詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(93)

2014-02-18 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(93)

「風景」

ツクシとホトケノザをなげこんだ

 ここから、詩集『鹿門』の作品群。
 きのう読んだ「クソニンジン」のような強烈な笑いはないが、自然のもっている不思議な力が聞こえてくる。
 西脇のことばは一方で教養の中を動き、他方で自然とぶつかる。人間の思いを拒絶した存在。ツクシやホトケノザには「非情」というものを感じにくいかもしれないが、やはり非情なのだ。人間の思いとは何の関係もない。
 その力と向き合うとき、人間の肉体も「自然」に対抗して、乱暴になる。乱暴の美しさを生きることになる。「投げ込む」。飾るでも、添えるでも、彩るでもない。ただ「投げ込む」。
 ことば自体の音楽ではなく、「肉体」の運動の「音楽」が自然と向き合う。
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西脇順三郎の一行(92)

2014-02-17 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(92)

「壌歌 Ⅱ」

土手の下のクソニンジンの繁みの中に               (104 ページ)

 「クソニンジン」が野卑で野蛮で、その教養にそまっていなところ、雅語からはるかに遠いところが清潔で美しい。
 ひとが暮らしている現場で動くことばには偶然と必然が固く結びついている。その強固さにはどんな雅語もかなわない。雅語というのは嘘だからである。教養というのもきっと嘘なんだろうなあと感じる。
 教養のひとが、こういうことばをつかうところに、また「笑い」がある。健康なコッケイがある。
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西脇順三郎の一行(91)

2014-02-16 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(91)

「壌歌 Ⅱ」

「絶対的コッケイ性」                      (103 ページ)

 西脇にとって詩は「コッケイ」なものである。その「コッケイ」とは何か。「絶対的コッケイ」とは何か。普遍になりえない普遍がコッケイであると書くと同義反復になるが。
 普遍には二種類ある。あらゆるものに共通する「普遍」。あらゆるものというのは言いすぎかもしれないが、いわば「理想」としての「普遍」。バラが美しいというとき思い浮かべる「美しい」には普遍がある。それは桜が美しい、トラが美しいというときにも共有されるものである。
 そうではなくて、一回性の存在がある。何かを突き破って噴出してくるその「勢い」のなかにあるもの--運動としての普遍といえばいいのか。突き破る、ということのエネルギー。不出しながら消えていくもの。
 そういうもののひとつに、この詩の前の部分では写楽の絵が引き合いに出されている。写楽の絵は消えてしまうのものではないが、写楽の絵がとられている人間の「線」は一回かぎりのカリカチュアである。その線は他人の顔には、肖像画としてはあらわれない。だから、コッケイなのだ。
 そこでは「あらわれる」という動詞が共有されている。
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西脇順三郎の一行(90)

2014-02-15 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(90)

「壌歌 Ⅱ」

あのあつい皮をむくとうち側は                  ( 102ページ)

 西脇の詩の行は一行で完結した「意味」をもたない。西脇の詩の一行は「断片」である。「切断」されている。それは前の行、あるいは次の行とつながって「意味」になることが多いのだが、つなげて「意味」を追っているとき、何か間違っているという感じに襲われる。私が「西脇の一行」という無謀な感想を書きつらねているのは、その「何か間違っている」(意味にしてはいけない)何かを、なんとかつかみ取りたいからである。
 ふつう、ことばは「意味」によって補強される。「意味」がわかると、そこには何らかの「価値」が存在しているように感じてしまう。西脇の一行は、その一行自体を取り上げると説明しにくいのだが、詩をつづけて読んでいると、読む度に一行一行が独立/分離していく感じがする。「意味」をつくりながら、「意味」から離れていこうとしているように感じられる。「意味」から離れてしまうと、ことばというのは頼りなくなるはずなのに、西脇の詩の場合は違う。離れていくことで、全体を「強固」にする感じがある。ぶぶんとしてあまりにも「強さ」をもちすぎているということだろうか。

 あ、抽象的に書きすぎた。

 この行が魅力的なのは、「むく」という動詞が含まれているからである。「あのあつい皮の内側は」と書いても「意味」はかわらない。かわらないけれど、何かが違う。「むく」という動詞がはいり込むと、そこに西脇が動いて見える。皮の内側に何かがあるという「事実」は変わらないのだが、「むくと」という動詞がはいり込むと、「むく」ことによって西脇が「内側」を発見するという動きにかわる。「内側」に何かあるというのは「普遍の事実」ではなくて、「西脇の発見した事実」になる。
 一行のなかに、「肉体」が深く関係している。「肉体」が存在し、動いている。
 「動詞」が含まれないときでも、そこには西脇の「肉体」がある。「肉体」がおぼえていることがある。たとえば「教養」というものもそのひとつかもしれない。「嗜好」というものそのひとつだろう。
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西脇順三郎の一行(89)

2014-02-14 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(89)

「壌歌 Ⅱ」

露出するとき美という                      ( 101ページ)

 この行は一行としては不完全である。何が、どこに、いつ、などの「要素」が欠けている。もちろん、前の行にそれが書かれているから、詩としては不完全ではなく、私の行の取り上げ方が悪いのだが。
 しかし、不完全であっても、というより不完全であるからこそ完全であるとも言える。何が、どこに、いつ露出しようが、「露出する」という動きが美なのである。隠れているものがあらわれる。見えないものが見える。その瞬間、世界が変わる。
 西脇は、世界から何かを「露出」させようとしている。詩は「露出」にあるのだ。

 こんなふうに文章が「意味」に収斂していくのは頭が疲れているからなのだが、まあ、きょうは私にはそういう日なのである。日記なので、こんなことも書いておく。
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西脇順三郎の一行(88)

2014-02-13 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(88)

「壌歌 Ⅱ」

土手の上をのら猫がのそのそ                   ( 100ページ)

 この1行は、前の1行を引用しないとおもしろさがつたわらない。直前の行は「ドラクロア!」である。その「ドラクロア」という音から「土手」が導き出されている。このあと詩には「トラ」が出てくるが、もちろんこれも「ドラクロア」から来ている。
 そう考えると、ほんとうは「ドラクロア!」という1行こそ、西脇が書きたかったのかもしれない。「ドラクロア」という音のなかにある何かが西脇を突き動かしている。
 それでも私はこの1行を選ぶ。
 「土手」いがいの部分、「のら猫のそのそ」というのは単純な「音」の繰り返し、「音」の遊びだが、ドラクロアという芸術から、「のら猫」「のそのそ」という俗へ動いていく動きのすばやさがおもしろい。
 なによりも、西脇のことばは、俗のことばが強い。たたいても、こわれない。しっかり「肉体」になっている。
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西脇順三郎の一行(87)

2014-02-12 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(87)

「壌歌 Ⅱ」

でも永遠は永遠にのこる                      (99ページ)

 同義語の繰り返しを文学はあまり好まない。同じことばの繰り返しは語彙の貧困を想像させるからだろうか。しかし西脇にはこの繰り返しが多い。
 繰り返すと意味が違ってくる。
 この詩の場合、最初の「永遠」は概念である。しかし、繰り返される「永遠」は概念ではなく、具体的な「とき」(場所のような「とき」)である。--と書いてみても、それは抽象にすぎないのだが。概念にすぎないのだが。
 概念と概念がぶつかり、その瞬間に概念以外のものがみえたように錯覚する。
 詩というのは、こういう一瞬の錯覚のことかもしれない。
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西脇順三郎の一行(86)

2014-02-11 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(86)

「壌歌」(Ⅱ)

タマデンの線路が曲つてのびている                 (98ページ)

 「曲る」は西脇の好む描写だが、曲がってそのあとはどうなるのか。あまりその先のことは書かないが、ここでは「のびている」と動詞がつづいている。「曲がる」そのものは、直線の拒絶であり、拒絶は切断であると考えると、「のびる」は何だろう。「接続」とは違うなあ。
 ふと私は西脇の好きな「永遠」ということばを思い浮かべる。はてしなくまっすぐでも永遠だろうけれど、西脇の永遠は、曲がることで果てしない先にあるではなく、その「曲がる」という運動そのもののなかにあるように思えてくる。まっすぐよりも曲がる方が「運動」に変化があって、そこに「味」がある。「味」を含めて「永遠」なのだ。


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西脇順三郎の一行(85)

2014-02-10 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(85)

「壌歌」(Ⅱ)

人間の眼にはうつらない!                     (97ページ)

 きのう、脇道を歩いてしまった。で、「84」とはちょっとことばがつづかないのだが……。まあ、気にすまい。詩なのだから、どこから読んだっていい。
 「うつらない」は「見えない」と同じ意味だが、「うつらない」は「見えない」かと思うとき、少し「意識」に沈黙がある。こういう沈黙はなかなかおもしろいし、それを沈黙と感じるとき、
 あ、西脇の「行わたり」のことばも沈黙をつくりだす運動なのだとわかる。
 一瞬考える。
 その思考の一瞬の空白に、肉体の沈黙がはいり込んでくる感じ。思考が意味という「道筋」をつけると、それにしたがって肉体が飛躍すると言えばいいのか、逆にことばの肉体がつまずいて、それを思考の意味が支え後ろから押すといえばいいのか。
 よくわからないけれど、一瞬の「断絶」だね。
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西脇順三郎の一行(番外)

2014-02-09 15:06:48 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(番外)

 きょうの読売新聞日曜版の「名言巡礼」に西脇の詩が取り上げられている。

(覆された宝石)のやうな朝

 詩はどう読んでもかってなものであるけれど、「名言巡礼」の筆者(前田恭二)の書いていることについては、いくつか疑問がある。そのことを書いて置きたい。

1行目は早朝の光を宿し、詩史にも燦然と輝くが、とはいえ理屈で分かろうとすると、難しい。
 覆された宝石とは、つまり光の充満した宝石をめくり返し、内部の光を一面に放ったということか--と独り合点したこともあるが、調べてみると、この思いつきはたちまち覆される。
 実は英国の詩人、キーツの物語詩にある「an upturn'd gem 」の引用なのだという。

 私がまったくわからないのが「理屈で分かろうとする」という態度。それから「調べてみると」という態度。
 詩は「理屈」で分かることではないだろう。また、「調べて」分かることでもないだろう。「理屈」は、まだ自分で考える(自分の知っていることを点検する)ことだから、それが「独り合点」という美しさにたどりつくが、「調べてみる」というのは、いったい何だろう。
 と、他人を批判するより、私の考えを書いた方が早いか。

 私もこの行は好きだ。好きだけれど、「西脇の一行」を書きはじめるときに、それを取り上げなかった。理由は簡単である。私は「覆された宝石」を見たことがないからである。「宝石」そのものを見たことがない。日本語には単数・複数の区別がないから、私はこの「宝石」を複数と思って読んだ。宝石箱に入っているいくつもの宝石。それがひっくり返される。「宝石」が覆されるのではなく、宝石箱が覆され、撒き散らされた宝石。光の乱反射。そういうものを想像した。そして、想像しながら、この「想像」は私にとっては嘘だとわかった。実感がともなわない。何の感想も動かない。美しいとは思わない。思えない。宝石と美しさを結びつけて体験したことがないからである。
 「覆された宝石」という「比喩」から私が実感できるのは「覆された」ということだけである。「覆す」という動詞がもっている乱暴(暴力)の汚さ(?)。覆されたものは、ばらばら(散らばっている)で、まあ、美しいとはいえない。ちゃぶ台(もう、どの家庭にもないけれど)が覆される。ひっくり返される。そうするとご飯だの、味噌汁だの、漬物だのが、その辺にぶちまけられる。散らばる。「覆される」とは、私にはそういう状態であり、これなら知っている。それは美しくない。
 その美しくないものが「宝石」という私の知らない美しいものと結びつけられて書かれている。そうか。そういう乱暴(暴力)と美というのは、どこかで結びつくのかもしれない。そういう未体験の美がここにある。それに対して衝撃は受けるが、これはあくまで「理屈」で考えたことであって、宝石が覆されたとき、それがどんなものか私は知らない。だから、その知らないものについては、私はそれ以上感想は書かない。
 いまでも、私は「覆された宝石」は見たことがない。宝石箱も見たことはない。貴金属点で宝石は見たことがあるけれど、それが「覆された」状態は、やはり未体験。何もいえない。だから、何も考えない。
 一方、「覆された」といえるかどうかわからないが。たしか瀬尾育生だったと思うが、何かの詩で「吐瀉物の花々」と書いていた。私はそれを真似して(剽窃して)、つかったこともある。「吐瀉物」というのは汚い。「花々」というのは美しい。その汚いものと美しいものの共存に詩を感じる。
 西脇の「覆された宝石」には、何かそういうものがある。乱暴な概念の衝突がある。それが朝の光のように新鮮に輝いている。輝くものは、いつでも、暴力的である。
 こういうことは、文献を「調べてみて」わかることではない。文献を調べる前に、自分の体験を調べるべきだと私は思う。詩を読むということは、自分の「肉体」が「おぼえていること」を読むことだ。自分の「肉体」は、他人の文献のなかにはない。

 こういうことといくらか関係があるのだが。
 西脇の明るさ、西洋嗜好(?)について書いた次の部分にも私は非常に違和感をもった。

雪もよいの中空に思い描いた西洋への思慕が、やがて硬質なイメージに結晶したということらしい。(略)雪国から遠くかなたを目指した大きな振幅こそが、澄み渡るほどにイメージの純化を高めたのではなかったか。

 西脇の故郷は新潟県。雪国である。その暗いイメージの対極にある西洋(ギリシャ/地中海)の明るい光。--見出しには「雪国との距離が生んだ光」とあり、そう書かれてしまうと、そうかなあ、と思うひともいるかもしれないが。
 北陸の冬(特に雪の多かった昔)はたしかに暗い。光が少ない。けれど、北陸の冬でも晴れ間は光が明るい。雪に反射したまぶしい光は、「宝石」みたいなものかもしれない。晴れた夜の、月の光に青くなった雪、凍ってきらきら光る色は、とても美しい。夏の光も美しい。簡単に「雪国との距離」などとは言えない。
 それにギリシャ(地中海)にも雪は降る。ギリシャの冬(雪)は海が近いせいか、まるで北陸の雪のように見える。(テオ・アンゲロプロスの映画で見た雪だけれど。)だいたいアテネというのは新潟と似たような緯度にあって、雪の降らない南国ではないのだ。沖縄のような場所ではないのだ。ギリシャは私の知るかぎり、海岸線が複雑でまるで上空から見ると「島国」にも見える。アテネを歩いてみると坂が多く、近くに山があって(どこまでも平野であるというわけではなくて)、まるで日本である。
 頭の中にある「雪国・新潟」と「光あふれるギリシャ」を対比させ、そこに「距離」を見るなら、その「距離」はあくまでそのひとの「頭の中の距離」にすぎない。西脇の「肉体」を感じるというのは難しいから、せめて自分の「肉体」と「肉体で体験したこと(肉体がおぼえていること)」基本に解説(批評?)を書いてもらいたいなあ、と思う。
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西脇順三郎の一行(84)

2014-02-09 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(84)

わきで全くきこえない音を                     (96ページ)

 「全くきこえない」なら、それは「音」ではない。でも、西脇は「音」と書く。それ読むとき、不思議なことに私には「音」が聞こえる。この「聞こえる」はとても変な感覚だ。まわりにある音が、その「きこえない音」に向かって吸い込まれていく。消えていく。消えつづけていく。消えたと思ってもまだ消えていなくて、はてしなく消えていくという「運動する音」なのである。
 この「運動する音」というのは、この行につづく「出しているがそれも/果てしない永遠に向かつて/あこがれているのだ」という行によって強調されている。
 音が消えた瞬間の「無」になった「音」ではなく、「無」を生み出しつづける音。「生み出しつづける」という動きがあるために、その振動のために、「音」が聞こえる--と書いてしまうと理屈っぽくなるし、強引にもなるのだが……。
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西脇順三郎の一行(83)

2014-02-08 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(83)

「壌歌」(Ⅱ)

ミョーガをにた汁をかけ                      (95ページ)

 西脇の詩には野菜がよく出てくる。そしてその野菜は、私の感覚では青果店で売っている野菜ではない。畑になっている野菜、それをとって食べる自給自足の野菜である。
 この行のあとは「ウドンをたべるころは」とつづくので、ミョウガはウドンの薬味であることがわかる。ただし、それは出汁に散らす感じの薬味ではない。そういう洒落たことはせずに、出汁といっしょに薬味のミョウガを煮てしまっている。これは田舎ではよくやることである。百姓の暮らしではよくやることである。(というのは、私の体験である。私の家では刻んだミョウガをあとから薬味に散らすというようなめんどうなことはしなかった。)
 西脇の詩には、文学的(教養あふれる)会話がたくさんあるが、それと同時に、この行のように野性的な暮らしのことばや風物がよく出てくる。その二つは拮抗して不思議な「音楽」になる。手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いは、異質な「もの」の出会いだが、西脇の書いているのは異質な「世界/文体」の出会い/衝突である。
 「文体」というのは私の「感覚の意見」では、ひとつの「音楽」である。だから異質な文体の出会いというのは異質な音楽の出会いでもある。クラシック音楽と民謡が出会うように、違う性質の(違う歴史の)音楽が衝突する。
 それがとてもおもしろい。
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西脇順三郎の一行(82)

2014-02-07 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(82)

「壌歌」(Ⅱ)

よく野原にみみをすましききいると                 (94ページ)

 この行は「よく」見ると、「みみ」と「きき」と同じ音の繰り返したことばが出てくる。これを「耳」「聞き」と書くと、音ではなく意味の方が強く前に出てくる。ひらがなで書かれているので読むスピードが落ちて、「みみ」「きき」が耳に響きやすくなる。さらに、すま「し」「きき」「い」ると、と「い」の音がつながって、おとが流れているのがわかる。
 この行をはさんで、詩は「ただコホロギが鳴いている」と抽象的な会話から、自然の描写へと転換する。その転換のポイントを「聞く」という動詞、そして「音」がつくりだしているところが西脇らしいと、私は感じる。
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西脇順三郎の一行(81)

2014-02-06 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(81)

「壌歌」(Ⅱ)

生存競争は自然の法則である                    (93ページ)

 この詩も長いので、1ページから1行を選んで書いていく。
 引用した行は冒頭の一行。とてもスピードがある。そのスピードは、そこに書かれていることが誰もがうすうす「わかっている」ことだからである。「わかっている」ことは、次のことばを動かす。あるいは、わかっていることに乗って次のことばが動いていく。加速する。加速しすぎて脱線する。そして脱線するのは「知性」というものにきまっている。
 この加速、逸脱と向き合っているのが、このページの後半にある次のことば。1ページ1行というのルールに反するが引用しよう。

「月もおちて星の蝋燭が
一本もついていない
天国もこのごろ不景気で
節約しているんだべ」

 知性でしかたどりつけないような表現のあとに「……だべ」という口語が飛び出す。野蛮が飛び出す。野蛮が、知性を突き破って、笑いになる。この破壊は、加速というよりも知性の暴走を無にしてしまう破壊である。ブレーキというよりも破壊としての、笑いとしての野蛮。
 そこに音楽がある。破壊の激しい笑いの音楽がある。乱調の音楽と定義すれば、西脇が多用する「行わたり」のリズムと通じることになるかもしれない。

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西脇順三郎の一行(80)

2014-02-05 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(80)

「《秋の歌》」

乞食が一度腰かけたぬくみを

 この一行のなかでは「肉体」が不思議な形で動く。「乞食が一度腰かけた」というのは目で見た姿である。あるいは乞食が「腰かける」という動作(運動/動き)である。それは詩を書いている人からは「離れた感覚」である。
 ところが「ぬくみ」はそうではない。誰かが腰をおろしたその場所に残る「ぬくみ」は触れてみないとわからない。そして、このことは「触れる」ということの不思議な哲学を明るみにする。「触れる」ことは「他者」を理解することなのである。自分の「肉体」そのもに取り込み、そこにあったことがらを「わかる」ことなのだ。
 目で見て「わかる」から、手で触れて「わかる」へかわる。視力と触覚が融合して、新しい何かを瞬間的に噴出させる。西脇の肉体の中には、こういう「自然の野蛮」が動いている。知性のことばと同時に肉体の野蛮が動き、ぶつかる--この衝突の音楽が西脇の「文体」を動かしている。
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