杉惠美子「春兆す」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2025年01月06日)
受講生の作品ほか。
春兆す 杉惠美子
新しい春に佇み
息をひそめて おさな児と手をつなぐ
一瞬の 未来を見つける
透明さの中に立ち
樹々の息づかいを聴く
一瞬の 呼吸の深さに出会う
早朝の心を歩かせ
通り過ぎる 君の声を聞く
一瞬の はるの渦に溺れる
桜木の影に佇み
朧月のほのかさに埋もれる
一瞬の 回想に包まれる
起承転結の構造がしっかりした作品。一連目「おさな児」と「未来」、二連目「息づかい」と「呼吸の深さ」の呼応がとても自然。それが三連目で「君の声」と「はるの渦」へと変化する。タイトルには「春」と漢字をつかっているが、ここでは「はる」。そこに、ふしぎな官能性がある。「溺れる」がそれに拍車をかける。これを受けて、四連目で「埋もれる」「包まれる」ということばがつづく。その静かさ。
「春兆す」。しかし、そのとき、もう二度と帰って来ない「春の記憶」もやってくる。よろこびと悲しみが交錯する。記憶は悲しければ悲しいほどいとおしいし、うれしければうれしいほど、逆にいまを悲しくさせもする。人間の思いとは、わがままなものである。
こうした気持ちがあって「回想」ということばが選ばれているのだと思うが、この「回想」は、少し「答え」というか「結論」になりすぎてしまっているかもしれない。では、どんなことばがいいのかというと、なかなか思いつかないのだが、「回想」というあまりにも客観的なことばよりも、「かなしみ」(愛しみ)につうじるような感情的/主観的なことばでもいいような気がする。
つまり、というのは変かもしれないが、私は、この詩を、いま、ここにいない人に対する「ラブレター」のように読みたい気になるのだ。
*
私人--杭に立つ葉 青柳俊哉
木肌からとじられて離れていく
自由な私人として
地上のすべてから力を受けて
着地点を定めず飛ぶ
殯(もがり)をうつ漏刻の森 落ち葉の列が風に立つ
高くうず巻き さらさらと川へ流れる
わたしも水を駆ける 堰の杭にとまる
葦 かや吊り草 野鴨
吊り橋で跳ねる青蛙
過ぎていく他の木の国の葉たち
出会うものたちが
杭に立つまっ新(さら)なわたしをことほぐ
たとえば、ここに一本の杭がある。杭だから、それは生きている木ではないのだが、枯れている木なのだが、なぜか一枚だけ葉が残っていると思ってみる。そして、その最後の葉は、いまどこかへ行こうとしているのだと思ってみる。
その葉から見たとき、世界はこんなふうに見えるかもしれない。
その一枚の葉は、杭を離れながら、かつて木を離れたいくつもの葉に(仲間に)であう。また、その葉のまわりに存在する新しい世界も知る。
そんな旅立ちを、世界が祝福している、と読んでみたい。
*
残された者 堤隆夫
年の瀬 残された者は
どうやって 新年を迎えればいいのか
愛しい思いは 一片の冬の花びらに
涙の想いの雫を託して
こころのせせらぎに 流そう
なぜ なぜ いつも善き人が
先に逝ってしまうのだろうか
あはれ わたしは 朽ちた花そのものでないまでも
あなたの花影だったのかもしれない
思い出があるから 生きられるのか
然らば 思い出の浮草に乗って 旅立とう
わたしは先を越されてしまった
置いてけぼりにされてしまった
さようなら さようなら
万葉の鐘の音が聞こえてきた
「思い出があるから 生きられるのか」という一行に、何を読み取るか。ひとそれぞれだろう。「楽しい思い出」があるから、いまがつらくても「生きられる」のか、「悲しい思い出」があるから、生きられるのか。つまり、私には悲しみ、苦しみにを乗り越える力があると実感できるから、生きられるのか。
青柳の、「杭に残った一枚の葉」(と、読むのは私の「誤読」で、青柳はちがったことを意図しているかもしれないが)は、「わたしは先を越されてしまった/置いてけぼりにされてしまった」と感じたことがあったかどうかわからないが、この堤の詩のなかの「わたし」はそう感じている。そして、そのとき、もし堤の「わたし」が「葉」ではなく「花」だったとしたら、「わたしは 朽ちた花そのものでないまでも/あなたの花影だったのかもしれない」ということになる。「わたし」と「あなた」は、そんなふうに交錯する。
あらゆる存在(人間)は個別性を生きているが、個別であるのに、どこかで交錯してしまう。
ひとの感じていること、考えていることは、基本的に「私の問題」ではないのに、他人なのだからほっておいていいはずなのに、考えたり、感じたりしてしまう。時には、そのひと以上に真剣になってしまう。そして、ふしぎなことに、その瞬間、「私」というもの(枠)が消えて、なんだか豊かになる。
そんな瞬間をもとめて、私は、詩を読んでいる。詩だけではなく、ことばを読んでいる。
*
柱時計 淵上毛銭
ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら 十二
鳴るのかい
苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ
「死」が登場するが、ちっとも「死んだ」気持ちにならない。ずーっと生きている感じがする。たぶん、この詩を読んでいるうちに、私は淵上にではなく、淵上が書いた「柱時計」になっているのだろうなあ。柱時計になって、淵上がいようがいまいが関係なく、時を知らせ続ける柱時計になって生きているということだろうなあ。そして、それはまた同時に、この柱時計という詩を書いた淵上になっているということでもある。
「十二時がきたら 十二/鳴るのかい」という行の展開の仕方も、とてもおもしろい。散文では、こういう展開はしない。そうすると、ここにも、詩が動いていることになる。いわゆる「論理」の踏み外し、踏み外しながら別の「論理」(?)へ移行する。これを「別の論理と交錯する」と書き直せば、今回の「講座」のテーマが浮かび上がるかな? ちょっと、強引かな?
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