半分教師 第1回 「小学生バレーボールとの出会い」

私が小学生バレーボールの指導を始めて14年になる。本職の卓球が選手時代とコーチ時代を含めて10年しかやっていないのだから、12年も良く続いたと思う。

小学生バレーとの出会いは教育実習時代にさかのぼる。
大学4年の9月に実習に行った小学校にけっこう強い小学生バレーチームがあった。練習は水曜日の放課後と土日。水曜日は監督さんが来れないので、学校の先生が練習を見ていた。そこに私も参加させていただいた。たちまち小学生バレーの虜になった私は、教育実習が終った後も数ヶ月間バレーの練習に通ったほど夢中になった。
教師になったら小学生バレーの指導をしてみたいなと感じ始めたのがこの時期であった。

しかし、新任で赴任したのは小学校ではなく、障害が最も重い肢体不自由児の養護学校であった。

(続く)
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恩師に本にしていただいた「ぼくの日記」

まずは写真を見てください。

小学5~6年生の頃に書いた日記を担任の細川泰子先生が大事に製本してくださったものです。このころから私は文章を書くことが好きになりました。自分が書いた文章を誰かが読んで心を動かしてくれることが楽しかったのです。どんなささいなことでも良いから認めてもらえることが少年の自信になったわけです。

細川先生は30代のお笑い芸人のような先生でした。(先生、失礼しました。ゴメンナサイ。)

黒縁メガネをかけていて、いっつもジョークを飛ばしては子どもたちに笑われ・・・いえ、笑わせてくれて、教室が楽しくて楽しくてなりませんでした。

国語の日記指導、算数では「わかる算数」を副教材に使って「ブラックボックス」を解いていく比例問題で私が解き方を考えついた時には、「いのビー方式」(私の小学生の頃のニックネームは『いのビー』と言われていました。)という名前をつけて褒めていただきました。

男女がとても仲良くて、神社でいっしょに遊んだり、目黒区の自然教育園に先生と一緒にクラスのみんなで行ったことも記憶に残っています。

細川先生は私たちを卒業させると同時に若くして教員を退職されました。私が通った小学校に転勤してきてすぐ、5年生の私たちを担任し、そして6年生として卒業させたら辞められた。私たちを教えた2年間しか学校にいなかったのです。

先生のすごいところは、その後中学1年生になった私たちの家庭教師をしてくれたことです。男子グループ2箇所、女子グループ1箇所の合計3箇所、週に2回ずつ全部で6日間。ほぼ無償に近いような金額で家庭教師をしてくださいました。中学に進学してどうやって英語を勉強していったらいいのか、数学も難しいという時に、学び方を教えてくださり、学習のリズムを作ってくださいました。

ある意味、私たち細川学級の最終卒業生は、先生にすべてをかけて、手塩にかけて育てていただいた教え子なのではないかと今では思っています。


私は小学生の担任をするようになって以来、ずっとこの細川先生の後姿を追いかけているような気がしてなりません。けっこういろいろな実践を積み上げてきましたが、まだまだ細川先生の足元にも及ばないと思っています。

「青は藍より出でて藍より青し」という言葉がありますが、恩師の与えてくれた魂をどれだけ広げていけるかどうかが卒業生としての役目だと思っています。

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