半分教師 第11話 「学校間交流」

養護学校高等部の担任であった私たち教員集団は、単発的に行なわれていたK女子高レッドクロス(赤十字)との交流活動を見直した。

どちらの学校の生徒も本当に友達として分かり合えるようにするためには、単発的な活動をしていてはダメだ。どこの世界にたった1日で相手を理解できる子どもがいようか。何度も何度も交流を深めて初めて分かり合えるものだ。

そんな考えからK女子高の先生とも共通理解し、「通年交流」という活動を始めた。

こちらは自分で動くことも困難さがある障害の重い養護学校。相手は元気いっぱいの女子高生。毎年文化祭や夏祭りなどに招待して交流をしてきたので、「何かをやってあげる」という感覚で接してくるだろうが、きっと心の奥には、接したことのない同年代の障害者との交流には抵抗があるだろう。この壁を破りたいと思った。

年度の始めに1年間を通して交流をしていくことを確認。まずは夏休みの始めに行なわれる養護学校の夏祭りで、一緒にお店を出すことにした。準備も交流の回数を重ねていかないとできない。こうして何回も共同作業をすることで、上っ面だけでなく根が深い交流をしていった。10月の文化祭や、相手校の文化祭でも共同作業をしていった。

こうした経験は養護学校の生徒には心ときめく経験となったようであり、交流校の生徒には「障害者だからかわいそう」というありがちな気持ちを「障害者でも同じ高校生」という感覚に変えていけたのではないかと思っている。


辰巳小の幼稚園交流や塩浜福祉園交流を作ったのは私であるが、その原点がここにある。学校間交流というのは単発的なものではなく、通年交流をしていかなくては本当の成果というものは出ない。この確信はそう簡単には転覆することはないだろう。

(続く)

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3人制バレー

部員ギリギリ・辰巳ジャンプ。今日もたった6人で練習。

最近は、このギリギリの人数の子どもたちを“ギリギリとしぼるように”練習してもしょうがないという気持ちになっている井上です。

子どもなりの自由な発想を生かせるように、6人そろったら3人対3人のゲーム練習ばかりやらせようと思っています。この人数でやると、ラリー中に自然と相手の弱点を探すように訓練されるので良いのです。その成果あって、サウスポーエースはこれまで苦手だったコースへのスパイクの打ち方を自然に身につけてしまいました。このスパイクの打ち方は独特ではいやらしい。大会でもきっとかなりの得点を期待できるでしょう。

すごく楽しく練習している子どもたちは、いつも私が指摘している「具体的な指示の声を出せ」という課題も簡単にクリアしていきましたし、何よりも「先生、もっとゲームをしていいですか?」と前向き。やっぱり自発的でポジティブな気持ちの中に創造性も育まれていくのだと再確認しました。


最近、「辰巳ジャンプの掲示板過去ログ」をこのブログ内に再アップする作業を続けているのですが、発掘された私の文章の中に貴重な気づきがたくさんあります。

例えば・・・



『なんで○○なんだ!よりも、○○したのはなんで?』(2004年12月27日)

白石豊先生から学んだ言葉かけ手法をひとつ。

私たち未熟者が指導をしていると、どうしても出てしまう言葉があります。それは「なんで」という嫌な言葉です。私自身、言いたくないのにどうしても出てしまう言葉です。この「なんで」も使いようで、言葉の先頭に「なんで」を持ってくるのではなく、最後に「なんで」を持ってくると選手は救われるというのが白石先生の理論です。

「なんで○○しないんだ!」「なんで○○するんだ!」と言うと、選手は追い込まれてしまう。答えようがない。答える余地を許さない。これが枕詞の「なんで!?」です。

「○○したのは、なんで?」と言葉の後ろに持ってくると、選手は自分で答えを考えるようになる。客観的に自分を見ることができるようになる。自然にやる気が育つというわけで、私も納得しています。

こんな些細な違いでも、指導者は自分の感情に振り回されて言葉を発しているか、自分の感情をコントロールしながら効果的に指導しているか差が出るのですから、言葉とは恐ろしいものです。




このころのチームは、私も子どもたちも「全国大会出場」を目標に練習していた。私自身はバレーボールにすべてをかけて必死に学んでいたのです。時が流れるのは恐ろしいもので、たった3年半前に考えていたことをずっと忘れていました。

記録しておいたから思い出せたわけで、やっぱり自分の信念である「思想は逃がすな!」という行動は大事です。

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半分教師 第10話 「あなたが一番わかっていない」

養護学校は若い。若いがために先輩からは遠慮ない指導がたくさん入った。先輩といっても年齢は10歳も違わない。今思い起こしてみると、大学のサークル活動をしているような感じだった。

どの教員も皆、一生懸命だった。ほっておけば死んでしまう子ども達を相手に仕事をしているので、心身ともにハードなわけだが、なんだかみんな楽しそうだった。


3年目の文化祭の時、学級は重度重複障害児を受け持っている先生の意見で、徹底的な話し合い活動をした。話し合いといっても話をできる子が半分以下。話題は友達ということや自分って何?ということなどを話し合った。

ところがこの話題に私はついていけなかった。ついていけなかったから、ここでも言葉にすることができない。文化祭での取り組みは「光を求めて」という劇なのだが、徹底的な表現活動というか、セリフはひとつもない。音楽と光と色と遊び場を設定して、自由に動くという想像もできない取り組みを行なった。

ものすごい違和感があった。今でこそ何とか理解できるが、それでも文字では説明ができない。ビデオを残してあるが、それを見てくださいとしか言いようがない。

こんな状態で文化祭を迎えたから、私は先輩の女性教師に最後に言われた。
「あなたが一番分かっていないよ。子どもたちの方が分かっている。みっちゃん先生は不器用だから、自分の考えを柔軟に変えられないのよ。」

言葉を越えた世界の教育は難しい。
難しかったがゆえに、言葉の通じる子どもたちへの教育は、どんな子どもでも何とかなるだろうと楽観的には見ることができる。

(続く)

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半分教師 第9話 「教職員集団作りマニュアル」

新任で養護学校に赴任したからこそ学べたことがたくさんある。

養護学校は小学校から高校まで同じ校舎にいるので、教職員の数が半端じゃない。100人を越えていた。話をしたことのない教員がいるほどだ。そんな集団をどうまとめていくのか?これが養護学校の大きな課題であった。

私が赴任した学校には、大変に先見の明がある先生がいた。その先生のリーダーシップによって「教職員集団作りマニュアル」というものが、教員全員の意見の元に作成された。これができた時に私はどうしてこんなものが必要なのかを全く理解できなかった。しかし、教員経験を年々重ねるごとに、このマニュアルの示していたものが光を放ってきた。

・教員の仕事はリーダーとフォロワーが機能して初めて良いものができる。
・リーダーは独りよがりではいけない。
・リーダーは全員の意見を生かせるように考えることが大事だ。
・フォロワーはリーダーと同じ方向を見るように努力し、リーダーに足りない面を補助していく。
・フォロワーは仕事をリーダー任せにせず、積極的にリーダーを補佐すること。
・フォロワーがしっかりしている組織は発展する。
・教職員は常に共通理解をしながら進んでいかなくてはならない。
・何も役目のない人が、役目のある人以上に働いた時に大きな仕事ができる。

当たり前と言えば誠に当たり前の内容かもしれない。
しかし、こういうことが明文化されることはあまりない。
そんなことは常識だと片付けられるであろう。

でも、学校の教員室で、こうした内容のマニュアルが誕生したことは本当に珍しいことだと私は思っている。

そして新任の時代に刻み込まれたこの考え方、「フォロワーの精神」は私の体の中に染み付いている。

(続く)

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半分教師 第8話 「くまさんマン」

養護学校には、いろんなキャラクターが登場する。

席に座って鉛筆持ってという授業ではなく、感覚遊びとか素材遊び、身体表現遊びなどをしながら、「生きていることを感じていく」ような授業・・・簡単に言えば、「笑顔を引き出す授業」がたくさん行われていた。

そのために「キャラクター」が必要になる。
NHK教育の番組でも「ストレッチマン」が登場してくるように、ある登場パターンを持っているキャラクターを教員が演じていた。

私が演じたのは秋の文化祭のオープニングとフィナーレに登場する「くまさんマン」であった。文字通りクマの着ぐるみに入って、会場にいる子ども達を喜ばせる係であった。
「新任の登竜門だ」
そんなことを言われて素直に中に入っていた。

これが暑いのなんの!
たった30分間入っているだけで汗だく。
大変なんて言葉を通り越して、「死ぬ・・・」と思った。

こんな経験をしているので、普通小学校に転勤した後も、運動会では必ず“自主的に”キャラクターを演じていた。その中のひとつに、当時流行っていた「たまごっち」を文字って作った「たまごっちの親せきの“いのっち”」で登場したことがある。それがイノッチ先生という名の誕生秘話である。決してジャニーズのマネをしているのではなく、ジャニーズのイノッチは私よりもあとだということを書き残しておく(苦笑)

前任校に転勤したその年の運動会。
父母競技に出場しているお父さんの中に、「サルの着ぐるみ」を着ている集団があった。「私と同じ人種がここにはいるぞ!」と嬉しくなったことを鮮明に記憶している。

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半分教師 第7話 「学年主任と進路対策委員長」

養護学校で3年目。当時、若干24才の私がなんたることか重要なポジションに就くことになった。

「学年主任」
「進路対策委員長」

今考えると「よく受けたもんだ」と赤面するが、このころの私は「自分には教育界で果たすべき使命がある!」と意気込んでいたので、重要な仕事であっても絶対にやりきってみせる!と受けてしまった。

学年主任と言ったって、小学校とはまったくちがったメンバー構成であり、全部で8人の教員集団をまとめるのだから、どうして私が学年主任になったのか不思議に思われるだろう。それには理由がある。同じ学年の先生たちは、私よりも重要な役目を学校で担っていたからである。
「進路指導主任」「授業グループ主任」「次期教頭候補者」などなど。
そうなると消去法で私が学年主任をやるしかなくなる。この貴重な経験が私の財産となっている。

それ以上に宝となっているのが「進路対策委員長」の仕事である。
子ども達の進路指導をしていく教員は「進路指導主任」がいる。それとは別に、進路先の施設を作る運動に協力したり、新しい進路先の情報を仕入れたりと、一歩学校の外に出た活動をしていくのが進路対策委員会であった。
この活動を通して身につけたことが、前回の文章で書いた「進路は生きる道筋」という哲学である。

若き日の猛進とも言える失敗を恐れないチャレンジは、若い時にしかできないからこそ財産となる。
同じことを今の私がしたら、非常識な人だと批判されかねない。

若いということはそれだけで財産だ。

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半分教師 第6話 「進路は生きるみちすじ」

もし小学校教師がスタート地点だったら、こういう価値観を学ぶことすらなかっただろう。障害児教育が教育の原点だということを本当に理解したのは、たった3人の受け持ちの子へ毎週出し続けた「グループ通信」に書くための情報を仕入れていった研鑚の最中であった。

「進路は生きる道筋」

とかく進路というと、ゴール地点をイメージしてしまうが、そうではない。施設に入ることが生きる目的になってはいけない。家族も子どもも含めて、『どんな生き方をしていくのか』ということが進路である。

障害が重いと周りの人間が進路を決めてしまうケースが多い。しかし自己主張ができない重度重複障害の子であっても、人間として生まれたからには基本的人権がある。健康で文化的な社会生活を送っていく権利があると憲法に定められている。法律で定められていなくても、充実した人生を選んでいける権利は当然あるはずである。

進路を考えるに当たって大事なことは、「生き方」「生き様」を学ぶことである。自分はどんな生き方をしていきたいのかを徹底的に考えることである。

大学に受かることが人生の目的ではない。
会社に入ることが人生の目的ではない。
教員になることが人生の目的ではない。

自分の進んで道でどのような生き様を見せていくか、自分が納得のいく道のりをどう歩んでいくかが「進路」なのである。そう考えれば、人間の一生が進路を求めていくための道程である。

自分が進んで道で、どう社会に貢献していくのか。
この世界をどうやってより良く変えていくのか。
こうした出発点から進路を考えていくことで、深い節目を心に刻んでいけるものである。

最後に「節目」という言葉について説明すると、人生を竹に例えると、竹は節目があるから真っ直ぐに強い成長を遂げていくことから、人間の人生も節目をしっかり刻んでいくことで、強い人間になれるという例えである。

(続く)

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