熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

都響:大野和士シベリウスを振る

2014年12月13日 | クラシック音楽・オペラ
   今日の東京芸術劇場での都響の「作曲家の肖像」は、シベリウスで、来年4月から都響の音楽監督に就任する大野和士の指揮、大変な熱気である。
   プログラムは、「レンミンカイネンの帰郷 op.22-4」
      「ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.47」 ヴァイオリン:三浦文彰
      「交響曲第5番 変ホ長調 op.82」

   このシリーズのように、一人の作曲家の代表作品でプログラムを組むと、非常に鮮やかに、その作曲家の音楽イメージが浮き彫りにされて、どっぷりとその音楽にのめり込めるのが良い。
   私など、クラシック音楽を聴き続けて長いのだが、音楽に対する基礎知識も希薄だし、聴いていて分かるかと言われれば、何も分からないと言うに等しく、ただ聴いていて、そのサウンドに感応して素晴らしい時間を楽しめると言うことが嬉しくて、コンサートに通っていると言うことである。

   ブラボーと客席から声がかかっていた。
   私には、あっちこっちで聴いて来たシベリウス節を、この東京で、久しぶりに上質な素晴らしい演奏で反芻することが出来た喜びであろうか。
   大野和士が、非常にきびきびとした切れ味鮮やかなタクト捌きで、都響と言う良質な糸を縦横無尽に交差させて鮮やかな綾織に紡ぎ出す、それを聴きながら、私自身の心が、サウンドに合わせて躍動していたと言うことである。
   
   ヴァイオリン協奏曲を弾いた三浦文彰は、2009年世界最難関とも言われるハノーファー国際コンクールにおいて、.史上最年少の16歳で優勝したと言う大変な逸材で、極めて高度な演奏技巧を求められる作品だと言われているこの曲を、殆ど表情を変えずに易々と弾いている感じで、非常にメリハリのはっきりした華麗なサウンドを披露して聴衆の盛大な拍手を浴びていた。

   もう、半世紀ほど前になるが、私が最初にシベリウスを知ったのは、交響詩「フィンランディア」と交響詩「トゥオネラの白鳥」がカップリングされたレコードからである。
   その後、シベリウスのヴァイオリン協奏曲や交響曲を聴いたのは、欧米に行ってからで、フィラデルフィア管弦楽団やコンセルトヘヴォーなどのコンサートであった。
   やはり、私にとっては、先の2曲の交響詩と、今回演奏されたヴァイオリン協奏曲と交響曲第5番が好きな曲で、コンサートのプログラムに組み込まれると、出かけて行った。
   何となく、ロンドン交響楽団などよりは、コンセルトヘヴォーのような重厚で渋い、逆に、艶やかな輝きを見せるサウンドの方が、シベリウスには合っているように思っていた。

   ヴァイキングの北欧三国にも独特な神話や民話が残っていて、色々な芸術に色濃く影響を与えているのだが、このフィンランドでも、民族叙事詩「カレヴァラ」が国民に愛されていて、シベリウスの劇音楽や叙事詩に影響を与えていると言われている。
   ヘルシンキで、どこかは忘れたが、公共建物に大きなカレヴァラの壁画が掲げられていた。
   何しろ、フィンランドは、サンタクロースの国だし、トーベ・ヤンソンの「ムーミン」の国でもある。
   

   シベリウスは、非常に愛国主義者で、ロシア空軍機が上空を飛ぶと、自動小銃で撃ち落とそうとしたと言う。
   フィンランディアは、第2の国歌だと言われているし、交響曲第5番は、シベリウス生誕50年を祝して政府が依頼した祝賀演奏会曲で自身が指揮したと言う。
   シベリウスは、フィンランドでは、大変な偉人なのである。

   ヘルシンキと近郊を、夏に2回訪れたことがあるが、あの風土と気候に実際に接して見て、シベリウスの音楽が、少し良く分かったような気がした。
   
   ところで、このフィンランドは、ハンガリーと同様に、モンゴル人が征西して支配した国なので、両国語ともモンゴル語の影響を受けていて、名前などは日本と同じで姓名順だし、そしてまた、蒙古斑が遺伝しているのだと言う。
   ロシアを訪れた後だと言う訳ではないが、もう少し、ユーラシアに跨って版図を広げたモンゴルに対する歴史観を変えるべきかも知れないと思っている。

   (芸術劇場前広場)
   
   
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国立劇場:十二月文楽・・・「伽羅先代萩」

2014年12月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   先月、国立劇場で上演された藤十郎の歌舞伎「伽羅先代萩」の舞台を、「竹の間の段」と「御殿の段」に限って、今月、文楽で上演させた。
   歌舞伎は、通し狂言であったので、御殿の間の場では、前半の長時間にわたる飯炊きの場が省略された短縮版になっていたのだが、今回の文楽では、床本通りにじっくりと演じられた。

   興味深かったのは、御殿の間の段では、歌舞伎と多少ストーリーが変わっていて、文楽の方が、見ていて、話の筋が分かり安かったと言うことと、人形ゆえか、表現がかなりストレートであった気がしたことである。

   これまで、国立劇場小劇場で、2回、この御殿の段を文楽で見ており、最初の政岡は簑助で、八汐が文吾、栄御前が紋豊、沖の井が和生で、切を住大夫と錦糸、奥を咲大夫と燕二郎。
   次の舞台では、政岡が紋壽、八汐が簑助、栄御前が文雀、沖の井が清五郎で、切を嶋大夫と團七、奥を津駒大夫と寛治であった。
   今回は、政岡が和生、八汐が勘十郎、栄御前が勘彌、沖の井が一輔で、前が津駒大夫と藤蔵、後が呂勢大夫と燕三。
   三業とも演者が全く異なっているので、その変化が興味深く、このブログでも観劇印象記を書いていて、夫々の舞台に、いたく感激したことを覚えている。
   年末の東京での文楽は、人間国宝などの重鎮は参加しないので、和生の政岡と勘十郎の八汐は、最も脂の乗り切った最高のスタッフィングだと思って見ており、非常に楽しませて貰った。

   
   さて、文楽の詞章は、半世紀ほど経てからの歌舞伎からの改作・浄瑠璃化ということであるから、違っていて当然なのだが、特に、御殿の場の後半部分が、何時も見慣れている歌舞伎と少し違っているのが興味深い。

   政岡が、実子千松が、八汐に嬲り殺されているにも拘らず、殆ど表情を変えなかったのを見て、栄御前が、政岡を一味だと確信して、自分たちの悪巧みを明かして、歌舞伎なら、連判状を渡すのだが、文楽では、このシーンがなくて、そのまま退場する。
   したがって、鼠が出て来て、政岡からこの連判状を盗んで逃げて行く場面もないし、その後の「床下の場」では、連判状ではなくてお家の系図が使われると言う。

   もう一つは、政岡が千松の亡骸をかき抱いて号泣しているところへ八汐が入って来て、政岡を亡き者にしようとした時に、沖の井が、八汐たちの悪事の証人として小巻を連れて入ってくることである。
   小巻は、刑部達の命令で毒薬を調合したために、秘密露見を恐れて殺された夫の仇を討つために、悪人仲間のように振舞っていたことを白状し、そして、栄御前に、鶴喜代君と千松が取り替えっ子だと吹き込んだのだと明かす。

   政岡が、八汐の止めを刺す時に、沖の井が、千松の亡骸に懐剣を握らせて、仇を討たせると言うところなども、中々、芸が細かくて面白い。
   いずれにしろ、文楽の方が、この御殿の場だけのみどり狂言でも、ストーリー展開が良く分かることになっているのが良い。
   尤も、常識的に考えても、あるいは、沖の井の言い分から言っても、八汐のエゲツナサ、悪巧みの稚拙さが見え見えで、芝居の奥行きに欠けるようで、どうかと思わないでもないが、これが芝居であろう。

   文楽は、人形だと言う所為だけではないと思うのだが、勘十郎の八汐は、間髪を入れずに菓子を食い散らす千松を捕まえて馬乗りになって、真上から、懐剣を錐のように突き立てて、いたぶり続ける。
   政岡憎しで、結構、何回にも八汐の錐もみ状態が続くので、このシーンだけは、残酷を通り越していて、人形浄瑠璃の美学を疑いたくなる。

   八汐が千松に懐剣を突き立てる瞬間、皆は勿論、政岡も大きく動転して鶴喜代を抱きしめるのだが、栄御前は、前方にいて政岡を見ておらず、後で、小康を取り戻して無表情になった政岡を凝視して、政岡の平静を確認することになっていて、栄と政岡が対面して座っている歌舞伎とは雰囲気が違っていて面白い。
   小巻に吹き込まれて、取り替えっ子を全く疑っていないと言う姿勢であろう。

   政岡の和生は、実に上手い。感動的な政岡で、人形が慟哭し忠義に生きる健気な姿が躍動している。
   先の紋壽の時に、私は、次のように書いた。
   ”主君・鶴喜代君の暗殺を恐れて、自分で茶道具を使って飯炊きをして給仕しなければならない政岡の胸を締め付けるのは、必死になって空腹に耐える若君と実子千松の健気な姿と悲運。
   茶道具の脇に両手を添えて頭を垂れて必死に堪えながら慟哭に泣く政岡の気品とその優雅さなどは絶品で、右手を腰に当てて左手一本で人形を遣う颯爽とした紋寿の姿は、正に、千両役者の風格である。
   それに、この舞台の命とも言うべき、政岡の赤い着物が、眩しいくらい目に染みて美しい。”
   最初に簑助の政岡を見た時には、その後の、舞台を背にして天を仰いで号泣する感動的な姿など、後振りの美しさに感嘆し、人形の女形の魅力に引き込まれた。
   時々、玉三郎も実に艶のある華麗な後振りを披露してくれるのだが、人間の動作だと、非日常的なので、何となく無理があってぎこちないところが残るのだが、その点では、人形だと、とことん究極の女性の美しさ優しさ温かさを表現できる良さがあり、この場面こそ、その典型であろう。
   和生の政岡には、艶やかさと気品、それに、毅然とした寸分の隙もない清廉潔白さと優しさが、何とも言えない。

   最後になったが、勘十郎の八汐は、流石に、イメージ通りの悪役に徹底している。
   歌舞伎の場合には、團十郎や仁左衛門など名だたる立役が演じており、特別な役柄なのだが、立役でも女形でも器用にこなす両刀使いの勘十郎であるから、動作を大きくしてはいるものの、男を感じさせない八汐像を演出しており、実に、スムーズで舞台に溶け込んでいて、意地の悪さだけではなく、人間の弱さ愚かさ滑稽ささえ滲ませていて、面白かった。
   颯爽として爽やかな沖の井の一輔、風格を見せて存在感を示した栄御前の勘彌、控えめながら好演した小巻の紋富などの脇役陣の活躍も見逃せない。

   津駒大夫と藤蔵、呂勢大夫と燕三の浄瑠璃と三味線あってこその舞台なのだが、人形の動きばかりに集中してしまっていて、時々、演台を覗き見ながら、その大変な熱演に感動している。
   
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チケットの選択:能・狂言か落語か?

2014年12月10日 | 落語・講談等演芸
   あぜくら会に入っていて、毎月初めになると、国立劇場のチケットを取得するために、インターネットを叩いている。
   大体、国立能楽堂の能・狂言主体で、国立劇場の歌舞伎と文楽、それに、国立演芸場の落語と言った調子なのだが、正月のチケット取得で、はたと選択に困った。

   何時もだと、真っ先に、夫々、1回しか公演のない能・狂言を優先して、それに合わせて他の演目のチケットを選択するのだが、今回は、落語の方の公演が気になった。
   これまで、年初に6日間連続で公演される「新春国立名人会」を聞きに行く機会がなかったので、是非、来年はと思っていたのである。

   大げさな言い方をすれば、人生においては、色々な形で選択に迷うことが多々あるので、特別なことでもないのだが、一方に決めれば、他方のチャンスを失うと言うことで、諦めるのか、苦難に耐えるかなど、色々苦しんだり、悩んだりすることになる。
   今回は、それ程大げさなことではなく、単なる観劇の選択なのだが、要するに、両方見たいプログラムが、同じ日の同じ時間に重なったと言うことである。

   選択に困ったのは、1月7日で、
   国立能楽堂の年初の公演は、素謡「神歌」関根祥六ほか、喜多流能「玉井」塩津哲生ほか、和泉流間狂言「貝尽」石田幸雄ほか、それに、客と一緒に「高砂」の謡。
   国立演芸場は、小三治がトリで、落語は、市場、文楽、雲助、三三と言った錚々たる面々であり、正楽の紙切りなど魅力的なプログラムが続く。
   結局、間狂言がメインとなる貴重な機会であり、喜多流の能「玉井」関根祥六師の素謡を鑑賞したかったのだが、人間国宝小三治以下落語界のトップ演者たちが登場する噺の世界の魅力には勝てない。
   「籤罪人」の太郎冠者の台詞ではないが、「聴かずばなるまい」と言う心境で、結局、12月8日の能・狂言の予約を諦めて、10日の演芸の予約を待ったのである。
   案の定、両方とも、予約日当日にチケットが完売となっている。

   前回、ロシアでのサンクトペテルブルグのマリインスキー劇場では、オペラにするかバレエにするか迷って、異国でのまたとないチャンスなので、両方とも予約を入れてチケットを取得して、結局、当日は、バレエ「ジゼル」を鑑賞したのだが、やむを得ない時には、ダブルで予約を入れることが多い。
   今回は、日本でもあり、折角のチケットを無駄にするのも忍びないので、能・狂言の方の予約は入れなかった。

   余談だが、やむを得ずに行けなかったり、無駄になったチケットを、他の人に行って貰うべく頼むことがあるのだが、やはり、趣味なり好みなどが全く違うので、私が残念だと思ったチケットでも、家族も含めて、使ってくれる人は殆どいない場合が多く、頼んでまで…と言う気持ちもあって、ボツにすることが多い。
   昔、フィラデルフィアに留学していた時に、婦人のボランティ団体からコンサートのチケットを頂いたことがあったが、日本にも、余ったチケットを、有効に活用してくれるシステムがあればと思っている。

   余談ついでだが、今月の日経の「私の履歴書」は、萩本欽一で、毎回、実にユーモアがあってジーンと来る素晴らしいストーリーが続いていて楽しい。
   江戸落語を聞き始めてから、話芸の奥深さに少しずつ気付き始めている。
   文楽の大夫の浄瑠璃もそうだが、一人でナレーションから登場人物の総ての声音を、中村メイコさんのように七色の声で語り続ける。
   語りものの魅力は、以前に、上原まりが平家琵琶を奏でながら語る「平家物語」を聴いて感激したことがある。

   とにかく、日本の伝統古典芸術の凄さはダテではない。
   今日も国立能楽堂に、多くの若いアメリカ人らしき団体が来て鑑賞していたが、歌舞伎・文楽も人気があるが、欧米人の観客の比重は、恐らく、能・狂言が断トツだと思う。
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田崎真也著「うなぎでワインが飲めますか?」

2014年12月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   田崎真也さんの本を久しぶりに読んだ。
   この本の第一部は、「世界のワインと料理をどう愉しむか?」であり、世界各地で生産されているワインを紹介しながら、その土地の料理、例えば、アメリカ料理とカリフォルニアワイン、と言った具合で、その相性など、興味深い話を語っていて、面白い。

   もし、フランスで1日だけ自由な時間があって、どこに行きたいかと聞かれたら、たぶん、真っ先にアルザス地方と応えるでしょう。と言って、コルマールの話をしている。
   田崎さんは、ワインの話だが、私は、仕事と旅行で何回かコルマールを訪れていて、中心街にある中世の佇まいのする床が傾いてギシギシ鳴る古いホテルに投宿して、古き良き時代を感じながら楽しんでいたことがある。
   ストラスブールも、素晴らしい大聖堂があって、非常に魅力的な古都なのだが、このアルザス・ローレン地方は、今でこそ、フランス領だが、戦争の度毎に、ドイツ領になったりフランス領に編入されたり、国が5回も変わったと言う老婦人に会ったことがあるほど、複雑な歴史を辿った土地ながら、両文化をミックスして継承する興味深いところである。
   オランダから車で旅行した時には、田舎道を登って、豊かなワイン畑の中を散策したことがあるが、牧歌的で良い。

   コルマールについては、いくらでも話はあるが、ワインの本のレビューなので、本題に戻ると、田崎さんも言っているように、地方に行けば、その土地のワインと料理を楽しむことだと言うことである。
   アルザスに行けば、アルザスワインだと言うことは分かるが、例えば、イタリアに行った場合でも、イタリアワインのバローロばかりではなく、フィレンツェに行けば、トスカーナのワインを選んだ方が、良い場合があると言うことである。
   私は、ピサでミシュランの星付きレストランに行った時、ソムリエのおススメに従ったら、良く知らない地元のワインを薦めてくれたが、非常に美味しく楽しい食事をしたことがあり、その後、知ったかぶりをせずに、ずっと、この方式を続けている。

   ワインを嗜むようになったのは、ヨーロッパに赴任して、ヨーロッパ人とのビジネス関係で、社交や会食の場が多くなってからで、門前の小僧ではないが、少しずつ知恵がついたと言うことである。
   ヒュー・ジョンソンの「ポケット・ワインブック」を丹念に調べたり、ワイン関係の本を読むなど勉強しながら、少しずつ、ワインの知識も増え始め、ワインの経験も、どんどん増えて行った。
   ヨーロッパでの出張など移動が多かったので、余裕があれば、ミシュランのレッド・ブック片手に色々なレストランを梯子しながら、自分自身で得た知識を試す機会を得て面白かった。
   ところが、良い経験をしたのは、ベルギーの田舎の2つ星レストランで、ワインも料理もすべてお任せのフルコースの料理を頂く機会を得たことである。
   料理の皿が変わる毎に、その料理に合った新しい別なワインが、グラスに注がれてくるのだが、この時、初めて、料理に合ったワインが如何に素晴らしいかと言うことが分かったのである。
   料理とワインの相性が良ければ、料理もワインも、何倍にも増幅されて、楽しめると言うことであり、正に、ワインは飲む食べ物だと言うことである。

   この論理で行けば、一寸飛躍だが、その地方で長年に亘ってはぐまれてきた食文化でもあるから、先ほどの地方の地元料理には地元のワインが合うことになる。
   私は、これを応用して、結構、仕事の関係で、日本国内をあっちこっち出張することが多かったので、その土地で食事をする時には、必ず、地元の酒を頂いて来たのだが、これが、実に素晴らしいことであることを経験している。
   ドイツでは、ビールもソーセージも、地方によって全く違うが、このマッチングが絶妙なのである。

   田崎さんは、第3部の「ワインの愉しみ、もてなしの心」で、ワインの価格の奥深いからくりを教えましょう」で、品薄になって、幻の○○○になれば、何でも高くなると、芋焼酎を引き合いに出して、蔵出しのワインが安いのに、消費の段階で高くなるカラクリを説明している。
   値段が高いと言うことは、それなりの理由なり原因があるのだろうが、必ずしも、価値相応の値段ではないことがあると言うことであろう。
   
   随分、前のことになるのだが、ある機会があって、ニューヨークの高級レストランで、ロマネ・コンテを飲む機会があった。
   ワイン初歩であった所為もあったのだろうが、特に、素晴らしく料理が美味しかったわけでもなく、殆ど印象には残っていない。
   私には、料理はともかく、超高級ワインを、どのような機会に嗜むのか、凡人故に、よくは分からない。

   田崎さんは、ワインを飲むのに、特に、厳しい習わしやルールがあるわけではないのだから、色々な、ワインの愉しみ方を、自分自身で工夫して探し出すことを勧めている。
   日本で生活をしているので、甲州のワインなど日本のワインが良いのかも知れないが、何故か、フランスワインと比べても、結構高い。
   外国製なら同じなので、フランスワインに拘らずに、イタリアやスペインも素晴らしいし、南半球のオセアニアや南米のワインなども、コストパーフォンマンすが高くて、楽しめると思っており、あまり、生産地には拘らず飲んでいる。
   田崎さんが言っているように、白なら、さわやかなシーヴィニョン、ふくよかなシャルドネ、 赤なら、果実味豊かなピノ・ノワール、しっかりとしてカベルネ・ソーヴニョンと言った調子で良かろうし、案外、値段で選んでいることが多い。
   
   ワインを飲み始めて何十年にもなるが、いまだに良く分からない。
   しかし、ワインを飲みたいなあと思えば、その時が、ワインを楽しむ時だと思っている。
   
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十二月大歌舞伎・・・通し狂言「雷神不動北山櫻」

2014年12月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   7年前の正月、新橋演舞場で、海老蔵の「雷神不動北山櫻」を見ていて、今度は2度目の鑑賞である。
   この「雷神不動北山櫻」は、天皇家のお家騒動を主題にした勧善懲悪の物語なのだが、夫々、みどり狂言で上演される歌舞伎18番の内の「毛抜」「鳴神」「不動」を一本化して通した狂言と言った感じで、ストーリー展開が良く分かって面白い。
   それに、「市川海老蔵五役相勤め申し候」で、海老蔵が、二代目團十郎がつとめた粂寺弾正、鳴神上人、不動明王と言う三役に加えて、謀反の張本人早雲王子と安倍清行を演じるところにも、人気の秘密がある。

   前回は、「鳴神」の雲の絶間姫を、芝雀が、実に見事に演じて素晴らしかったのだが、今回は、人間国宝の玉三郎である。
   私が、意識して最初に歌舞伎を観たのが、四半世紀前のロンドンでのジャパン・フェスティバルで、勘三郎の鳴神上人、玉三郎の雲の絶間姫で、その時の玉三郎の何とも言えない魅力的な舞台に感激したので、今回は、どのような芝居が見られるのか、非常に期待して出かけたのである。

   最近、玉三郎と海老蔵の共演が多くなって、ぴったり呼吸の合った上質な芝居を作り上げて好評だが、この「鳴神」も、どことなくコミカルタッチのホンワカとした雰囲気が何とも言えず、美女のコケティッシュな色仕掛けに、謹厳実直と言うか威厳のある高僧でありながら、端無くも崩れ落ちて行く芝居を、実に味わい深く見せてくれて、非常に面白かった。
   このあたりは、流石の玉三郎のリードで、それに、応えて、正に直球勝負の海老蔵の演技が爽やかであり、型がどうのと言った古典歌舞伎の舞台から行くとどうかは分からないが、私には、魅せて見せる舞台になっていて、これこそ、芝居であると思って見ていた。

   女の魅力、ことに、やわらかい乳房に触れて幻惑されて陥落しながらも、神憑りの高僧が、騙されたと言って烈火の如く怒って、髪は逆立ち、着ている着物は炎となって燃え上り、姫を逃さじと、その後を追い駆けると言う鳴神上人の変身だが、茶番劇とも言うべき設定ながら、豪快な出立で見得を切り続けて、六方を踏んで花道を退場するのは、やはり、芝居たる歌舞伎で、海老蔵の颯爽たるアクションが、観客の拍手を呼ぶ。

   もう一つの18番の「毛抜」だが、興味深いのは、当時、それ程普及していたとは思えなかった磁石を小道具に使って、お家乗っ取りを図ろうとするストーリーで、今回は、これまでのような、円形時計のような南北を示す針のある物ではなくて、大きな長い箱状の磁石を使っていた。
   今回は、通し狂言なので、この磁石の来歴が分かって面白い。

      この芝居は、
   公家小野春道(市川右近)の息女錦の前(児太郎)が、文屋豊秀(愛之助)に輿入れすることになっていたが、その錦の前に降りかかった「髪の毛が逆立つ」という奇病により婚儀が滞っていた。文屋豊秀の家臣である粂寺弾正(海老蔵)は主の命により錦の前の様子を見に春道の館にやって来て、天井裏に仕掛けられた大きな磁石が、姫君の鉄製の髪飾りを吊り上げて奇病をでっち上げて婚儀を妨げ、お家乗っ取ろうとした八剣玄番(市蔵)を成敗する。と言う話。
   弾正が、髭を抜こうとして使った毛抜きや刀の小柄が、ひとりでに立って動くのを不審に思って、悪人のカラクリを見破ると言う設定なので、タイトルが「毛抜」なのである。

   こんな深刻な話だけかと思ったら、シャーロック・ホームズのような弾正が、一寸した女たらしで、可愛い若衆を乗馬の稽古と称して抱き付いたり、接待に来た腰元巻絹(笑三郎)を口説いて抱きすくめようとしたり、これを、海老蔵が、茶目っ気たっぷりに演じているのだから、面白い。
   尤も、100歳を越えても見かけは若づくりと言う陰陽師安倍清行の色きちやふやけぶりは、もっとどうに入っていて秀逸である
。   この場で、海老蔵の弾正に対抗して、達者な芸を披露しているのが、悪役の玄番を演じている市蔵で、玉三郎以外に殆どベテランが出演していない今月の歌舞伎で、気をはいている。
   他では、颯爽とした愛之助、市川右近、関白基経の門之助、石原瀬平の獅童、それに、若手の松也、児太郎、尾上右近など、夫々に印象に残っている。

   この歌舞伎は、「毛抜」や「鳴神」そして、業火の中で中空に浮かび上がる不動明王の「不動」を観ると言ったことでもあろうが、
   やはり、海老蔵が、八面六臂の大車輪の大活躍、それも、しゃれっ気十分なコミカル・ムードから、成田屋のトレードマークである格調の高い荒事まで幅と奥の深い芸を披露しており、それを楽しむことであろうと思う。

   この新しい歌舞伎座も、大分、夜景にも風格が出て来て、東京の観光スポットになっている。
   そして、地階のメトロ駅に直結した木挽町広場が、何時も賑わっている。
   数ショットを、掲げておきたい。客が引いた時刻のショットである。
   
   
   
   
   
   
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国立能楽堂・・・観世流能「大原御幸」

2014年12月06日 | 能・狂言
   「平家物語」の終章は、灌頂巻の「女院死去」であり、最後のトピックスは、後白河法皇の「大原御幸」で、大原の寂光院での建礼門院との邂逅である。
   歌舞伎にも、北条秀司作「建礼門院」があって、建礼門院を六世中村歌右衛門が、後白河法皇を島田正吾が演じた素晴らしい舞台を観たので、
   今回、国立能楽堂で行われる観世流の能「大原御幸」を、非常に楽しみに鑑賞させて貰った。

   この曲は、禅竹の作品だとされているので、義父世阿弥の平家の物語のままに書くべしと言う遺訓に従っているのであろうか、大分脚色はされてはいるが、先の北条秀司の作と同様に、ストーリー展開は、一応、踏襲はしていると言えようか。
   私自身は、何故、法皇が女院を訪問したのかその意図、そして、女院が快く法皇を迎え入れたのかどうか、また、女院がどのような心境で成仏できたのかどうかと言った建礼門院の心の問題については、夫々、扱い方が違っていて、それこそが、重要な問題だと思っている。

   この能の終曲は、女院に、法皇が、仏菩薩の位に至った者しか見られないと言う六道をあなたは本当に見たのかとと問うたので、六道を見た苦渋の思いを切々と語り、
   その後、法皇が、先帝の最後の様子を聞きたいと言ったので、女院は、壇ノ浦での平家の断末魔の最後を語り、二位の尼に促されて千尋の海に入滅した安徳帝の最後を、そして、自分は、源氏の武士に取り上げられて生き長らえて再び竜顔を拝するのが恥ずかしいと袖を濡らす・・・
   名残は尽きねど、法皇は、臣下に促されて寂光院を離れて行くと、女院は、その後を見送る。と言うところで終っている。
   「能を読む」には、過酷な体験を経て生き長らえた建礼門院の「諦観」とも言うべきものが、旧知の法皇との再会と言う展開の中で静謐なタッチをもって描かれている。と書かれている。

   一方、平家物語の方は、女院の語る六道は、もっと凄まじく詳細に亘っており、それを聞いて、最後に、法皇は、玄奘三蔵は、悟りの前に六道を見、日蔵上人は、蔵王権現の力で六道を見たと聞いているが、「是程まのあたりに御覧ぜられける御事、誠にありがたうこそ候へ」とて、御涙にむせばせ給へば、」・・・供奉の公卿殿上人も皆袖をしぼり、女院も涙を流し、付き添う女房達も皆袖を濡らす。と言うところで終っている。

   この平家物語も、当然、それを踏襲した能もそうだが、前述の私の疑問に関しては、どちらかと言えば、詳細は語らず、生きながらに六道の苦しみを見たと女院に語らせ、聴く者の心に問うている。

   さて、一説では、後白河法皇は、門院を参内させるように命じたが清盛が拒否して高倉天皇の妃になった経緯があり、法皇の門院への執心故か、何故、草深い大原まで訪れたのか問題になることがある。
   しかし、北条は、そんな無粋な話は無視して、この場面を、法皇の懺悔と門院のさとりの崇高な人間ドラマに仕立て上げている。
   門院が、壇ノ浦の阿鼻叫喚の断末魔の凄まじさを掻き口説き、自身の孫安徳天皇を殺したのは祖父の貴方なのだと告発し、後白河法皇は、懺悔し土下座して門院に謝る。
   最後には、六道輪廻、地獄を見た門院が法皇を許し、悟りを開く。
   寂しそうに花道を去ってゆく正吾・法皇を見送りながら、歌右衛門・女院は「お父様・・・」とつぶやく。
   歌右衛門はもう台詞の記憶もさだかではなく、プロンプターの声が耳に障る程だったが、晩年に近い歌右衛門の凄い入魂の舞台であり、芸は衰えていない。
   それに応えて、天下の名優島田省吾が素晴らしい法皇を演じ続けて、観客を感動の渦に巻き込んで離さなかった。

   もう一つ、このブログで、ブックレビューしたのが、鳥越碧著「建礼門院 徳子」。
   源氏に院宣を発して平家追討を命じて平家を滅ぼし、自分の孫である安徳天皇を壇ノ浦で崩御させた憎んでも憎み切れない法皇が、国母であった清盛の娘である建礼門院徳子を訪ねるとは、何事か、
   鳥越碧は、この小説で、一つの回答を示してくれた。
   強引な法皇のアプローチと女院の法皇に対する激しい恋心である。
   書評の一部を引用するが、これで十分であろう。
   法皇の突然の訪問が衝撃を与えたのか、微熱が続き、徳子は病床に就きうなされる。
   ”深更の静寂の中で、徳子はようやく頷く思いがした。壇ノ浦の戦いの後、どうして生きながらえて来たのか。わが子を一族を滅ぼされても。
   「あなたに抱かれるまで、死ねなかったのです。」と呟いてみる。
   そのためにのみ、生きてきたような気がする。徳子はそっと微笑を洩らす。これこそが本心だったのだと。”
    (生き地獄であった六道を語りながらも、)燃え盛る法皇への愛が、すべて飲み込んでしまうのかと狂う。このままでは耐えきれない。もう、限界かと思った時、
   逆巻く怒涛の音を聞きながら、法皇は、かって、一度も聞いたことのない、地を這うような声で、「さらばじゃ」。

   さて、この能「大原御幸」だが、優雅な舞もなければ、激しい動きもない。
   室町時代から江戸前期までは、謡としては謡われていたらしいが、能としては上演されていず、上演するようになったのは江戸後期からだと言う。

   ところで、興味深かったのは、観世流だけだと言う一回り長い作り物の「大藁屋」で、冒頭、この作り物の引き回しが下ろされると、女院を真ん中にして左右に阿波の内侍と大納言の局が座っているのである。
   女院は相生増、内侍は深井、局は小面の面をつけていて、女院の品のある憂いを帯びた面が雰囲気があって良い。

   この能は、詞章が、平家物語に近く、それに、かなり分かり易い表現であったし、動きが少ないにしても、舞としては、ストーリ展開がはっきりとしていたので、私には、ドラマとして非常に面白く楽しませて貰った。
   シテ/建礼門院の浅見真州師、ツレ/後白河法皇の大槻文藏師、ツレ/万里小路中納言の森常好師の超ベテラン能楽師、そして、素晴らしい囃子方や地謡方の熱演もあって、能楽初歩の私にとっては、非常に、素晴らしい「大原御幸」で、一層、平家物語ファン度が、増した感じであった。
    

   この能の舞台の寂光院は、学生の頃からであるから、もう10回以上は訪れており、美しい桜の季節や紅葉の季節のみならず、新緑萌える夏や雪の舞う冬など、大原の里の四季が、目に焼き付いているのだが、あの不幸な火災がどう思っても残念で、訪れる人も殆どなかった何十年も前の寂光院のひっそりとした鄙びた佇まいが懐かしい。
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晩秋のロシア紀行(10)ボリショイ劇場でガラ・コンサート

2014年12月05日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワのボリショイ劇場で、オペラを観たいと思ったが、チケットはソールド・アウト。
   たった2日の滞在なので、期待しても無理な話なのだが、幸いにも、出発少し前に売り出されたガラ・コンサート「モンゴルのゴールデン・ヴォイス」のチケットを、インターネットで取得して、ボリショイ劇場で観劇する機会を得た。
   大阪万博で来日したボリショイ・オペラの「イーゴリ公」の素晴らしい舞台に感激して、その後、欧米のオペラ・ハウスを歩きながらも、ボリショイは憧れであり、2011年に改装されて美しくなったと言う劇場を是非見たいと思っていたのである。
   

   当日の演目は、「Golden Voices of Mongolia」
   Gala Concert with soloists of the Mongolian State Academic Theater of Opera and Ballet, to include works by Puccini, Verdi, Rossini, Donizetti, Saint-Sans, Mozart and Tchaikovsky.
   モンゴル国立アカデミー劇場のトップ・ソリストたちが、プッチーニやヴェルディなどオペラの名アリアを、熱唱すると言うのである。

   オーケストラは、ロシア・ナショナル管弦楽団。
   まだ、創設後四半世紀の歴史ながら、ロシアを代表するトップ楽団の一つで、指揮は、マリインスキー歌劇場専属指揮者として活躍しているAlexander Polyanichko(アレキサンダー・ポリャニチコ)だと言うから、文句なしである。
   期待に背かずに、素晴らしく華麗なサウンドを堪能させてくれた。
   

   さて、この劇場だが、1823年に建てられ、火災や戦争による改造・改修を経て、広い広場をバックにして堂々たる姿を今日に伝えている。
   ところが、入ってみると、一階ロビーは、手荷物チェック・カウンターと空港並みのレントゲン・ゲートが出迎えると言う殺風景極まりない状態で、横の階段から階下に下りてコート手荷物預けを経て、上階の客席に向かうのだが、極めて階段や廊下が狭くて、パブリックスペースは、非常に貧弱である。
   尤も、二階には貴賓席が中央にある所為であろうか、かなり広い装飾された立派な広間形式のオープンスペースがあり、風格十分である。
   時間がなかったので、他の階の状況は分からないが、1859年に建てられたマリインスキー劇場と同様で、パブリック・スペースが貧弱なのは、当時の生活や文化を反映していて、今日のような利便性を考えた設計ではなかったからであろう。
   あのロンドンのロイヤル・オペラ劇場も、結局、旧劇場は殆ど手を付けずにそのままにして、隣接して巨大な建物を接続して素晴らしいオープン・スペースを作り上げたのだが、古い立派なオペラハウスは、歴史遺産としての本体の建物そのものを触らない限り、改造は不可能なのであろう。

   客席空間は、正に、素晴らしいハレの舞台を現出して光り輝いている。
   構造なり造りは、ヨーロッパの古い伝統あるオペラ劇場と殆ど同じで、馬蹄形のサークル状に客席が積み上がっていて、2階中央に立派な貴賓席がある。
   天井から下りたシャンデリアが豪華で、ストール平土間の客席は、マリインスキー劇場と同じで、一脚一脚の木製椅子席であるのが面白い。
   
   
   
   
   
   
   
   この劇場では、マリインスキーとは違って、舞台袖のボックス席はそれ程ではなく、客席バックの中央貴賓席を支える柱やその周りが、綺麗に装飾されている。
   
   
   
   
   

   「モンゴルの黄金のヴォイス」は、モンゴルの歌手を知らないので、興味津々であった。
   プログラムも、モンゴル語とロシア語なので、歌手の名前も曲目も全く分からなかったのだが、殆どは、ヨーロッパ・オペラの名アリアなので、素晴らしい歌唱を存分に楽しむことが出来て幸せであった。
   プッチーニのトーランドットやラ・ボエーム、ヴェルディのアイーダやリゴレット、ロッシーニのセビリアの理髪師、モーツアルトのフィガロの結婚等々、最後は、全歌手総出演で、お馴染みのヴェルディの「椿姫」の乾杯の歌で感動的なフィナーレを飾り、天井から、激しく金粉が舞い落ちると言う華やかな舞台となった。
   METやウィーン、ロイヤルやミラノ等々で、今を時めく大ソリストの多くが、東欧や南米などコスモポリタン、必ずしも伊独仏英米の出身者とは限らないのがオペラの世界で、モンゴル歌手の水準の高さに圧倒された素晴らしいガラ・コンサートであった。

   この劇場の演出で素晴らしかったのは、曲が変わる毎に、照明やバックのスクリーンが、その曲の背景や雰囲気にマッチしたシーンに変わることで、映像が素晴らしいので、舞台セットがそのまま変わった感じがして全く異質感がなかったことである。
   モンゴル賛歌と言った感じの曲であろうか、全歌手が登場して、ヒマラヤであろう、峻厳な真っ白の高山をバックに、朗々と歌い上げた歌声の素晴らしさが印象的であった。
   
   
   
   客席には、かなりのモンゴルの人びとが来ていたが、大半はロシア人で、何故か、私自身、久しぶりに、アジア人であることを感じた夜であった。
   興味深いのは、新興国ロシアの初期を支配し、タタールのくびきでロシアを苦しめ続けていたのが、かってのチンギス・ハーンの国モンゴルであり、いわば、モンゴルは、ロシアの宗主国であった。
   観客は、どんな思いで、モンゴルのゴールデン・ヴォイスを聞いていたのか、歴史に思いを馳せていた。
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晩秋のロシア紀行(9)赤の広場

2014年12月03日 | 晩秋のロシア紀行
   ロシアと言えば、必ずと言ってよい程、テレビなどに映る映像は、赤の広場である。
   特に、何本かのネギ帽子のような丸屋根を頂いた聖ワシーリー寺院の印象が強烈である。

   ところで、この赤の広場に出て、最初に持った印象は、この広場が、ロシアの心臓部であるクレムリンに直接隣接しているにも拘わらず、隔絶された特別な広場ではなく、町の中心街に隣接し、かつ、聖ワシーリー寺院(ボクロフスキー聖堂)のそばにはビジー・ロードが走っていて、すぐ、モスクワ川に傾斜していると言った街の雑踏の中にあることである。

   
   
   この航空図は、グーグル・アースから借用したのだが、
   東西斜めに走っている道の左上の長方形の一角が赤の広場である。
   左下の赤壁で仕切られた三角形の広大な部分がクレムリンで、右端の赤サークルが聖ワシーリー寺院、上部の赤サークルの長方形の大きなビルが国営グム百貨店、左端の方形の建物が国立歴史博物館で、これらに囲まれたところが、赤の広場である。
   クレムリンに隣接した小さな赤サークルが、レーニン廟で、何かの儀式の時には、この廟の高台に政府高官が並ぶ。

   聖ワシーリー寺院の斜め下は自動車道路で、右下角のモスクワ川に直結している。
   日によって、場所によっては、交通事情が悪化し、この日は、大変な渋滞で、2~300メートル進むのに30分以上を要していた。
   ロシアの交通事情については、別稿で論じてみたいと思っている。
   
   
   
   赤の広場の左上角の右側すぐに革命広場があって、それに隣接して、ボリショイ劇場やマールイ劇場のある劇場広場があり、このあたりに地下鉄も集中していて、モスクワの中心のようである。
   広場の片隅に、東京の日本橋のように、道路元標がある。
   
   
   

   さて、革命広場から、赤の広場に向かい、国立歴史博物館を右手に見て近づくと、左手に電飾にふちどりされたグム国立百貨店が現れて、その遠方に、聖ワシーリー寺院の丸屋根群が見えてくる。
   広い広場に出て、全体像を展望できると思ったが、残念ながら、広場にスケート場を造るとかで、板囲いに囲まれた工事現場が邪魔をした。
   

   こんなところに、スケート場を設営すると言うのであるから、何の不思議もないのだが、広場にメリーゴーラウンドがあり、そのすぐ横にロシアの聖地とも言うべきレーニン廟があると言う、このチグハグなアンバランスが、流石にロシアだと興味深かった。
   クリスマス休暇を前にして、一寸した遊園地を、赤の広場に作り上げるのであろう。
   

   聖ワシーリー寺院には、入らなかったが、電光に映えて美しかった。
   テレビの映像で見ると、何となく旅情を誘う懐かしい姿なのだが、実際に眼前にすると、何か、グリムの童話かディズニーの世界を彷彿とさせて、カラフルに装飾され過ぎたおもちゃの建物のような感じがして、不思議であった。
   この寺院の前あたりに、布告を読み上げたり、そこでステンカ・ラージンなども処刑をされたと言うロブノエ・メストと言う円形の台石があったようだが、意識にはなかった。
   この後の3枚目の写真の右端の段が、その一部だが、それとは気付かなかった。
   ガイドブックや参考文献は事前に読むのだが、現地に行けば、目に入るものだけで、総て忘れてしまっている。
   寺院の背後は、一気にモスクワ川に向かってダウンしていて、右手の広場に出ると、交通の雑踏が良く見えて、生きているロシアを感じさせる。
   
   
   
      

   振り返って、反対の方を見ると、右手に大きな赤レンガの国立歴史博物館、右手に、レーニン廟。
   この写真の右手は、工事で塞がってはいたが、赤の広場は、とにかく、巨大であり、ここなら国家行事は、何でも、十分に行えるであろう。
   ギリシャのアゴラに始まって、世界の国々には、色々な広場があるのだが、その前に立ってみると、その国や国民性、そして、その国の歴史や伝統・文化などが彷彿として来て、非常に興味深く面白いと思っている。
   
   
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晩秋のロシア紀行(8)世界歴史遺産サンクトペテルブルグ

2014年12月02日 | 晩秋のロシア紀行
   サンクトペテルブルグは、ピヨートル大帝が建設した都市なので、たった300年の歴史しかない。
   しかし、街全体が、正に、パリやロンドンのように、ヨーロッパの街そっくりの印象を与える歴史遺産そのものである。
   短い滞在なので、歩いたのはほんの僅かで、バスの車窓から覗き見て、街の雰囲気を感じ取った程度だが、これが、ヒットラーの猛攻撃に堪えて生き抜いた歴史的な試練を潜り抜けた大都市だと思うと、正に、感慨無量であった。
   それに、とにかく、この街も、京都と同じで、キリスト教会が多い街で、宗教はアヘンだと豪語した共産党政権の破壊に堪えて、良く残ったものだと思う。

   私たちが入場して、かなり、長い時間を教会内で過ごしたのは、「血の救世主寺院」別名「血の上の救い主聖堂」など極限られていて、この教会も、今や、博物館として利用されている。
   何故、血の上の・・・と呼ばれるのかだが、農奴解放令を出して「解放者」と呼ばれた改革派の皇帝アレクサンドル2世が、1881年に、テロリストの爆弾で命を奪われた場所に、息子のアレクサンドル3世が建てたからである。
   赤の広場に面して建っている有名なワシーリィ寺院とよく似た恰好をしているが、完成は、1907年で、共産革命直前なので新しい。
   私は、ギリシャでギリシャ正教の寺院に入っていないので良く似ているのかどうかは分からないのだが、今回、ロシアで見た教会は、他の欧米の寺院と全く違って、柱は勿論のこと壁面は壁画などで覆われていて、立錐の余地もない程に極彩色に彩色されていて、綺麗いことは綺麗のだが、別の意味では、気が狂いそうなほど衝撃的なのである。
   ドイツやフランスの高いゴチックの教会のように、森の中にいるような静けさ静寂さは、微塵もないのが、不思議であった。
   それに、床面も一面のモザイクで荘厳されている。
   
   
   
   
   
   

    街の中心から、エルミタージュと旧海軍省の間に抜けているいるネヴァ川にかかる宮殿橋を渡って、対岸の2棟の燈台のたもとに行くと、ネヴァ川を挟んで、エルミタージュの長い冬宮が遠望でき、巨大な建物であることが分かる。
   そして、燈台の後方に、サンクトペテルブルグの基礎が築かれたうさぎ島のペトロパブロフスク要塞が、良く見える。
   ネヴァ川に落ち行く夕日が、北国の光そのものである。
   
   
   
   

   取って返して、旧海軍省の建物を右に見て、デカプリストの乱所縁のデカプリスト広場の外れに、エカテリーナ2世が建てたと言うピュートル大帝の騎馬像が、ネヴァ川の方向を向いて立っている。
   その公園越しに、巨大なドームを頂いたイサク聖堂が聳えている。
   ドーム外壁に展望台があって、サンクトペテルブルグの眺望を楽しめるようだが、我々は、公園を散策しただけで後にした。
   ここで面白かったのは、カラスの姿で、灰色と黒のツートンカラーの所為か、あの嫌な日本のカラスとは違って、何となく、鳩のような大人しい雰囲気を感じたことである。
   イサク聖堂を回り込んで反対側に出て、ニコライ1世像のある広場に立つと、聖堂を右に見て、右手に古風なホテルが見える。
   このホテルが、ヒトラーが凱旋入場した時に、記念大宴会を催そうとして果たせなかったと言うホテルで、ロシア人ガイドは、力を籠めてこれを説明していた。
   
   
   

   最後に案内されたのは、電光に映えて美しい小さな教会ニコライ聖堂で、ロシア革命後にも壊されずに残った数少ない現役のキリスト教会である。
   1753年に建てられたバロック様式とロシア伝統建築様式折衷の調和のとれた美しい建物で、殆ど真っ暗であったのだが、裏表で面白い写真が撮れた。
   誰もいない教会の敷地に入って、回り込んで教会内に入ったのだが、礼拝に来ていた何人かのロシア人信徒が、夫々の祭壇の前で祈りをささげていた。
   この教会の内部は、他のヨーロッパの教会に近く、ごてごてしたロシア風の教会の雰囲気はなく、堂内も静寂であった。
   
   
   
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国立能楽堂・・・狂言「籤罪人」

2014年12月01日 | 能・狂言
   国立能楽堂での「蝋燭の灯りによる」狂言では、「杭か人か」、「鬼の継子」、「籤罪人」が演じられたのだが、中でも面白かったのは、人間国宝山本東次郎が太郎冠者を演じた「籤罪人」。
   前に、この国立能楽堂で、 大藏吉次郎が、太郎冠者を演じた「籤罪人」が印象に残っていて、面白かった。

   この話は、
   祇園会の祭と山車の当番になった主人(山本則俊)が、町内の人々を集めて出し物を何にするのか相談をしたところ、色々の案が出るのだが、その度毎に、脇に控えている太郎冠者がダメだとしゃしゃり出て口をはさむ。太郎冠者の考えを聞くことになって聞いてみると、それは、地獄に落ちた罪人を鬼が責めるところを披露するという出し物で、面白いとこれに決まる。誰がどの役を担当するか、鬮で決めることとなり、鬼は太郎冠者、罪人は主人に決まってしまう。さっそく稽古が始まり、鬼になった太郎冠者は,亡者の役に当たった主人を稽古に託けて打ち据えようとするのだが主人の手前、恐る恐る手加減せざるを得ない。主人が睨みつけるのでやり難いとの太郎冠者の申し出で、面をつけて真面な装束になって稽古をやることとなり、太郎冠者は、面を被ったことを幸いに、日頃のうっぷん晴らしに、本当に主人を打ち据える。と言う面白い主客逆転劇である。

   太郎冠者は、主人の雇い人なので、この催しの当事者ではないから、寄合でも正式の参加者ではない。
   実際にも、橋掛りの狂言座に待機しているのだが、皆の出し物の提案が、これまで他の町内でやったものばかりなので、その度毎に、「言わずばなるまい」としゃしゃり出てダメ出しをして、主人に叱られ、また狂言座に退散する。
   結局、良い案が出ないので、それでは、太郎冠者にと言うことで、お鉢が太郎冠者に廻って来て、その案が採用され、
   また、用意した籤が一本余ったので、良いからと言うことで太郎冠者が引くことになって、鬼が当たったので、仲間に加わることになる。
   主人は、籤が嫌で、籤を開くのを拒否していたのだが、仲間に代わりに開けられて、罪人に決まると渋い顔。

   最初から最後まで、主人面を貫こうと居丈高に振舞う主人と知恵のまわる太郎冠者との主従の関係の可笑しみが滲み出ていて、実に、興味深い狂言である。
   これを、弟の則俊の主人を相手にして、東次郎の太郎冠者が、実に、軽妙洒脱でユーモアたっぷりの舞台を演出し、山本泰太郎以下東次郎家一門の立衆5人が、これをサポートする。
   隣の席のお嬢さんが、けれけらと黄色い声を出して、そして、後ろの席の奥方たちも、声を出して笑い続けていた。
   パンフレットには、先に逝った次男の則直が太郎冠者で、東次郎が主人の写真が掲載されていたが、東次郎は、主人より太郎冠者の方が本領発揮だろうと思う。

   この祇園会の山と鉾だが、中世には町衆の祭りで、各町が競って趣向を凝らしたようだが、その後、飾り物が固定されて、この話に出て来る鯉の滝登りは鯉山に、五条の橋の千人切りは橋弁慶山に固定されている。
   学生の頃、祇園祭に出かけて、室町の老舗の飾りつけなど、興味深く見て回った記憶があるが、とにかく、無性に暑かったのを覚えている。

   この日の舞台は、他に、
   三宅右近の太郎冠者、三宅近成の主で、留守中に抜け出して遊ぶ太郎冠者を、見張るために杭に化ける主の噺である「杭か人か」。
   茂山あきらが鬼になって、茂山逸平が美女である女になって、繰り広げる継子を間にした恋物語である「鬼の継子」。
   あの人気者の逸平が、女形の女になって綺麗な衣装を着けて赤子を抱いて登場し、中々、コミカルな舞台を務めていて面白かった。
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