そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

民社党の最後の委員長が亡くなって思うこと

2016-06-17 | 国際・政治
民社党最後の委員長だった米沢隆が昨日死亡した。新聞の片隅の死亡欄に小さな記事を見つけた。日本の自民党と社会党が競い合う55体制を初めて内から切り崩したのが、社会党右派の西尾末広らが分党して作った民社党の存在である。戦後日本が最も熱くなった60年安保の時の出来事である。CIAの裏工作が、社会党の弱体を狙って作り上げた政党である。CIAは同様のことを全学連にも裏工作し、60年安保の実働隊であった全学連を分派行動をさせている。
民社党は同盟などの支持母体は持ってはいたが、中道を掲げて55体制に割って入った。しかし、存在価値を見いだせないまま、中道左派と言いてみたりしたが、結局は結党理念を残しながら自民党に与することになり、公明党を抱き込んで自公民路線を打ち出し、カリスマ的に存在し続けた春日一幸委員長が与党にならずに、自民党の協力政党として存在し続けた。
その後新進党を経て民主党に合流するが、結局は34年の政党生命を終えるのであるが、政党の存在を探りあぐねていた年月と言ってよかろう。
こうした民社党の右へ左へと揺れ動いた苦悩の年月は、日本では野党としてあり続けることの難しさを物語っている。同様に宗教法人創価学会(当時は日蓮正宗)が作り上げた、公明党が中道として結党されたが、今では自民党の補完団体と化し、かつて掲げていた平和の党あるいは中道色は払しょくされてしまっている。理念を捨て自民党と一体化して生き残っている公明党に比して、理念の具現化を模索した民社党はわずかに民進党の中に痕跡を残し、最後の委員長の死亡すら見つけるのがやっとの存在になってしまった。
民社党の模索した道は、新自由クラブ、さきがけ、日本新党、新進党、社民党など弱小、泡沫政党の行く末を象徴するかのようである。こうした政党が時を一時動かしても、結局は自民党がそれらの落ちこぼれを拾い集めて巨大化するのが、戦後の日本政治の姿と言える。その陰で跳梁跋扈パワーゲームをしたのが小沢一郎であるが、所詮彼は自民党を母体としていて、政治と自らの在りよう模索したこれらの政党とは基本的に異なるものと言える。
良くも悪くも、あるいは利権を絡み付けさせながらも、この時代の政治家には理念があり、目指す社会や国家像があったものである。舛添要一のセコイ(sekoi)所業を見ると何おかいわんやである。
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