連休最後の日に、実家から戻る。
夫の実家(夫の弟が相続し、今は空家)に寄る。
幹も太く育った石楠花は雑草に侵食されながらも豪華に花を開き、牡丹がいくつもの蕾を付けていた。
これから花壇に牡丹を植えようとしているわが家とは風格が違う。
バラも何本もある。
育て主を失った庭を眺めてきました。
生々流転です。
挿し木用にバラの枝を2本切ってきました。根付いてくれたら、「コレは○○から持ってきたバラ」となるのですが、さぁ、私のレベルで上手くいくかどうか。
その後、里山際にあるお墓に行きました。
ポツポツと雨が落ちてきて、途中何台かの帰宅を急ぐ耕運機とすれ違いました。
年に一度程度の帰省ごとの墓参です。夫の子供の頃からあったお墓ではなく、父が亡くなって作った墓ですから、墓としては新しいのです。回り角にめぼしいものはなく、道に迷ったりしながらたどり着くのです。
今回は天候は荒れ模様で、細い農道に迷い込んだりしながら、ようやくたどり着いたときは、スゴイ土砂降り(翌日、そのあたりで落雷で一人なくなったとネットに報じられていました)。傘はあっても車から降りるどころではなく、駐車場からお墓に向かって手を合わせてきました。
夫も「来たよ」というやり取りを、お墓との間で交わしたことでしょう。
で、不思議なのです。
夫は、「お墓は要らない主義だ」と常々言っています。「千の風になって」が流行ると、自分の主張の裏づけが出来たと言い張ります。
結婚式もシブシブ派です。
常に一言、「自分は結婚式をすることには賛同していないのだと」私に耳打ちします。
夫の主義は百も承知です。それを言って、私をいやな気分にさせるだけなのに、私にどう対応して欲しいのでしょうか。
私には、親に育てられ、親兄弟は私のことを、それなりに気遣ってくれ、そんな中で自分があるのだと、思っています。だから、波風を立てたくない、という気持ちがあります。
夫は、気遣いは自分にもあると言い張るでしょう。でも、その分量が、100のうち、私は80で、夫は40ほどなのではないでしょうか。
そんな夫から見ると、私は形式論者で迎合するタイプに見えるのでしょう。
自分の40は、配慮して世間にあわせている、となるのでしょう。
だから、40の配慮で、親類の結婚式には礼服を着て出席するけれど、わが子の結婚式には、そんな配慮はしたくないから、礼服など着ない。なんでネクタイを締めなくてはならないのだ、なんで個人的な結婚式に親類を呼ぶのだという理屈です。
何かと節目を作って顔合わせをする。喜んだり、懐かしんだりするのも、人間社会の知恵だと思うのだけれどね。
で、話はお墓のことに戻ります。
夫は、自分の葬式は要らない、墓は要らない主義です。
それは、了解です。
となると、私が先に死んだ場合はどうなるのだろうか、とふと思うのです。
夫が「主義」をぶっているのはたいてい晩酌中ですから、私のことを持ちかけても耳に入らないでしょう。
3人の子供がいるので、遺体焼却後放置と言うことはないと思っていますが・・・、なるようにしかならない、そう思っています。
自分が両親の墓を訪ねるのに。不思議です。
私が先に死んだら、どうするのでしょう。
妻たるもの「どこかにばら撒いてくれ」主義まで揃えなくてはならないのでしょうか。
友人から、最近墓を作ったので入魂式があるという話を聞きました。
事情があって、彼女はその墓には入らない、つもりらしいです。
世の中いろいろ。
生きている今が大事だから、死後の墓のことはそんなに悩んではいないのですが、
そんなに、風習を曲げてまで主張を通さなくてはならないことなのか、と。夫の思考が不思議だなー、と思います。だって、雷のなる土砂降りの中、両親の遺骨が埋葬されているお墓にむかって、手を合わせたでしょ。
不思議です。
夫の実家(夫の弟が相続し、今は空家)に寄る。
幹も太く育った石楠花は雑草に侵食されながらも豪華に花を開き、牡丹がいくつもの蕾を付けていた。
これから花壇に牡丹を植えようとしているわが家とは風格が違う。
バラも何本もある。
育て主を失った庭を眺めてきました。
生々流転です。
挿し木用にバラの枝を2本切ってきました。根付いてくれたら、「コレは○○から持ってきたバラ」となるのですが、さぁ、私のレベルで上手くいくかどうか。
その後、里山際にあるお墓に行きました。
ポツポツと雨が落ちてきて、途中何台かの帰宅を急ぐ耕運機とすれ違いました。
年に一度程度の帰省ごとの墓参です。夫の子供の頃からあったお墓ではなく、父が亡くなって作った墓ですから、墓としては新しいのです。回り角にめぼしいものはなく、道に迷ったりしながらたどり着くのです。
今回は天候は荒れ模様で、細い農道に迷い込んだりしながら、ようやくたどり着いたときは、スゴイ土砂降り(翌日、そのあたりで落雷で一人なくなったとネットに報じられていました)。傘はあっても車から降りるどころではなく、駐車場からお墓に向かって手を合わせてきました。
夫も「来たよ」というやり取りを、お墓との間で交わしたことでしょう。
で、不思議なのです。
夫は、「お墓は要らない主義だ」と常々言っています。「千の風になって」が流行ると、自分の主張の裏づけが出来たと言い張ります。
結婚式もシブシブ派です。
常に一言、「自分は結婚式をすることには賛同していないのだと」私に耳打ちします。
夫の主義は百も承知です。それを言って、私をいやな気分にさせるだけなのに、私にどう対応して欲しいのでしょうか。
私には、親に育てられ、親兄弟は私のことを、それなりに気遣ってくれ、そんな中で自分があるのだと、思っています。だから、波風を立てたくない、という気持ちがあります。
夫は、気遣いは自分にもあると言い張るでしょう。でも、その分量が、100のうち、私は80で、夫は40ほどなのではないでしょうか。
そんな夫から見ると、私は形式論者で迎合するタイプに見えるのでしょう。
自分の40は、配慮して世間にあわせている、となるのでしょう。
だから、40の配慮で、親類の結婚式には礼服を着て出席するけれど、わが子の結婚式には、そんな配慮はしたくないから、礼服など着ない。なんでネクタイを締めなくてはならないのだ、なんで個人的な結婚式に親類を呼ぶのだという理屈です。
何かと節目を作って顔合わせをする。喜んだり、懐かしんだりするのも、人間社会の知恵だと思うのだけれどね。
で、話はお墓のことに戻ります。
夫は、自分の葬式は要らない、墓は要らない主義です。
それは、了解です。
となると、私が先に死んだ場合はどうなるのだろうか、とふと思うのです。
夫が「主義」をぶっているのはたいてい晩酌中ですから、私のことを持ちかけても耳に入らないでしょう。
3人の子供がいるので、遺体焼却後放置と言うことはないと思っていますが・・・、なるようにしかならない、そう思っています。
自分が両親の墓を訪ねるのに。不思議です。
私が先に死んだら、どうするのでしょう。
妻たるもの「どこかにばら撒いてくれ」主義まで揃えなくてはならないのでしょうか。
友人から、最近墓を作ったので入魂式があるという話を聞きました。
事情があって、彼女はその墓には入らない、つもりらしいです。
世の中いろいろ。
生きている今が大事だから、死後の墓のことはそんなに悩んではいないのですが、
そんなに、風習を曲げてまで主張を通さなくてはならないことなのか、と。夫の思考が不思議だなー、と思います。だって、雷のなる土砂降りの中、両親の遺骨が埋葬されているお墓にむかって、手を合わせたでしょ。
不思議です。