私が能に興味を持ったのは、ほんの2年ほど前で、その時に、能に触れようとして読んだ本の中に、梅若玄祥の「まことの花」と「梅若六郎家の至芸」があって、能が大変な歴史を経て来たことを知って感激した。
その時に、特に印象に残っているのは、明治の開幕と同時に、
”それまで幕府の式楽として篤く保護され、大名家のお抱えとなって武士に匹敵する地位にあった能楽師たちは、失職し、すべての流儀(座)が活動停止状態に追い込まれてしまうのです。
幕府自体が存亡の危機に、能どころではなかったからだと思います。”と言う文章であった。
能楽師たちは商売道具の面や装束を売り払ったり、転職して、煙草屋や薬屋や、爪楊枝を削る内職などをして、糊口をしのいでいたと言うのである。
梅若家も、どうにか恰好がつくようになった明治への転換期に、二間に三間の粗末な舞台を建てて、稽古もでき、この舞台で、梅若実初世は、宝生九郎師や桜間伴馬師らとともに、能楽復興のために切磋琢磨したと言う。
この時、観世宗家は、慶喜に付き添って静岡に下って、観世で、東京に止まったのは、梅若と銕之丞だけだった。
ところが、宗家だけが有していた弟子への免状を初世が発行したために(許しを得たと言う)、この「免状問題」が尾を引いて、大正10年に観世流から除名される。
関東大震災で、蔵だけ残して焼け出され、頼みの綱であった身内の銕之丞家と万三郎家が観世流に復帰してしまい、その上に、戦争で、再び家も舞台も焼かれてしまって、梅若家は苦難の連続であったと言う。
能の存亡の危機を救った初世に、明治9年の天覧能で、楽屋入りを誘われた宝生九郎師が、天皇の「ぜひ舞うよう」との一声で、「熊坂」の半能(後半だけ)をつとめたのを、九郎師は、一生恩に着て、「生きています間、よくつとめ」てくれたと感謝していたらしい。
さて、今回の横浜能楽堂の「明治八年 能楽の燭光」であるが、幕府の崩壊で前途を悲観して能楽から距離を置いていた宝生九郎師に、舞台復帰を勧め、明治8年に、梅若実のツレで、梅若舞台で舞ったのが、今回の「蝉丸」だったと言う。
明治初年の能自体が危機的な状態にあったからこそ、宝生と観世の異流共演が実現出来たのであろう。
能楽鑑賞初歩の私には、流派の違いそのものが良く分かっていないので、異流共演であるかどうかなど分かる筈もないのだが、貴重な機会だと思って、初めて、横浜能楽堂に出かけて行った。
シテ/逆髪が宝生和英宗家、ツレ/蝉丸が人間国宝梅若玄祥、ワキ/清貫が殿田謙吉、アイ/博雅三位が人間国宝野村萬と言う錚々たる面々で、密度の高い90分の舞台であった。
宝生宗家と梅若家当主が、140年を経て、流派を越えて、同じ役割で、その舞台を再現しようと言うのであった。
醍醐天皇の御代、盲目の皇子・蝉丸は、君命で逢坂山に捨てられることとなり、付き添って来た廷臣の清貫(ワキ)は蝉丸に剃髪させて、蓑・笠・杖を与えると、断腸の思いで山を下る。その後、琵琶の弟子博雅の三位(間狂言)が庵を作って蝉丸を庵へ導く。その頃、皇女・逆髪(シテ)は狂乱が高じて京を彷徨い出て逢坂へとやって来る。琵琶の音色に誘われて、逆髪は弟・蝉丸と思わぬ再会を果たして、お互いの不運を嘆き悲しむのだが、やがては別れ行く運命で、逆髪は旅立ち、留まる蝉丸は、見えぬ目で後を追い、今生の別れに涙する。
優雅な舞もなく、殆ど動きのない、実に悲しく、儚い物語である。
しかし、この能は、「順」と「逆」も別のものではない一如観で、「会者定離」と言う世界観をテーマにしていて、陰惨な曲だと言うのは正確な把握ではないと、「能を読む」は説いている。
「生者必滅会者定離」で、この世で出会った者には、必ず別れる時がくる運命にあること。この世や人生は無常であることのたとえの仏教語。のようで、天皇の二皇子の不幸がテーマではなくて、二人が会って別れると言うのが、本意だと言うことであろうか。
それにしても、全編シテもツレもしおってばかりいる感じで、最初から最後まで救いのないような謡と舞が続いている。
興味深かったのは、普通は、あまり重要ではない里人を演じているアイが、今回は、蝉丸から琵琶の伝授を受けた博雅の三位だと言うことで、蝉丸が逢坂山に捨てられたと聞いて京都からやって来て、蝉丸の世話をして、藁屋を設えて住まわせ、御用があればお呼び下さいと言って退場するのだが、人間国宝の野村萬が、実に丁寧に熱のこもった演技をしていて、感動的であった。
宝生和英の蝉丸、梅若玄祥の逆髪、夫々、偉大な歴史を作った先祖の140年前のエポックメイキングな舞台を思いながらの熱演。
一瞬にして消える、一期一会の能舞台の輝きを彷彿とさせる舞台であったのであろう。
その時に、特に印象に残っているのは、明治の開幕と同時に、
”それまで幕府の式楽として篤く保護され、大名家のお抱えとなって武士に匹敵する地位にあった能楽師たちは、失職し、すべての流儀(座)が活動停止状態に追い込まれてしまうのです。
幕府自体が存亡の危機に、能どころではなかったからだと思います。”と言う文章であった。
能楽師たちは商売道具の面や装束を売り払ったり、転職して、煙草屋や薬屋や、爪楊枝を削る内職などをして、糊口をしのいでいたと言うのである。
梅若家も、どうにか恰好がつくようになった明治への転換期に、二間に三間の粗末な舞台を建てて、稽古もでき、この舞台で、梅若実初世は、宝生九郎師や桜間伴馬師らとともに、能楽復興のために切磋琢磨したと言う。
この時、観世宗家は、慶喜に付き添って静岡に下って、観世で、東京に止まったのは、梅若と銕之丞だけだった。
ところが、宗家だけが有していた弟子への免状を初世が発行したために(許しを得たと言う)、この「免状問題」が尾を引いて、大正10年に観世流から除名される。
関東大震災で、蔵だけ残して焼け出され、頼みの綱であった身内の銕之丞家と万三郎家が観世流に復帰してしまい、その上に、戦争で、再び家も舞台も焼かれてしまって、梅若家は苦難の連続であったと言う。
能の存亡の危機を救った初世に、明治9年の天覧能で、楽屋入りを誘われた宝生九郎師が、天皇の「ぜひ舞うよう」との一声で、「熊坂」の半能(後半だけ)をつとめたのを、九郎師は、一生恩に着て、「生きています間、よくつとめ」てくれたと感謝していたらしい。
さて、今回の横浜能楽堂の「明治八年 能楽の燭光」であるが、幕府の崩壊で前途を悲観して能楽から距離を置いていた宝生九郎師に、舞台復帰を勧め、明治8年に、梅若実のツレで、梅若舞台で舞ったのが、今回の「蝉丸」だったと言う。
明治初年の能自体が危機的な状態にあったからこそ、宝生と観世の異流共演が実現出来たのであろう。
能楽鑑賞初歩の私には、流派の違いそのものが良く分かっていないので、異流共演であるかどうかなど分かる筈もないのだが、貴重な機会だと思って、初めて、横浜能楽堂に出かけて行った。
シテ/逆髪が宝生和英宗家、ツレ/蝉丸が人間国宝梅若玄祥、ワキ/清貫が殿田謙吉、アイ/博雅三位が人間国宝野村萬と言う錚々たる面々で、密度の高い90分の舞台であった。
宝生宗家と梅若家当主が、140年を経て、流派を越えて、同じ役割で、その舞台を再現しようと言うのであった。
醍醐天皇の御代、盲目の皇子・蝉丸は、君命で逢坂山に捨てられることとなり、付き添って来た廷臣の清貫(ワキ)は蝉丸に剃髪させて、蓑・笠・杖を与えると、断腸の思いで山を下る。その後、琵琶の弟子博雅の三位(間狂言)が庵を作って蝉丸を庵へ導く。その頃、皇女・逆髪(シテ)は狂乱が高じて京を彷徨い出て逢坂へとやって来る。琵琶の音色に誘われて、逆髪は弟・蝉丸と思わぬ再会を果たして、お互いの不運を嘆き悲しむのだが、やがては別れ行く運命で、逆髪は旅立ち、留まる蝉丸は、見えぬ目で後を追い、今生の別れに涙する。
優雅な舞もなく、殆ど動きのない、実に悲しく、儚い物語である。
しかし、この能は、「順」と「逆」も別のものではない一如観で、「会者定離」と言う世界観をテーマにしていて、陰惨な曲だと言うのは正確な把握ではないと、「能を読む」は説いている。
「生者必滅会者定離」で、この世で出会った者には、必ず別れる時がくる運命にあること。この世や人生は無常であることのたとえの仏教語。のようで、天皇の二皇子の不幸がテーマではなくて、二人が会って別れると言うのが、本意だと言うことであろうか。
それにしても、全編シテもツレもしおってばかりいる感じで、最初から最後まで救いのないような謡と舞が続いている。
興味深かったのは、普通は、あまり重要ではない里人を演じているアイが、今回は、蝉丸から琵琶の伝授を受けた博雅の三位だと言うことで、蝉丸が逢坂山に捨てられたと聞いて京都からやって来て、蝉丸の世話をして、藁屋を設えて住まわせ、御用があればお呼び下さいと言って退場するのだが、人間国宝の野村萬が、実に丁寧に熱のこもった演技をしていて、感動的であった。
宝生和英の蝉丸、梅若玄祥の逆髪、夫々、偉大な歴史を作った先祖の140年前のエポックメイキングな舞台を思いながらの熱演。
一瞬にして消える、一期一会の能舞台の輝きを彷彿とさせる舞台であったのであろう。