詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉惠美子「春兆す」ほか

2025-01-17 23:07:44 | 現代詩講座

杉惠美子「春兆す」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月06日)

 受講生の作品ほか。

春兆す  杉惠美子

新しい春に佇み
息をひそめて おさな児と手をつなぐ
一瞬の 未来を見つける

透明さの中に立ち
樹々の息づかいを聴く
一瞬の 呼吸の深さに出会う

早朝の心を歩かせ
通り過ぎる 君の声を聞く
一瞬の はるの渦に溺れる

桜木の影に佇み
朧月のほのかさに埋もれる
一瞬の 回想に包まれる

 起承転結の構造がしっかりした作品。一連目「おさな児」と「未来」、二連目「息づかい」と「呼吸の深さ」の呼応がとても自然。それが三連目で「君の声」と「はるの渦」へと変化する。タイトルには「春」と漢字をつかっているが、ここでは「はる」。そこに、ふしぎな官能性がある。「溺れる」がそれに拍車をかける。これを受けて、四連目で「埋もれる」「包まれる」ということばがつづく。その静かさ。
 「春兆す」。しかし、そのとき、もう二度と帰って来ない「春の記憶」もやってくる。よろこびと悲しみが交錯する。記憶は悲しければ悲しいほどいとおしいし、うれしければうれしいほど、逆にいまを悲しくさせもする。人間の思いとは、わがままなものである。
 こうした気持ちがあって「回想」ということばが選ばれているのだと思うが、この「回想」は、少し「答え」というか「結論」になりすぎてしまっているかもしれない。では、どんなことばがいいのかというと、なかなか思いつかないのだが、「回想」というあまりにも客観的なことばよりも、「かなしみ」(愛しみ)につうじるような感情的/主観的なことばでもいいような気がする。
 つまり、というのは変かもしれないが、私は、この詩を、いま、ここにいない人に対する「ラブレター」のように読みたい気になるのだ。

私人--杭に立つ葉  青柳俊哉  
 
木肌からとじられて離れていく 
自由な私人として 
地上のすべてから力を受けて
 
着地点を定めず飛ぶ
 
殯(もがり)をうつ漏刻の森 落ち葉の列が風に立つ
高くうず巻き さらさらと川へ流れる
 
わたしも水を駆ける 堰の杭にとまる
 
葦 かや吊り草 野鴨 
吊り橋で跳ねる青蛙 
過ぎていく他の木の国の葉たち 
 
出会うものたちが
杭に立つまっ新(さら)なわたしをことほぐ

 たとえば、ここに一本の杭がある。杭だから、それは生きている木ではないのだが、枯れている木なのだが、なぜか一枚だけ葉が残っていると思ってみる。そして、その最後の葉は、いまどこかへ行こうとしているのだと思ってみる。
 その葉から見たとき、世界はこんなふうに見えるかもしれない。
 その一枚の葉は、杭を離れながら、かつて木を離れたいくつもの葉に(仲間に)であう。また、その葉のまわりに存在する新しい世界も知る。
 そんな旅立ちを、世界が祝福している、と読んでみたい。


残された者  堤隆夫

年の瀬 残された者は 
どうやって 新年を迎えればいいのか

愛しい思いは 一片の冬の花びらに 
涙の想いの雫を託して 
こころのせせらぎに 流そう

なぜ なぜ いつも善き人が 
先に逝ってしまうのだろうか

あはれ わたしは 朽ちた花そのものでないまでも
あなたの花影だったのかもしれない

思い出があるから 生きられるのか
然らば 思い出の浮草に乗って 旅立とう

わたしは先を越されてしまった 
置いてけぼりにされてしまった

さようなら さようなら
万葉の鐘の音が聞こえてきた

 「思い出があるから 生きられるのか」という一行に、何を読み取るか。ひとそれぞれだろう。「楽しい思い出」があるから、いまがつらくても「生きられる」のか、「悲しい思い出」があるから、生きられるのか。つまり、私には悲しみ、苦しみにを乗り越える力があると実感できるから、生きられるのか。
 青柳の、「杭に残った一枚の葉」(と、読むのは私の「誤読」で、青柳はちがったことを意図しているかもしれないが)は、「わたしは先を越されてしまった/置いてけぼりにされてしまった」と感じたことがあったかどうかわからないが、この堤の詩のなかの「わたし」はそう感じている。そして、そのとき、もし堤の「わたし」が「葉」ではなく「花」だったとしたら、「わたしは 朽ちた花そのものでないまでも/あなたの花影だったのかもしれない」ということになる。「わたし」と「あなた」は、そんなふうに交錯する。
 あらゆる存在(人間)は個別性を生きているが、個別であるのに、どこかで交錯してしまう。
 ひとの感じていること、考えていることは、基本的に「私の問題」ではないのに、他人なのだからほっておいていいはずなのに、考えたり、感じたりしてしまう。時には、そのひと以上に真剣になってしまう。そして、ふしぎなことに、その瞬間、「私」というもの(枠)が消えて、なんだか豊かになる。
 そんな瞬間をもとめて、私は、詩を読んでいる。詩だけではなく、ことばを読んでいる。

柱時計  淵上毛銭

ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

 「死」が登場するが、ちっとも「死んだ」気持ちにならない。ずーっと生きている感じがする。たぶん、この詩を読んでいるうちに、私は淵上にではなく、淵上が書いた「柱時計」になっているのだろうなあ。柱時計になって、淵上がいようがいまいが関係なく、時を知らせ続ける柱時計になって生きているということだろうなあ。そして、それはまた同時に、この柱時計という詩を書いた淵上になっているということでもある。
 「十二時がきたら 十二/鳴るのかい」という行の展開の仕方も、とてもおもしろい。散文では、こういう展開はしない。そうすると、ここにも、詩が動いていることになる。いわゆる「論理」の踏み外し、踏み外しながら別の「論理」(?)へ移行する。これを「別の論理と交錯する」と書き直せば、今回の「講座」のテーマが浮かび上がるかな? ちょっと、強引かな?

 


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吉田大八監督「敵」(★★★★)

2025-01-17 17:34:44 | 映画

吉田大八監督「敵」(★★★★)(Tjoy博多、スクリーン4、2025年01月17日

監督・脚本 吉田大八 出演 長塚京三、瀧内公美、河合優実

 主人公の年齢が何歳かわからないが、大学教授をやめたあとなので、かなりの高齢。妻が死んで一人暮らしだが、きちんと生活している。その生活が(あるいは、その見る世界が)徐々に変化していく。その変化の過程がなかなか見応えがあるのだが、それは冒頭から暗示されている。そのことに私はいちばん興味を持った。
 朝起きて、朝食をつくって食べる。最初の朝食は、鮭を焼いたものがメインである。この焼いている鮭をアップで見せる。そんなにアップにしなくても鮭とわかるのだが、「わかる」を超えて、鮭であることを主張する。言い換えると、鮭が「自己主張する」。これは、ほかの料理をする部分でも同じ。蕎麦をつくる。そのときの、湯掻いて、水で洗って、という手順、その蕎麦の形。あるいはネギを切るときの包丁、刻まれたネギ。料理番組(料理映画)ではないのだから、こんなにアップにする必要はない。でも、アップ。それは主人公が細部にこだわっているというよりも、細部の主張に押し切られているという感じ。この自分以外のもの、しかも、何かの細部に押し切られるという感じが少しずつ強くなっていく。細部の積み重ねが現実であるというよりも、細部が現実の統一感を破壊して、細部が全体になっていく感じ……。
 その結果、それまで主人公が知っている(統制、あるいは支配していると思っていた)世界が現実なのか、それともその統制を突き破ってあらわれた細部が現実なのか、徐々にわからなくなってくる。
 これを、女との関係に絞って(というわけではないが、中心に)突き動かしていくところが、すけべで、リアルでとてもいい。知っている(支配していると思っている)現実を突き破って動く女は、現実であって、現実ではない。想像、あるいは妄想なのだが、想像や妄想というのは、現実ではないからこそ、男を乗っ取ってしまう。男は、男の頭のなかにあらわれた女に、自在に動かされる。反論できない。女を制御できない。
 主人公を大学教授をやめた男にしたのも「効果的」だ。彼は、現実よりも、彼の頭のなかにある世界の方を「真実」だと思っている。それは日本の現実よりも、フランス文学、とくに演劇のなかにあらわれたものを「真実」と思っている姿の反映かもしれないのだが。
 このなかで、とくにおもしろかったのが、河合優実。「透明な不透明感」を生かして、男をだます。バーのマスターの姪で大学生という設定だが、ほんとうかどうかわからない。男をだまして金を引き出すと、バーのマスターといっしょに姿を消してしまうところをみると、偽学生だろう。これを巧みに演じていた。「あんのこと」「ナミビアの砂漠」は主演ででずっぱりだったから、見ていてちょっとめんどうくさくなったが、この映画のように、ふっとでてきて、「私は主演ではないから」とぱっと消えていく方が「ほんもの」という感じが強く残る。杉村春子が「わき」を演じたときの感じに通じるかもしれない。一瞬、「ほんとう」があればいい。男に「バタイユ」から攻め始めるといか、男を「バタイユ」を利用して釣り上げるところなんか、いいなあ。河合優実が演じる偽女子学生がバタイユの「青空」を理解しているかどうかはわからないが、(筒井康隆の小説が、そうなっているだけなのかもしれないが、原作がどうなっているかを忘れて河合優実を見てしまう。)、男はフランス文学専攻だから、もう「青空」だけで、その主人公になってしまう。性と死の世界、その中心のエロスにどっぷりつかってしまって、まあ、進んでおぼれていく感じになるのだが。だから、その後のプルースト、「失われた時を求めて」をめぐるやりとりなど、河合優実との会話というよりも、すでに男の「妄想」なのだが、ほんとうに「妄想」なのか、現実なのかわからないように、うまく撮っている(演じている)。それが現実か妄想かわからないのは、ちょっと最初にもどって言うと、ここでも河合優実がほとんど「アップ」だからである。「アップ」がリアル性を強調し、かってに動き出すのである。河合優実の「全体」が見えないが、だからこそ効果的なのである。
 「全体」ではなく「部分」に過ぎないのに、それが「全体」になっていく、というのは、「敵」の存在を知らせるメール、あるいは「双眼鏡」などによっても展開されていくのだが、この恐怖は、クライマックスで加速する。このクライマックスも男の家に局限された「アップ」であり、「全体」は描かれないのだが、そして、それがぱっと終わるのもとてもいい。
 最近、私が関心を持ってみた映画は、なぜか監督が脚本も書いている。この映画もそうなのだが、吉田大八のいいところは、「完璧な脚本だろう」という具合に、脚本が自己主張しないところだなあ。クライマックスのシーンなど、脚本で読めば「たわごと」の類だろうけれど、映像になると、いやあ、ほんとうに怖い。もっとも、この恐怖は、若い人にはわからないかもしれない。私が主人公に近い年齢だからかもしれない。そして、変な言い方だが、吉田大八は私より若いはずだが(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を見たのが最初の映画なので、かってにそう思っているのだが)、まだ若いのに、老人の恐怖がわかるのかと驚きもした。

 

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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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