西脇順三郎の一行(番外)
きょうの読売新聞日曜版の「名言巡礼」に西脇の詩が取り上げられている。
(覆された宝石)のやうな朝
詩はどう読んでもかってなものであるけれど、「名言巡礼」の筆者(前田恭二)の書いていることについては、いくつか疑問がある。そのことを書いて置きたい。
1行目は早朝の光を宿し、詩史にも燦然と輝くが、とはいえ理屈で分かろうとすると、難しい。
覆された宝石とは、つまり光の充満した宝石をめくり返し、内部の光を一面に放ったということか--と独り合点したこともあるが、調べてみると、この思いつきはたちまち覆される。
実は英国の詩人、キーツの物語詩にある「an upturn'd gem 」の引用なのだという。
私がまったくわからないのが「理屈で分かろうとする」という態度。それから「調べてみると」という態度。
詩は「理屈」で分かることではないだろう。また、「調べて」分かることでもないだろう。「理屈」は、まだ自分で考える(自分の知っていることを点検する)ことだから、それが「独り合点」という美しさにたどりつくが、「調べてみる」というのは、いったい何だろう。
と、他人を批判するより、私の考えを書いた方が早いか。
私もこの行は好きだ。好きだけれど、「西脇の一行」を書きはじめるときに、それを取り上げなかった。理由は簡単である。私は「覆された宝石」を見たことがないからである。「宝石」そのものを見たことがない。日本語には単数・複数の区別がないから、私はこの「宝石」を複数と思って読んだ。宝石箱に入っているいくつもの宝石。それがひっくり返される。「宝石」が覆されるのではなく、宝石箱が覆され、撒き散らされた宝石。光の乱反射。そういうものを想像した。そして、想像しながら、この「想像」は私にとっては嘘だとわかった。実感がともなわない。何の感想も動かない。美しいとは思わない。思えない。宝石と美しさを結びつけて体験したことがないからである。
「覆された宝石」という「比喩」から私が実感できるのは「覆された」ということだけである。「覆す」という動詞がもっている乱暴(暴力)の汚さ(?)。覆されたものは、ばらばら(散らばっている)で、まあ、美しいとはいえない。ちゃぶ台(もう、どの家庭にもないけれど)が覆される。ひっくり返される。そうするとご飯だの、味噌汁だの、漬物だのが、その辺にぶちまけられる。散らばる。「覆される」とは、私にはそういう状態であり、これなら知っている。それは美しくない。
その美しくないものが「宝石」という私の知らない美しいものと結びつけられて書かれている。そうか。そういう乱暴(暴力)と美というのは、どこかで結びつくのかもしれない。そういう未体験の美がここにある。それに対して衝撃は受けるが、これはあくまで「理屈」で考えたことであって、宝石が覆されたとき、それがどんなものか私は知らない。だから、その知らないものについては、私はそれ以上感想は書かない。
いまでも、私は「覆された宝石」は見たことがない。宝石箱も見たことはない。貴金属点で宝石は見たことがあるけれど、それが「覆された」状態は、やはり未体験。何もいえない。だから、何も考えない。
一方、「覆された」といえるかどうかわからないが。たしか瀬尾育生だったと思うが、何かの詩で「吐瀉物の花々」と書いていた。私はそれを真似して(剽窃して)、つかったこともある。「吐瀉物」というのは汚い。「花々」というのは美しい。その汚いものと美しいものの共存に詩を感じる。
西脇の「覆された宝石」には、何かそういうものがある。乱暴な概念の衝突がある。それが朝の光のように新鮮に輝いている。輝くものは、いつでも、暴力的である。
こういうことは、文献を「調べてみて」わかることではない。文献を調べる前に、自分の体験を調べるべきだと私は思う。詩を読むということは、自分の「肉体」が「おぼえていること」を読むことだ。自分の「肉体」は、他人の文献のなかにはない。
こういうことといくらか関係があるのだが。
西脇の明るさ、西洋嗜好(?)について書いた次の部分にも私は非常に違和感をもった。
雪もよいの中空に思い描いた西洋への思慕が、やがて硬質なイメージに結晶したということらしい。(略)雪国から遠くかなたを目指した大きな振幅こそが、澄み渡るほどにイメージの純化を高めたのではなかったか。
西脇の故郷は新潟県。雪国である。その暗いイメージの対極にある西洋(ギリシャ/地中海)の明るい光。--見出しには「雪国との距離が生んだ光」とあり、そう書かれてしまうと、そうかなあ、と思うひともいるかもしれないが。
北陸の冬(特に雪の多かった昔)はたしかに暗い。光が少ない。けれど、北陸の冬でも晴れ間は光が明るい。雪に反射したまぶしい光は、「宝石」みたいなものかもしれない。晴れた夜の、月の光に青くなった雪、凍ってきらきら光る色は、とても美しい。夏の光も美しい。簡単に「雪国との距離」などとは言えない。
それにギリシャ(地中海)にも雪は降る。ギリシャの冬(雪)は海が近いせいか、まるで北陸の雪のように見える。(テオ・アンゲロプロスの映画で見た雪だけれど。)だいたいアテネというのは新潟と似たような緯度にあって、雪の降らない南国ではないのだ。沖縄のような場所ではないのだ。ギリシャは私の知るかぎり、海岸線が複雑でまるで上空から見ると「島国」にも見える。アテネを歩いてみると坂が多く、近くに山があって(どこまでも平野であるというわけではなくて)、まるで日本である。
頭の中にある「雪国・新潟」と「光あふれるギリシャ」を対比させ、そこに「距離」を見るなら、その「距離」はあくまでそのひとの「頭の中の距離」にすぎない。西脇の「肉体」を感じるというのは難しいから、せめて自分の「肉体」と「肉体で体験したこと(肉体がおぼえていること)」基本に解説(批評?)を書いてもらいたいなあ、と思う。