詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(79)

2014-02-04 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(79)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

よく考えてよく耳を傾けてみたまえ                 (91ページ)

 この一行を選ぶのは、私の「我田引水」というものだろうか。そうかもしれない。それよりも「茄子の皮よりはまだ価値がない」をとりあげて、「茄子」好みの西脇に言及した方がいいかもしれない。価値判断に茄子を出してきた段階で、西脇はそれにすでに価値を与えている--というような「意味」を語った方がいいのかもしれない。
 けれども、やはり、この行が好きなのだ。あ、西脇だ、と思うのだ。「よく考えてよく目を開いてみたまえ」ではないのだ。「耳」で何かを聞く。それは「自分の声」ではなく「他人の声」を聞くということだ。「他人」が「考え」が閉鎖する(完結する)を防いでくれる。
 きのう触れた「自然の野蛮」というものは「知性」からみると「他人の力」そのものである。「他人」が「自己」を洗い流し、新鮮な詩を噴出させる。
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西脇順三郎の一行(78)

2014-02-03 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(78)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

あの秋の末のくさつた黄色い野菊だ                 (90ページ)

 西脇の書く自然は野蛮な味がする。きよらかな野蛮もあるが、汚い野蛮、酷たらしい野蛮もある。そして、逆説的な感覚になってしまうが、その汚らしく、酷いものが、なまなましいいのちを噴き出す。腐った野菊というのは死そのものだが、腐るところから生まれるどろどろしたいのちのようなものが、なんとも激しい。
 それは「知性」を破る野蛮の本質そのものである。
 西脇の知性はいつも野蛮と向き合っている感じがする。
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西脇順三郎の一行(77)

2014-02-02 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(77)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

純粋に人間的なもの以外には滑稽(コミック)はない         (89ページ)

 この行は、私は好きではない。好きな行を取り上げ、なぜ好きかということを書くのがこの「感想」の目的なのだが、あえて好きではない行を取り上げることにする。
 なぜ好きではないか。
 理屈っぽいからである。「以外には……ない」という二重否定のような構造が理屈っぽさを強調する。「いがい」「ない」という脚韻(?)のリズム、「いがい」を鼻濁音で読むとき、「が」と「な」の子音も半分韻を同じくする。それがちょっと音楽としてはおもしろい。
 音楽を無視すれば、「純粋」ということばも理屈っぽさを強調しているかもしれない。

 滑稽に「コミック」とルビを打っているのも、私には目障りに感じられる。好きではないなあ。
 滑稽(こっけい)と淋しいは肯定的に結びつく。コミックとは肯定的に結びつかない。一行の構造が二重否定、否定の強調になっていることも「コミック」という音を選ばせたのかもしれない。「こっけい」と読まれては困る、という意識が西脇のなかで働いたのだろう。
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西脇順三郎の一行(76)

2014-02-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(76)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。
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西脇順三郎の一行(75)

2014-01-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(75)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

やせた鹿はモナ・リーザのように                  (87ページ)

 この一行はきのう取り上げた一行に比べると「意味」が不完全である。「ように」のあとの用言がない。引き継ぐ動詞がない。そのために、この一行だけでは意味がわからない。
 鹿とモナリザ。まったく無関係なものが一行のなかで「用言」を遠ざけられたままであっている。そのために新鮮な印象がする。
 しかしただそれだけではない。鹿を形容する「やせた」が不思議な効果をもっている。「やせた」ということばは反射的に「ふとった(ふくよかな)」ということばを思い出させる。「乏しい」「弱い」というような類似のことばも呼び寄せるかもしれないが、モナリザの丸い頬の感じなどが「やせた」によって自然にスポットを宛てられたような、意識に浮かんでくる。
 手術台の上のミシンとこうもり傘のような、かけ離れたものでありながら、かけ離れること(対立すること)が、逆にことばをどこかで接続させている。その接続があるから、それにつづいて「古典的な微笑をかくして」の「微笑」が、読者を安心させる。


2014年02月01日(土曜日)

西脇順三郎の一行(77)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

ピカソは土人がなめる石の笑いに                  (88ページ)

 「なめる」という動詞が強烈に動く。その前の「ブレークはトラの笑いにもどり/ジョイスはイモリの笑いにもどり」と比べると、ピカソの一行の不思議な強さの印象がさらにあざやかになる。
 この一行は、

ピカソは土人がなめる石の笑いに「もどり」

 と、「もどり」が省略された形とも受け取ることができるが、「なめる」がそういう「形」を拒絶している。ある予定された軌道を逸して動こうとしている。その力に押されて「もどり」ということばは消えてしまったのだろう。
 「なめる」は「もどる」とは逆の動きなのだ。引き返すのではなく、より積極的に近づいていく。近づいていくを通り越して、そこにあるものを自分の中に入れてしまう。「なめる」は「食べる」とは違うのだけれど、舌が触れるということは半分口の中に入るということである。
 「もどる」は自分があるもののなかへ入っていくのに対し、「なめる」はあるものを自分のなかに入れること。「肉体」が逆に動いている。
 奇妙な言い方しかできないのだが、「もどる」と「なめる」を比較するとき、「もどる」は男性的、「なめる」は情勢的な感じがする。なかへ入っていく男、なかへ受け入れる女--そういう対比もついつい考えてしまう。
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西脇順三郎の一行(74)

2014-01-30 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(74)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

生殖が終つたらすぐ死ぬといい                   (86ページ)

 「意味」の強い一行だが、「生殖」と「死ぬ」といういわば反対のことばが非常におちついか感じでおさまっている。なぜだろう。「終つたら」(終わる)ということばが仲立ちしているためかもしれない。「終わる」と「死ぬ」はなじみやすい。
 「死ぬ」の反対は正確には「生まれる」かもしれない。それを「生殖」(性交)という「誕生」以前の運動で向き合わせているのも、ことばをなじみやすくしているのかもしれない。
 「すぐ」というのは強調なのだけれど、「すぐ」という音の中になにか「一呼吸」ある。「意味」を強調しているにもかかわらず、一種の「間」がある。これも対立することば(概念)をなじみやすくしている。
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西脇順三郎の一行(73)

2014-01-29 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(73)

「天国の夏(ミズーリ人のために)」

それは淋しいことだが仕方がない                  (85ページ)

 長い作品なので、この作品も1ページ1行ずつ選んでみる。
 「淋しい」ということばは西脇のお気に入りのことばである。しきりに出てくる。そのせいだろうか、「仕方がない」と書いているのだけれど、どうも「あきらめた」という感じがしない。
 むしろ、当然、いや「必然」という感じで響いてくる。
 しかし、この感想は「正直」ではないかもしれない。「淋しい」ということばが頻繁に出てくるということを私はすでに知っている。だから、その熟知のことと「必然」を結びつけているのかもしれない。
 「淋しい」を肯定して、その先へと動いていく感じがする。
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西脇順三郎の一行(72)

2014-01-28 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(72)

「田園の憂鬱(哀歌)」

--「どうもよくみえない」

 これは眼鏡が曇ってよく見えないので、眼鏡を吹きながらの「台詞」になるのだが……。行頭の「--」。これがちょっとおもしろい。西脇はひとのことばを引用(?)するとき、鍵括弧をつかっている。この行でも「 」は書かれている。
 では、なんだろう、これは。
 「間」なのだと思う。眼鏡を拭くという行動がある。それからことばが出てくるまでの「間」。
 「間」と沈黙は同じものだろうか。違うものだろうか。違うと思う。「間」は文字通り、何かと何かの間。沈黙は「間(あいだ)」にあるものではなく、それ自体で存在する。でも、「間」は単独では存在できない。
 ということは。
 「間」とはリズムということかもしれない。
 「音楽」にはいろいろな種類がある。ことばの音楽では、もっぱら音韻が語られる。リズムの場合でも音韻数(あるいは拍)が語られる。しかし、それ以外にも「間」のリズムがある。
 西脇は、そういうものも再現できる「耳」をもっていたのだ。
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西脇順三郎の一行(71)

2014-01-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(71)

「坂の夕暮れ」

なければならないのか

 きのう書いたことのつづきになるが、この「なければならないのか」という一行は一行として不自然である。文章になっていない。前の行の「急ぐ人間の足音に耳を傾け/なければならないのか」とつながって、初めて「意味」がわかる。
 「……なければならないのか」はこの作品にはほかにも出てくる。「悲しい記憶の塔へ/もどらなければならいのか」「まだ食物を集めなければならないのか」。他のところでは、「意味」が通じるように書かれているが、私の取り上げたところだけ、一行が独立している。
 なぜなんだろう。
 「なければならないのか」という「音」が、それ自体として好きだったのだ。西脇はその「な」と「ら行(れ/ら)」が交錯する音が音楽としておもしろいと感じたから、それだけを単独に取り出して聞いてみたかったのだ。音楽として響かせてみたかったのだ。
 「意味」ではなく、「音楽」が西脇のことばを動かしている。
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西脇順三郎の一行(70)

2014-01-26 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(70)

「水仙」(ここからは『禮記』)

この野いばらの実につく

 この一行は「文章」として不完全である--と思うのは、その次の「霜の恵みの祈りよ」という一行を読んでいるからそう思うのである。「つく」は終止形ではなく「連体形」であるとわかるのは次の行を読んだときである。
 もちろん「この野いばらの実につく」は、「つく」が終止形であると判断するには、少し不自然なことばの動きである。助詞がおかしい。実「に」つく、ではなく実「が」つくというのが自然なことばのうごきなのかもしれない。だから、この一行の「つく」を終止形思うのは、「助詞」を無視した早とちりということになる。
 けれども、そこには何か早とちりを誘うものがある。
 行頭の「この」という指示詞が印象的である。「この」と突然指し示されるのだが、読者(私)には、その「この」がわからない。「この」がわかるのは西脇だけである。この一行は、そういう意味では「強引」なのである。何がなんでも西脇の意識の方へ動いていく。そういう強引さがあるから「実につく」という助詞と動詞の活用の組み合わせがねじまがって、「終止形」に見えてしまう。(これは私だけの錯覚、早とちりかもしれないが。)

 ということと同時に、私には、何か「終止形」にこだわりたい気持ちがある。
 西脇の詩には、ことばの行わたりがある。本来一行として連結していなければならないものが、途中で切断されて次の行に行ってしまうことばの展開がとても多い。
 そのとき、それはほんとうに「行わたり」なのだろうか。
 そうではなくて、いったん切断している。そこで終わっているのではないのか。終わった上で、次の行であたらしくはじめている。どんなに行がわたっても、西脇にとってはそれぞれの行は「終止形」なのではないのか。
 「感覚の意見」として言うしかないのだが、一行一行が独立した「音」として和音をつくりだす。そういう「音楽」が西脇の詩にはある、と思う。
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西脇順三郎の一行(69)

2014-01-25 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(69)

「まさかり」

「ここの衆

 ある村で見かけた若い男のことばである。このあと「まさかりを貸してくんねえか」とつづくのだが、近所の家に向かって「ここの衆」と呼び掛ける、その呼び掛け方に西脇は驚いている。
 状況から、そしてそのことばから、「意味」はわかるのだが、詩は「意味」ではない。「意味」をこえる何かだ。ここでは、その何かとは「音」である。西脇のつかわない音。西脇は、「ここの衆」と呼び掛けて誰かの家を訪ねることはないだろう。だからこそ、その音に驚いた。
 こうした音の驚きを西脇はそのまま詩にしている。
 ことばの「意味」の土台に「音」がある。「音」が、そこに人間を屹立させる。
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西脇順三郎の一行(68)

2014-01-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(68)

「コップの黄昏」(この作品から『宝石の眠り』収録)

男へ手紙を書いて切手をなめる時だ

 切手を貼る、ではなくて切手を「なめる」。もちろん貼るためになめるのだが、これがおもしろい。切手を貼るよりも、肉体の動きがなまなましい。俗っぽい。そして、そこに力を感じる。肉体が剥き出しであらわれてくる感じがする。
 西脇の詩には抽象的(精神的)な要素が多いのだけれど、それをときどき、こういう生々しい肉体が破る。この乱調(?)の音楽がとても楽しい。私は大好きだ。
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西脇順三郎の一行(67)

2014-01-23 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(67)

 「えてるにたす Ⅱ」

スカンポのように                         (79ページ)

 「スカンポ」を標準語で何というのか私は知らない。「スカンポ」が標準語かもしれない。正しい植物の名前かもしれないが。
 私の記憶(印象)では、それは、田舎の呼び方だ。
 道端に生えている草。茎の中が空洞で、かじると酸っぱい味がする。「スカンポ」の「す」は「すっぱい」、「スカンポ」の「すか」は「すかすか(空洞)」の「す」、「スカンポ」の「ンポ」は茎を折ったときの「んぽっ」という音。
 「スカンポ」は私にとっては草の名前というよりも、その草がもっている「音」。それをかじったときの私の肉体が感じた「感覚のすべて」。
 私は富山で生まれ育った。西脇は新潟の出身。富山と新潟は、まあ、完全に文化圏が違うのだけれど、隣り合っているのだから似ている部分もあるだろう。その似ている部分を私は「スカンポ」に重ねながら西脇を読むのである。

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西脇順三郎の一行(66)

2014-01-22 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(66)

 「えてるにたす Ⅱ」

がまぐちのしまる音                       (78ページ)

 詩の中で「がまぐち」を書いた人が何人いるか知らないが、こういう俗っぽいことばをつかうのが西脇は得意である。--というより、そういう俗っぽいことばがでてきたとき、私は衝撃を受ける。
 「詩は高尚なものである」という考えに私はまだまだ汚染されていて、その「高尚」がぱっと突き崩されることに驚く。その驚きの中で、私は、あ、そうか、どんなことばでも詩になるのだ。そこにあることばとぶつかり、新鮮な音を響かせれば、それが詩なのだとあらためて気づくのである。
 中井久夫のカヴァフィスの訳を私はふと思い出す。中井久夫の訳のなかでは、現代の標準語(書きことば?)、雅語(古くおごそかなことば)、巷の口語(俗語)がまじりあう。やくざな口調が乱入する。そうすると、そこに見たことのない人間が突然「音楽」としてあらわれる。そういうおもしろさ、新鮮さがある。
 西脇のことばにも、そういうものを感じる。

 このがま口の音は、

風とともに
野原の中へ去つた

 と、視覚を新鮮に洗いなおしもする。ことばといっしょに「肉体」が変化する感じが、私にはとても楽しい。
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西脇順三郎の一行(65)

2014-01-21 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(65)

 「えてるにたす Ⅱ」

鉛管のしめりのように                       (77ページ)

 きのう書いた「肉体」の問題をつづけたい。
 この1行は何を描写しているか。私は水道の鉛管を思い浮かべる。暑い日。水道管のなかを水が動いていく。そうすると鉛管の表面に水滴がつく。鉛管がしっとりしめる。そういう状況を思い浮かべる。
 このとき動いている感覚器官は何だろう。
 「目」で見て、鉛管の表面を描写しているのというのが基本かもしれないが、そのとき、そこには「触覚」(手で触った感じ)もまじっている。その「触覚」は「しめっている(ぬれている)」だけではなく、「冷たい」も感じる。
 ある「もの/こと」が描写され、ことばになるとき、そこには「ひとつの感覚」があるのではなく、複合された感覚がある。その複合は「頭」のなかでつくられるではなく、「肉体」のなかに分離できない形、融合する形で存在する。そういうことを西脇のことばは教えてくれる。
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