熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

新型コロナウイルス、撲滅か経済再開か

2020年05月13日 | 政治・経済・社会
   NYTの電子版の記事、
   Coronavirus Live Updates: Americans Are on the Move, Even as New Warnings Sound
   Millions more U.S. residents left their homes this week, according to a Times analysis. The stay-at-home order in L.A. could last into July. Dr. Anthony Fauci said reopening too soon risked a new runaway outbreak.Right NowMore than 1.3 million people in the United States have been infected with the coronavirus and at least 82,300 have died, according to a New York Times database.

   米国立アレルギー感染症研究所・ファウチ所長が、アメリカの新型コロナウイルス対策を指導する専門家が議会で証言し、アメリカ国内で進む経済活動の再開に向けた性急な動きに警鐘を鳴らした。「一部の感染者の増加が爆発的に広がっていくことを懸念している。新たな感染者が2週間にわたって減少することなど経済を再開するためのホワイトハウスの指針に従わないと深刻な結果になる恐れがある」と警告したにも拘わらず、実際には、再開した州や近く再開する州の多くで感染者が増加するなど再開の条件を満たしていないと報じられている。再発防止のために拙速な経済活動の再開にファウチ氏は専門家の立場で反対し、早期に経済の再開を積極的に推し進めて大統領戦を有利に展開したいトランプ大統領とのずれが浮き彫りになったところだが、歴史の重要な帰路で、非常に難しい問題である。
   アメリカの感染者は、130万人、死者8万人以上と言うから、まさに、中世のペスト危機を彷彿とさせる深刻なパンデミックである。

   この新型コロナウイルス押さえ込みに対して、ロックダウンやStay-at-home規制を継続するか、これを解いて、経済活動を再開するかの問題は、世界中の国々が直面している危機的な政策課題であり、先進国では、多少先が見えてきたが、
   問題は、経済的に脆弱な新興国や発展途上国などでは、殆ど、選択の余地なく、新型コロナウイルス危機の進行覚悟で、経済活動を優先せざるを得ない状態に追い込まれている。ことである。
   ロシアで12日、新型コロナウイルスの感染者数が23万2000人を超え、アメリカに次いで世界で2番目に多くなって、1日に1万人以上増加するという進行途上にありながら、プーチン氏は11日のテレビ演説で、6週間続いた「不就労期間」を終了すると発表し、市民は翌12日朝から仕事に戻り始めた。と言う。
   ロシアの生命線である石油と天然ガス価格の壊滅的な価格ダウン下での国家財政の危機と国民生活の窮乏が、国民生活の危機意識を誘発して抑えが効かないのであろう。
   南アフリカでは、ロックダウンで生活の糧を絶たれた貧困層が暴動略奪に走り、政府は、ロックダウンを解かざるを得なくなったとNHKは報じていたし、
   インドでも、 新型コロナ感染の拡大が続くにも拘わらず、長引く外出制限によって経済への打撃も深刻化しているとして、外出制限を一定程度緩和し始めている。
   コロナは怖いが、日々の生活の糧を稼がなければ生きて行けないと言う切羽詰まった選択、背に腹は代えられないと言うことである。

   ブラジルでは、12日報告の新型コロナウイルス感染症による1日当たりの死者数が過去最多の881人となり、感染者数は17万7589人とこの2週間で2倍余りに拡大し、累計の死者数は1万2400人。
   しかし、ボルソナロ大統領 が、「新型コロナウイルスは、軽いインフルエンザか、ただの風邪程度だ。マスコミは、各国の事例を最大限に言いはやし恐怖をあおっている」 と豪語し、
   記者に、新型コロナ死者5000人を超えたと言われて、「だから何だ? すまん、私にどうしろと言うのだ?」
   これまで一度も、病院を訪問したり、新型コロナウイルスの犠牲者や遺族、人工呼吸器や病床不足を訴える医療従事者らに対する連帯を示したりしたことはなく、経済恐慌を防ぐため人々に仕事へ行くよう勧めてきた。と言うから、これは論外である。
   私は、大分前だが、ブラジルに4年間住んでいて良く知っているのだが、
   ブラジルでは、貧しい人たちの住むスラム街「ファベーラ」が多くあって、公営の水道を利用できないほどの劣悪な衛生状態のため感染が拡大しており、それぞれの地域を掌握している犯罪組織さえも、住民に対して外出しないように呼び掛けるなど予防措置を取る事態になっている。と言うから、ブラジルで、コロナウイルス危機を終息させるのは至難の業だと思っている。
   

   これは、南アでもインドでも、アジアやアフリカ、中年米の貧しい国々でも同じことであろうし、ひとたび、新型コロナウイルス騒ぎが発生すると、国家財政にも国民にも、経済的余裕などあるはずがなく、どうするのか、豊かな先進国でさえ、国運をかけて必死に対処しても苦渋に呻吟しているのであるから、これから、もっともっと深刻なグローバル危機が勃発するかも知れない。
   現実にも、コロナを押さえ込んだと言われた優等生シンガポールでも、劣悪な環境で生活する外人労働者でコロナが再発して、盲点を突かれて苦しんでいる。
   これが、先進国と貧困国の同居するグローバル世界の現況であり、
   欧米や日本で、いくら、新型コロナウイルス押さえ込みに成功しても、
   既に、グローバリゼーションで世界は一つ、新型コロナウイルス騒ぎは、長期戦とならざるを得ない。

   そうである以上、日本政府の対応は、遅いし規模が不十分であり過ぎる。
   政府の政策で、経済活動をストップさせたのであるから、この被害を受けた人々に対しては、十分な保障とサポートがあってしかるべきで、今のような、一回限りの少額給付で乗り切れるはずがない。
   国民は、あまりにも大人しいので、それを良いことにして、政争に明け暮れているが、とにかく、国が傾くほど、大盤振る舞いをしてでも、困窮する人々を救うべきである。
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山田庄一著「上方芸能 今昔がたり――昭和の舞台覚え書き」

2020年05月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のBOOKデータベースによると、
   「戦前の大阪・船場に生まれ、幼い頃から芝居通い。舞台の世界にどっぷり浸かって見て聞いて、戦後の上方芸能の危機にはジャンルを超えて多くの演者を結束し立ち向かい、後には国立劇場理事・演出家として、自ら舞台を創る立場となった著者。歌舞伎・文楽をはじめ上方芸能の生き字引である著者が、来し方八十年超の波瀾万丈の道のりと戦前から現代までの芸能の変遷を、名舞台の思い出や、名立たる豪華な顔ぶれとの楽しく親しい交遊のエピソードを織り交ぜて語り尽くす。」
   確かに、その通りだが、上方芸能 今昔がたりと言うことで、昭和の舞台覚え書きであるから、後期高齢者の、そして、歌舞伎や文楽に25年ほども通っている私に取ってさえも、書かれていることが、随分古すぎると言うのは当然かも知れない。
   興味を感じはめたのは、第3章の終戦直後からの戦後の芸能くらいからであって、また、多少自分自身が観劇経験のある記述の最後の2章で、少し、接点を感じたと言うのが正直なところである。
   
   第一章の「道頓堀と芝居小屋」は、安土町にあった呉服屋の実家水落家の生活や周りの芝居小屋風物など、古き良き時代の情緒を活写しており、第二章の「決戦下の顔見世」で、戦中の上方歌舞伎の盛衰などを語っていて、資料価値は、非常に高い感じである。

   さて、私は、読書中に興味を持ったところに付箋を貼っているのだが、真っ先の付箋は、武智歌舞伎の幕開けで、扇雀(現在の藤十郎)についての話。
   びっくりしたのは扇雀の脱皮。藤の方ももう一役のお染も、これがほんの少し前まで「扇雀に台詞を言わせるな」と、父鴈治郎の人形遣いに助けられて「狐火」の人形振りを見せていたのと同じ役者かと思うほどイキの積んだ台詞と動き、お染では莚蔵の久松を相手に溢れるような色気、とにかく醜い毛虫が一瞬にして美しい蝶に変ったような印象を受けた。と言う。
   私の履歴書で、藤十郎は、武智からの薫陶を語っているが、今や歌舞伎界の最長老の偉大な人間国宝でも、そんな時代があったのかと思うと興味深い。

   もう一つの武智で面白いのは、依頼されて書いた武智能「夕鶴」、
   つうが片山幽雪、与ひょうが千之丞、惣どと運づが野村萬と万作という信じられないようなキャスティングだが、シャックリが止まらなくて東京の新橋演舞場の公演に行けなかったという話。

   流石に上方で、主導して手がけたという、二条城で開催した「京都文華典」や大阪テレビ開局記念事業などの、ジャンルを超えた芸術文化を糾合した事業など異彩を放っており、極めつきは、雑誌「上方風流」発刊に集まった同人たちの豪華さで、能狂言、文楽、歌舞伎演劇、落語漫才、舞踊、評論に亘っており、如何に奥深い話題が、会を沸騰させていたのか、考えるだけでも恐ろしいくらいである。文楽など、人間国宝5人の参加で、宴会写真に、住大夫や簔助や文雀が、藤十郎や米朝たちと並んで、ニコニコして写っている。
   同人が集まって催した「上方風流まつり」の模様が、藤山寛美の定九郞やおつるの写真も添えて、抱腹絶倒「滑稽俄安宅新関」など、克明に描かれており、どんなに凄かったか。
   ジャンルを超えて日本の古典芸能の役者や演者が自由に交流できる場が作り出せたというのは、上方気質や文化風土のなせる世界であろう。

   興味深かったのは、シェイクスピアの「テンペスト」の文楽版「天変斯止嵐后晴」を、ロンドンでの日英協会百周年の公演のために書いたようだが、文楽協会の準備が間に合わなかったために取りやめられた話。
   このとき、丁度、ロンドンに駐在していて、歌舞伎の「ハムレット 葉 武 列 土 倭 錦 絵」、狂言の「ファルスタッフ 法螺侍」、を観たのだが、シェイクスピアのジャパニーズ・バージョンであったので、文楽もその意向であったのであろう。
   私は、会社名で、1日、幸四郎主演の「ハムレット」を後援して、公演の後、レセプションを開いてお世話になった方々をお招きしたのだが、良い思い出になった。
   結局、文楽は「曽根崎心中」になって、住大夫、玉男、文雀の出演で、大成功して、招いたイギリス人夫妻たちも、大喜びであった。

   その文楽の「天変斯止嵐后晴」だが、その後、日本に帰ってきてから、国立劇場で観て、非常に感激して、このブログにも書いている。
   ロンドンに居た時、ロンドンのバービカン劇場とストラトフォード・アポン・エイヴォンのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台に通い詰めていたので、私にとっては、シェイクスピアを日本の古典芸能で楽しめるのなど、二重の喜びなのである。

   さて、著者は、国立劇場の開場にあたり創立メンバーであり、国立劇場理事として国立文楽劇場を担当し、国立能楽堂主幹をも務めたというから、日本古典芸能については生き字引のような存在で、その上、米朝に、「大阪の古いことは何でも彼に聞きなはれ」と言わしめるほど、大阪、上方通。
   国立劇場には、歌舞伎も文楽も落語も能狂言も、随分通っているので、裏話を聞いたようで面白かった。
   とにかく、ドナルド・キーンの話まで出てくる興味深い本である。
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わが庭・・・イングリッシュ・ローズ咲く

2020年05月11日 | わが庭の歳時記
   わが庭のバラが、咲き始めた。
   今年は、冬の剪定から注意して育ててきたので、病虫害の被害も少なく、綺麗に咲き始めた。
   イングリッシュ・ローズで最初に咲き始めたのが、モリニュー。
   花心はやや濃くて、外辺に行くほど淡くなる鮮烈な黄色のバラである。 
   
   
   
   
   
   

   もう一つの黄色いイングリッシュ・ローズは、ザ・ポエッツ・ワイフ、オースティンでも新しいバラである。
   垣根越しにピンクのイモカタバミをバックに咲いている。
   
   
   
   
   
   

   何故か、沢山育てながら、殆ど枯らせてしまったイングリッシュ・ローズで、黄色系統のバラばかりが残っている感じだが、もう一つは、赤みがかったオレンジ色のレディ・オブ・シャーロット。
   
   
   
   
   

   赤系統のイングリッシュ・ローズは、ベンジャミン・ブリテン、イギリスの数少ない偉大な作曲家の名前である。
   カップがかったロゼット咲きだが、開花状況によって姿を変える。
   
   
   
   
   
   HTは、ウェディング ベルズであろうか、
   タグがなくなってしまって分からないのだが、淡い紫がかったほんわかとした雰囲気が良い。
   
   
   
   

   アヤメが咲き出した。
   イモカタバミが、芝桜のように、庭や垣根外の小川への斜面に咲き乱れている。
   昼咲き月見草が庭一面に広がって涼風に揺れている。
   ウグイスが鳴き続けていて、ガビチョウ(画眉鳥)が唱和する。
   
   
   
   
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スティーブン・ピンカー著「21世紀の啓蒙 下: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 」(4)

2020年05月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ピンカーのこの本の要旨は、
   人類の進歩の主な原動力となったのは、理性、科学、ヒューマニズムという非政治的な理念であって、これらが知識の追及と利用に向かわせたからこそ人類は繁栄できたと言うことで、第一部で、それを展開してきた啓蒙主義を説明し、第二部で、その成果を論じて、我々が、史上最良の時期に生きていることを説いて、
   第三部で、ポピュリストや宗教原理主義者や、今や知的文化の主流までもが啓蒙思想の敵になって居るとして、理性、科学、ヒューマニズムの視点から論破して啓蒙主義の擁護論を展開している。
   理性については、右も左も知性を欠いた議論に終始しており、特に、政治的論争は酷くて、理性を失わずに議論するにはどうあるべきか、その方法を説いている。人々が最も繁栄するのは、市民規範、権利の保障、自由市場、社会保障、節度のある規制などを兼ね備えた自由民主主義の元においてだと当たり前のことを述べているのだが、理性を妨害していると政治と大学の二極化・偏向を痛烈に批判している点など興味深い。
   科学については、長寿、健康、富、自由をもたらしてきたのは自明であり、宇宙の歴史や宇宙を動かす力、生命の起源や人体を動かす力、精神活動を含めた生命のメカニズムなど沢山の知見をもたらしたのだが、アメリカの政治家の科学軽視のお粗末さや大学でまかり通る科学の悪者扱いなど、小学生でも分かる科学的真理が、無視されている現実の恐ろしさなど、卑近な例も多くびっくりする。

   これらについては、ユヴァル・ノア・ハラリが、一寸違った視点から、宗教否定的な世界観を論じていて参考になるので、記しておきたい。
   「サピエンス全史」で、7万年前、ホモ・サピエンスは、まだ、アフリカの片隅で生きて行くのに精一杯の、取るに足らない動物だったが、その後年月を経て、科学とテクノロジーの力によって、地球全体の主となり、生態系を脅かすに至り、今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。と説き、
   更に、「ホモ・デウス」で、新しい時代の科学やテクノロジーの知識や現実から遊離してしまった宗教は、投げかけられた疑問を理解する力さえ失ったと、トランプ支持の福音派キリスト教徒やイスラム原理主義者たちの宗教原理のみならず、科学とテクノロジーの発展進歩によって、高等宗教の教義を次から次への論破して行った人知経験万能の人間至上主義の勝利を説く。
   しかし、比類のない能力と機会を享受している人間だが、無知で堕落しやすい生き物であり、何かの指導と監督がなければ、永遠の真理を理解できず、はかない官能的な快楽と現世の妄想に惹きつけられる弱い生き物でもあり、それに、死んで行く。したがって、絶対的な真理と人生の森羅万象の意味は、超人的な源から生じる永遠の法に基づいていなければならないとして、その限界を語っているところが興味深い。
   この点については、ピンカーは、啓蒙思想の限界については触れて居らず、ハラリが問題としていた「絶対的な真理と人生の森羅万象の意味は、超人的な源から生じる永遠の法」が、人類にとって重要なことだとすれば、啓蒙主義を推し進めることによって到達できるのかどうか。

   ところで、ピンカーが、最後に論じたのは、「ヒューマニズムを改めて擁護する」。
   ヒューマニズムを否定する代表として、「有神論的道徳」と「ロマン主義的ヒロイズム」を痛烈に批判している。
   
   有神論的道徳には、致命的な欠陥が二つあるとして、
   第一に、神の存在を信じるべき尤もな理由がない。
   第二に、たとえ神が居たとしても、宗教を介して告げられるその神意は、我々の道徳規範になり得ない。
   旧約聖書の神は、何百万人もの無辜の民を殺し、古代イスラム人に集団強姦や虐殺を命じた。神への冒涜、偶像崇拝、同性愛、姦通、親への口答え、安息日の労働には死罪を宣告しながら、奴隷制、強姦、手足の切断、虐殺を特に悪としなかった。いずれも、青銅器・鉄器時代に普通に行われていたことで、今日では、良識ある信者は、神の命令から人道的なものだけを選び出して、そうでないものは寓話的に解釈したり修正したり、無視したりして、啓蒙的ヒューマニズムのレンズを通して聖書を読んでいる。と言う。
   キリスト教には知識がないので何とも言えないが、科学の進歩やヒューマニズム思想の発展によって、宗教的な思想や原理が、少しずつ退行していって、ハラリが言うように、人間が神の座におさまろうとする神格化論が飛出すのであろう。
   省略するが、ピンカーは、イスラム教論まで展開していて、宗教故にイスラム諸国が停滞するのだと論じていて興味深い。

   「ロマン主義的ヒロイズム」は、ニーチェの思想批判。
   人生で重要なのは、善悪を超越して、意思を力に変え、英雄的栄光を手にする「超人」になることで、そのようなヒロイズムによってのみ、種の可能性を引き出し、人類を存在の高みへ押し上げることが出来ると言う思想で、この思想に感化されて、ヒトラーやスターリンなどの独裁者を啓蒙し支持した多くの偉大な(?)思想家や作家、学者を列記していて、ニーチェの思想がそれ程影響力が強くて危険であったのかを知らなくて、自分の無知を恥じている。
   このニーチェの超人思想、「他に秀でて強い個々の人間種」が、部族、人種、国家のことだと解釈されて、ナチズム、ファッシズム、その他の「ロマン主義的ナショナリズム」に取り込まれて行って今日に繋がっており、バノンの影響を受けたトランピニズムの「権威主義的ポピュリズム」を理解するためには、ニーチェの影響を受けた二つのイデオロギー、ファシズムと反動主義(テオコンサバティズム)に目を向けなければならないという。
   「ネオ=テオ=反動=ポピュリズム的ナショナリズム」と言うことだが、その思想基盤は、論理的に破綻しているという。
   これが、現今のアメリカだと思うと恐ろしくなってくる。

   啓蒙主義的ヒューマニズム擁護のために如何に戦うか、とにかく、博学多識、欧米の学者の途轍もない知識欲のなせる技だが、久しぶりに、問題意識を持って取り組んだ大著であった。
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宅配:受領印・サインの省略および非対面での荷物の受け渡し

2020年05月09日 | 政治・経済・社会
   新型コロナウイルスの影響であろうか、ヤマト運輸などの宅配の受け渡しに変化が起きた。
   ピンポンと呼び出しチャイムが鳴ると、「玄関脇に置いておいてください」と応えている。
   荷物は、どうしても、ヤマト運輸が多いのだが、
   [1] 受領印・サインの省略について
   [2] ご自宅での非対面でのお受け取り
   弊社 セールスドライバーがご自宅にお伺いした際、インターホン等でご希望をお知らせください。お客さまからのご希望に基づき、ご自宅の玄関前等のご指定いただいた箇所へのお届けを行います。
   と言うことなので、煩わしさが、一気に解消して便利である。

   玄関脇などで、盗難が頻発しているというのだが、我が家の場合には、門扉を開いて、数メートルアプローチがあって玄関があるので、心配することはない。
   ハンコ文化の日本で、シャチハタながら、随分煩わしかったし、サインになっても、手間取って嫌だった。
   普通郵便でさえ殆ど問題なく届く国であるから、普通の宅配の品物であれば、日本の場合殆ど配送に間違いはないのであろう。
   それよりも、宅配を装った犯罪の方が心配で、昔、イギリスに居たとき、東京で学生生活を送っていた長女など、宅配を殆ど拒否していたほどで、玄関脇での非対面の受け渡しであれば、そんな心配もなかろう。

   ネットショッピングは、アマゾンが多いのだが、発送については、五月蠅いほど、インターネットでメールが入り、マイページの注文履歴の、「配送状況の確認」をクリックすれば、商品が、今、何処にあって何時つくかが克明に分かる。そして、配送番号を打てば、ヤマトや佐川のもっと克明な発送状況が分かる。
   一度だけ、マーケットプレイスで買った商品が宙に浮いて、お荷物の状況を確認できません  申し訳ありません。お客様のお荷物の配送が遅延しています  最新の配送状況は配送業者にてご確認ください  と、2ヶ月経っても、いまだに、表示されているのだが、これは誤差範囲であろうか。

   ところで、楽天がもめていたが、やはり、送料に神経質にならざるを得ない。
   アマゾンの場合、プライム会員になれば、すべて送料が無料になるが、Prime VideoやPrime ReadingやPrime Musicなどに興味がないので、無駄だと思って入って居らず、2000円以上の買い物で、送料をゼロにしている。
   発送時期が違っていても、注文時に、2000円以上であれば良いので、助かっている。
   別に、アマゾン贔屓でもアマゾンファンでもないが、同じ商品を、最安値でなくても殆ど最安値圏で販売しており、殆ど問題なくスムーズに調達できるので、アマゾン依存が強くなってくる。
   とにかく、個々の商店でも、自社でネット販売を行っているのだが、どうしても、送料が高くて、無料にするためには、1万円以上などとハードルが高く、商品の倍くらいのコストがかかる。

   誰も、何も言わなかったようだが、Stay Home 外出規制で、政府が、リアルショップに行かずにネットショッピングに切り替えるようにと広報していたが、この傾向が定着してしまうと、実店舗の苦境が、益々深刻化すると分かっての指針であったのであろうか。
   間違いなしに、ネットショッピングに慣れて利便性を知った国民は、実店舗に行かずに商品を調達する傾向が強くなるはずである。
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Stay Homeだが、久しぶりに大船のスーパーへ

2020年05月08日 | 生活随想・趣味
   殆ど2ヶ月以上も、コロナのために、Stay Homeであったが、バスに乗って大船へ出て、スーパーへ行った。
   朝食は、この数年、これと決めていて、常備薬のように、丁寧に反芻しているので、その材料が必要となるのである。

   何時の頃からか、朝食は、パン食にしていて、それもレーズンパンで、以前には、近所に良いパン屋さんがあって、定期的に通っていたのだが、その後、パナソニックのパン焼き器を買って、自分で焼いていた。
   ところが、鎌倉へ移転してから大船経由で東京に通っているので、偶々、成城石井の店舗で、イギリスそっくりのスコーンを見つけて、懐かしくなって、レーズンパンを、このスコーンに変えたのである。
   最初は、イギリス流のプレーンのスコーンであったが、色々試みている内に、この口絵写真の「チョコと胡桃のスコーン」が気に入って、ずっとこれを続けている。
   スコーンを売っているパン屋や食品店が少なくて、あっても、形や食感などが違っていて、好みに合わず、私には、石井のスコーンでないとダメなのである。

   スコーンの正式な食べ方は、友人の母堂伯爵夫人に教わったのだが、スコーンをナイフで横から真っ二つに輪切りにして、まず、下側の表面にクロッテドクリームを塗って、その上にジャムをのせて、上からもう一方のスコーンを被せてサンドイッチ状にして少し押さえて出来上がり。
   クロッテドクリームは、 「中沢クロテッド 」で、ジャムは、ブルーベリー・ジャム。
   もう一つのコダワリは、コーヒーで、昔は、ブルーマウンテンに拘ったが、この頃は、あまり気にせず、適当なコーヒーを選んで、メリタのコーヒーメーカーで煎れている。
   ここで我流だが、大ぶりのマグカップに、オレゴンのブルーベリーシロップ漬け の固形の生ブルーベリーをたっぷりと入れ、そこへ、牛乳を少し加えて、コーヒーを注ぐ。
   これが、私の朝食用のコーヒーで、スコーンを食べながらこれをすする、この定番の朝食を毎朝続けている。
   ブルーベリーは、目の健康、視力を保つために良いと言うことで、随分前から、食しており、その御陰か、高校時代から眼鏡はかけているけれど、読書にも観劇にも十分で、目には不自由をしていない。
   食習慣として良いのか悪いのか分からないのだが、いずれにしろ、最近は、この朝食習慣を守って居るのである。
   
   ところで、今日、大船まで出掛けていったのは、これらの材料を調達するためだが、勿論、これまで、外出を自粛していたので、インターネットや店からの発送で間に合わせていた。
   しかし、インターネットだと、商品を商品毎に分散して買わなければならないし、店舗からの送付だと、送料や代引き手数料など結構コストがかかるうえに、思うように買えない。
   それなら、久しぶりに、バスも殆ど乗客が乗っていないし、スーパーへ入るだけだから、そんなに心配しなくても良いだろうと思って出かけたのである。

   ただし、目的は果たしたのだが、Stay Homeと、
   家族には、こっぴどく叱責を受けた。
   スコーンは、賞味期限が短いので、当分は、ネットか電話配送に頼るより仕方なさそうである。

   余談だが、ゴールデンウィーク明けの平日と言うことで、大船駅前のショッピング街も、銀行など開いている店舗も、その混み具合、賑やかさは、新型コロナウイルス騒ぎ以前の状態と全く変っていなかった。
   既に、Stay Home解禁の雰囲気である。
   他のスーパーも、レジのビニール衝立とステップ表示はあっても、店内は通常通りのニアミス状態。
   京急バスは、運転手保護のためか、運転席すぐ後ろの両脇の座席だけ封印して、他は、何の防御もなし。どんな会社の神経か?

   政府のお願いが何であろうと、世の名は、そういうものである。
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子供の日、ケーキ屋さんは3密

2020年05月07日 | 生活随想・趣味
   子供の日、近所のケーキ屋さんに、予約をしておいた孫息子の端午の節句のお祝いのケーキを受け取りに行ったら、バス道路にまではみ出す長い列が出来ていた。
   2メートルのソーシャル・ディスタンスを取るための空間のある所為もあったのだが、それにしても、いつもより混んでいたので、休校になって家に居る子供たちを慮っての親心の発露であろう。
   ただし、ショッピングには団体で出かけないでくださいとのお触れにも拘わらず、結構、小さな子供連れの客が多いのは、特に、3密の意識などなく、日頃と同じケーキ屋さんへ行くという感覚なのであろうと思う。

   我々子供の頃は、まだ、戦後のどさくさとその流れで、生活するのがやっとと言うことで、正月や誕生日くらいは、親に祝って貰ったことがあったとしても、成長の節々でお祝いなどのムードからほど遠い生活をしていたのだが、多少、生活にゆとりが出てきた所為もあって、娘たちや孫たちには、何かと理屈を付けてお祝いをすることが多くなってきた。
   幸い、ほんの徒歩の距離に良いケーキ屋さんがあるので、何かというとこの店に行って、ケーキを買って、孫たちを喜ばせている。

   さて、最近の傾向だが、日本人は、季節のケジメというか、記念日などと言った行事には、殆ど無関心になってきたと感じている。
   クリスマスやバレンタインなどとなると商業的プロパガンダに煽られて、結構、浮かれて派手に対応するのだが、日本の伝統行事については、無関心というか殆ど意識にないようになったと思う。

   これは、私自身もやったことがないので偉そうなことは言えないが、国民の祭日に国旗を掲揚しないことである。
   5月5日は祭日だが、私の町内を歩いてケーキ屋さんに行くまでに、門口に国旗が立っていたのは、一軒だけであった。
   ほかの旗日でも、国旗が掲揚される家など皆無に近い。
   余談だが、端午の節句は、男の子の祝日で、昔は、鯉のぼりが空に泳いでいたと思うのだが、これもこの頃殆どなく、近所では、我が家だけであった。

   もう一つ気になったのは、正月の松飾りである。
   これも、私の家は、最近は極めてシンプルになって、裸の松を二本、門扉の両側に括り付けるだけだけれど、これを松飾りとしている。
   しかし、今春、元旦に町内を歩いたときには、ほぼ、半分の家の門扉には、どんな形の正月飾りもなかった。
   これは、鎌倉山の西麓の典型的な都市型住宅街の話で、地方に行けばどうかは分からないが、一つの最近の世相の反映であると思う。

   正月は、鏡餅や雑煮は、準備するとしても、我が家など、最近では、本格的なお節料理には殆ど縁がなくなってしまって、すき焼きパーティや、ビーフステーキや寿司で宴会をしている。
   海外に長かった所為もあって、年末年始は、家族旅行に出かけていて、欧米では、正月を祝う習慣もないので、別に気にもならなかたので、その延長でもある。

   ガーデニングをしているので、庭の花木や草花が、季節の移ろいに微妙に変化する姿を見せてくれているので、季節感には敏感にならざるを得ないのだが、やはり、生活の場でも、ヨーロッパの祈祷書の歳時記ではないが、メリハリのきいたリズムは大切にすべきだという気がしている。
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わが庭・・・シャクヤク、昼咲き月見草咲き始める

2020年05月06日 | わが庭の歳時記
   朝庭に出てみたら、昨日から一変している。
   蕾であったシャクヤクが花を開いている。
   まだ、一株だけだが、一夜で咲き始めたのである。
   ところが、雨が降り始めると、急に、開いた花を閉じ始めた。蘂を守る自己防衛であろうか。
   シャクヤクは、牡丹と違って、草花なので、か弱い茎は、風が吹くと倒れてしまうので、わが庭などでは支柱が必要となる。
   牡丹は、シャクヤクに接ぎ木するので、時には、根元から、親のシャクヤクの芽が出てきて、切り取って育てればシャクヤクの花が咲く。
   千葉の庭で、試みてみたが、シャクヤクの花に魅力がなかった。
   
   
   
   昼咲き月見草も、か弱い茎をひょうろひょろ伸ばしていたのだが、一夜で、数輪開きだした。
   何の手入れをしなくても、毎春、下草の雑草のような雰囲気で、庭のあっちこっちから咲き始めるので、重宝している。
   
   

   ユリとカンゾウの蕾がしっかりしてきた。
   
   
   
   サントリーの純あまミニトマトに、第一花房が現れて、少し色づき始めた。
   第一花房直下の脇芽がしっかりしているので、今年も、二本仕立てで育ててみようと思っている。
   トマトプランター横から、十二単が咲き出した。
   今年最後の椿、黒椿が咲いている。
   
   
   
   
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わが庭・・・イングリッシュ・ローズ色づき始める

2020年05月05日 | わが庭の歳時記
   椿の花が終わって、緑一色になったわが庭にも、初夏の息吹か、シャクヤクやユリやアジサイの花が動き出してきた。
   近所のアジサイ屋敷から、挿し木苗を貰って育てた株が、何株か蕾をつけているので、新しい花を楽しめそうである。
   
   
   

   急に、蕾が色づき始めたのは、バラで、今年は、冬の剪定から施肥など、それなりに注意して育ててきたので、殆どの鉢花は、病虫害の被害はなくて、綺麗に葉も茂っていて順調に蕾をつけている。
   イングリッシュ・ローズは、秋咲きは結構難しいのだが、春は華やかに咲いてくれるので楽しみである。
   高島屋の包装紙のようなHTの典型的な花ではなく、クラシックムードのカップ咲きやロゼット咲きなどに趣があって良いのである。
   まだ、蕾が色づいただけで、その雰囲気はないが、摘花せずに、房咲きになるのは、そのままの状態で咲かせようと思っている。
   京成バラ園で買ったオベリスク仕立てのジャスミーナは、大きくなったので、垣根越しの斜面に植えたのだが、もう、3メートル以上に伸びて四方に広がり、びっしりと蕾をつけているので、ピンクの可愛いばらを沢山咲かせてくれるのを楽しみにしている。
   大船フラワーセンターは、8月31日まで閉園なので、今年は、わが庭の花々を愛でる以外に仕方がなくなってしまった。
   
   
   
   
   開花し始めたのは、夏みかんの花。
   今年は、豊作で、100個以上の実を付けるであろうか、
   わが庭には、レモンや金柑の苗木も植えたのだが、まだ木が小さくて、数年待たないと結実は期待出来ないであろう。
   レモンは、イギリスに居たときに、紫の綺麗な小花に感激して、植えているのである。
   ミカンは、結構、早くから実を付けるのだが、静岡の隣の県であるから、問題なく花が咲き実がなるので造作はない。
   
   
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スティーブン・ピンカー著「21世紀の啓蒙 下: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 」(3)

2020年05月04日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   ピンカーのこの本は、啓蒙主義の理念である「理性、科学、ヒューマニズム、進歩」によって、人類は、かつてない程の大成功を収め繁栄を謳歌している。と言う、人類の発展の軌跡を追いながら、明るい未来を展望する、いわば、希望の書である。
   しかし、先日来レビューしているマルクス・ガブリエルによると、ピンカーの説く万事順調に行っているように見えるのとは逆で、現実はその反対で、自滅の道を歩いていると言う。
   人口過剰、原子爆弾、気候変動による自然災害など、どれをとっても、人類は実のところ自らを滅ぼすような道を歩んでいる、モダニティが人類を滅ぼす。と言うのである。
   それに、ピンカーは「世界から貧困が減っている」と言うが、これは、相対分布を見ているだけで、絶対的に見ると、下層に居る人の数が、これほど多くなったことは人類史上ない、
   産業化の歴史は、地球上で生きる人間の生命の存続可能性が破壊されて行く歴史である。とまで言うのであるから、ピンカーが最も嫌う啓蒙思想批判の最たる論客であろうか。

   尤も、ピンカーも言っているように、同じ現実・事実でも、良い方の側のデータや資料を集めて見れば良い方の未来展望が開けるし、逆に、悪い方の側から見れば悪くなるのは当然で、見る側の世界観なり哲学・思想の問題であって、平行線を辿っても不思議はない。
   しかし、ここで、考えてみたいのは、現在問題となっているポピュリズムの問題で、トランプを褒めているガブリエルと違って、ピンカーは、徹底的にトランプを糾弾していて、選挙戦の動向を振り返って、トランプの支持層を分析して、ポピュリズムを語っており、従来とは一寸違ったニュアンスの分析が興味深いのである。
   代表的な学術書に、これだけ徹底的な現職大統領批判も珍しいが、
   余談だが、ガブリエルは、トランプは、非常に有能なビジネスマンで、目を見張るほど成功した人だが、ボリス・ジョンソンは、トランプと比べると富みもないし、単なる小者で間抜けであると言っていて、ポピュリストへの対応が違っていて面白いと思った。

   さて、トランプ支持者だが、
   所得階層の下位二つの低所得者層にクリントン支持が多く、上位四つの高所得者層にトランプ支持が多く、経済外の「移民受け入れ」「テロ」を重要課題としていて、経済を最重要課題としていなかったという。
   ポピュリスト政党の支持者は、肉体労働者ではなく、「プチ・ブルジョワジー階級(’自営商人や中小事業者)」や職人の親方や技術者たちで、また、年配で、信心深く、地方に住んでいて、学歴がそれ程高くなく、白人の男性が多く、それに、権威主義的価値観を尊重し、政治的には右派を自任し、移民を嫌い、グローバル・ガバナンスや国家による統治を嫌う。
   権威主義的なポピュリズムの支持者は、経済競争の敗者ではなく、むしろ、文化的な敗者だ。と言うのである。

   もう少し具体的に言うと、現今、世界を飲み込んでいる現代化の波、グローバル化や民族多様性、女性の社会的進出、非宗教主義、都市化や教育など、文化的な進歩の潮流から取り残され、その文化的な変化を共有できずに居る、現代的な価値観に疎外感を感じた怒りに満ちた人々の反革命だと言うのである。

   ヨーロッパのポピュリズムもそうだが、彼らには進歩のことなど全く念頭にない。
   ポピュリズムが目を向けているのは過去の世界――国は民族的に単一で、文化的・宗教的価値観は伝統的なものが優勢を占め、経済は農業と製造業が盛んで、国内消費や輸出のために有形財を生産していた時代――前世紀後期半ばの黄金時代であったから、現状否定で、部族的で後ろ向きの「アメリカ・ファースト」は、格好のスローガンであったのである。

   グローバリズムとICT革命で激しく激動して、大変革を遂げた文化大革命とも言うべき第4次産業革命に阻害された人々の反乱という受け止め方だが、分かるような気もしている。
   
   さて、そうすれば、今秋のアメリカの大統領選挙はどうなるのか。
   ポピュリズム現象は変らずとも、新型コロナウイルスによるパンデミックで、壊滅的な打撃を受けたアメリカの政治経済社会環境は、一挙に激変してしまった。
   今度は、嫌でも応でも、経済が焦点にならざるを得ないであろう。
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マルクス・ガブリエル著「世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか」(2)

2020年05月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に書いたように、ガブリエルは、資本主義には悪の潜在性があるから、資本主義の矛盾を解決する「コ・イミュニズム(co-immunism 共に免責し合う主義)が必要だとして、倫理資本主義の可能性を説いている。
   最近深刻さを増している資本主義の危機について、哲学者の立場、特に、倫理哲学者の視点から、資本主義の修復を提言しているのである。

   冒頭、トヨタが、プロの倫理学者を雇って、エコカーの生産台数、車のデザイン、どの業界の株を買うか、倫理学者が、こう言った判断をやってCEOに提出すれば、資本主義は完全に変化するであろうと言っている。
   とやかく言わせずに、すべての企業に、倫理の専門家を雇わせて、その指摘がCEOの判断に影響を与えるようにして、資本主義を修正すべきで、それこそが資本主義の危機を解決する方法である。
   本当にモラリティを売っている会社があったなら、その会社は持続可能な超巨大企業になるであろうと言って、自分自身、今、ドイツの企業と協力して、そのようなモデルを確立しようとしているのだと言うのである。

   ガブリエルの「コ・イミュニズム」は、「すべての人、社会システム、グローバル社会の一員、誰もが――そこには勿論国民国家を含む――協力のモデルに基づいて動く」と言う意味だという。
   co-immunismと言う概念を作るべきだと言う提案で、この概念がないと、人口過剰、食料の不足など危機が勃発して、何億という人間が今後100年以内に大災害で死に絶えるであろうと言うのである。

   これと関連して興味深い提案は、善行からお金儲けをする「モラリティの資本主義」である。
   次に買う物が、より良き生活(better life)であるような製品、
   例えば、現在持っているよりも高級に、しかもエコロジー面で優れた車を2年ごとに自動的に買い換えることが出来る定期サービス、利益の一部が社会奉仕に向くようなエコに繋がるスマホの買い換え定期サービス、すなわち、高価だからこそ「贅沢品を買った」と誰しもに満足を与えるような、環境に配慮した定期サービスを開発して、消費者マインドを活用して購買意欲を煽って、サービスのすべてに環境保護の趣向を盛り込めば、今抱えている危機問題への抜本的な解決策になる。と言うのである。

   さて、随分以前から、国際的な治安の悪化や複雑な社会問題、深刻な環境破壊や自然資源の枯渇、格差の拡大や益々深刻化する貧困問題、先進国の慢性的財政の悪化などの経済問題等々のために、資本主義そのものが、危機に瀕しており、その元凶は、利益の追求のみを目的とする企業の事業活動にあり、社会がうまく機能していないのは企業の責任であると言う批判が一般化して、企業も、遅ればせながら、外圧に晒されて、寄付や基金によるフィランソロフィー(社会貢献活動)や、CSR(企業の社会的責任)の追及と言った形で、社会的貢献を意図しながら経営を行ってきている。
   企業の追及する経済効率と社会の進歩との間にはトレード・オフが存在するとして、政府の政策が、企業の自由な活動や競争力を低下させ経済成長を抑制するような政策を掲げざるを得ず、その結果、必然的に事業活動は弱体化して経済が悪化して悪循環に陥る危険があった。
   しかし、正面切って、2011年にHBRで、経営戦略論の権威マイケル・ポーターが、「共通価値の創造」の理論を提唱して、社会の発展と、利益の追及と言う経済発展とを両立させることで、あくまで価値(コストを越えた便益)の原則を用いて、社会と経済双方の発展を実現することが可能だとして、利益追求と社会的貢献の両面の価値創造を目指した経営を行うべきだと説いたのである。
   日本では当たり前であったステイクホールダー資本主義の重要さに、やっと気づき始めた米欧の企業が、倫理的な経営に舵を切れるかどうか、大いに疑問だが、企業の社会的責任の追及経営さえ株主への背信行為だと言って憚らなかった株主至上主義のミルトン・フリードマンを思えば、革命的な変化であることには間違いなかろう。

   このポーター説の背景にある現代資本主義の見直しや社会的ニーズを満たすべき新しいビジネスの追及については、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットなどの唱える創造的資本主義やムハマド・ユヌスのソーシャル・ビジネスなどにも現れており、ガブリエルが説いている国際経済の埒外にある悲惨なアフリカを救済するためにも、C・K・プラハラードが、ネクスト・マーケット(THE FORTUNE AT THA BOTTOM OF THE PYRAMID 2005)で展開した世界最貧困層BOPでのイノベィティブな市場の胎動を説いた理論にも注目すべきであろう。

   ガブリエルの提唱は、ゲイツやバフェットの「創造的資本主義」の考え方の方に近い感じだが、倫理学者の視点に立って経営を行うべしと言うことで、事業の如何を問わないのだが、ポーターの「共通価値の創造」経営には、もう少し積極的な資本主義体制の危機回避の意図が込められれており、経営戦略論としては非常に興味深い。
   ところで、プラトンの哲人政治のように理想的であれば良いのだが、果たして、倫理学者に、経営の指南を仰ぐような経営システムを取って、企業の経営が上手く行くのかどうか。
   社外取締役制度でさえ骨抜きになっているガバナンス状態で、果たして、プラトンの哲人政治のような理想像を描くガブリエルの資本主義の危機救済策が機能するのかどうか、
   ガブリエルの見解には全く異存はなく、興味深い論考であって、教えられることも多かったが、
   この問題は、これまで、このブログでも随分検討した課題であるのだが、やや、単純な理論であったと感じている。
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マルクス・ガブリエル著「世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか」(1)

2020年05月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   以前から注目されているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの本は、書店で気にしながらみていたものの、まだ読んでいなかったので、まず、手始めにと思って、新書の最新版を手に取った。
   「新しい実在論」とは、どう言うことか、分かって分からない感じで読み進めたのだが、ガブリエルが論じる激変する世界の5つの危機について、まず、分かりよい「資本主義の危機」につて、かなり個性的な面白い理論を展開しているので、これについて考えてみたい。

   まず、「グローバル資本主義は国家へ回帰する」という視点である。
   資本主義とは、本来、特に工業製品の生産モデルを意味し、国民国家が生まれたプロセスと産業かのプロセスは類似していて、その資本主義の危機は、国民国家が発明されたことに関係ある。
   いかなるグローバル国家にもコントロールされていない、法律上の制約のないグローバル経済は、明らかに問題であって、それが、資本主義最大の危機である。
   グローバル資本主義には、世界国家が必要であって、グローバル経済が、グローバル国民国家の存続なしに、存続し続けることは絶対にない。というのである。

   このことを、ドナルド・トランプは、よく理解していて、すぐに、グローバル国民国家の不在に気づいて、産業と国民国家は一体であること、それが事実であることを認識した。
   労働環境が異なり、どんな法律にも規制されていない状態で、それもルールなしに巨漢と渡り合う、中国やロシア、イランなどと同じグローバル経済に入れば、世界の民主主義が崩壊すると分かっていたから、非常に複雑な状況において、保護主義政策をとって、グローバルなレベルで民主主義を守った。
   かって、大恐慌から第二次世界大戦終結まで、アメリカは輸入工業品に対して世界有数の高関税をかけ、19世紀末の大不況をドイツはビスマルクの保護主義で乗り越えたように、トランプの保護主義やEUの瓦解を見るに付けても、「世界史の針は巻き戻っている」と感じる。というのである。

   国際貿易の基本的ルールさえ守らずに、アメリカを食い物にして台頭してきた中国に貿易戦争を挑んで、欧米先進国流の貿易システムに従わせようと、産業化の可能性条件としてのシステムを守るのがトランプのイデオロギーの一環であって、理にかなっている。と言う。
   長い間、中国経済の後進性を良いことに共存共栄で経済繁栄を謳歌しながら便利な資金調達国として従属させてきたはずが、強力な競合状態に至っての「アメリカ・ファースト」、
   トランプに、そんな哲学があったのかどうかは分からないが、
   ガブリエルの視点とは違うが、グローバリゼーションの功罪はともかく、はたして、現下のグローバリゼーションを否定して後退させることが良いのかどうか、経済成長を促進して新興国を生み出し貧困層を減少させたり、更に、自由貿易の歴史に果たした貢献なり利点を考えれば、前世紀の保護主義時代への回帰などと言っているような事態ではない。
   まして、Gゼロ時代でEUの崩壊さえ危惧されている国民国家への逆戻り現象が顕著となり、国際経済さえ分裂傾向になりつつある今日、世界政府なり世界連邦なり、グローバルベースの政治システムの構築など、夢の夢であろう。
   グローバリゼーションの進展で、グローバル規模に拡大した自由奔放な世界経済をコントロールするためには、世界全体を統治する国民国家のような政経一体のシステムが必須だというのが、ガブリエルの考え方だが、EUで失敗している如く、少なくとも、短期的には不可能、
   国際交流、その中でも、自由貿易が、人類社会にとって重要なら、もっと有効な国際機関を構築育成して、貿易秩序を維持できるようなシステムを創造する以外に道はなさそうである。

   尤も、ガブリエルは、この本で、「世界史の針が巻き戻るとき」と言うことで、世界をどう見るかを説いているのであって、危機意識は感じながらも、それでは、どうするのかについては、あまり踏み込んで議論はしていない。

   ところが、
   ガブリエルのもう一つの興味深い指摘は、資本主義には悪の潜在性があるから、資本主義の矛盾を解決する「コ・イミュニズム(co-immunism 共に免責し合う主義)が必要だとして、倫理資本主義の可能性を説いていて、かなり楽観的な展望を示していることで、これについては、マイケル・ポーターの「共通価値 Creating Shared Value」経営などを交えながら、次回に考えてみたいと思う。
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コロナ危機で 退学検討の大学生2割超と言う悲劇

2020年05月01日 | 政治・経済・社会
   共同が、「退学検討の大学生ら、2割超 コロナ影響より深刻に」と、次のように報じた。

   大学生らに対する新型コロナウイルス感染拡大の影響を調査する学生団体は29日、親の収入減などで退学を考えていると回答した学生が20.3%に上ったと発表した。22日に調査の中間報告を公表した際は7.8%だった。学生が経済的に学業を続けることが困難になっている状況がより鮮明になった。
   調査は学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」が、全国の大学生や短大生、大学院生らを対象に、インターネットを通じて実施。4月9~27日に回答があった1200人分の内容を集計した。
   その結果、退学について「少し考える」と答えた人は15.5%で、「大いに考える」は4.8%。

   新型コロナウイルス危機が更に悪化し継続して、経済が恐慌状態に突入すると、この学生たちの悲劇が、もっともっと深刻化する。

   新型コロナウイルス感染拡大で生活に苦しむ大学生への支援をめぐり、立憲民主党の蓮舫副代表が29日の参院予算委員会で持続化給付金の対象に大学生も入れるべきと主張。「バイトだけで生活をしている学生がバイトを切られて、家賃が払えなくて、奨学金負担があって、そして帰省するなと言われて、家もなくなるかもしれない不安で、このままだと大学やめなきゃいけないというのが13人に1人。フリーランス等の枠に学生を入れてあげればいいじゃないですか」「生活が成り立たない、学校やめたら高卒になる、就職どうなるか、奨学金返せない、その不安の声にどうして応えられないんですか」などと発言したとして、SNS上では「高卒をバカに」「学歴差別だ」などの批判を浴びたという。
   蓮舫氏は、「勉強して、頑張って、奨学金も借りて大学に入って、学費、生活を払えなくて、下手したら自己破産だ」と述べ、「大学をやめた場合、次の人生設計を高卒というスタートでどうやってやっていけるのか。人生設計そのものを変えないといけなくなるという意味で聞いた」と説明。「高卒を馬鹿にしている」との批判については「全く違う」と否定したという。
   差別発言はともかく、今起こっている学生の困窮状況や問題意識については、異論の余地のない現実だと思われるので、日本の将来に禍根を残さないためにも、国民こぞっての対策と支援が必要であろう。

   アメリカでは、これとは次元が違うが、大学の教育費の増加が学生の将来をも圧迫しており、サンダース上院議員が、民主党指名争いの時に、費用は金融取引への課税で賄う計画で、米国のGDPの約8%に匹敵し住宅ローン債務に次いで額の大きい学生ローン債務総額1兆6千億ドル(約171兆円)に上る米国の学生ローン債務を全額免除する法案を発表したことがある。
   また、ニューヨーク州のクオモ知事(民主党)は3日、同州に住む中・低所得の世帯に対して州内の公立大学(公立2年制大学(コミュニティー・カレッジ)や州立大学、ニューヨーク市立大学)の授業料を無料にする計画を発表した。
   いずれにしろ、アメリカの場合には、日本より遙かに学歴社会で、キャリアーを上るためには、教育は必須の要件であるのだろうが、アメリカの若者は、平時でも、膨大な教育費の圧迫に苦しみ続けており、更に、就職がままなければ人生を棒に振ることになり、深刻な社会問題となっている。

   私が、大学生活を送ったのは、もう半世紀以上も前。
   確か、授業料4500円だったと思うが、払えなくて督促状を貰う学生が結構いた。
   当時の地方紙で、「京大の校庭にはぼろ自転車ばかりだが、同志社の校庭には自家用車が並んでいる」と写真入りで報道されていたほどで、国公立の大学の学生は、殆ど皆経済的には余裕がなくて自活していて、少なくとも京大では、地方から来た貧しい貧乏学生なども結構多くて、アルバイトに明け暮れていたように思う。
   家庭教師が主なアルバイトだが、祭りの行列の仮装に出たりと京都独特のアルバイトがあったり、京都の伝統的な土地柄もあって学生には温かかった。
   いずれにしろ、功成り名を遂げた友人たちの多くが、大げさに言えば、日々の生活に四苦八苦しながら貧しい学生生活を送っていたのを知っており、苦学生が普通であった時代が、いつの間にか、東大に入れるのは父が上場企業の部長以上と言った状態になり、教育は金の勝負となってしまったことを嘆かわしく思っている。
   私の場合には、家庭教師のアルバイトと遅ればせながら貰った奨学金とで、どうにか、学生生活を終えた。

   大学院は、幸い、企業からの派遣留学生として、生活費も含めて、企業持ちであったので、負んぶに抱っこで、幸運としか言い様がない良い経験をさせて貰った。
   トランプ大統領の母校であるペンシルバニア大学のウォートン・スクールであるから、授業料など推して知るべしなのだが、アメリカの知人は、妻が働いて学資を助けており卒業すると妻を代わりに入学させるのだと言っていたが、アメリカ人の場合、あの映画「ある愛の詩」のように、親が学資などをサポートするケースは少なく、独力で道を切り開く以外にない。
   MBAと言う性格もあるが、ある程度のキャリアを積んで資金を貯めて、入学している者もかなり居て、とにかく、成績次第で将来が決まってしまう激烈な勉強との戦いの日々であったから、アメリカ人と雖も昼夜勉強勉強で、日本の大学生のようなアルバイトの余裕などあるはずがなかったし、苦学生らしき学生はいなかったので、それぞれに、準備していたのであろう。
   外国からの留学生は、富豪の子息など経済的には余裕がある者が大半で、発展途上国の国費留学生もいた。
   日本からの留学生は、中央官庁と日銀・都銀からの留学生が大半で、富豪の子息も居たが、あとは、商社や保険などの他企業から、ちらほら、
   現在では、欧米のどこの高等教育機関でも、日本人留学生は、激減しているというから悲しい話である。

   ところで、現状は良く分からなくて言うので語弊があるのだが、少なくとも、日本の文化系の大学生は、私の経験から言うと、アメリカのトップ・ビジネス・スクールの学生の勉強量とは、雲泥の差があるほど、学ぶと言うことに貧欲というか、熱心さ集中力に欠けているように感じている。
   これは、私の実際の実感だが、大学と大学院の差はあろうが、ウォートン・スクールで学んだ経済学は、マクロとミクロの経済学2科目だけだったが、京大経済学部4年間で学んだ経済学に匹敵、いや、それ以上の質量の経済学を学んだような気がしている。サミュエルソンの「経済学」など、当然、リーディング・アサインメントでの自学習を前提だとしても、冒頭の3回くらいで終わってしまって、最終日に近づくと最新の経済学論文を読破すると言う信じられないような授業であるから、膨大な経済学書や資料を読み漁って、必死になって独習しなければついて行けない。。
   勿論、主体は、経営学なので、その10倍くらいの授業を受けて単位を取って、2年間で卒業するのであるから、勉強量の差は歴然としていて、それに、日本の経営学の教育環境が、まだ未熟段階にあった所為もあって、驚天動地の心境であったのを覚えている。
   この御陰で、切った張った、欧米での熾烈なビジネスにおいても、臆することなく戦ってこれたのだと思っている。

   私の、ここで言いたいのは、蓮舫議員が言っている「人生設計そのものを変えないといけなくなる」という表現に近いのだが、勉強をほどほどにして、すなわち、従にして、アルバイトを前提にして生活をしている今の学生の生き方そのものを、もう一度振り返って考えるべきではないかと言うことである。
   学生時代には、苦しい生活経験をして苦労するのは当然であろうし、なによりも勉強すべきであって、より良く勉強するために、どのような生活設計をして生きるべきか、自分自身で活路を開くことが先である。

   勿論、「退学検討の大学生ら、2割超」などという悲惨な状態は、絶対にあってはならず、万難を排して避けるべきで、政府はあらゆる手を打って解決すべきだと思っている。
   私自身は、教育は、国防や外交と同じで、国家の最も重要な仕事だと信じており、無償化すべきであると考えているので、教育への政府の温かいサポートは当然だと思っている。
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