熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

晩秋のロシア紀行(15)モスクワの街歩き

2014年12月23日 | 晩秋のロシア紀行
   モスクワでには、19日昼にサンクトペテルブルグから飛行機で入って、21日の午後に、空港から日本に発ったので、丸2日の滞在で、その内、半日は、郊外の黄金の環に出て行ったので、殆ど、観光する時間は、なかったと言えよう。
   19日、モスクワに着いた午後、モスクワ大学などをバス観光して、その後、地下鉄駅を、見学方々乗りついて、赤の広場へ出て時間を過ごして、近くのレストランで夕食を取った。
   翌20日は、朝、郊外の黄金の環の古都セルギエフ・パッサートに行き大聖堂などの観光と、マトリョーシカの工場で絵付け体験、
   その後、モスクワに取って返して、中心街に出てアルバート通りなどでショッピング。
   私は、ボリショイ劇場のガラ・コンサート鑑賞があったので、グループから離れて、単独行動であった。
   21日は、午前中は、クレムリンで過ごして、昼食を取ってから、空港へ向かった。

   ミシュランの緑本(英語版)の最新版が出ていないので、日本のガイド・ブックを使ったが、地球の歩き方とか、るるぶの「ロシア」程度しかないので、極めて情報は貧弱であった。
   しかし、赤の広場やクレムリン、それに、博物館や劇場などの情報くらいで、他に、モスクワ大学のある雀が岡や文学散歩程度で、後は、教会などの説明くらいなので、それ程、観光スポットとして魅力のある古都ではなさそうであり、JALパックのスケジュールで良かったのであろう。

   モスクワ大学は、あの巨大な逆三角形様の建物を遠望しただけだが、町中にある同じような形をした巨大なアパートが、スターリン時代の典型的な建物として残っている。
   良くも悪くも、戦中戦後を統べたスターリンは、今では、歴史から消え去ってしまっているのだが、ロシアは、上下、大ブレに揺れる運命を背負っているのであろうか。
   途中で、ノヴォテヴィッチ修道院を遠望した時に、公園を散策したのだが、冬季が長くて公園に彩りがないので、花壇の表面にペンキが塗ってあり、遠くからは花が咲いているように見えた。
   モスクワ市内の道路の路肩の斜面ににも、芝生様の装飾が施してあって、面白いと思った。
   
   
   
   
   

   ところで、マトリョーシカ工場だが、郊外の鄙びた寂しい集落が、工業団地のようになっているので、普通の田舎であり、それとは分からない。
   殆ど廃業したと思えるような工場に入って、職人の作業を見たり、白木のマトリョーシカの彩色を試みたが、子供の頃のように上手く筆が進まない。
   日本のこけしや入れ子細工から想を得たようだが、ぴったりと嵌め込む職人の技術に感心して見ていた。
   ところで、モスクワやサンクトペテルブルグの土産店に行けば、素晴らしくディスプレイされた沢山のマトリョーシカのオンパレードなのだが、実際の制作の現場は、貧しい(?)中小企業のようである。
   高級なマトリョーシカよりも、もっともっと美しく細密で繊細に絵が描かれたシュカトゥールカと言う小箱は、謂わば、高度な民芸芸術品で、高いものは、何十万円もするが素晴らしい。
   
   
   
   
   
   
   
   

   口絵写真は、クレムリンのすぐ傍で、モスクワ河畔に建つ白亜の教会・救世主キリスト大聖堂である。
   周りを散策しただけだが、紆余曲折があって、1990年代、ソ連崩壊後に、細部まで忠実な形で19世紀の大聖堂が再建されたのだと言う。
   流石に、宗教をアヘンだとして弾圧し続けたスターリンで、1931年に、ソヴィエト宮殿を建設するために爆破したのだが、跡地から地下水が噴出したので、ソ連時代には、巨大な温水プールであったと言う。
   再建されたのが、せめてもの幸運かも知れないが、元は1883年の完成と言うから、神田のニコライ堂と同じような歴史なので、随分、新しいのである。
   高台から見るモスクワ河畔の夜景は、旅情を誘う。
   
   
   
   
   
コメント
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