半分教師 第19話 「卒業式バンド」

養護学校の教師としてスタートして本当に良かったと思えるエピソードがたくさんある。そのひとつが、担任全員による「卒業式バンド」の結成である。

思い起こせば、ノリノリの学年教員集団だったのだろうか。

「卒業式で生徒を送り出す曲を、私たちが生バンドでやろうよ!」
そんな先輩音楽教員の意見にみんなが合意し、生徒にも親にも秘密で猛練習が始まった。音楽の先生はもちろんピアノ。他の先生も学生時代に手に覚えのあるギターやクラリネット、サックス、エレクトーン、フルートなど、それぞれに楽しんでいた。

苦しんだのは私である。
楽器など習う余裕も買う余裕もない貧乏人の息子である。(ご両親様、こんなことを書いて、あいスマン)
やったこともないドラムを担当した。

ヒェ~~~~~、できるわけないじゃん(T_T)

この企画が決定以来、連日のドラム練習が始まった。ドラムと言っても短期間で私ができるのは、「小太鼓」「シンバル」の二つを組み合わせた変式簡易式ドラムのみ。
曲はサザンオールスターズの「希望の轍(わだち)」

頑張りましたよ練習を。この時は。
だって卒業式だもん。

おかげさまで、何とか形にはなりました。

「希望の轍」

私にとっては生涯忘れることのできない一曲となったことは疑う余地もありません。

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半分教師 第18話 「学年経営」

どういう学校を作っていくのかは「学校経営」と言い、これは校長の責務である。
「学年経営」は学年主任を中心に、その人だけに頼らず、学年の教員全員で創り上げていくものである。私はそう考える。

養護学校時代に私がいた学年は、この学年経営に成功した経験として、私の教員としての財産となっている。何が良かったのか?

私がいた学年は「親分」のような男性と女性の中堅教員がいて、この方々が教員集団のお兄さんお姉さんとして、先行きの見通しを持っていてくれた。その下の年齢には「進路指導」「教科指導」「人情」のスペシャリストと言える方がいた。そこに私を含めた新米教員が常に2名いて、分からないことを先輩に相談したり、やりたいことをどんどんやらせてもらったりと、まるで生徒のように育ててもらった。

バランスの取れた良い学年に4年間恵まれた。

何よりも仲が良かった。
お姉さん役の中堅先生の家に招かれてパーティーをしたり、私もいろいろと企画して、東京湾納涼船のツアーを組んだり、生徒の親も含めたお楽しみ会をしたり。

慣れ合いでもなかった。
私自身、厳しい指摘をされて悩んだことも少なくなかった。

職業柄、心身に変調をきたす教員が出ることも少なくない職場だが、その先生の家まで行って差し入れをしたり、励ましたりすることもあった。

仲の良い集団は自然と学年経営はうまくいく。そういう雰囲気は生徒にも親にも伝わるものだ。同じことが「学校経営」にも言えるはずだ。




私がお手本にしている小学校のひとつに、斎藤喜博先生の「島小学校」「境小学校」がある。斎藤先生が書かれた「学校づくりの記」という本の一説を書き残しておく。


 私たちが、教師として自分たちの職場を明るく住みよいものにするということは、もちろん自分たちが一人の人間として、毎日毎日をしあわせに楽しく生きていたいという願いに出発している。そしてそれは、憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の普段の努力によってこれを保持しなければならない」という条文をふまえたものであり、自分たちの断えざる努力によって、自分たちの職場の中に、憲法の精神を実現し、自分たちをしあわせにし、自分たちを解放して創造的な生き甲斐のある仕事のできる人間にすることである。

 これは、職場の中に、また自分たち自身の心の中にある、さまざまな圧力から脱却することである。それらのものから抜け出し、気持ちが解放されたとき、私たちの精神は生き生きとしてき、表現活動も盛んになり、教育実践も生きた創造的なものになってくる。そしてそのことは教師と同じように抑圧され、表現をおさえられている父母や子どもたちの生き方に影響を与える。

 私たちはこのように考えて職場づくりをしてきた。その結果先生たちは生き生きとしてき、自信を持ち、実践が個性的創造的になるとともに、詩、短歌、作曲、脚本、童話など、自分の創作活動もするようになってきた。解放されることによって、今まで内におさえられて芽を出さずにいたものが、それぞれの形で表現されてきた。そしてそのことによってさらに一人一人が自覚し、みんなの気持ちを一つにすることができてきた。

 私の学校の先生は、みんな輝くように美しい。私は、先生たちをみるごとに、いつも美しいと思うし、よそから来た人たちもそのようにいう。私はこのことがとてもほこりであるし楽しい。

(「学校づくりの記」 斎藤喜博 著  国土社 発行 より抜粋)


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斎藤 喜博
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半分教師 第17話 「介助」

養護学校と普通小学校での教員の仕事の大きなちがいは「介助」である。「介助(かいじょ)」とは、一人では生活できない子どもに手助けをすることである。

移動介助、排泄介助、食事介助。この3つが介助の中でも特徴的な介助と言える。


移動介助・・・
車椅子の生徒の中には電動車椅子も操作できない生徒が実はほとんどで、当然自力で車椅子をこぐなどということはできなかった。そうすると、教員が押して移動する以外に方法はない。高等部なので重い子になると最高で100㎏ある生徒がいた。生徒自身も大変だし、押す教員も大変だった。
車椅子への乗り降りも教員の手によるケースが多かった。研修を積んで慣れているから腰痛にはならなかったが、慣れていない人が下手に介助しようとすればぎっくり腰になりかねないだろう。


排泄介助・・・
自力でトイレに行けない生徒が7割。小学部はもっと割合が高くなる。男子トイレには専用の尿瓶(しびん)置き場がある。女子トイレは抱きかかえておろせるように、ベッドがあったり広くなっていたり。


食事介助・・・
脳性まひの生徒は、身体中に緊張が入り、咀嚼(そしゃく)をすることもできない。なんと食道の筋肉も健常者とちがう動きをする生徒もいて、慎重に食事介助しないと食べたものが肺の方に行ってしまうこともありえる。私たち教員にとっては、給食の時間は命に関わる重大な時間である。誤嚥(ごえん)によって窒息死する事故も起こりえる状況で、緊張の中での給食となる。
自分のひざの上に生徒を抱きかかえ、ミキサーにかけてドロドロにした食事を特注のスプーンで口の中に運び、生徒のあごに手を添えて、あごの動きをサポートしながら食べさせるという場面を文字だけで想像できようか?
しかもその体勢の中で、自分の食事もすまさなくてはならない。

しかし、こんなに大変なことを家族はずっと続けているのだ。それを思えば・・・・・ね。

(つづく)

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