熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日経:「影の仕事」で生産性低下と言うのだが

2023年02月04日 | 政治・経済・社会時事評論
   日経のコラムで、FINANCIAL TIMESのラナ・フォルーハーの論文”「影の仕事」で生産性低下も”が掲載された。
   労働者の生産性が(特に米国で)低下していることは現在、経済の大きな謎だが、その一つは「シャドーワーク(影の仕事)」が増えていることだ。と言うのである。

   シャドーワークという言葉は、1981年にオーストリアの哲学者で社会評論家のイバン・イリイチ氏が作った。イリイチ氏の考えでは、この中には、子育てや家事など、報酬を伴わない仕事すべてが含まれる。しかし最近では、技術を駆使して企業が仕事を顧客に押し付ける事例が増えている。と言うことだが、ラナの論点は、この最後の企業のシャドーワーク押しつけによって生産性が落ちているということである。
   かつては他人に任せていた数多くの作業を、今では、時間を費やす無報酬で目に見えない仕事として、ほとんどの人がデジタル機器を使って自分自身でこなしている。銀行とのやり取りや旅行予約、飲食店での注文、食料品の袋詰めなど、あらゆる作業が含まれ、駐車料金の支払いや子供の宿題の把握、テクノロジーに関するトラブル対応などに必要なアプリをダウンロードして操作する。30年までに米国の仕事の4分の1が自動化の影響を大きく受けるとの予測があり、その規模は間違いなく膨大で、しかも拡大しつつある。

   こうしたシャドーワークは人間の仕事を減らし、価格の引き下げにつながるといった見方もあるだろう。確かにそうかもしれないが、経済全体としてみた場合、効率的なのだろうか。
   自分のスマホに新しいアプリをいくつかダウンロードして使っているが、ある百貨店への注文で生じた問題を解決しようと数時間を費やしたり、慣れないトラベルプラットフォームを使わざるを得なくなって使い方を覚えるために時間と労力を要したり、とにかくトラブル続きの連続で、
   職を必要としていて、仕事を始めたばかりの労働者のほうがはるかにうまくこなせる作業を、高給取りの知識労働者である筆者が週に何時間も費やさざるを得ないことに問題はないのだろうか。

   ジョセフ・スティグリッツ氏ら一部の経済学者が、シャドーワークは市場システムにとって外部不経済(社会への悪影響)となり、企業が労働コストを削減するために使いたくなる手段だと指摘している。
   ランバート氏は、シャドーワーク増加の負の影響の一つとして、サービス業で初級レベルの仕事がなくなることを挙げている。米ブルッキングス研究所が19年に実施した調査では、最も賃金が低い仕事が自動化のリスクにさらされていることがわかった。これは、特に若年層や人種的マイノリティーの生活が脅かされることを意味する。
   テクノロジーの進歩に追いつくために国家が教育を改善しない限り、こうした労働者の多くは仕事に就けなくなり、生産性や経済成長の低下につながる。

   一方、自動化が一層進む社会では、人と接触することが全般的にぜいたくなこととなっている。本当のお金持ちは他の人にシャドーワークを頼んでいる。
   テクノロジーは「摩擦」を減らすかもしれないし、自動化やアプリは確かに、利便をもたらしている。社会全体にかかるシャドーワークのコストを計測してみる価値はありそうだ。と言う。

   さて、このシャドーワークだが、これまでに何度もこのブログで言及しているアルビン・トフラーが1980年に「第三の波」で明らかにした生産消費者(Proshumer)の概念と殆ど同じである。
   国民所得統計には集計されないが、販売や交換の為ではなく、自分で使う為か自分の満足を得る為に、その生活や営みを通じて財やサービスを生み出す一般消費者を「生産消費者」と称し、主婦などはその典型で、
   もう半世紀以上も前にサミュエルソンが、国民所得統計の不備について言及していた。
   この傾向が、ICT革命によってAIやロボティックの進展などデジタル技術の活用によって、加速度的に発展し、生産消費者、そして、シャドーワークが増加して、経済活動の重要な位置を占めてきた。

   この論文のサブタイトルは、「自動化・アプリ、真の効果は」であって、
   革命的な進化発展である筈の自動化・アプリが、時には摩擦要因となって経済活動を阻害し始めていて、生産性を低下させている。と言う問題提起である。

   最近は、殆どの取引が、スマホやパソコンでのシャドーワークになって、途中で、一度暗礁に乗り上げると、二進も三進も行かなくなって、完全にお手上げ、
   電話が掛かっても、何度もキーを叩かせられて、繋がったと思った挙句には長時間待たされて時間切れ、
   企業モラルなど地に落ちた不況企業が大半なので、カスタマーサービスの片鱗さえ見えない体たらく、

   自動化・アプリによるシャドーワークのトラブル続出でその解消に忙殺されて仕事にならない、
   合理化のつもりで、初級レベルで賃金の低い仕事をシャドーワークにして、高級かつ知的労働者の仕事を邪魔する、何の技術進歩による生産性の向上か。と、頭に来ている著者ラナの顔が浮かぶようで面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安達瞳子著「瞳子、花あそび。」

2023年02月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   1991/7/1出版であるから大分古い本だが、安達瞳子の「瞳子、花あそび。」
   椿に魅せられて、安達瞳子ファンになった私であるから、花道にも「花芸」にも全く縁も興味もなかったにもかかわらず、安達瞳子さんのゆかりの本だけは、何冊か持っていて、時々、庭仕事の合間に取りだして楽しんでいる。

   安達瞳子の生花を写真家の中川 十内が撮した作品集と言った趣の本だが、それぞれの作品には、花と器が明記されていて、趣くままに、写真に添えて作者の花への思いが鏤められている。
   興味深いのは、冒頭の「花をいける心」という論文で、ご自身の「花芸」への思いを情熱を込めて語っていることである。他に、三編知友との交流を語っていて、著者の「花芸」の参考になっていて、そのうち、竹工芸作家の平沼美子と陶芸家長倉翠子の作品にいけた写真も載せているので面白い。

   さて、安達瞳子の「花芸」論だが、
   花と人の個性、両者の融合の奥に「遊――花あそび」、人間のモラルを一方的にうたう花ではなく、人間と自然の詩的統一としての、自然のモラルをいける花芸がある。自然を、人間をも含む大きな生命として見つめてきた日本人が探し求めてきた”花”が見えるのだ。それは、自分という個をなくすことではなく、人間存在を自然存在への普遍性へと生かし高めることではなかろうか。少なくともそうした姿勢で、花をいけ続けたいと思っている。と言うことである。

   四季の変化と多様な植物に恵まれ、自然中心的な生活と美の世界観を伝統としてきた日本は、一木一草生命視し、共感を抱いてきた民族だ。花道が生まれた土壌でもあろう。この独自の感性が、私たちの心の底には流れている。
   これは、天台密教の思想「草木国土悉皆成仏」、すなわち、「人間や動物はもちろん、草木や国土も仏性を持ち成仏できるという思想」に相通ずる考え方であろう。
   この「草木国土悉皆成仏」論については、梅原猛や五木寛之やユヴァル・ノア・ハラリなどの論を引いて論じてきたので蛇足は避けるが、
   宇宙船地球号が、ドンドン窮地に追い込まれ、キリスト教的人間中心主義に限界が見えてきた今日、
   自然界のあらゆる物には、固有の霊魂や精霊が宿ると言うアニミズムと、様々な思想や宗教を融合するシンクレティズム、すなわち、「草木国土悉皆成仏」の思想は、日本の財産であり、そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられないので、一つの思想として体系化して、それを大きな資源として、世界に貢献できる。と言うのである。

   難しい話は兎も角、日本人は、美しい花の奥に神を見ているのであろう、だから、美しくて崇高なのである。

   椿の作品を転写して掲載する。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貴重な木彫りの飾り盆を頂いた

2023年02月01日 | 生活随想・趣味
   名古屋に住んでいる親友の奥方から、精魂込めて彫り込んだ木彫りの飾り盆を頂いた。
   プレートスタンドに立てて飾るか、プレートハンガーで壁に掛けるか、考えたのだが、
   ご本人が、「渋い色味なので、前に綺麗なお庭の椿を飾って下さっても映えると思います。」と仰っているので、
   早速、イギリス製のプレートハンガーをネットオーダーして取り寄せて、和室の壁飾りとして、丁度、咲いていた椿を点景に添えて掛けてみた。
   地味だと仰っていたが、重厚なボリューム感と言い、精巧な彫りの醸し出す雰囲気と言い、抜群の存在感で、むしろ逆に、華やかささえ感じさせてくれていて、大満足である。

   親友への電話ついでに、奥方と話をしていて、ガーデニングの話で椿が話題になり、かなり、椿に入れ込んでいるという話をしていると、大分前に、椿の丸盆を彫ったのだが、椿の好きな人に貰って頂ければ有り難いと言う。もう随分長く木彫り教室に通って勉強していて、素晴しい作品の数々を残しているのを見てよく知っているので、その彼女が手作りで彫った貴重な作品、それも椿をデザインした飾り盆を頂けるなど望外の喜びなので、二つ返事で頂くことにした。
   「もう物を増やしたくない状況になりましたのに、お納め頂けますことを心よりお礼申し上げます。」と言うことだが、真面目一方で誠実な彼女が、誠心誠意打ち込んで彫り上げた作品であるから、有り難くないわけがなく、恐縮の至りであり、こちらこそ有り難くお礼を申し上げなければならない。

   この和室は、書斎とは違った雰囲気で読書したい時に使っていて、縁側のガラス戸からは、椿や季節の花木が咲き変るのを楽しむ空間でもあり、喫茶コーナーでもあって、落ち着いた佇まいの、憩いの場としても重宝しているのである。
   これからは、この飾り盆を仰ぎ見ながら、その下の花を、日々咲き変わり続けてゆく椿に生け替える楽しみが出来たことになって、嬉しくなってきた。
   今回は、無粋にも、エンサイクロペディア・アメリカーナを、そのまま花台にしてしまったが、新しい台を設えようと思っている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする