどの発展途上国の追い上げを受け、既に23%に達した製造業に従事する労働者比率をこれ以上アップ不可能であり、中国の輸出産業ブームは限界に達している。

   シャルマの見解で興味深いのは、
   輸出依存型経済から消費社会経済へ転換して、国民の消費を刺激して内需を拡大すれば、中国の経済の高度成長が持続可能だと言う一般論に対して、既に、中国の個人消費は、急激な経済成長への期待を背景にして、年平均9%で成長を続けて来たために、もはや伸びようのない自然障壁となっている。
   この個人消費の伸びは、ハイパーインフレを引き起こすことなく成長できる精一杯の伸び率で、対GDP比が落ちているのは、単に投資が消費より早く伸びているからであり、中国の個人消費の絶対額は急速に伸びており、中国が、既に、世界の贅沢品市場の25%を占めていることを考えれば自明である。と言うのである。

   もう一つ、シャルマの指摘で興味深いのは、
   中国は、2兆5千億ドルの外貨準備高を保有する国だが、中国政府の発表では、企業(多くは政府企業)と家計を合わせた債務残高は、GDPの130%であり、急速に拡大している灰色の「影の銀行セクター」の数値を加えると、中国における債務残高のGDP比は、200%と、発展途上国では圧倒的に高い。
   ところが、中国の高度成長が持続すると確信している外部エコノミストが多く、
   このような数字を中国政府が公表しているにも拘わらず、そして、中国の経営者や国内の大口投資家に話を聞くと、外野席が唱える下げが見えないとか聞こえてこないと言った楽天主義に賛同する人は誰もいないと言うのである。

   また、シャルマは、中国にとってありそうな未来は、1970年代初めに日本が辿った道ではないだろうかと言う。
   今の中国も、景気循環の自然のプロセスである成長鈍化の段階に入っており、成長スピードが落ちる兆候は既に見えており、この2~3年のうちに減速は本格化して、中国の経済成長率は、6~7%に落ちる筈で、その結果、二桁成長に賭けている投資家や企業は全滅するかも知れないとまで言っているのである。

   シャルマは、中国の成長鈍化と老齢化の人口動態、不動産価格の高騰と社会的暴動の拡大、資産格差や深刻な公害等々、更に、「大数の法則」や「中所得経済のわな」などにも言及して、中国の「宴の後」の経済成長の帰趨を語っていて面白い。
   しかし、中国の経済成長は減速するものの、日本とは違って、成長余地はまだまだ残っているので、中国を破壊することはないであろうし、心配することはないと言う。

   私は、中国の高度成長を支えてきた要因は、何よりも、ICT革命とグローバリゼーションの波に乗って、発展途上国でも駆使できるようになった最先端科学技術をフル活用して、安い労働力と低廉な製造コストを武器にして、輸出産業の拡大と旺盛な設備投資に牽引されて来たためであり、成長のドライブ要因であったこの輸出や設備投資の拡大が鈍化してくると、当然、経済成長は減速してくると思っている。
   「中所得経済の罠」については、中国経済の構造そのものを掘り下げてみないと軽々に語れないが、「大数の法則」については、既に、世界第二の経済大国に至った以前の段階でも、購買力平価では、中国の絶対的な経済力ははるかに巨大であって、国が豊かになればなるほど、国の富を急速なペースで成長させるのは難しくなるのは当然で、もう、既に、中国経済そのものが、宇宙船地球号の天然資源に甚大な影響力を持ち、地球環境を悪化に導くなど巨大化し過ぎて、多くの障害に頭を打っており、現在の経済成長を、このまま持続できる筈がなくなって来ている。
   尤も、中国経済の蹉跌が、もし、あるとするならば、経済的要因よりも、もっと深刻な政治的社会的要因によると思っている。
   

   
   
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久しぶりの鎌倉・東慶寺、源氏山越え

2013年04月08日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   好天に恵まれた日の午後、時間が取れたので、久しぶりに北鎌倉駅で降りて、源氏山に登って鎌倉に抜けることにした。
   一つだけお寺を訪問するとするならば、私の場合には、東慶寺に決まっている。
   別に特別な理由はないのだが、背後の墓地も含めて、殆ど境内全体が庭園のようなもので、何か花が咲いていて、季節の移り変わりを感じさせてくれるからである。
   明月院など、鎌倉には、他にも花の寺はあるのだが、元尼寺であった所為もあって、東慶寺は、境内そのものが実に優しくて、散策するだけで、心を和ませ憩わせてくれる雰囲気がある。

   梅も桜も盛りを過ぎてしまって、遅咲きの梅や八重桜などが残っている程度なのだが、微かに残る色合いが新緑に映えて、パステルカラー調の優しい春の風景を醸し出していて、それなりに絵になっている。
   山門を潜ると、鐘楼の前にピンクの乙女椿が咲いていて、その背後の濃桃色と白色の八重桜が彩りを添えており、黄緑の新芽が淡い逆光を浴びて輝いていて美しい。
   鐘楼の背後の藪には、赤い藪椿と白椿が咲いていて、手前にボリューム感たっぷりのヤマブキの陰にひっそりと佇む風情が実に優しくて良い。

   この東慶寺の境内の背後の山にかけては、沢山の墓が並んでいて、西田幾多郎や和辻哲郎など日本屈指の文化人たちの墓もあるようだが、私には、花木や草花などが織り成す風景や自然の営みなどにしか興味がないので、墓石を調べたことはない。
   左手の山中に、聳え立つ大きなヤマザクラには、まだ、少し花が残っていて、墓地の八重桜と、新緑とのコントラストが実に良く、杉の大木の頂上の枯葉さえもが彩りを添えて絵のような景色を作り出している。

   このお寺の境内には、沢山の花木や草花が植えられていて、季節毎に、花を咲かせていて、楽しませてくれるのであるが、どうも、参道の梅並木以外は、厳格な作庭プランに従ったのではなく、思い思いに、花などがどんどんと付け加わって植えられたような感じである。
   境内の参道手前には、塔が立ったハボタンが並んで植えられていて、その背後には、オレンジがかった強い色のボケが咲いていて、仏殿の手前には、ハナカイドウの幼木が花を咲かせている。
   墓地の入り口には、何株かのミツマタが花を咲かせていて、境内のあっちこっちには、シャガが盛りで、鎌倉のいたるところで見かける淡い紫色のスミレも、墓地の陰にひっそりと咲いている。
   
   面白いのは、このお寺の名物でもあるイワタバコが、びっしりと岩の壁面に、鮮やかな葉を茂らせて、花季を待っている。
   その合間に、気まり悪そうにスミレが咲いているのが面白い。
   しきりに囀り続けるウグイスの鳴き声を聞きながら、春の心地よい涼風に吹かれて、春のひと時を憩っていた。
   
   
    
   

   帰りは、浄智寺脇を抜けて、源氏山を登って行った。
   何時もは、銭洗弁天側から北鎌倉に抜けるのだが、初めて逆方向の道を源氏山越えをしたのだが、この道の方が、大分、のぼりが多いようで、一寸、きつい感じであった。
   源氏山の遊歩道も、ピンクの八重桜、椿、そして、新緑の織り成す彩が、春の気配を感じさせてくれ、ウグイスの囀りが、どこまでも追いかけてくる。
   シーズンだと言うのだが、賑わうのは銭洗弁天までで、源氏山には殆ど観光客はいなかった。
   
   
   
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柿葺落四月大歌舞伎:「弁天娘女男白浪」「忍夜恋曲者」

2013年04月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   テレビで派手に放映された所為か、新装なった新しい歌舞伎座は、大変な賑わいである。
   今回、私が観たのは、午後の第二部の「弁天娘女男白浪」と「忍夜恋曲者」であったが、実質正味2時間15分くらいであるから、柿葺落公演と言っても、実にシンプルな舞台である。

   私は、「弁天娘女男白浪」は、5年前に、團菊祭で、通し狂言「青砥稿花紅彩画 白波五人男」の素晴らしい舞台を観ている。
   この時は、今回の舞台とは違って、今回主役の弁天小僧(菊五郎)と日本駄右衛門(吉右衛門)の出自が、今回省略されている次の浜松屋の蔵前の場で、取り違えた子供の消息が分かる形で明かされ、浜松屋の跡取り息子宗之助が、日本駄右衛門の実子であり、弁天小僧が浜松屋の主人幸兵衛の実子であることが分かり、夫々の白波が、浜松屋の父子に面目ないと謝ると言う寸法になっていて、世話物っぽい取ってつけたような筋書が面白い。
   團菊祭の時には、白波五人男は、当然のこととして、菊五郎の水も滴る美女姿で登場する弁天小僧、團十郎の盗賊の親分然とした豪快な日本駄右衛門、悪餓鬼でコミカルな左團次の南郷力丸、白井権八風の美少年盗賊の時蔵の赤星十三郎、どこかニヒルで知的な忠信狐風の三津五郎の忠信利平と言う決定版とも言うべき役者揃いであったが、今回は、オリジナルキャストの團十郎の逝去によって、日本駄右衛門は、吉右衛門に代わっている。
   吉右衛門は、東西随一の千両役者であるから、日本駄右衛門としての貫録と芸の素晴らしさは言うまでもないのだが、私には、團十郎のイメージが強烈に残っていたので、一寸、違った印象が残った。

   冒頭は有名な雪下浜松屋見世先の場で、美しい武家娘に化けた弁天小僧が、南郷力丸を供に連れて呉服屋の浜松屋に現れて、万引きと見せかけて、わざと折檻を受けて額に傷を受けて100両を強請り取ろうとする話から始まる。
   まんまと強請が成功して帰ろうとするところに、日本駄右衛門が現れて、化けの皮を剥がされ男と見破られて観念した弁天小僧が、窮屈な着物を脱いで、どっかと胡坐をかいて、あの胸がすく様な有名な台詞である
「知らざあ言って 聞かせやしょう
浜の真砂と 五右衛門が 歌に残せし 盗人の 種は尽きねぇ 七里ヶ浜
その白浪の 夜働き 以前を言やぁ 江ノ島で 年季勤めの 児ヶ淵・・・」と名調子の啖呵を切る。
   当然、待ってました と言う掛け声が大向こうから聞こえてる。

   この後、膏薬代と言う名目で20両を受け取って帰るのだが、花道の退場で、この金を分け合いながら、商売道具の衣装と刀が重いので坊主に出会ったら持ち替えると言った寸芸が演じられるのだが、これまでの舞台が結構緊張感があって密度が高かったので、なくもがなの蛇足劇で、黙阿弥の意図が良く分からない。

   白波盗賊仲間の日本駄右衛門が、何故、仲間の弁天小僧たちの正体を暴いて強請を邪魔するのかと言うことだが、その後、感謝した浜松屋幸兵衛(彦三郎)が礼をするために日本駄右衛門を奥に招じ入れる。白波たちは、浜松屋を安心させて、後で店に押し入って有り金一切を頂こうと言う寸法だったのである。
   
   しかし、既に詮議の手が回っていて、何も取らずに浜松屋を後にして、稲瀬川堤に落ち延びる。

   その後の舞台が、「稲瀬川勢揃いの場」で、五人の白波たちが、花道から本舞台の稲瀬川土手に勢揃いして、夫々が、出自を織り込んだ七五調の名せりふを謳うように語って名乗りを上げるツラネ。
   揃いの小袖姿の一本ざしで、駒下駄を履いて番傘をさす伊達姿で登場して、夫々の音楽に合わせて粋なスタイルで格好をつけながら、名セリフを名調子で聞かせるのであるから、役者としての醍醐味満喫であろう。
   尤も、良く考えてみれば、夫々が語っているように名うての悪者集団で、表通りを大手を振って歩けないアウトロー。格好良い筈がないのだが、これを、悪の華とかと称して芝居の舞台に祭り上げて、観客を熱狂させたのであるから、江戸時代の庶民は、余程太平天国に毒され退屈していて、それなりの憂さ晴らしと刺激を求めていたのであろうか。

   「極楽寺屋根裏の場」では、弁天小僧が、追い詰められて意を決して切腹する立ち回りが演じられ、「極楽寺山門の場」と「滑川土手の場」では、日本駄右衛門が、追い詰められて行く舞台が展開されるのだが、このあたりは、話の筋書がどうと言うのではなく、派手な舞台展開や視覚的なシーンを見せて魅せる芝居である。
   新劇場になって、大セリが新たに設置されたようだが、極楽寺山門では、大屋根がそのまま裏返った後、下からせりあがるがんどう返しに威力を発揮したのであろうか。
   メトロポリタン・オペラ劇場などの大劇場では、舞台左右などに三つの予備舞台があって入れ替えられるようだが、METライブビューイングなどを見ていると、正に、舞台裏は、巨大な工場のような感じであるが、新歌舞伎座も、かなり多くの新機軸の舞台装置が追加されたのであろうと思う。

   さて、舞踊劇の「忍夜恋曲者」だが、常磐津の音に乗って、花道のスッポンから静かに浮かび上がる玉三郎の傾城如月の艶姿が、冒頭から観客の目を釘付けにして魅了する。
   新橋演舞場には登場しなかったので、久しぶりの玉三郎の舞台だが、人間国宝になってから益々芸の質が高みに上ったのか、ため息が漏れる程美しい。
   私は、簑助の人形の後振りが好きなのだが、玉三郎の見返り美人風に姿態を横向きに反らせて半ば後振りの姿の美しさに、何時も感激しており、この美しさ優雅さは、絶対に余人をもって代えがたい。

   
   傾城としての色気と風格、将門の息女としての品格を兼ね備えた大役と言うことだが、素晴らしい常磐津の伴奏に合わせて、実に、優雅に美しく舞うように踊る如月のクドキのシーンなどは、この舞台の圧巻であろう。
   如月が、滝夜叉姫の姿を現して、光圀(松緑)と立ち回りを演じて、大掛かりな「屋根崩し」の後、屋根の上高く、大蝦蟇を従えた玉三郎が、すっくと立って、光圀と対峙して引っ張りの見得で幕が下りるのだが、非常に、美しく、かつ、迫力のあるスペクタクルシーンもあって楽しい舞踊劇であった。
   精一杯、玉三郎に負けじと、必死になってついて行く松緑の溌剌とした舞台も、大変な飛躍であり、見事と言うべきであろう。

   ところで、「こけらおとし」だが、服部幸雄著「歌舞伎のことば帖」によると、柿は俗字で、別に漢字があり、劇場が完成すると、破風と両桟敷の屋根の上に乗っている木材の削り屑(こけら)を下に落として綺麗にする、これが最後で無時芝居小屋建設工事の終了なので、にぎにぎしい開場となる、と言うことである。
   ところが、新歌舞伎座のタイトルは、「杮葺落(とし)」となっていているのだが、服部説によると、杮で葺いた屋根を落としてしまうと言うことで、やめることを忠告したいと言うことのようである。(同書 171ページ)
   しかし、別の資料では、「柿葺き」は板葺きの一種で、「こけら=薄い木片」を重ねて敷き詰めた屋根のことを指し、小さな薄い板を上下左右に何枚も重ね合わせて屋根を葺くことにより、雨水の浸透を防ぎ、切妻屋根しか葺くことができない板葺きに比べ、入母屋・寄棟屋根にも葺くことができる自在性が特徴で、板葺きの進化系だと言うことで、この杮葺きの屋根の杮(削り屑)を落とすと解することも出来るのだが、新歌舞伎座の屋根は、杮葺ではなくて立派な瓦屋根であるから、本来の杮落としで良いのではないかと思っている。
 

   
   
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防衛大学校入校式に参列

2013年04月06日 | 生活随想・趣味
   横須賀の防衛大学校で行われた入校式に参列する機会を得た。
   親族が研究科(大学院)に入学するので貴重な経験をしたのだが、私の場合には、娘たちの大学や大学院の入学式に行ったことはないので、自分自身の入学式の経験だけだけれど、殆ど記憶もないので、全く新鮮な印象を感じて興味深かった。
   防衛大学校としての特別な使命を持った学校なので、多少は、挨拶や訓示などで国防の話が出たが、全く、普通の大学の入学式と変わらない感じで、規律が徹底している分、むしろ、荘重で清々しい感じがして、素晴らしい入校式であった。

   私が感激したのは、久しぶりに、日本国の国旗・日の丸に向かって君が代を歌ったことで、全員国旗に向かって起立して防衛省の軍楽隊の荘重な伴奏で、君が代を歌い始めると言いようもない高揚感を感じて胸にこみあげるものを感じる。
   この口絵写真は、その時の模様だが、普通の生活をしていると、聞くことはあっても、日常生活では、国旗に向かって、国歌を歌う機会など殆どなく、私などは、クラシック音楽やオペラの公演などで、客席に起立して君が代を歌った記憶の方が多いような気がしている。

   私は、別に国粋主義者でもないし、特に、日本日本と言って国際交流を軽視すると言った凝り固まった日本主義者でもないと思っているが、日本人としての誇りと日本国に対する愛国心は誰にも負けないと思っているので、日本国の国家と国旗には徹頭徹尾拘っており大切だと思っている。
   そして、外国生活が長かったし、如何に、国家と言うものが大切であり、日本人としてのアイデンティティが、重要であるかと言うことが、骨の髄まで心に沁みわたっているつもりなので、今回、この入校式に参列して、異質観違和感なく雰囲気に溶け込むことが出来て、むしろ、感動さえ覚えている。
   かなり沢山のアジアの国からの留学生が来ており、これも、素晴らしい傾向だと思った。
   私自身、アメリカでの教育を受けて、アメリカに一宿一飯の恩義を感じており、これが貴重な財産でもあり、学ぶ主題が何であっても、学問の国際交流の場は大いに広げていくべきだと思っている。
   式典の模様のショットは次の通り。
   
   

   もう一つ、普通の入学式と違うのは、式の後、グラウンドで、観閲式が実施されたことで、学生たちが、軍楽隊の伴奏に乗って、隊列を組んで行進する様子は、あのナチドイツや、どこかの独裁国家のロボットのような行進とは違って、実に爽やかで気持ちが良い。
   フランスのパリ祭の時に、凱旋門からコンコルド広場に向かって真っ先に先頭で行進するのがポリテクの学生だが、あの颯爽とした格好良さ素晴らしさである。

   久しぶりに、軍楽隊の軍艦マーチの演奏を聞いたのだが、平和時に聞くと、中々、素晴らしい音楽である。
   一時、ユダヤ人が、ヒットラーの愛したワーグナーを徹底的に忌避した時代があったが、ロンドンでは、ユダヤ人指揮者のハイティンクのワーグナーの楽劇をロイヤル・オペラで殆ど見たし、最近では、同じくユダヤ人のバレンボイムがスカラ座で積極的にワーグナーを指揮しており、音楽には、政治的思想的には、全く罪はないのである。

   観閲式であるから、ジープに乗った大臣(この日は副大臣)の観閲がメインだが、巡閲の後は、陸海空それぞれの航空機による祝賀飛行が行われて、防衛大卒業生パイロット操縦のヘリや輸送機、ジェット戦闘機が、上空に飛来する。
   丁度、荒れ模様の春の嵐の合間の素晴らしい晴天に恵まれた好日の防大の入校式であり、私にとっても、非常に、興味深い経験をした半日であった。
   
   
   
   
   
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わが庭:黒椿が咲き始めた

2013年04月03日 | わが庭の歳時記
   最近は、何故か、急に寒くなって空模様の怪しい日が続いているのだが、それにはお構いなく、春の花は、どんどん、動き始めてわが世の春を謳歌している。
   わが庭の椿も、曙や白羽衣や乙女椿など、沢山のたっぷりした花をつけて咲き誇っていた椿も、落ち椿が多くなって、新しく咲きだした椿と選手交代を始めている。

   びっしりと蕾をつけていた崑崙黒が、大分、開花して木が華やかになってきた。
   華やかと言っても、ピンクの花富貴や港の曙などと比べれば、如何にも地味な花色だが、凛とした濃赤の渋い色合いも捨てたものではない。
   新しく咲いて来た黒椿は、毎年咲き続けているナイトライダー。もう、10年以上経つはずだが、中々、木が大きくならない。
   もう一つは、最近手に入れた鉢植えのブラックマジックで、かなり大輪の堂々とした洋椿である。
   園芸店で、黒椿と言うタグのついた椿が売られていて、私の鉢花のなかにもあるのだが、個別の名前がある筈なので、気をつけてほしいと思う。
   しかし、最近は、殆どの園芸店が、大型のホームセンターのチェーン店になってしまって、昔のように、地元の小さな園芸店で、椿に入れ込んで集めていたような植木屋出身のおやじのような人がいなくなってしまって、だんだん、味気なくなって来ているのが寂しい。
   
   
   

   さて、先日来、新しく咲いた椿を紹介しているのだが、その後、咲いたり忘れていた椿は、次の通り。
   蕊が大きくて花弁の縁が赤い王冠。
   ひっそりと咲いていたので気が付かなかったのだが、優雅な卜伴、白卜伴は、落花してしまっていた。
   微かに裏白で、天賜に似たピンクの優雅な香蘭。
   
   
   

   洋椿では、15センチくらいの大輪で、一寸、ドギツイ感じの濃赤のグランドスラム。
   ほんのりとピンクのブチが優雅で品のある大輪のジョリーパー。
   この二本は、大きくなったので、昨年、庭植えにしたので、枯れる心配はなくなった。
   
   

   
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春の京都の旅(6)北野天神、大原:三千院から寂光院

2013年04月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   三日目は、東京が満開にも拘わらず、京都の桜がまだ蕾なので、それでは、梅だと思って、北野天満宮に行くことにした。
   しかし、残念ながら、境内の梅は多少残ってはいたが、梅園の梅は殆ど散っていた。
   随分前に来たのだが、その頃は、本殿の修復工事が行われていたが、今は、綺麗になっている。
   本殿や三光門と呼ばれる極彩色の中門に、濃淡のピンクの八重梅が映えてコントラストが美しい。

   菅原道真の怨霊調伏のために建てられた神社と言うことである。
   政争の失脚者や戦乱での敗北者の霊、いうならば恨みを残して非業の死をとげた者の怨霊・亡霊が、災いを齎すので、復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えると言う怨霊信仰の現れの典型が、この菅原道真のケースだが、理屈で考えるとおかしくなるが、このような伝統はいくらでもあって日本の文化文明を形成しているのだから興味深い。
   いずれにしろ、天満宮は学問の神様でもあり、境内のあっちこっちにつるされている絵馬を、見るとはなしに読んでみると面白い。
   私など、神頼みとは全く縁のない生活、と言うよりも、自分自身で努力する以外にないと思って来たので、いわば、人ごとだが、その気持ちは何となく分かるような気がする。

   私には、菅原道真の故事や、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」の方に興味があって、大宰府の天満宮を訪れた時にも、飛び梅を見て、何となく、懐かしい思いをしたことがある。
   この北野天満宮の楼門に、道真の有名な歌 ”東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘るな”の立て看板がつられている。
   残り梅を鑑賞しながら、境内を足早に散策して、境内を離れた。
   
   
   

   嵐電に乗って嵐山に行く予定であったが、行き先を大原に変えた。
   北大路を真っ直ぐ東に向かへば、出町柳に出るので、そこから、京都バスに乗って大原を目指せば一直線である。
   大原へは一本道なので、ハイシーズンには、異常に混む。
   昔、紅葉が最盛期の頃に、人様の動く前の朝早く、タクシーで大原に行き、昼頃に、市内へ帰ると言うコースを取ったことがあるが、さもなければ、逆に、遅く市内を出て夕刻に市内に帰ると言うような人の移動の逆を行かないと、中々、大原の観光は大変である。
   幸い、この日は、桜の季節前の春だったので、バスも空いていて普通の路線バスの雰囲気であった。
   驚いたのは、随分、奥深くまで開けて住宅街が広がっており、私の学生の頃には、平家物語の大原御幸に描かれた世界のように全く鄙びた田舎だったので、正に、今昔の感しきりである。

   大原のバス停から三千院は、川沿いに土産物屋が並ぶ坂道を登ればすぐなので雑作はないが、何となく、観光ずれがしていて、こんな遠くまで、市内の観光地なみに俗世が纏わりついてくるのかと言う気持ちで、正直なところ、いたく感興が削がれる。
   私の記憶では、外国の教会前街だが、頂上の教会まで、参道の左右にびっしり店や食事処、ホテルなどが並んでいたのは、モンサンミシェルだけだったような気がする。
   
   春の観光シーズンであるにも拘わらず、三千院の中には、殆ど観光客が居なくて、全く静かであった。
   花っ気が殆どないので、全く緑一色の世界であるが、堂々と落ち着き払った重厚な境内の雰囲気が、爽やかで心静かにしてくれて心地よい。
   学生時代には、季節に拘わらず、気が向いたら大原に来ていたので、殆ど静かな田舎の大原しか知らなかったのだが、それ以降は、機会が限られてハイシーズンしか来なくなったので、観光客で溢れかえる三千院に慣れてしまい、こんなに静寂で荘厳な境内の雰囲気は久しぶりであった。

   私は、季節の花が咲く広い境内の庭園を散策するのが好きなのだが、また、非常にシンプルではあるが、境内南側の庭園内にある往生極楽院の阿弥陀堂に上がって、国宝の阿弥陀三尊像を見上げるのを楽しみにしている。
   堂内に安置されている、12世紀に建立されたと言う阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が、西方極楽浄土から死者を迎えに来る姿を体現した来迎形式の像で、特に、両脇侍が、やや前かがみの姿勢で日本式の正座をしている姿が実に優雅で、日本人の美意識の素晴らしさに感激している。
   平等院の鳳凰堂の仏師定朝作の本尊阿弥陀如来像と、兵庫県の浄土寺阿弥陀堂の快慶作の阿弥陀三尊を思い出して、当時の人々の浄土への希いが如何ほどであったかと思うと、何故か、日本の歴史文化に言いようもないほどの懐かしさを感じるのである。
   宝物館に、この阿弥陀堂の天井画の復元図が展示されていたが、その極楽世界の片鱗が見えて興味深い。
   この阿弥陀堂の前方の苔むす庭園内に、可愛くて茶目っ気たっぷりの子供の石仏が置かれていて面白い。
   
   
   

   三千院を出て、大原のバス停まで引き返して、高野川の河畔に下って寂光院を目指して歩くことにした。
   ほんの15分くらいの散策だが、こちらの方は、三千院と違って、もう少し、大原の田舎の雰囲気を楽しめる。
   昔は、藁葺の農家もあったが、もう、そんな雰囲気は全く消えてしまって、普通の農村風景に変わってしまっているが、それでも、まだ、少しは田舎の佇まいは残っている。
   
      

   寂光院には、聖徳太子開基説や、空海開基説などが言われているのだが、私には、清盛の娘・建礼門院が、壇ノ浦で平家が滅亡した後、義経に助けられて、侍女の阿波内侍とともに尼となって平家一門の菩提を弔って余生を送った尼寺の印象が総てである。
   古語の「平家物語」は、学生時代の私の愛読書であり、平家物語の最後が、「平家断絶」で、その直前の句が、「小原御幸」であり、後白河法皇が、建礼門院の侘び住まいであるこの大原の寂光院を訪れる。
   源氏に院宣を発して平家追討を命じて平家を滅ぼし、自分の孫である安徳天皇を壇ノ浦で崩御させた憎んでも憎み切れない法皇が、国母であった清盛の娘である建礼門院徳子を訪ねるとは何たることか、尤も、この小原御幸が、史実であるかどうかは不明であるのだが、ずっと私の疑問であった。
   歌右衛門の最晩年の舞台である「建礼門院」や、二人は熱烈な愛情を抱きながらも門院が拒絶し続けたとする鳥越碧の小説「建礼門院 徳子」などについて、このブログでも書いて来たが、門院の語る「六道語り」は、この平家物語の総括とも言うべき叙述で、これを、門院自ら法皇に吐露させているところが、実に感慨深い。

   淀君の命を受けて片桐且元が17世紀初頭に再興した本堂は、平成12年5月9日の放火で焼失し、現在の本堂は平成17年6月に再建されたものである。
   本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像も焼けてしまって、総て新しくなっている。
   像内にあった3,000体以上の地蔵菩薩の小像は、黒焦げ状態ながら「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、他の像内納入品とともに重要文化財として、収蔵庫に安置されているが哀れである。

   この本堂は、建礼門院自体が過ごした建物ではなくても、実に小さな建物で、寂光院自体も非常に小規模の寺院でありながら、建礼門院の最後の侘び住まいとしては実に印象ぴったりの故地であったのだが、今眼前にある真新しい本堂と地蔵菩薩立像では、最早、平家物語の世界は遠い夢として消えてしまった思いである。

   孫には、後で、平家物語を読んでみたらと薦めて置いたが、収蔵庫に掲示されている放火事件の顛末を掲載した京都新聞の記事など、資料を熱心に見ていた。
   大原には、門跡寺院であった豪壮な三千院と、建礼門院の隠棲した侘び住まいと言う全く印象の違った雰囲気の名所が存在するのだが、季節夫々に趣があって面白い。
   「額縁庭園」のある宝泉院や天台声明の根本道場である「勝林院」などもそばにあるのだが、今回は行けずに帰って来た。
   
   
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佐倉チューリップフェスタ

2013年04月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今月の6日から29日まで、印旛沼湖畔の「佐倉ふるさと広場」で、佐倉チューリップフェスタ が開かれる。
    1987年に佐倉日蘭協会を設立し、日蘭修好380周年佐倉記念事業として、印旛沼のほとりにある佐倉ふるさと広場に、本格的なオランダ風車が建てられており、その周り一面にチューリップが植えれれていて、満開時には、沢山の観光客を集めて賑わう。
   天邪鬼と言う訳ではないが、交通渋滞でごった返すフェスタ期間は嫌なので、その前後、それも、午後遅くに、チューリップを見に行くことにしている。
   その時には、チューリップ畑と印旛沼との間の池畔の桜並木に駐車できるので、アクセスは非常に良いのである。

   尤も、チューリップは、同時にすべての花が満開と言う訳ではなく、早く咲くのもあれば遅く咲くのもあって、多少時期がずれるのだが、やはり、綺麗なチューリップ畑を鑑賞するには、フェスタ期間が一番よく、今現在は、まだ、半分くらいしか開花しておらず、蕾もかたくて、もう少し後の方が良い。
   この口絵写真のように、チューリップはまだもう一つだが、風車の左手の印旛沼池畔の桜並木の桜が、まだ、少し残っていて、これまでは、1キロほどある池畔の散策の方が、雰囲気があったようである。
   
   
   

   不思議なもので、桜並木の桜でも、チューリップ畑に隣接した中間部分の桜は、殆ど散ってしまっているのだが、風車よりと、はるか臼井城址跡に近いの方の桜は、まだ、綺麗に咲いていて、夕日を浴びて美しい。
   このチューリップ畑の縁には、菜の花も植えられており、今は貧弱だが、もう少しすると、綺麗に咲いて、チューリップとのコントラストが美しくなるのだが、残念ながら、その頃には、葉桜になってしまっている。
   同じチューリップでも、厳しい寒さが一気に吹き飛んで瞬時に春が訪れるオランダのキューケンホフ公園では、桜もさつきも菜の花も、殆どの春の花がチューリップと同時期に、一緒に咲くのでびっくりしたのだが、少しずつ、変化しながら温かくなる温暖な日本の太平洋岸では、花の咲き方に微妙な差やバリエーションがあって面白い。
   同時ではなく、同じ、梅でも桜でも、あるいは、椿でもユリでも、種類によって入れ代わり立ち代わり咲いて、微妙な変化を楽しませてくれると言うことも、貴重で素晴らしい自然の営みであろうと思っている。
   
   
   
   池畔の桜並木の真ん中あたりに、4本だけ、ポプラの木だと思うのだが箒状に立っていて、これがアクセントになっている。
   私は、誰もいない広々と広がるオランダのチューリップ畑で、じっと、涼風に吹かれながら、物思いに耽るのが好きであったが、あのスマートな裸の落葉樹が、あの頃オランダの田園地帯で馴染んでいたポプラ並木を思い出させてくれて、ヨーロッパを飛び回っていた厳しい激務の頃の思い出を彷彿とさせて、今でも、万感胸に迫る思いになるのである。
   余談だが、この佐倉の風車は、現存するオランダの風車と比べて、あまりにも新しくて立派過ぎて、むしろ、私にオランダを思い出させてくれるのは、チューリップ畑の向こうに並ぶ4本の落葉樹のシルエットのような佇まいなのである。
   
   
   

   私の庭にも、100個以上ものチューリップの球根を植えており、どんどん咲きだしてきているので、一番きれいに咲いた時に、もう一度、日没前くらいに、「佐倉ふるさと広場」の佐倉チューリップフェスタ のチューリップ畑に行こうと思っている。
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