日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

余計なことかな?

2017-11-14 09:19:33 | 私の雑感あれこれ
どうでもいいことなのですが、つい偏屈なので、ひとこと試みてみました。苦笑

今年は民生委員という制度が発足して100年という節目の年です。
で、わが町でも記念行事が企画されました。

熱心なメンバーでもないから、私は流れにお任せ。
いつのまにか、地元出身の地味系の俳優さんの講演会に決定。
福祉とかにつながりがありそうには思えません。

いわゆる「ときにはテレビに出る人」だから、という理由っぽいです。
で、当日参会者が少ないと困るからと、チラシを配布してください、と指令が出ました。
どんなテーマの話をするの?
は、ないのです。
どんな話をしてもらおうか、とこちらから言えばしゃべってくれるでしょう、と。

まいった。

「(脇役系で)テレビに出ている人に会ってみたい」ものだという発想が、ちょっとね。

で、腰椎圧迫骨折していることだし、「どうぞ」と勧誘する気力も湧かなくて、配布さぼっています。

そして、100周年記念として、私たち互助会メンバーにも、なにか、という提案が先月の例会でありました。(記事にしたかな?)
「○○100周年記念」とマークの入った文房具をもらっても、なんだかな~と言っていたのに、
担当者は、やはり、まさしく、ひとり1000円程度の予算でのそんな印字文字が入ったボールペンに決めたそうです。

あの例会の後、思いついたのは、近隣の養護施設へのクリスマスケーキはどうだろうか?

という提案ができたら、ということでした。

で、昨日の11月例会で、既に確定、発注していたら撤回しますけれど、と、前置きして提案。

50人弱のメンバーですから、5万円程度です。
例年よりちょっとリッチなクリスマスになるのも、きっと子供たち喜ぶのではないかしら、
と、勝手に空想していました。早とちり⇒ワタシ

ボツ、でした。

ボツの可能性あるのは承知でした。
私としては、福祉の組織なのだから、「予算があるから、前例に倣って無難に使う」ではなく、これこそ福祉、という使い方してほしい、という考え方をする人もいるということをチラッでも匂わせられたので、発言しないで終わるより良しと思っています。

発言を聞いて、「これは互助会のお金だから、そんなこと(寄付のようなこと)はできない」ととっさに言った人がいた。
そんなにボールペンが要らないのなら、誰かにあげればいいでしょ、とも。

ええっ!

思いもしなかったのでしょうね。互助会のささやかなイベントとしてみんなの合意があれば、自分たちのためにお金をものに買えるのではなく、プレゼントするという行為に換えるってのもありなのに。

今回はかなわなかったけれど、メンバー50人ほどの皆さんの誰かに届いたらいいな、と思っています。

■総括 
組織というのは、無事卆なくやり終えることに終始しているのだな、とヒシヒシと感じます。









コメント (2)
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この話題3度目『花神』読了。

2017-11-14 06:54:45 | 
すみません。しつこいですね。

戊辰戦争が一段落した明治2年。村田蔵六(大村益次郎)はテロリスト集団の襲撃に倒れます。
負った傷から敗血症になり、命を落とします。蔵六がこれからのことも考えて設置した大阪仮病院(大阪大学医学部の前身)で。
シーボルトの娘イネ(学問好きな産科医)が看病に駆けつけたという。

司馬さんは、蔵六は機械、と表現する。
その時代が必要とする道具、冷静で的確にことを成し遂げる最善を行ってくれる道具だったと。

戊辰戦争後も、西のほうからの蜂起に備えなくてはと考え、火薬、砲弾の準備を怠らない。大阪仮病院の設置もそのため。
その蜂起がおこったのは、明治10年の西南の役。
官軍は圧倒的な武器弾薬で勝利を収めたけれど、これは西郷と戦を予測して死んでいった蔵六(大村益次郎)の戦いという面もあったと書いている。

先日の熊本旅行で、高速道路走行中に「田原坂」という緑色の道路標識が目の前をかすめたのを覚えている。
国道を走っていて、江戸へ向かう時はこの道を通ったのです、という案内にも、木曽三川の工事を命じられた薩摩藩の宝暦の時代(1752年頃)、幕末の時代を思いやったりしていた。

もうひとつ。
蔵六は戊辰戦争にあっては、官軍側の総大将として北陸、東北へも官軍の派兵を行っている。その反対側、幕藩側で殿様を何としても守らなくてはと、尽力して命を落とした有能な長岡藩の家老河井継之助(峠の主人公)のことも去来した。

こういうものなのですね。

どの時代に自分が生を受けるか。

精一杯をやっても、志半ばで命を落としたたくさんの人たちがいることを、つくづく思います。

漠然と薩長と覚え、薩摩と長州の特徴も志士たちの名前でしか知らなかったのに、そういうことか、と司馬さんの小説を通して、ちょっとわかったような気がします。

この本は昭和46年刊です。我が家の書棚にあった文庫本は夫が購入した昭和51年版。
本の2か所ほどに、糸くずが挟まっているのかしらと思ったほど頼りない意味を持たない線がありました。
細くて薄い線。
間をおいて、これはエンピツの落書きで、きっと子供が幼かったときに、書斎で本を読む父親のひざに乗りたがって、ひざの上でエンピツをいじっていたのでしょう。
長女は鉛筆で何かを書くのが大好きな子でしたから。忙しくて注意する間もなかったから、彼女は左利きになりました。

40年近くの間をおいて、この本は2度の読み手を持ったということになります。

ああ、読んでよかった。







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