そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

今日は政府が決めた終戦記念日であるが、終戦の日ではない

2022-08-15 | 戦争
ミズーリー号で調印するマッカーサー元帥
今日8月15日は、天皇がポツダム宣言を受け入れた翌日の正午に、そのことを国民に知らせた日である。と昨年の今日書いた。
8月15日に没ダム宣言を無条件で受け入れることで、中国や韓国や東南アジア諸国ではでは戦闘が終わり、戦争の終結を多くの人々は意識した。
終戦の日は、9月2日のミズリー号での調印の日で、第二次世界大戦の終結した日である。この18日間のタイムラグが日本の軍属と官僚それにソビエトにとって、大変重要な期間であった。
ソビエトのスターリンは不可侵条約を破棄するタイミング、日本参戦の時期を伺っていた。オホーツク海を内海にするためである。ヤルタ会談は、英、米、ソ連それに中国が加わった会談であった。ルースベルト(米)は4月に死亡し、チャーチルは7月の選挙で敗北し、蒋介石は戦時下で主席出来ず、日本と不可侵条約を結んでいるソ連のスターリンだけがポツダムでの会談に臨んでいた。
ベルリン郊外のポツダムの地を用意したのは、ベルリンを陥落したスターリンである。急遽大統領になったトルーマンは地方上がりのアメリカ初の高卒大統領で、ポツダムに会場月前から怯えていた。会談の最中の選挙に敗北したチャーチルと代わったアトリーはずぶの素人である。
スターリンは不可侵条約を結んでいる日本とは戦っていない。日本の敗戦に向けた会議は、議長をトルーマンにしたもののスターリンが主導した。
戦後を見据えて、トルーマンもスターリンもヤルタの確約であったソ連の日本参戦に、否定的であった。しかしスターリンは最も効率的な参戦のチャンスを伺っていた。
日本は、4月に後一年で切れる不可侵条約を結ぶ、ソ連に終戦に向けた仲介をずっと模索していた。ヤルタ会談でソ連の日本参戦が義務付けられていたことを、陸軍は掌握してたが御前会議にも参謀会議にもこのことは黙していた。陸軍は本土決戦を下げることはなかった。
ポツダム宣言受諾を国民に示してからの18日間、日本の官僚や軍部は関係書類を焚書し続けた。ソ連はポツダム宣言受諾の一週間前に宣戦布告し、お人よしの鈴木貫太郎を驚かせた。ポツダム宣言に署名のないソ連は、日本が降伏したわけでもないと、満州に樺太に、そして千島列島へとシベリアの囚人を集めたポンコツ兵士を送った。
スターリンは北海道の半分(留萌ー釧路を結ぶ線の北)を連合軍に要求し、オホーツク海を内海にしたかったが認められなかった。ソ連の千島への侵攻はカイロ宣言(暴力と貪欲で獲得した領土は認めない)に反するが、ソ連はこれに署名していない。スターリンは、ソ連の主張する終戦の日を越えて、9月5日まで歯舞色丹まで侵攻し占拠した。
8月15日で戦争は終わったと、ソ連には通告していない、ポツダム宣言の受諾の通告をスウェーデンなどを通じて通告したことになっているが、ソ連はポツダム宣言の署名国ではない。官僚の失態は、いつまでも8月15日を終戦の日として、覆い隠されたままである。
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