昨日(6月9日)は、釧路でラムサール条約第5回締約国会議が開催されて、早いもので20年になる日であった。初めての国際会議に緊張しながらも、釧路湿原を改めて見直した会議でもあった。
ラムサール条約とは、国境とは無関係に渡りをやる水鳥たちが休息できる湖沼や湿原を、世界各国で保護するのが目的の条約である。日本最初の指定地の釧路でやる意義は大きかった。当初、各自治体や関係団体は、環境保護そのものに目くじらを立てていた時代である。現在は46もの指定地がある。
今では、観光資源としての機能する釧路湿原であるが、かつては不毛の地と言われたいた。内容はともかくとして、観光客が感動するのは悪くはない。
しかし、釧路湿原が残されたのは、冷涼な地であるからなのである。日本中にこの程度の湿原は無数にあった。それらの湿原は、ほとんどすべてが例外なく、水田になりお米を作ってきた、日本の歴史なのである。
山岳列島の日本の平坦な所は、海に近く河川が落差をなくし地下水位の高いところでああった。人々は山にへばりつくようにして住み、平坦地の湿原を水田に代えてきたのである。水が豊富で、葦などはお米と同じ、禾(か)本科(イネ科)の仲間である。
多分80年ほど前までは、こうした水田にはかつて湿原だった時代の小動物や、小鳥たちが追われることなく住んでいたのである。開発されても湿原の生態系は、多少のダメージはあったであろうが、多くは水田が受け入れていた。
今でこそ北海道の暖かいところでは、品種改良などによって米を作れるようになった。釧路地方ではそれもかなわず取り残されていただけである。
本州以南ではこうした湿原を改良した水田が、人々の胃腑を満たし命を支えてきた。権力者の象徴として、石高は用いられてきた。その一方で、水の保全に限ることなく、環境保全にも役立ってきたのである。
お米は、田にあるときには”稲”、収穫すると”米”、食べる時には敬称を付けて”ご飯”、と呼ばれてきた。神社にはしめ縄が奉納され、水管理は村の共同体の結束を高め、人々には勤勉である民族としての誇りを育んできたのである。
釧路湿原とほぼ同じ光景を府県の田で想起するには、とても難しい大型機化によって開発された現在の水田である。その風景も、環境もTPPで破壊されるかと思うと、この国はどこに向かっているのかと、不安で仕方ない。
左にフォトアルバム<武佐岳から>をアップしました。