今年の第15回中原中也賞を受賞した、札幌の高校生がいる。文月悠光と言う女性であるが受賞時は高校生であった。受賞作である「適切な世界の適切らざる私」という詩集を購入した。彼女の北海道新聞の記事が、詩には欠かせない感性に溢れていたからである。
一言で表現するには、なんと瑞々しい感覚で書かれた文章であるかと思える危うさに満ちている。整然と並ぶ活字ほど、表現能力には言葉が足らずで勢いが目立つ場面もあり、勇み足と思える形で見ることができる。然し、それらを埋めて余りある鮮度が読者を引き留める。
学校や家庭の出来事には、周辺への気遣う言い回しもあるが、長らく学校生活を離れる身にとっては、それも違和感と言うより懐かしさとして受け入れておこう。十代の置かれた位置で確実にそれを表現する。その試みが懐かしくもあり、淡い彩りとして息苦しくもある。
幼いという病は、彼女の成長とためらいがもたらした表現でしょうか。それとも、大人への当てつけなのだろうか。言葉という彼を一生追いかけたいと彼女は言う。
初めてのこの詩集を、助走と表現する論者もいる。何よりも彼女自身が感性に追いつけない言葉に、もどかしさを感じていることであろう。そうであれば、これから先、恋をし、それを失い、都会の生活を体験し、他人の表現を学び、さらに広がる世界体験し、変身する彼女を楽しみにしたいものである。