国立能楽堂での「蝋燭の灯りによる」狂言では、「杭か人か」、「鬼の継子」、「籤罪人」が演じられたのだが、中でも面白かったのは、人間国宝山本東次郎が太郎冠者を演じた「籤罪人」。
前に、この国立能楽堂で、 大藏吉次郎が、太郎冠者を演じた「籤罪人」が印象に残っていて、面白かった。
この話は、
祇園会の祭と山車の当番になった主人(山本則俊)が、町内の人々を集めて出し物を何にするのか相談をしたところ、色々の案が出るのだが、その度毎に、脇に控えている太郎冠者がダメだとしゃしゃり出て口をはさむ。太郎冠者の考えを聞くことになって聞いてみると、それは、地獄に落ちた罪人を鬼が責めるところを披露するという出し物で、面白いとこれに決まる。誰がどの役を担当するか、鬮で決めることとなり、鬼は太郎冠者、罪人は主人に決まってしまう。さっそく稽古が始まり、鬼になった太郎冠者は,亡者の役に当たった主人を稽古に託けて打ち据えようとするのだが主人の手前、恐る恐る手加減せざるを得ない。主人が睨みつけるのでやり難いとの太郎冠者の申し出で、面をつけて真面な装束になって稽古をやることとなり、太郎冠者は、面を被ったことを幸いに、日頃のうっぷん晴らしに、本当に主人を打ち据える。と言う面白い主客逆転劇である。
太郎冠者は、主人の雇い人なので、この催しの当事者ではないから、寄合でも正式の参加者ではない。
実際にも、橋掛りの狂言座に待機しているのだが、皆の出し物の提案が、これまで他の町内でやったものばかりなので、その度毎に、「言わずばなるまい」としゃしゃり出てダメ出しをして、主人に叱られ、また狂言座に退散する。
結局、良い案が出ないので、それでは、太郎冠者にと言うことで、お鉢が太郎冠者に廻って来て、その案が採用され、
また、用意した籤が一本余ったので、良いからと言うことで太郎冠者が引くことになって、鬼が当たったので、仲間に加わることになる。
主人は、籤が嫌で、籤を開くのを拒否していたのだが、仲間に代わりに開けられて、罪人に決まると渋い顔。
最初から最後まで、主人面を貫こうと居丈高に振舞う主人と知恵のまわる太郎冠者との主従の関係の可笑しみが滲み出ていて、実に、興味深い狂言である。
これを、弟の則俊の主人を相手にして、東次郎の太郎冠者が、実に、軽妙洒脱でユーモアたっぷりの舞台を演出し、山本泰太郎以下東次郎家一門の立衆5人が、これをサポートする。
隣の席のお嬢さんが、けれけらと黄色い声を出して、そして、後ろの席の奥方たちも、声を出して笑い続けていた。
パンフレットには、先に逝った次男の則直が太郎冠者で、東次郎が主人の写真が掲載されていたが、東次郎は、主人より太郎冠者の方が本領発揮だろうと思う。
この祇園会の山と鉾だが、中世には町衆の祭りで、各町が競って趣向を凝らしたようだが、その後、飾り物が固定されて、この話に出て来る鯉の滝登りは鯉山に、五条の橋の千人切りは橋弁慶山に固定されている。
学生の頃、祇園祭に出かけて、室町の老舗の飾りつけなど、興味深く見て回った記憶があるが、とにかく、無性に暑かったのを覚えている。
この日の舞台は、他に、
三宅右近の太郎冠者、三宅近成の主で、留守中に抜け出して遊ぶ太郎冠者を、見張るために杭に化ける主の噺である「杭か人か」。
茂山あきらが鬼になって、茂山逸平が美女である女になって、繰り広げる継子を間にした恋物語である「鬼の継子」。
あの人気者の逸平が、女形の女になって綺麗な衣装を着けて赤子を抱いて登場し、中々、コミカルな舞台を務めていて面白かった。
前に、この国立能楽堂で、 大藏吉次郎が、太郎冠者を演じた「籤罪人」が印象に残っていて、面白かった。
この話は、
祇園会の祭と山車の当番になった主人(山本則俊)が、町内の人々を集めて出し物を何にするのか相談をしたところ、色々の案が出るのだが、その度毎に、脇に控えている太郎冠者がダメだとしゃしゃり出て口をはさむ。太郎冠者の考えを聞くことになって聞いてみると、それは、地獄に落ちた罪人を鬼が責めるところを披露するという出し物で、面白いとこれに決まる。誰がどの役を担当するか、鬮で決めることとなり、鬼は太郎冠者、罪人は主人に決まってしまう。さっそく稽古が始まり、鬼になった太郎冠者は,亡者の役に当たった主人を稽古に託けて打ち据えようとするのだが主人の手前、恐る恐る手加減せざるを得ない。主人が睨みつけるのでやり難いとの太郎冠者の申し出で、面をつけて真面な装束になって稽古をやることとなり、太郎冠者は、面を被ったことを幸いに、日頃のうっぷん晴らしに、本当に主人を打ち据える。と言う面白い主客逆転劇である。
太郎冠者は、主人の雇い人なので、この催しの当事者ではないから、寄合でも正式の参加者ではない。
実際にも、橋掛りの狂言座に待機しているのだが、皆の出し物の提案が、これまで他の町内でやったものばかりなので、その度毎に、「言わずばなるまい」としゃしゃり出てダメ出しをして、主人に叱られ、また狂言座に退散する。
結局、良い案が出ないので、それでは、太郎冠者にと言うことで、お鉢が太郎冠者に廻って来て、その案が採用され、
また、用意した籤が一本余ったので、良いからと言うことで太郎冠者が引くことになって、鬼が当たったので、仲間に加わることになる。
主人は、籤が嫌で、籤を開くのを拒否していたのだが、仲間に代わりに開けられて、罪人に決まると渋い顔。
最初から最後まで、主人面を貫こうと居丈高に振舞う主人と知恵のまわる太郎冠者との主従の関係の可笑しみが滲み出ていて、実に、興味深い狂言である。
これを、弟の則俊の主人を相手にして、東次郎の太郎冠者が、実に、軽妙洒脱でユーモアたっぷりの舞台を演出し、山本泰太郎以下東次郎家一門の立衆5人が、これをサポートする。
隣の席のお嬢さんが、けれけらと黄色い声を出して、そして、後ろの席の奥方たちも、声を出して笑い続けていた。
パンフレットには、先に逝った次男の則直が太郎冠者で、東次郎が主人の写真が掲載されていたが、東次郎は、主人より太郎冠者の方が本領発揮だろうと思う。
この祇園会の山と鉾だが、中世には町衆の祭りで、各町が競って趣向を凝らしたようだが、その後、飾り物が固定されて、この話に出て来る鯉の滝登りは鯉山に、五条の橋の千人切りは橋弁慶山に固定されている。
学生の頃、祇園祭に出かけて、室町の老舗の飾りつけなど、興味深く見て回った記憶があるが、とにかく、無性に暑かったのを覚えている。
この日の舞台は、他に、
三宅右近の太郎冠者、三宅近成の主で、留守中に抜け出して遊ぶ太郎冠者を、見張るために杭に化ける主の噺である「杭か人か」。
茂山あきらが鬼になって、茂山逸平が美女である女になって、繰り広げる継子を間にした恋物語である「鬼の継子」。
あの人気者の逸平が、女形の女になって綺麗な衣装を着けて赤子を抱いて登場し、中々、コミカルな舞台を務めていて面白かった。