ゴタゴタしていたが、民主党の党首が鳩山由紀夫に決まった。自民党の総裁が麻生太郎である。この二人の祖父は、鳩山一郎と吉田茂である。戦後日本、昭和20年代を引っ張ってきた二人である。この二人は同じ自由党にありながら、とても盟友とは言えない関係にあった。
二人を分けたのは「運」である。戦後ひょんなことから外務大臣を経て総理になった吉田茂に対して、戦前にヒトラーを評価する論文を見つけられて、GHQから追放されて、首相の椅子を目の前にして悔し涙を飲んだ、鳩山一郎は運がなかった。
5度も組閣する吉田を嫌って、鳩山一郎を必死で支えたのが、稀代の策士三木武吉である。三木武吉は吉田を下ろすためには、権謀策術のあらん限りを尽くした、三木武吉は「鳩山を首相にする。死んでもやる。死んだら幽鬼となっても鳩山内閣を作る」とまで言った。
吉田を下すためには、社会党とも裏工作をする。あらゆる政敵とも裏取引をやる。煽てもやるし恫喝もやる。自由党をも分裂させる。とにかく、鳩山内閣成立へすざまじい執念を見せた。
自らが自由党を割って出て結成した日本民主党を、自由党と改進党を連れて合同させた。これには左右の社会党の合併が背後にある。三木武吉の鳩山内閣への執念は、いわゆる55体制を作ったのである。自由民主党結成への条件の一つに、日本民主党から提出されたのが、憲法改正である。
吉田茂と鳩山一郎の闘いは、戦後保守政治の基盤を作ることになり、その時点で吉田は引退し鳩山は内閣を作ることになる。54年を経た現在、その孫同士が戦うことになるのだが、草葉の陰で、ズル軍鶏「三木武吉」は何を考えるだろう。
時代は大きく変わり、三木の裏工作や策士として動いたような土壌は今はないが、ずいぶんと器が小さくなったと思うに違いない。三木がすぐ消えると予言した自由民主党はその後、半世紀以上も日本を支配し、現在も風前の灯ではあるが残っている。その自民党が、民主党の挑戦を受ける構図は、みきが暗躍した時に類似する。
鳩山由紀夫は祖父を見習い憲法改正をいまだ模索する。麻生太郎は典型的なボッチャマ感覚で、危機感もなく政権維持意欲は極めて薄く吉田の執念は伝わってこない。彼らは何らかの外力が働くと、豹変する可能性がある。
この二政党は、総選の挙結果によっては、祖父を見習い合併するかもしれない。そんな危険性もはらんでいる孫たちの戦いでもある。