NHK朝の連続テレビ小説は戦争中の暮らし「純情きらり」をやっています。
あの時代を知っている人は、自分の暮らしを思い出しながらテレビの前に座っていることでしょう。
生きて帰るか、戦死者となるかは、願ってどうなるというものではない感覚は、さぞかし、だったろうと思いはそっちのほうへ行ってしまいます。
国が決めた赤紙一枚で出征。
シベリアに連行されたといわれ、いつ帰るかわからない夫を待つ日々。
「『シベリアに連れて行かれたものは、生きて帰られないそうだよ』と町内でただ一人身長不足のため徴兵検査に不合格になったひとから軽口を言われたことがあってね、その無神経さに腹が立ち、怒鳴り込んで、ほっぺたを叩いてやろうかと思った」と母が語っていたことがあります。
そして、昭和16年に出征した夫が23年の7月末、漸くの帰還。そのとき母は32歳。
数年前、母からこんな電話があった。
福井地震が6月28日と、テレビでいっているけれど、あれは間違いで、7月末だった筈。シベリヤから舞鶴に上陸して、北陸線でT市に来る予定だったのに、鉄道が不通になって、岐阜の高山を回って、そのために顔を見るのが遅れたのだから…。
まさか、テレビニュースが間違ってはいないと思うものの、母は夫の帰ってきたときの多分鮮やかな記憶として残っているのだろうからと、調べてみたことがあります。
便利なもので、県の図書館で当時の新聞がマイクロフィルムで保存されていました。7月下旬あたりを探していくと、確かに鉄道は不通でした。
但し、その原因が福井地震ではなく、大雨による水害でした。
当時の新聞は、漢字が多く(もちろん旧字体)、紋切型。いかに現在が読みやすくなっているかと思ったものです。
そして、あちこちに事故や災害の報道の多いこと。インフラが未整備ということは、こんなにも事故災害を招くものだったのかと、強く印象に残っています。
ああ、話が横道にそれましたね。
そう、61年目の夏が来て「あの戦争」と話題になります。どの家庭にも、ひとつとして同じ形はないけれど、深い辛さを残した時代を経て今があります。珍しく15分テレビの前に座っていたものだから、そんなことを思ったりしました。
語り聞かされた話しでしか知らないものと、日々をその最中に暮らしたものとでは、思いは格段に違うのでしょうね。
戦争時代を体験された人たち、90歳になる母も、きっとテレビを見ながら、若かったころの戦争中の暮らしを思い出しているはずです。
この60年間で戦争に関わっていない国は、国連加盟国で一桁しかないそうです。
戦からどうして離れられないものかと、考え込んでしまいます。
まったく、付け足しの話ですが。
ツアーのバスでパリ市内を巡っているときだったかに、兵士の一団が通り過ぎました。車中の日本のおばさんたちは「兵士って、ホント若いのね」と、思わずびっくりの声。
ガイドの男性は、その声を受けて、「彼らほど若くないと、走れといわれても、息切れしてるようじゃ、役に立ちませんから…」
平和を当たり前のように感じて育った戦後生まれも、しっかりおじさん、おばさんです。私たちが享受できた平和の感覚を、つぎの世代、そのまた次の世代へとバトンを渡して生きたいものです。
あの時代を知っている人は、自分の暮らしを思い出しながらテレビの前に座っていることでしょう。
生きて帰るか、戦死者となるかは、願ってどうなるというものではない感覚は、さぞかし、だったろうと思いはそっちのほうへ行ってしまいます。
国が決めた赤紙一枚で出征。
シベリアに連行されたといわれ、いつ帰るかわからない夫を待つ日々。
「『シベリアに連れて行かれたものは、生きて帰られないそうだよ』と町内でただ一人身長不足のため徴兵検査に不合格になったひとから軽口を言われたことがあってね、その無神経さに腹が立ち、怒鳴り込んで、ほっぺたを叩いてやろうかと思った」と母が語っていたことがあります。
そして、昭和16年に出征した夫が23年の7月末、漸くの帰還。そのとき母は32歳。
数年前、母からこんな電話があった。
福井地震が6月28日と、テレビでいっているけれど、あれは間違いで、7月末だった筈。シベリヤから舞鶴に上陸して、北陸線でT市に来る予定だったのに、鉄道が不通になって、岐阜の高山を回って、そのために顔を見るのが遅れたのだから…。
まさか、テレビニュースが間違ってはいないと思うものの、母は夫の帰ってきたときの多分鮮やかな記憶として残っているのだろうからと、調べてみたことがあります。
便利なもので、県の図書館で当時の新聞がマイクロフィルムで保存されていました。7月下旬あたりを探していくと、確かに鉄道は不通でした。
但し、その原因が福井地震ではなく、大雨による水害でした。
当時の新聞は、漢字が多く(もちろん旧字体)、紋切型。いかに現在が読みやすくなっているかと思ったものです。
そして、あちこちに事故や災害の報道の多いこと。インフラが未整備ということは、こんなにも事故災害を招くものだったのかと、強く印象に残っています。
ああ、話が横道にそれましたね。
そう、61年目の夏が来て「あの戦争」と話題になります。どの家庭にも、ひとつとして同じ形はないけれど、深い辛さを残した時代を経て今があります。珍しく15分テレビの前に座っていたものだから、そんなことを思ったりしました。
語り聞かされた話しでしか知らないものと、日々をその最中に暮らしたものとでは、思いは格段に違うのでしょうね。
戦争時代を体験された人たち、90歳になる母も、きっとテレビを見ながら、若かったころの戦争中の暮らしを思い出しているはずです。
この60年間で戦争に関わっていない国は、国連加盟国で一桁しかないそうです。
戦からどうして離れられないものかと、考え込んでしまいます。
まったく、付け足しの話ですが。
ツアーのバスでパリ市内を巡っているときだったかに、兵士の一団が通り過ぎました。車中の日本のおばさんたちは「兵士って、ホント若いのね」と、思わずびっくりの声。
ガイドの男性は、その声を受けて、「彼らほど若くないと、走れといわれても、息切れしてるようじゃ、役に立ちませんから…」
平和を当たり前のように感じて育った戦後生まれも、しっかりおじさん、おばさんです。私たちが享受できた平和の感覚を、つぎの世代、そのまた次の世代へとバトンを渡して生きたいものです。