詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」

2020-10-28 16:43:38 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル
(https://www.asahi.com/articles/ASNBX4R1NNBXUTFK00G.html?fbclid=IwAR23_-EBvgBrFfNF-bwpPcbGW0dzRTMaLtGCbpFuKBqGigmxQ74LC6hxmvI)
が、菅の「代表質問」を記事にしている。テーマは「日本学術会議」。「6人任命拒否」問題。見出しは、

首相、学術会議の任命理由「答え差し控える」 代表質問

記事のなかに、こう書いてある。

「個々人の任命の理由については人事に関することで答えを差し控える」と改めて説明を拒否した。
↑↑↑↑
こういう「言い方」は、ふつうは、それを公表すると該当人物が不利になるときにつかうのではないか。
簡単に言いなおすと、たとえば6人が研究費を私的流用していたとか、学生にパワハラ、セクハラをしたことがあり、それを公表してしまうと本人が不利になるし、被害者の学生にも影響が出る。

6人に配慮をして「任命(拒否)の理由」を明らかにしないというのならわかるが、6人は「理由を公表しないでほしい」と言っているわけではないだろう。むしろ公表を求めているのではないか。
最初から菅に「任命権」(人事権)があるなら別だが、6人は「学術会議」の推薦を受けている。推薦を受けているということは「人事手続き」がとられているということである。その「手続き」を一方的に拒絶するのは、6人に対してだけではなく「学術会議」に対しても問題がある。

「表面的な言い逃れ」は単に「言い逃れ」という問題ではおさまらない。
「言い逃れ」は「言いがかり」を生み出す。
私がこういう文章を書いていることに対して、「中国から金をもらって菅批判をしている」という「言いがかり」を簡単にしてしまう。(いわゆる、デマ、フェイク)
そして、その「根拠」を求められても「個別の問題なので、答えを差し控える」といっておしまいにする。
きっと、これからそういうことが起きる。そして、そのとき、たとえば「逮捕」というようなことがあったとしても、菅は「逮捕」は警察が法に従っておこなったことであり、私は知らないし、そういうことに口を挟むと警察の自立性(司法の独立性)を損ねることになるから、それは慎むという具合にことが進んでいく。

実際、今回起きたことを見つめれば、菅のやっていることが「言いがかり」だとわかる。
「6人が政府の方針を批判したことがある、だから任命しなかった」が理由だと仮定する。
なぜ、それが「言いがかり」になるか。
単純である。
国民はだれでも政府を批判する権利を持っている。
「学者」であろうが、「議員」であろうが、一般市民であろうが。
国は、国民が政府を批判するからといって、そのひとを排除する権利を持っていない。もし「排除」するとするならば、その根拠となる「法律」を示さないといけない。「法律」を明示しないかぎり、国は国民のどんな行為をも受け入れないといけない。
国民はいつでも自由であり、その自由は憲法が保障している。
つまり、国は国民の自由を侵害してはならないと規定している。

これからどんどん、政府が「言いがかり」で国民の自由を侵害する。
今回の事件は、その第一歩なのだ。
「学者」の世界は、ふつうの国民からは遠い。何をしているかわからない。そういう「わからない」ところから、菅は手をつけている。
これは、とても危険だ。

菅の答弁を「言い逃れ」ではなく、「言いがかり」から見つめなおさないといけない。
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自助・共助・公助と学術会議

2020-10-23 15:57:50 | 自民党憲法改正草案を読む
自助・共助・公助と学術会議

 他のところで書いたのだが、少し追加してまとめ直しておく。
 東洋経済のウェブサイト(https://toyokeizai.net/articles/-/381397)に載っていた記事を読みながら考えたことである。見出しに「『10社以上でクビ』発達障害46歳男性の主張」と書いてあった。
 発達障害の人は、社会の中では「少数者」である。発達障害のひとの存在は、それは非常に見えにくい。こんな例えはよくないのかもしれないが、たとえば車椅子の使用者にならば「見える」。そして階段をスロープに変えればある程度そのひとの「自由度」が高くなるということもわかる。どう対処すればいいか、ほかのひとにもある程度わかる。しかし「発達障害」の場合は、よほど詳しいひとでないかぎり、どう対処するのがいちばんいいのか、見当がつかない。また、そういうひとが差別/排除されても、理不尽とは思いにくいかもしれない。記事の中にもあったが「きょう初日のひとよりも仕事が遅い」などと非難しているひとからみれば、この男性は「排除」されても何の問題も感じないだろう。逆に仕事がスムーズに進むようになったと喜ぶかもしれない。
 世の中には「見えにくい少数者」が大勢いる。
 そういうひとたちが「排除」されたとき、多くのひとはその「排除」に気がつかない。首になった男性が、どんな生活をしているか、どんな苦境に陥っているか、それも「見えない」。こういうことが、これからの大きな問題になる。「見えにくい少数者」は「少数者」であるという理由で「排除」されやすいのである。「排除」されたも、だれも気づかないという危険が、すぐそこまで来ている。

 こいうことがなぜ「学術会議」と関係があるかというと。
 「少数者の運命」というのは「学術会議」にもあてはまることだからである。学者は、絶対的に「少数者」。
 そして、悲しいことに、「学者」を差別すること( 排除すること) に対して、多くの人は「良心の呵責」を感じない。「発達障害」のひとの仕事を奪ってしまうことに対しては、後ろめたく感じるひとがいるかもしれないが、6人の学者が「学術会議の会員に選ばれなかった」からと言って、そのことを「親身」になって考える人は少ないだろう。
 理由は簡単。
 ふつうのひとから見れば、「学者」は自分たちより優れている。優れているひとに配慮なんかする必要はない。配慮が必要なのは、「学者」になれない国民の方である。「学者」になれず、資本家につきつかわれている労働者の方である。「学者」は自立しているから、それで十分じゃないか……。
 こういう「国民の心情」を菅(と自民党)は巧みに利用している。
 「目に見える少数者(たとえば車椅子使用者)」と同時に「目に見えない少数者(たとえば発達障害のひと)」がいる。
 この「目に見えにくい少数者」から排除していくことが、いま、日本で横行している。
 「学者」の排除のあとは、個人の思考/嗜好/指向が狙われる。「少数者」から排除される。「少数者」の排除は、「多数者」には「私には関係ないから、知らない」という無関心のなかで拡大していく。
 「分母」が小さくなれば、いままで見過ごされていた「少数者」がどんどん強調されるようになる。
 マスクをしていないひとに「マスクをしてください」と注意する。そのとき注意されたひとが「すみません」と言う前に「お金がなくて買えないんです」と答えれば、「注意したのに反抗された。公共精神がない反抗的な人間だ」というレッテルで排除される。「お金がなくてマスクが買えないひと」は「少数派」だからだ。
 冗談のように見えることが、冗談ではなくなる。
 その第一歩が「6人の学者の任命拒否」である。
 「気に食わないから排除する」が菅の政治によって始まっている。
 そして気に食わないひとを見つけるのに、どうも警察が関与している。警察国家(密告社会)が急速に動いている。

 脱線したが。
 コロナ感染拡大という状況の中にあって「マスクを買えない少数派」から、私はこんなことを考えるのである。
 菅は「自助・共助・公助」と言った。コロナ感染という社会の中では、「自助」は、たとえば手洗いの励行ということがある。そしてマスクの着用もそのひとつだ。その「自助(マスクを着用する)」ということが経済的にできないとき、「それでは町内会でマスクを買って助けましょう」というのが「共助」という形で必ず働くかというと、そうではないときがある。「町内でマスクを買えないひとがいる。そのひとを助けるのは共同責任だから、みんなでマスクを提供しよう」という形で動かないときもある。
 「町内からコロナ感染者が出たら、みんなが困る。共同責任になる。マスクを持たないひとが出歩かないように監視しよう」という動きが出ないとも限らない。「食事を一回抜いてマスクを買えばいい。マスクを着用するのは自己責任だ」という「責任の押しつけ」が始まらないとは限らない。
 「学者」のひとたちは理性的だから、そういうことは起きない/起こさない、と言えるかどうか。
 たとえば「6人の任命拒否」。その6人に対して、「政府方針を批判するようなことをいうから任命されないのだ。任命されないのは自己責任。6人のために予算が減らされたり、ほかのひとまで政府方針を批判していると思われるのは心外だ」というひとが出てこないとは限らない。菅と会談した梶田は、私には、そういう人間に思える。6人がいなければ、学術会議はいままでの活動ができたのに、と思っているかもしれない。そうすると、そこから6人の問題を「共同責任」のように詰問されるのは困る、6人は学術会議とは関係がない。「排除してしまえ」ということが起きかねないのだ。
 学術会議の会員になりたいのなら、「自助努力」が必要。政府方針を批判するのは「自己責任」でやれ。他の学者に迷惑をかけるな。会員に任命されなかったからといって「共助(任命拒否を撤回しろという運動)」を会議に求めるな。そういう運動が起きないとは限らない。
 「学者以外の世界」では、実際、そういう動きが起きていると思う。任命されなかったのは本人の責任。任命しなかった菅に問題はない。「学問」は菅が会員に任命しなくてもできるはず。「自己責任」で自分の好きな研究をすればいい。
 こういう「むちゃくちゃ」が起きる。実際、起きている。
 なぜか。
 「学者」という存在が、多くのひとからは「見えない少数派」であり、同時に「特権的な少数派」として認識されているからである。「見えない少数派」が「見えないまま」ならふつうのひとは何も言わない。突然「見える」状態になって、しかも、何かわけのわからないことを言う。「学者が国民よりえらいなら、自分で問題を解決すればいい。頭がいいんだから、それくらいできるだろう」。多くのひとは「心情の共有」へ向かって、一致団結していく。

 こうした動きが危険なのは、「少数派」よりも「多数派」こそが「正しい」と考えてしまうことだ。ある社会の中から「少数派」は排除する運動が始まると、それは次々に「少数派」探しに拡大する。「少数派」が「共助」を阻害している。「少数派」がいなければ「共助」は簡単に、確実に実行できる。「少数派排除」が「多数派団結の方法(手段?)」として動き始める。
 最初は「学者」、つぎは芸術家、つぎはスポーツ……とあっという間に拡大するだろう。それは、先に書いたように「マスクをつけていない/マスクを買う金がない」というようなところにまであっという間に拡大する。「政府を批判する集会に参加していた」とか、「政府を批判する文章をネットに書いた」とか、「学者」よりももっと「見えない少数派」を狙い撃ちするだろう。
 たとえば、この私。こういう文章を書いている人間が、ある日突然、こういう菅批判の文章を書かなくなったとして、いったいだれが気にするだろう。「見えない人間」が「消えた」だけである。世の中は、何一つ変わっていない。
 世の中は何一つ変わっていない。6人が任命を拒否されても、学者はあいかわらず自分の好きな学問をやっている。6人だって、勤務先を首になったとかという話は聞かない。何も変わっていない。
 しかし、「何も変わっていない」という印象を演出しながら、急激に変わっていくのである。「解釈の変更」という、それこそ「見えにくい動き」を利用しながら、変わっていくのである。その動きの中に、菅は「自助・共助・公助」を盛り込んだ。「自己責任・共同責任」を強いるように仕向けている。



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2020-10-17 00:14:01 | 自民党憲法改正草案を読む
   自民党憲法改正草案を読む/番外408(情報の読み方)

 読売新聞(オンライン)に、こんな見出し。

学術会議の梶田会長、首相に6人の任命求める要望書…「政府と共に未来志向で考えていきたい」

 要望書への「回答」はなく、「政府と共に未来志向で考えていきたい」という梶田の「方針」が見出しになっている。
 これはいったいどういうこと?(番号は、私がつけた。改行も私がほどこした。)

①会談は梶田氏が要請し、約15分間行われた。
②会談後、首相は「学術会議が国の予算を投じる機関として、国民に理解をされる存在であるべきだ」と、梶田氏に指摘したことを記者団に明らかにした。
③首相によると、梶田氏は「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と応じ、井上科学技術相と学術会議の役割を検討していくことで合意したという。④梶田氏は記者団に「学術会議としても発信力が今まで弱かったことについては、しっかりと改革していきたいと申し上げた」と説明した。
⑤任命拒否の理由に関しては、「今日は回答を求めてという趣旨ではないので、特にそこについて明確なことはなかった」と語った。

①梶田が要請したのに、「回答」がないのは、なぜ? 15分で終わるような会談で、いったい何を話したのか。
②もし、6人が「任命拒否」ではなく、いま会員だった6人の「解任(除名)」なら、菅の言っていることはまだわからないでもない。6人の「学術会議」での活動が「国民に理解をされる存在」ではない。だから「解任(除名)する」なら、菅の発言の意味はわかるが、「学術会議」で何も発言していない段階で、その6人が「国民の理解を得られない」というのはおかしい。人間なのだから、発言は変わる。「学術会議」のメンバーになって、いろいろな意見を聞く内に自分の意見を変えるという可能性もある。そう考えると、菅の言っていることは「6人任命拒否」とは無関係なことだとわかる。いわゆる「論点ずらし」である。
③は、菅が理解した梶田の発言であって、梶田がほんとうにそう言ったのか、よくわからない。まさか、まったくちがうことを言っていないとは思うが、微妙にニュアンスがちがうかもしれない。こういうことは伝聞(菅の口から)ではなく、梶田本人のことばでないといけない。
さらに、 (ここがポイント)
②③の発言は「時系列」にしたがっていると思う。つまり、菅がまず「「学術会議が国の予算を投じる機関として、国民に理解をされる存在であるべきだ」と言い、これに応える形で梶田が「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と言った。読売の記事ははっきり「応じた」と書いている。
これでは、ほんとうに梶田が菅に会談を要請したのか。この時系列のやりとりを読むかぎり、菅が梶田を呼びつけ、菅の要望を梶田に伝え、梶田が「はい、わかりました」といっているように見える。
(他紙はどういう表現になっているかわからないが、こういうことを「正直」に書いてしまうのが、読売新聞の非常におもしろいところ。)
 で、話は(会談は)、そこで終わらない。なんと、
④は、「反省/謝罪(発信力が今まで弱かった)」を語ったうえで「改革」していくという。つまり③の補足である。念押しである。これでは菅の指摘をそのまま肯定することである。そう言うことを言うために、梶田が会談を申し入れたのか。そういう一種の「謝罪」のようなことを言うための会談なら、「6人の任命求める要望書」を出すのは不適切だろう。「学術会議改革」を申し入れるということは、「要望書」を撤回すると同義であるだろう。国の方針がどうであれ、「学術会議」は「学者の立場」から提言、勧告、答申をする、というべきだろう。さらに、そういうことをするためには、菅が言っているような見直しではなく、「もっと会員が必要、予算も必要」というのが、普通の要望だろう。
⑤「今日は回答を求めてという趣旨ではない」は、「回答には時間がかかるだろうから、きょうの回答を求めているわけではない」という意味であるなら、「〇日までに、文書での回答を求めた」というようなことを明確に言うべきである。それに対して菅は何と答えたか。「明確なことはなかった」とは、まるで、こどものつかい。

 で、思うのだ。
 まず、「要望書」を梶田は、いつの段階で菅に提出したのかということである。読売新聞の記事からは、その「時系列」がわからない。
 もしかすると、「要望書」は菅の言い分を聞いて、梶田が最後に「要望書」を出したとも考えられる。
 もし、梶田が先に要望書を出したのなら、その要望書について梶田がまず説明し、それに対して菅が応える、というやりとりがあるはずである。そのやりとりが、読売新聞にはまったく書かれていない。いきなり、菅の「指摘(注文)」から書き出し、それに対して梶田はひとことも反論をせずに、「協力する(共に、と書いている)」応えている。
 これが、とても不思議。
 さらに。
 読売新聞の記者は、なぜ、菅は、梶田が「今後の学術会議のあり方を政府と共に未来志向で考えていきたい」と言ったと言っているが、それは正確な表現か、を確認しないのか。なぜ、菅の「伝聞」として伝えるのか。

 前後するが。
 いちばんの問題点は。
 梶田は、要望書を渡したとき、「〇日までに、文書での回答を求める」というようなことは言わなかったのか。言わなかったとしたら、なぜなのか。もし、言ったとしたなら、菅は何と答えたのか。そういうことを追及してもらいたい。
 ふつう、言うでしょ? 私なら、要望をするかぎりは、いつまでに回答してほしいと伝える。それを言わなければ、受け取った方は、受け取ったということで問題を終わらせてしまう。「できるだけ速やかにお答えします」という形式的な回答さえ聞き出していないというのは、問題ではないだろうか。
 そういう「やりとり」があれば、梶田の「本気度」がわかる。
 逆に言えば、この記事からわかることは、梶田は「本気」ではない。すでに、怯えている、という印象である。多くの団体が「抗議」をしている。それは梶田の耳にも届いているはず。「学術会議」のなかでも「任命拒否」に対する抗議が起きているはずである。「要望書」をまとめるくらいである。そういう「要望書」をもって会談する人間の態度としては、あまりにも弱々しい。
 そして、そういうことを指摘しない読売新聞というのは、もうこの段階で菅に肩いれしている。もし「学問の自由」を守らなければいけないという意識があるなら、梶田の態度を批判する(批判していることがわかる)記事を書くべきである。
 要望書への反応(今後どうなるのかを含め)を書かずに、菅の言い分は正しい、梶田はそれを受け入れた、と報道することで、読者を誘導している。







*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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「抵抗をぶち壊す」の意味は?

2020-10-16 09:28:23 | 自民党憲法改正草案を読む

「抵抗をぶち壊す」の意味は?

   自民党憲法改正草案を読む/番外407(情報の読み方)

 読売新聞は、いま、菅政権の動きをどう伝えているか。「菅政権 始動」という連載は、菅を持ち上げるだけの「作文」。2020年10月16日の朝刊(西部版・14版)の3面に「菅内閣1か月」という「作文」(政治部 藤原健作、山崎崇史)が載っている。「作文」なのだから、「新事実」が書かれているわけではない。読むべきものは「新事実」(ニュース)ではなく、「表現」そのものである。
 見出しは、「政策決定過程 様変わり/首相が直截指示■スピード感」とある。まあ、これは「あわてふためいている」を当たり障りのないことばで言い直しているにすぎない。私が注目したのは、「本文」の書き出し。

 「俺の仕事は抵抗をぶち壊すことだ。何かあったら相談しろ」
 菅首相は、平井デジタル改革相ら特命を与えた閣僚を首相官邸に呼んでは、こう発破をかけている。

 ふーん。
 コロナで疲弊している日本を立ち直らせることがいちばんの課題ではなかったのか。政府のコロナ対策に対して「抵抗している」ものが、いったいどこにあるのだろうか。私はコロナ対策と組織の動きについてはよく知らないが、私が知っている「抵抗」は国民の間から聞こえる「gotoキャンペーンは強盗キャンペーンだ」という批判くらいである。
 国家組織の、いったい、どの部分が「抵抗」しているのか、記事を読んでもどこにも出てこない。読売新聞の記者が「菅評価」を「スピード感」を持って書き上げたというだけだろうなあ。
 と、思いながら、私は実はほかのことを考えている。

「俺の仕事は抵抗をぶち壊すことだ」

 これは、いま話題になっている「学術会議」そのもののことではないか。新会員6人の任命拒否につづいて、会議そのものの見直し(予算削減など)を進めようとしているが、これは「学術会議」を政府の方針に「抵抗」する組織と判断し、それを「ぶち壊し」にかかっているということである。
 菅は「何かあったら相談しろ」と言っているが、「学術会議」ぶち壊すために方々に相談したんだろう。
 そして、菅がいう「ぶち壊す」は「気に入らない人間(自分の方針にしたがわない人間)は排除する」という単純なものだ。すでに「政府方針に反対のものは異動させる」と言っている。官僚への「方針」を「学術会議」にあてはめているだけだ。
 「抵抗にであったら、その抵抗している人間を説得する。納得させ、その人の持っている力を活用する方向へ導く」
 これが指導者のすべき仕事だと思うが、反対意見を説得するだけの論理(ことば)をもっていないから、ただ「排除する」のである。
 「ぶち壊す」だけでは、何も生まれない。壊したあとに、どう再構築するか。その設計図を示さないことには、単なる破壊活動である。国家が解体し、とんでもないことになる。生き残っているのは菅と、菅に登用されたと喜んでいるごますりだけということになるだろう。
 そして、この「ぶち壊す」(排除する)の方針は「学術会議」から、さらに拡大し「大学組織」にまで及びそうである。中曽根元首相の内閣と自民の合同葬に合わせ、文科省が国立大に、弔旗の掲揚や黙とうをして弔意を表明するよう求める通知を出した。これはきっと「通達」だけでは終わらない。実際に、弔旗の掲揚や黙とうをしたか、「事後調査」がおこなわれ、実施しなかった大学には「処分」がだされるだろう。つまり、政府方針にしたがわないものは「排除する」が適用されるだろう。
 「6人任命拒否」につづく、第二弾の「学問の自由」への侵害である。
 しかし、まあ、なんというか……。
 菅はよほど「学問」が嫌いというか、「学者」を支配したいらしい。狙いは「洗脳教育」という点では安倍と変わらないが、菅は「ボトムアップ」(小学生のときから)というのとは逆に「トップダウン」(大学/学者から)という方法で、これを推し進めようとしている。なぜ、上からなのか。たぶん、「学者/大学」というのはふつうの暮らしからはなかなか見えない。小学生や中学生の変化は、親が見ていれば、なんとなくわかる。でも、大学や学会(学界)でどんな変化が起きているかは、遠い世界なのでわかりにくい。わかりについところから手を着け始めれば、国民の反発は少ない。そう読んでいるのだろう。
 こんなふうに考えてみるだけでいい。
 中曽根の葬儀への「弔意表明」は義務教育現場の小学校や中学校に「通達」されたわけではない。小中学校にまでそういう「通達」がだされたのなら、世の中の親の反応はもっと出てくる。いろいろな人が反対する。(もちろん、賛成する人もいるだろうけれど)。騒ぎが大きくなる。これが「国立大」というのが、あまりにも巧妙な「作戦」である。「私大」は、含まれない。国立大には国の予算が出ている、ということなのかもしれないが、私大になって補助金が出ている。そして、その国の予算の「原資」である税金は、政府の意見に反対の人も納めている、ということを考えると、国立大になら一方的な「通達」を出してもいいという根拠にはならないだろう。

 あ、脱線したか。読売新聞批判にもどろう。
 いま問題の「日本会議」については、どう書いているか。読売新聞は「別項仕立て」で、こういう見出しをとっている。論点を「解散/総選挙」にずらしている。

最初の試練 「学術会議」/26日から国会 論戦 解散戦略にも影響

 「最初の試練」という表現が泣かせる。まだ菅はやっていないが、首相の最初の大仕事は「施政方針演説」である。そこで菅が何をいうかよりも、読売新聞でさえ、「学術会議」問題で、どういうことばを発するのか、それを心配し、「試練」と呼んでいる。
 ときどき、奇妙に「正直」が出るのが、読売新聞の特徴である。
 それにしても、この文章の「末尾」には、大笑いしてしまう。私は笑い出すと止まらなくなる癖があって、あまりに笑いすぎて、すっかり目がさめてしまった。何も書くことがなくて、「作文」の「結末」に困った小学生か中学生のような締めくくりである。

 首相周辺は「東京五輪や経済で結果を出し、コロナの克服を印象づけるまで仕事をするのではないか」と指摘し、解散・総選挙は来年秋にずれこむとの見通しを示した。

 ここからわかることは、菅が「総選挙」の勝敗がどうなるかを非常に心配しているということだけ。
 何がおかしいかといって。
 「解散・総選挙は来年秋にずれこむとの見通し」って、どういうこと?
 いまの衆院議員の任期は「来年の秋(21年の秋)」じゃない? 来年の秋は、もう解散をしなくても選挙がある。1か月か、2か月前倒し。それが「解散・総選挙」? たしかに任期を1日残していても、任期前に「解散」すれば「解散」には違いない。しかし、そんなドタバタをやって、いったい何になるのだろうか。読売新聞は、そういうドタバタを支持しているのか。あるいは菅へのごますりで神経を使い果たし、衆院議員の任期がいつまでなのか、その基本的な知識さえ頭から抜け落ちてしまったということなのか。
 ここがおかしい、と誰か気づけよ。





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「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
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#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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心配でならない・・・・

2020-10-15 23:46:57 | 自民党憲法改正草案を読む
菅の「学術会議新会員6人拒否」の問題。(フェイスブックに書いたことを再録。フェイスブックの書き込みは、ときどき消えてしまう。)


戦争法案のときも感じたが、日本の言論界は、なんというか「内戦状態」になっている。
そして、その「内戦」のいちばんむごたらしいと感じるのは、「論理」がかみ合っていないこと。
しかも、その「かみ合わない」状況を作り出しているのが権力側(権力を応援する側)ということ。
この「内戦」を戦うのは、とても難しい。
なぜか。
菅を批判している人は(私を含めて)、「6人任命拒否」が合法かどうか、拒否の基準は何か(だれが選別したのか)ということだけを問題にしているのに、菅を支援する人はそれにはいっさい答えない。
それだけではない。
菅支持派は、学術会議批判をし、存在意義を問うという「論点ずらし」をしてる。
この「論点ずらし」は、どこまでも拡大できる。
「学問はどこででもできる」というテキトウな発言にはじまり、とんでもない「6人任命拒否」が法的に正しいことなのかどうか、6人の排除に菅がどう関わっているのかということには応えず、学術会議の会員は学士院会員になれるとか、年金がたくさんもらえるとか、学術会議は中国の戦略に加担しているとかいう嘘まで飛び出している。その嘘には現職の大臣まで加わっている。
学者の世界(学者の実態)はふつうの国民にはわからない。そのわからないということを利用して、言いたい放題になっている。
この「嘘(間違い)」を放置しておくと「嘘」が社会に流布してしまうし、その「嘘」を指摘し、正していくと、その過程で「6人の任命拒否」の問題が徐々に隠れてしまう。
「論点隠し作戦」に「論点追及派」は必然的に敗北してしまうのだ。
もうひとつ、別の問題もある。(共通している部分があるのだが。)
「戦争法」のときは自衛隊が海外へ行って武力を行使することが「自衛権」になるのかどうか(そんなことをしていいのかどうか)が問題だったのに、日本が攻撃されたら自衛隊だけでは守れない、アメリカの支援が必要だ(なかには、アジア諸国を含めて、集団的に日本を間も間必要がある)という論点ずらし、さらには日本を守ろうとしないのは日本人じゃない(中国、北朝鮮へゆけ)というような、戦争法に反対するひとを「反日」ということばでくくってしまう言論が横行した。
今回の問題は、私の感じでは「戦争法」のときよりも危険だ。
それは「6人拒否」に杉田がかかわっていたとこからわかるように、「警察」がろこつに動いているということだ。「警察国家」が「内戦」を横から動かしているということだ。
そして、この「警察」の動きは、てとも見えにくい。
戦争法のときはデモの規制など、「可視化」されたもの(目で見てわかるもの)だったが、今回のことは、目には見えない。
「具体的な資料」は105人のリスト(99人と、6人のリスト)だけである。
あとは、「ことば」。
「ことば」で戦うしかないのに、「ことば」を隠す作戦(論点ずらし)が権力の力で動いている。
一部のジャーナリズムも、問題を報道しないことで、ろこつに権力の側に立って「論点ずらし」に加担している。
ほんとうにたいへんなことが起きる。
すでに起きている。
こういう「書き込み」もしっかりと監視されているに違いないのだが、この監視のなかで、どうやって「ことば」を鍛え直し、一人でも多くのひとと「共有」するか。
私は無名の「ことばの愛好者」にすぎないが、ほんとうに不安でしようがない。
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「警察国家」

2020-10-15 15:54:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「警察国家」

   自民党憲法改正草案を読む/番外406(情報の読み方)

 日本学術会議の新会員任命を巡って、突然(でもないのかもしれないが)、杉田という人物が浮上してきた。「元公安」の人物らしい。
 ここで思い出すことがひとつある。
 平成の天皇が「生前退位の意向」というニュースが2016年の参院選直後にNHKから放送された。NHKのスクープである。「情報源」はまだ明らかにされていない。私は、これを安倍の「リーク」だと思っているのだが、安倍は「宮内庁」側に情報源があるという見立てから、宮内庁長官の風岡を更迭し、内閣危機管理監だった西村を宮内庁次長に送り込んだ。「報復人事」だと言われた。私は、この「報復人事」というのは、一種の「やらせ」だと思っている。宮内庁というか、「天皇(一家)」の動きをより拘束するために仕組んだものと思っている。西村を宮内庁にいれるために仕組んだ「壮大な罠」だと思っている。
 杉田の浮上で、ふいに、それを思い出した。
 私が「天皇退位意向」情報が「宮内庁ではない」と確信している理由は、非常に細かいできごとにある。
 天皇の関係する行事に「園遊会」というのがある。毎年、園遊会の前に「招待者名簿」が発表される。この「招待者名簿」というのは宮内庁が発表し、各新聞社に事前に知らされる。「掲載日(解禁日)」は指定されている。ある新聞(の、ある県版)に、これが間違って指定の掲載日前に掲載されてしまった。こんなことは一般国民から見れば単なるミスである。間違いを発表したわけでもなく、たまたま発表がほかの新聞(テレビ)よりも早くなったというだけである。そのことで「招待者」が迷惑を受けたとか、天皇に何かが起きたということでもない。しかし、宮内庁は激怒し、その新聞社を「記者クラブ」から一時的に追放した。
 こんなに「情報管理」の厳しい宮内庁側から「天皇退位の意向」というニュースが「リーク」されるはずがない。
 それに天皇が「退位したい」という意向を持っているという情報は、だいたい、それ以前から新聞社などでは共有されていた。天皇は「退位」の意向を持っているが、安倍が選挙の都合があるので、天皇が「天皇誕生日の会見」などで発表することをおさえてきた。そういうことは、「事後」に読売新聞などに詳しく書かれている。
 つまり、宮内庁を取材している人、安倍の周辺を取材している人ならだれもが知っているが、それは発表をおさえられてきたのである。「これは、書いてはいけない」と宮内庁なり、安倍の方から「指示」があったはずなのである。
 それがなぜ「スクープ」という形で表面化したか。
 理由は2016年の参院選の自民の大勝にある。安倍は、いまなら「改憲」ができると踏んだのだ。そして、改憲を推し進めるためには、平成の天皇、護憲派といわれている天皇が邪魔だったのだ。口封じをしたかった。だから「生前退位意向」というニュースを流させたのだ。(当時のNHKは「政府の言うがまま」の籾井であった。)そして、実際に、退位に追い込んだのである。
 このスクープの「生前退位」ということばからも、これがこの情報が「宮内庁」から漏れたものではないということが推測できる。皇后は、その後の誕生日の会見で「生前退位」ということばは聞いたことがない、胸を痛めたと語った。(宮内庁で語られるとしたら「譲位」だろう。)すると、大あわててマスコミから「生前退位」ということばが消えた。「生前退位」という表現をつかっているかぎり、スクープの情報源が宮内庁ではないとわかるからだ。真っ先に「生前退位」という表現をやめたのは読売新聞であり、「退位」だけで意味が通じるから、という「ことわり」を掲載していた。新聞を読んでいる人間ならだれでもわかるが、新聞というのはなるべく「短く」表現する。「生前退位」という表現は最初につかえば、あとは「退位」だけで通じるのに、マスコミは皇后が批判するまで「生前退位」をつかいつづけた。それは、ある意味では、マスコミ主導のことばではなく、別の機関から「生前退位」ということばがリークされたという証拠でもある。
 この「生前退位」報道のあと、天皇はビデオメッセージで国民に語りかけている。そのなかで、天皇は「天皇に国政に関する権能はない」と2度言っている。一度言えば十分なのに、2度言っている。これは「言わせられている」と見る方が自然だろう。メッセージは、政府の「検閲」なしに放送されたのではない。放送前に、文言の調整がおこなわれている。天皇のことばは、政府の責任だからである。
 そういうことのあとで「報復人事」名目で西村が宮内庁に送りこまれたのだが、これは宮内庁から他の情報がリークされるのを防ぐというよりも、天皇をより厳しく監視するためということだろう。先にも書いたが、宮内庁は「園遊会の名簿」が指定日以前に公表されたことに怒り、その新聞社を記者クラブから締め出すくらいである。もし「生前退位」の報道が「特ダネ(どこも報道していないもの)」なら、そういう報道をしたNHKを記者クラブから締め出すと同時に、あらゆる取材を拒否しただろう。しかし、そういうことは起きていないのではないか。(私はNHKが宮内庁からどういう処分を受けたのかしらないのだが、きっと処分など受けていないと思う。もし、受けているなら、そのことは報道されただろう。「園遊会名簿」のフライング発表とはニュースの規模がちがう。)
 その後なのか、その前なのか、皇室に関心がない私にはよくわからないが、秋篠の長女の「婚約騒動」が起きている。相手の「素性」に問題がある。こんなことは、杉田あたりが(言い換えれば西村あたりが)ちょっと手配すれば事前にわかり、助言できることである。しかし、それは、たぶん知っていて助言しなかったのだ。わざと「騒動」を引き起し、こういうことがふたたび起きた内容にするためには「警察」が皇族の周辺もしっかり監視するという体制を確立するための「方便」に利用したのだ。私がかってに想像するのだが、皇族と接触のある人は以前よりも厳しく調査されていると思う。そして、そのことは皇室に「婉曲的」に影響していると思う。(あくまで、推測。何のニュースも報道されないからね。)
 あ、どんどん話がずれてしまうが。
 今回の「6人任命拒否」でわかったことは、杉田は6人の「学術的評価」をしたのではないということ。素行調査をしたかどうかはわからないが(きっとしているだろうが)、除外の「根拠」を政府の方針に従わない(政府の方針を批判したことがある)に置いたと考えられることである。(それ以外には考えられない。)
 で。
 なぜ、平成の天皇の「生前退位」が、2016年の参院選自民大勝の直後に「リーク」されたかである。くりかえすが、あのときのいちばんのポイントは天皇のビデオメッセージであり、そのビデオメッセージで天皇が「天皇には国政に関する権能がない」と2度言ったことなのだ。そんなことは言わなくても憲法に書いてある。言うにしろ、1回で十分なのに2回言った。これは「言わせられた」としか言いようがない。天皇は「天皇には国政に関する権能がない」ということを強調するために利用されたのである。
 政府が天皇を支配しているということを知らせるために利用された。そして、それは天皇でさえ政府の方針にしたがっている。批判せず、だまっている。天皇さえそうなのだから、国民は、もっと黙っていろ、政府にしたがっていろ、といいたいのである。
 したがわなかったら(批判したら)、どうする?
 警察の力で身辺を調査し、いつでも社会から抹殺するぞ、そう言っているのである。
 その「手始め」が「学者」だった。(あ、前に前川問題があったか。)「学者」はふつうの国民からは遠い存在。何をしているかわからない。その何をしているかわからない人が、学術会議の新会員に選ばれようが選ばれまいが、それがどう自分の生活に影響してくるのか、さっぱりわからない。「学問の自由」なんて、自分で好きなことを勉強するだけだから、べつに「新会員」に選ばれなくたってできるはず、と思ってしまう。(前川問題で言えば、文部省の次官も、普通の国民には何をしているかわからない。けれど、「風俗店通い」は普通の国民にもわかる。不謹慎。排除されてもぜんぜん問題がない、排除すべきだ、と普通は考えてしまう。)
 分かりにくいところ、見えにくいところから手をつける。(前川が実際に何をしていたかは、読売新聞の報道とはかけはなれていた。「善行」といえるものだったが、そんなことは実際に「善意」を受けたひとしかわからない。「善行」は見えにくい。だから見えやすい「風俗店通い」に焦点を絞る。)
 これは、ほら、そのまま「皇室」にあてはまるでしょ? 「皇室」で何が起きているのか、天皇や皇后が「自由」に活動しているのか、「不自由」な生活をしているのか、何に「自由」を感じ、何に「不自由」を感じているか、わからないでしょ? 天皇が何を考えている、もちろんわからない。だからこそ、「天皇、生前退位の意向」ということが「スクープ」にもなるのだ。なったのだ。
 西村がいま宮内庁長官のようだ。長官と次長では、どれくらい仕事内容がちがうのかしらないが、どこもかしこも「警察」よって監視されていることだけは確かだろう。
 (余談だが。
 私は安倍の改憲に反対する映画の上映会の準備をしていたとき、横断歩道を自転車に乗ったまま走行し、歩行者に危険を与えたということで、警察の摘発を受けた。歩行者のだれかが「危ない」と抗議してきたわけではない。みんな知らん顔をして歩いていた。そのとき、顔写真付きの身分証明書を持っていなかった(たまたま保険証を持っていたが写真月ではないので、盗んだものである可能性がある)との理由で、警察に「公的機関の発行した郵便物と顔写真入りの証明書」を持ってくるようにと呼び出され、のちに地検にも呼び出されたことがある。)

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「庶民目線」って、何?

2020-10-14 16:04:44 | 自民党憲法改正草案を読む
「庶民目線」って、何?

   自民党憲法改正草案を読む/番外405(情報の読み方)

 読売新聞が奇妙な連載を始めた。2020年10月14日の読売新聞(西部版・14版)は1面に「菅流政治 始動」というカットの記事がある。見出しは、

早期の実績作り優先

 とあるが、実際に何をやるのか。

 たたき上げの政治家である菅がこだわってきたのは、「庶民目線」だ。読売新聞の連載「人生案内」を愛読し、官房長官時代には、雑誌「プレジデント」で人生相談のコーナーを持った。菅が掲げる携帯電話料金引き下げなどは、庶民目線に立った政策だ。

 ここで強調されているのは「庶民目線」である。しかし「携帯電話料金引き下げ」は「政策」なのか。単なる電話会社への「圧力」だろう。もし政治にやることがあるとすれば、電話会社に値下げを迫ることではなく、「5G通信網の確立のための整備」というような基礎の部分だろう。電話会社にまかせるのではなく、設備投資は政府でやる、というようなことだろう。
 「庶民にわかりやすい」が「庶民目線」とは言えないだろう。
 「庶民」にわかりやすいだけなら「消費税の値下げ(あるいは廃止)」というものがあるが(一部の政党が主張しているが)、これはやってしまうと「国家財政」に影響してくるからやらない。電話料金の値下げは、電話会社の「収支」には影響するが「国家財政」には影響しない(電話会社からの法人税の収入が減るという問題があるかもしれないが)から、ひたすら電話会社に値下げを迫る、というだけのことだ。
 この「庶民目線」は、一面では「人生相談」という形で書かれている(読売新聞の宣伝を含む)が、1面の記事は4面「携帯料金下げへ速攻/政策推進信念と覚悟」という見出しの記事につづている。そして、その「信念」とは、記事にはこんな具合に具体的に書かれている。

 批判もいとわない姿は、昔から変わらない。同級生らは、菅を「信念を貫く力がある」と評する。
 故郷・秋田での中学生時代、菅は指導者から野球の打撃フォームの変更を助言されたが、「この方が打ちやすい」とかたくなに拒否したという。高校卒業後、工場勤務を経て2年遅れで入学した法政大では空手サークルに入った。サークルの同期は「アルバイトをしながら練習は一日も休まなかった。当時から芯が通っていて、今と一緒だった」と振り返る。

 いわば「ひとがら(?)」の紹介だが、ここに書かれている「信念(芯が通っている)」に何の意味があるのだろう。
 打撃フォームで言えば、イチローが独特だった。そして、イチローはそのフォームで実績を上げた。打撃ではないが、投球フォームでは野茂が独特だ。そして実績を上げた。菅は、たとえばそのフォームを貫くことで甲子園優勝に貢献したとか、ドラフトに指名されたとかということがあったか。実際に、そのフォームで実績がないなら、「信念」というようなものには値しない。他人の助言を聞き入れる能力も、自己変革の能力もなかっただけである。
 「アルバイトをしながら練習は一日も休まなかった」というのは、どんなアルバイトか、どんな練習かということと合わせてみていかないと、それがたいへんなことなのかどうかわからない。練習は休まなかったがバイトは休んだということがあるかもしれない。つまり、バイトをしないと学生生活が送れないということではなかったかもしれない。さらにバイトが、夜の9時から12時までの駐車場料金所の係員というようなものならば、練習と時間が重なるというとはないだろうから、こなせるだろう。「芯が通って」いたという「証明」にはならないだろう。
 問題は。
 菅にはこんなエピソードしか「庶民視点」につながるものを持っていないということと、読売新聞はこうしたエピソードを書けば「信念を持った庶民(芯のある庶民)」像として読者を説得できると考えること。
 私は、あきれてしまった。
 「苦学」の証拠のようにして言われる「工場勤務を経て2年遅れで法政大学に入学した」ということも書かれているが、すでに合格していたが学費がないので2年間は学費を貯めるために工場で働き、その間休学した、ということなのか。合格できなかったので、受験勉強をしながら工場で働いたということなのか。工場で働いていたときは、受験勉強をしなかったのか、勉強しながら工場でフルタイムで働いたのか。よくわからないが、工場で2年働くと、その後4年間の学資は貯蓄できるのだろうか。工場で働いているときでも、「生活費」はいる。大学生のときも、学資(授業料)以外に「生活費」は必要だ。4年分の「生活費」を2年間で貯める(大学生のときもバイトをしたというが)ということは可能なのか。高校卒業して間もないとき、「給料」はいくらなのか。
 私は自分の家が貧乏だったせいか、こういう話は、にわかには信じられない。私もバイトはしたが、父は老いていたが日雇い労働で金を稼ぎ仕送りをしてくれた。仕送りのためには、毎日、働くしかなかった。我が家には貯金などなかった。そういうことを知っているから、どうしても具体的に考えてしまう。菅の工場で働いていたときの給料はいくら? そこから月々いくら貯金した? 2年間でいくら貯まった? そういう「証拠」というか「証言」がないと、ほんとうに菅が何をしてきたのかがわからない。
 だれの「証言」かわからないけれど、打撃フォームを変えなかったとか、バイトと空手の練習(部活動)を両立させたとかという話しだけでは「庶民」とも、「信念がある」とも思わない。

 それにさあ。
 もし、菅が「信念の人」「芯がある人」ならば、ひとつの学問に精通している人こそ「信念の人」「芯のある人」だと認識し、尊重すべきではないのかなあ。「信念の人」は「信念の人」を自然と尊重するものだと思う。「この人の信念は私の考えていることとに反するから、排除する」というのは、実際に、信念と信念がぶつかりあい、討論の果てに、どうすることもできなくなっておきることだろう。なんにもないうちから「目障りになりそう」というので「排除」するのは、「信念」というよりも「自分を応援してくれる仲良し優先」の考え方だね。





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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「安倍(の犯罪)隠し」がまだつづいている。

2020-10-14 14:29:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「学術会議」問題。
あまりに情報が、ごちゃごちゃしている。
私なりに整理してみると。
①学術会議が「候補者名簿」を提出したときは、菅はまだ官房長官。安倍が首相。
②安倍が、「候補者名簿」のなかに気に入らない学者がいることに気づき(側近が、かもしれないが)、排除を画策。
③杉田が6人排除を安倍に報告。菅「官房長官」はこれを知っている。
④6人排除後の名簿が菅「首相」に提出され、菅は印鑑を押した。
⑤赤旗が「6人任命せず」を特報。
⑥なぜ任命されないのか、と質問されたとき、菅は、「官房長官」時代のように、「総合的、俯瞰的観点から判断した」とテキトウなことを言った。自分が判断したわけではなく、安倍-杉田が決定したこと、他人がやったことなので、「官房長官」時代の記者会見の「癖」がそのまま出てしまった。まさか、自分の責任が問われるとは思わなかった。
⑦そのため、「発言」が右往左往する。
⑧加藤も、状況が正確に把握できないのでテキトウなことを言ってしまう。(菅が基準みたいなものを示し、それが共有された、という発言は、責任は菅にあると言うようなもの。)
菅の「決裁日」ではなく、学術会議が「候補者名簿」を提出した日にまで遡って、事実を点検しなおす必要がある。
一度記者会見で、「安倍の指示か」という質問が出ていたが、たぶん、そこが「核心」。
安倍とか、麻生とか、二階とか、みんな「沈黙」を守っていることが、その「証拠」になるかもしれない。
なんといえばいいのか。
「安倍隠し」は、いまもつづいている、と見るべきなのだろう。
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頭がくらくらしてきた。

2020-10-13 21:25:40 | 自民党憲法改正草案を読む
毎日新聞には、こんな記事。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e5%89%8d%e5%b7%9d%e5%85%83%e6%96%87%e7%a7%91%e6%ac%a1%e5%ae%98-%e6%9d%89%e7%94%b0%e5%89%af%e9%95%b7%e5%ae%98%e3%81%8c%e4%b8%80%e6%ac%a1%e7%9a%84%e3%81%ab%e5%88%a4%e6%96%ad-%e3%81%a8%e6%8e%a8%e6%b8%ac-%e5%ad%a6%e8%a1%93%e4%bc%9a%e8%ad%b0%e4%bc%9a%e5%93%a1%e4%bb%bb%e5%91%bd%e8%a6%8b%e9%80%81%e3%82%8a%e3%81%a7%e9%87%8e%e5%85%9a%e4%bc%9a%e5%90%88%e5%87%ba%e5%b8%ad/ar-BB19Y0dZ?ocid=LENOVODHP17&fbclid=IwAR2kC0MXkAlKksLsrA_Eh6Jf_D6O_e-u73oyAm-6lH4IZ2KQa7go9Q-8Eq0

「杉田氏の一存で決めるはずがない」とも強調。「学術会議が推薦する新会員候補105人の名簿を受け取った杉田氏が、警察か内閣情報調査室に身辺調査を指示し、政府批判の言動が判明した6人の任命拒否を一次的に判断。その報告を受けた官房長官が了解を得た。当時は自民党総裁選前で、長官は菅氏ではないかと想像する」-という見立てを披露した。
↑↑↑↑
首相になる前から、知っていた。
きっと、このことが明確になると、菅は「私はそのときは首相ではない。この案件は、『菅首相案件』ではない。首相の私の責任(問題)ではない」という詭弁へ逃げ込むのかなあ。
「菅」という人物は共通するが「官房長官」「首相」と肩書がちがうから、「官房長官」のときのことは「首相」の責任ではない、「菅官房長官は熟知しているかもしれないが、菅首相はぜんぜん知らない」と。

頭がくらくらするぞ。
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もう、むちゃくちゃ。

2020-10-13 16:30:58 | 自民党憲法改正草案を読む
「日本学術会議新会員」の「6人任命拒否」問題の「続報」がネットに次々に報道されている。
「出典」を明記すべきなのかもしれないが、ちょっとややこしい。あまりに多くて、書き切れない。
フェイスブックに書いたことを転写しておく。(フェイスブックの「タイムライン」の書き込みは、すぐに行方不明になる。)

東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/61394?fbclid=IwAR2glIqTXE9ZuZweMN3GsjxFyxZyeBBzju1K37wTzocdgoiINB2xo4nP4bo
「杉田和博官房副長官が内閣府の提案に基づき、任命できない人が複数いると、菅義偉首相に口頭で報告していた」
↑↑↑↑
この「内閣府の提案」というのは、いったいどういう意味だろう。
「内閣府」は人間ではない。「内閣府」が提案できるわけがない。誰かが提案している。
先日見た「シカゴ7裁判」という映画では、主人公が「所有形(たとえば、われわれが、our)」をつかってしまうことが問題になっていたが、日本語は、こういうあいまいな言い方でことをすませてしまうことが多い。
こういう表現を許してはならない。
ジャーナリズムは「ことば」を生きているのだから、ことばの問題をもっと追及すべきだ。
杉田がこう言っているから、それをそのまま伝えるでは、テープレコーダー(もう、言わないか・・・・)、あるいは広報にすぎない。
しっかりしろよ。

情報速報ドットコム
https://johosokuhou.com/2020/10/13/38269/?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
杉田副長官も元公安トップであり、そのような人が学者を選別したという事実に批判の声が強まっているところです。
↑↑↑↑
こういう表現は、まだるっこしい。
「批判の声が強まっている」ではなくて、ジャーナリストとしてこの問題をどうとらえていくか、それをきちんと書かないいけない。
上のような書き方では「批判の声は高まっている」が情報速報ドットコムはそうは思わない、と主張しているとも受け取ることができる。
いま問われているのは、「学問の自由」に対して、あらゆる言論がどのような態度をとるか、である。
「学問の自由」が侵害されれば、「言論の自由」も「思想の自由」も侵害される。
それも「公安トップ」(杉田は「元」であると主張するだろうが)が関与している。
戦前の思想統制がはじまっている。
そしてそれは「2012年の自民党改憲草案」の先取りといえる。
学者が国の政策に反対意見を言うのは「緊急事態」にあたると定義して、学者を逮捕するということが起きるのだ。
しかもその全てが「法解釈を見直した/変更した」というだけの説明でおこなわれるのだ。

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASNBF0F3XNBDUTFK011.html?fbclid=IwAR3UKIbr--wEdeF4_UTPYx03OvSU541NLWZ2cRX1tz7owFcrt0_5oB7cV8Q
杉田和博官房副長官が事前に首相に対し、「任命できない候補者がいる」という趣旨の報告を行った。
↑↑↑↑↑
そうだとすると、管は、杉田の判断に基づいて99人を任命したことになる。「任命できない候補者」を管が選んだわけではない。
管が選んだとしても問題があるが(最初の批判は、そういうものだった)、管が選んだのではないとしたら、それはもう「内閣総理大臣が任命」ではない。
「日本学術会議法」は、こう規定している
第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2 会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
完全に「違法行為」にあたる。
弁解(?)すればするほど、「墓穴」が大きくなる。
はたして「杉田が独断でやった」と杉田の更迭だけで処理できるかどうか。
杉田を官房副長官に任命した責任も問われるだろう。

NHKのサイト
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201013/k10012660911000.html?fbclid=IwAR2tCB1pGoEgad0PxMLUNe2p4DwFvXU_t20IYJNVL_M_2n8RH6Fl408O6Ck
加藤官房長官は、日本学術会議の会員の任命について、「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され、それにのっとって作業が行われて、起案された。最終的に菅総理大臣が決裁したというプロセスだ」と述べました。
↑↑↑↑
そうであるなら、管が「任命にあたって、どういう考え方を説明したのか」ということをいうべきである。
もし管が「考え方を説明した」のなら、それは「選別をした」ということと変わりがない。「選別基準」は管がつくったのである。杉田が独断でやったのではないということになる。
「105人の名簿」は見ていなくても、「105人」から何人かを除外しろという指示を出したことになる。
「見ていないから知らない」という安倍流の「ぼくちゃん、何も知らない。ほくちゃん、何もしていない」は通用しない。
森友学園問題では、安倍は「ぼくちゃんが指示をしたという証拠は、どこにもない。だれもぼくちゃんから指示を受けたとは証言していない」と逃げた。
しかし、今回は、加藤が「菅総理大臣に、任命にあたっての考え方の説明があって、共有され」と、証言している。
記者会見に出席している記者は、菅の説明がどのようなものだったか、その説明を「共有」するために、どういうことがおこなわれたのか、そのことを聞くべきである。
「そのときの菅の考え方というのは、どういうものですか? 考え方を説明したというが、その記録(文書)はあるか」
こういうことを聞かないといけない。
どの記事を読んでも、非常にまだるっこしい。
記者は、記者会見の現場に居合わせ、質問できるという「特権」をもっている。
言われたことをそのまま「はい、わかりました」と受け止めるのではなく、ちゃんと質問しろ。



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学術会議新会員6人の任命拒否問題

2020-10-11 09:45:13 | 自民党憲法改正草案を読む
学術会議新会員6人の任命拒否問題。
いろいろ思うが、これはやはり自民党憲法改正草案(2012年)の先取り実施だと思う。
草案の「前文」に、こう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

全ては「経済活動」に結びつけられている。
「学問(教育)」は「経済活動/成長」に結びつくものだけが正しいという主張だ。
国が目指す「経済成長政策」に反対するものは除外(排除)する。
そういう「総合的、俯瞰的」視点から6人は排除されたのだろう。
つまり、「総合的、俯瞰的」という抽象的な表現は、「経済成長戦略」なのである。

日本で起きていることは、みんな、これ。
安い賃金で働く労働者を増やす。その結果、資本家がもうかる、というのが自民党の狙っている「経済成長」。
その「経済成長」のために外国人労働者を使い捨てにし(期間が過ぎたら日本から追い出し)、日本人の賃金を外国人労働者のレベルにまで引き下げる。正規職員を非正規職人に入れ替え、賃金レベルをどんどん引き下げる。

菅が、学術会議の「予算」を問題にしているが、この「低賃金」(労働者に払う金を少なくする)という戦術は、「学問」の分野にまで及んできた。
「学者」に金を払うなら、ほかのことに金を使おう、ということである。
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見ていない?

2020-10-10 09:11:04 | 自民党憲法改正草案を読む
見ていない?

   自民党憲法改正草案を読む/番外404(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題の続報。2020年10月10日の読売新聞(西部版・14版)は1面の見出しと前文。

首相 学術会議見直し意欲/予算・定員論点か

 菅首相は9日、日本学術会議を行政改革対象とし、組織の見直しを検討すると明らかにした。政府・自民党で連携して進める構えで、予算や定員などが論点になるとみられる。首相官邸での内閣記者会のインタビューで語った。

 「論点」とはよく言ったものである。いま問題(論争の焦点/論点)になっているのは、6人任命拒否の問題である。その問題から目をそらさせるために「学術会議見直し」を前面に出している。見直しは見直しで、予算提出権をもっている与党がやればいいことだが、それは6人任命拒否問題が解決したあとでやればいいことだろう。
 やる順序が逆だから問題なのだ。

 その問題の「6人任命拒否」について、読売新聞は「見出し」にとってはいない。1面の記事の最後には、こう書いてある。

 首相は「(学術会議の)推薦段階でのリストは見ていない」とも語り、決裁した9月28日の直前に事務方から説明を受けた段階で、すでに6人は除外されていたと話した。

 インタビュー要旨(4面)には、こう書いてある。

【日本学術会議会員の任命拒否】任命手続きは終了した。任命を変更することは考えていない。最終的に決裁を行ったのは9月28日で、(99人の)会員候補リストを見たのはその直前だ。(任命拒否した6人を含む105人のリストは)見ていない。(6人の任命拒否を安倍晋三前首相から引き継いだことは)ない。一連の流れの中で判断した。(候補者の思想信条が影響したことも)ない。学術会議の梶田隆章会長が会いたいということであれば、会う用意はある。

 読売新聞の、この書き方を読むと、菅が自分から「99人の会員候補リストを見たのはその直前だ。任命拒否した6人を含む105人のリストは見ていない」と言ったのではなく、記者から質問を受けて「推薦段階でのリストは見ていない」と言ったのだと推測できるが、正確なやりとりがわからないのが、何とももどかしい。
 そのもどかしさを脇においておいて、非常に疑問に思うことがある。
 これまで、菅は(加藤も)、99人の任命(6人の拒否)について、「法に基づいて適切に処理している」と答えていたはずである。
 その「法」というのは「日本学術会議法」であるはずだ。その「法」のどの部分を適用したのか知らないが、「定員」について、こう書いてある。

第七条 日本学術会議は、二百十人の日本学術会議会員(以下「会員」という。)をもつて、これを組織する。
2会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。
3会員の任期は、六年とし、三年ごとに、その半数を任命する。

 「定員は210人」「三年ごとに、その半数を任命する」。この条文を読むかぎり、105人を任命しなければならない。候補者リストが「99人」だったなら、その段階で、このリストはおかしいと気づかないといけない。
 「知らなかった」ですませられる問題ではない。
 それは「候補者リスト」が「110人」であった場合を考えればわかる。リストに110人あったので110人推薦したというときは、絶対に批判されるだろう。「知らない」ではすまない。
 だから、これは「その場しのぎの嘘」ということになる。
 「法律」も読まずに「法に従って適切に処理した」と言っているだけなのである。
 「99人」だったから「99人」を任命したというのであれば、「適切な判断」ではなく、単に「追認」しただけだろう。

 ここから問題になるのは、次のことだ。(すでに、きのう書いたがもう一度書いておく。)
 では、だれが105人のリストから6人を削除したのか。
 安倍は問題が起きるたびに「ぼくちゃん、何も知らない。ぼくちゃんが関与した証拠を出せ」と言い続けたが、菅もその「答弁」を「継承」するつもりなのか。
 学術会議から菅のところにリストが届くまで、どの部署が関与しているのか。文科省か、菅の秘書か。だれかが改竄したことになる。その改竄の経緯を、政府は「証拠」として提出する必要がある。その「証拠」がないかぎり、菅が、推薦リストどおりに任命したということは証明されない。
 しかし、不思議でしようがないのだが、もし菅に「99人のリスト」しか届いていないのなら、菅は最初から「私は6人の任命を拒否していない。リストは99人だった」と言えばいいのである。(このときは、最初に引用した「学術会議法」の「定員」についてなにも知らなかった、という問題が起きるが……。)加藤も、そういうべきだったのだ。それを「後出しじゃんけん」のように、「リストには99人しか載っていなかった」というのは、あまりにもむごたらしい言い逃れである。
 この「後出しじゃんけん式言い逃れ」を見出しにとらないのは、どうしたって読売新聞が「論点隠し」に加担していることになるだろう。

 ちょっと追加で。
 「学術会議」の見直しについては、菅が言う「見直し」は読売新聞が見出しにとっているように「予算・定員」の見直しであり、それは「削減」という意味だろう。もともと「210人」の定員は多い。今回はその削減の先取りである、という印象を与えるための見出しだろう。
 しかし。
 現代のように、いろいろな分野のことが「専門化」しているとき、ほんとうに「学術会議(専門家)」の意見を求めようとするならば、逆に210人では足りないのではないか。
 4面には、こういう記事がある。

 新型コロナウイルスの感染拡大では、専門の分科会を新設して今年7月と9月、政府や地方自治体の体制や医療のデジタル化などに関する提言を出した。ただ、コロナそのものの分析と感染防止策ではなく、政府・自民党内では「税金に見合った働きとは言えない」との批判がある。
 学術会議は14年、東日本大震災の際に的確な見解の表明が十分できなかったとの反省から、緊急事態時には会長をトップとする「緊急事態対策委員会」を設け、政府機関への見解の伝達、助言などを行うとする指針を定めた。しかし、新型コロナで同委員会は設置されなかった。

 これは、学術会議が予算にあった仕事をしていないという「証拠」として書かれた部分だが、「新型コロナで同委員会は設置されなかった」のは、感染症の専門家が「会員」のなかには少なかった(いなかった)からかもしれない。委員会を設置するには専門家が必要である。そういう状況のなかでも「7月と9月、政府や地方自治体の体制や医療のデジタル化などに関する提言を出した」。それ以上のことを求めるのならば、やはり定員を増やす必要があるだろう。予算も増やす必要があるだろう。「予算・定員」を減らして、「仕事だけしろ」というのでは「ブラック企業」ではないか。

 人脈(?)を生かして、政府関係者の声を集めるのはいいが、それをそのまま垂れ流しているようではジャーナリズムではない。言論機関なのだから、そのことばが「論理」として成立するものなのかどうか、きちんと点検した上で報道しないといけない。

 (どうでもいいが、ハッシュタグというものがある。そのハッシュタグで「読売新聞批判」というものをつくってnoteに投稿すると、必ず「読売新聞批判」が削除される。ハッシュタグを追加する、という機能がついているにもかかわらずである。)





*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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菅のめちゃくちゃな論理。

2020-10-09 19:00:05 | 自民党憲法改正草案を読む
学術会議問題「会長が会いたいなら会う」 菅首相
という見出しの、朝日デジタルの記事。
https://www.asahi.com/articles/ASNB95V9XNB9ULFA020.html?fbclid=IwAR3R8xvN5p7ysIPyX-SIz5T8PYKvgyUa9uD02UnHET7qNV8v86hBJ-6mWYM
とんでもないことを菅が主張している。
次の部分だ。


「首相が任命を決裁したのは9月28日で、6人はその時点ですでに除外され、99人だったとも説明した。」
↑↑↑↑↑
早くも始まった「ぼくちゃん知らない」の継承。
では、だれが6人を排除したのか。
責任を他人に押しつける。
しかし、「ぼくちゃん知らない」なら、「排除したのは間違い、ぼくちゃんが責任を持って任命する」と言えるはず。
それにさあ。
いままで言ってきた「俯瞰的、総合的判断」って、いったい誰の判断だったのか。
「首相(内閣総理大臣)が任命する」と書いてあるのに、「ぼくちゃんの知らないだれかの判断を追認することが、任命する」になるのか。
いったい、「最高権力者」は誰なのか。
言えば言うほど論理が破綻する。
この問題は、さらに「文書管理」の問題も引き起こすぞ。
学術会議は105人推薦した。菅は99人しか見ていない。
だれが学術会議の文書(推薦名簿)を改竄したのか。
改竄者の責任問題に発展する。
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「勧告なし」が特ダネ?

2020-10-09 07:59:39 | 自民党憲法改正草案を読む
「勧告なし」が特ダネ?

   自民党憲法改正草案を読む/番外403(情報の読み方)


 「日本学術会議」の問題の続報が2020年10月09日の読売新聞(西部版・14版)は1面に掲載されている。デジタル版では「独自」というマークがついている。「特ダネ」らしい。その見出しと記事。

学術会議見直し検討/政府「勧告10年なし」疑問視

 政府が、日本学術会議を行政改革の対象とし、運営や組織について見直しの検討に着手したことがわかった。年間約10億円の国費で運営されているにもかかわらず、法律に基づく政府への勧告が2010年8月以来、行われていないことなどから、河野行政・規制改革相の下、妥当性を検証する。

 どうして、これが「特ダネ」なのか。どの部分が「特ダネ」なのか。
 記事の末尾には、こう書いてある。

 政府は、自民党と連携して見直しを進める方針だ。河野氏は8日、自民党の下村政調会長と会談し、学術会議のあり方の検討で協力することを確認した。下村氏は7日、学術会議のあり方を検討するプロジェクトチーム(PT)を党内に設置すると発表している。
 これに関連し、内閣府の三ツ林裕巳副大臣は8日の参院内閣委員会で、学術会議のあり方を議論するよう求める山谷えり子氏(自民党)の質問に対し、「しっかりと受け止め、対応していきたい」と語った。

 「河野氏は8日、自民党の下村政調会長と会談し、学術会議のあり方の検討で協力することを確認した」は公表されているかどうかわからない。その場合は、これが「独自(特ダネ)」ということになるかもしれない。しかし、「下村氏は7日、学術会議のあり方を検討するプロジェクトチーム(PT)を党内に設置すると発表している」とあるから、これは他のジャーナリズムで報道されているかどうかは別問題として、「特ダネ」にはならないだろう。参院内閣委員会での三林、山谷のやりとりも公開されているから「特ダネ」にはならないだろう。
 そうすると、特ダネは「学術会議見直し検討」ではなく、学術会議が政府に対して10年間「勧告」をしていないことになる。(「見直し検討」は7日のニュースであり、8日のニュースではない。)
 でも。
 私は、見出しを読んだときも、思わず笑いだしてしまったのだが、勧告っていったい何?

 「勧告」というのは「こうしなさい/これをしてはいけない」というものである。普通は「勧告なし」が問題なのではなく、「勧告を受ける」ということが問題である。あらゆる組織(人間)にとって、「勧告を受けない/勧告なし」が「理想」である。よく新聞で見かける「公取委の勧告」「人事委の勧告」「労基局の勧告」というのは、すべて「勧告を受ける側」に問題があっておこなわれるもの。
 こういう勧告をすべきだったのに、その勧告をしていない、あるいは、政府が勧告を求めたが勧告しなかった、という指摘でないかぎり、勧告が10年間なかったという批判は意味を持たない。
 そのことを考えれば「勧告なし(勧告を受けなかった)」は政府が自慢していいことであって、勧告しなかった方が「仕事をしていない」という「証拠」はならない。「勧告なし」を「疑問視」する必要はない。少なくとも、政府側が、それ「疑問視」するというのは「論理的」におかしい。
 読売新聞は、いったいこの10年にどういう勧告をすべきだったと考えているのか。あるいは、政府がどんな勧告を求めていたと把握しているのか。

 国民が、「学術会議は勧告すべきなのに、何もしていない」という批判をするのならわかるが、政府が批判することではない。
 これは、こんな例を考えるといい。
 賭けマージャンが発覚した黒川が退職する。その黒川に退職金が支払われる。これはおかしいんじゃないかと国民が批判する。それに対して政府は「問題ない」という。いろいろな有識者の団体も批判している。しかし政府は「問題ない」という。
 批判を受けても問題がないと言い張る政府が、学術会議が何の勧告もしないと批判するというのおかしいだろう。

 どうして、こんな「記事」と「見出し」が成立するのか。
 根深い問題がここにある。
 この「10年間勧告なし」という情報源である。誰が調べた?
 普通、こういう「特ダネ」記事の場合は、「読売新聞が情報公開請求し調べた結果、明らかになった」という「ことわり」が書かれる。最低限「読売新聞の調べによると」という表現を含む。しかし、この記事には、それがない。
 誰が調べた? 誰の情報?
 新聞ではよく「政府筋によると(政府関係者によると)」というような「ことわり」も書かれている。その表現もない。
 これは何を意味するだろうか。
 私の「推測」だから、間違っているかもしれないが、このニュースは「政府筋(政府関係者)」からの「情報」をそのまま書いているのである。しかし、ここで「政府筋(政府関係者)によると」と書いてしまうと、政府の言われるがままにニュースを書いていることがあからさまになるので、それを隠している。
 学術会議が仕事をしてこなかったを証明するために、なんと、「10年間勧告してこなかった」と言ってしまったのだ。「しなかった」と言えば「仕事をしなかった」になると通じると国民に訴えることができると思ったのだ。
 「勧告」というものが、何か「改善」求められるものであるということ、「勧告を受ける側には問題がある」ということを忘れてしまっている。

 なぜ、こんなおかしな「論理」が「特ダネ」のなかで横行しているのか。
 インターネットでは、菅擁護の一環として学術会議批判が高まっている。それに便乗しているのだ。仕事をしていない、無用の存在と言いたいのだ。しかし、どうやったら「無用」を印象づけられるかを考えたとき、なんと「勧告10年なし」というところにたどりついてしまった。後先を考えずに「勧告を10年もしていない、仕事をしていない」と「政府筋」が読売新聞の記者に情報提供したのだ。記者は記者で、それを鵜呑みにした。10年間も政府に勧告を出していない、仕事をしていないじゃないか。
 これはね。
 くりかえすが、「10年間勧告なし」は、政府を批判し続けている人が、政府を非難しない学術会議は存在意義がない、というときの論理なのだ。学術会議は政府に勧告すべきなのに、何もしていな、そんものに金を出すなというときの論理なのだ。
 これは政府が学術会議の存在を見直すときの「根拠」には絶対にならない。ほんとうの「根拠」は別のところにある。それを隠すために、思わず「10年勧告なし」を書いてしまい、「墓穴」を掘っているのだ。

 私は、きのう夜が遅く、眠たかったのだが、読んだ瞬間にお笑いして、目がすっかり覚めてしまった。
 こんな情報をリークする方も、それをそのまま書いてしまう方も、それがどういうことを意味するか考えることもできないまま新聞に掲載する方も、ほんとうにどうかしている。
 このひとたちはみんな「日本語」を知らないのだろう。






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「公金」はだれのもの?

2020-10-06 09:21:04 | 自民党憲法改正草案を読む
「公金」はだれのもの?
   自民党憲法改正草案を読む/番外402(情報の読み方)

 「日本学術会議」の問題について、菅が新聞インタビューに答えている。 2020年10月06日の読売新聞(西部版・14版)は1面、2面、4面、10面で記事を書き分けている。2面が「要約」にあたる。見出しは2本。(番号は、私がつけた。)

①任命見送り正当性強調
②首相「学問の自由 侵害せず」

 ①については、記事ではこう書いてある。

 学術会議には多額の公費が投入されていることなどから、任命権の行使は当然とした。
 学術会議の年間予算は約10・5億円。内訳は人件費など事務局の費用に約5・5億円、政府などへの提言活動に約2・5億円、国際的な活動で約2億円などとなっている。

 公費を出しているから「任命権」がある。これは、一見正しいように見える。しかし、「日本学術会議法」に「政府が予算を出しているから、任命権は政府にある」と規定しているか。そんなことは書いてない。
 だいたい「公金を出しているから、何かに対して権力を行使する権利がある」というのはおかしい。
 「公金」のもとである「税金」は、政府の考えに反対の人も収めている。日本学術会議は、菅が設置した機関でもなければ、自民党が設置した機関でもない。
 もし、自分の考えを補強するための「機関」が必要だというのなら、菅なり、自民党が「自費」で設置すればいいのである。
 「公金」をつかうかぎりは、そこに自分の意思を恣意的に反映させてはいけない。
 「公費を投入しているから任命権がある」というのは錯覚である。「公費」には必ず政権批判者の収めた税金も含まれている。公費は菅の私費ではない。

 ②については、こう書いてある。

 「学問の自由」を侵害しているとの指摘に対しては、「全く関係ない。どう考えてもそうではないでしょうか」と語気を強めた。学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行えるとの思いがあるとみられる。

 「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」という論理は、菅の決定を支持するひとの間で多く聞かれる論理だが、そういうひとは菅のいう「自由」に、金の問題をからめて見つめなおすといい。
 すでに菅は「公金を出しているから任命権がある」という旨のことを言っている。大学には公金が支出されている。つまりどんな研究にも公金が支出されている。公金を出しているのだから、その使い道を指定する権利があると、菅はいつでも言い直せる。そして、実際にそういうことが起きるだろう。
 そういうことをさせない、というのが「学問の自由の保障」である。そして、それは「権力は学問の自由を侵害してはならない」という、権力に対する「禁止規定」なのである。菅は、憲法が、権力がしてはいけないこと(禁止規定)で構成されているという基本的な事実を忘れ、憲法の精神から逸脱している。
 簡単に言い直せば「憲法違反」をしている。
 学者は、公金をつかって権力が望まないことを研究する自由を持っている。それを公金を支出しないという形で拘束するのは、憲法で禁じられている。
 どんな活動にも金がかかる。そして、その金の額の大きさは、何ができるかの規模の大きさにも関係してくる。「学術会議の会員であるか否かにかかわらず、大学などで自由な研究活動が行える」というのは空論である。会員であった方が(予算を多く持っていた方が)、より自由な研究活動ができる。

 どんな分野でもそうである。
 金がないと「自由な行動(自分の思いのままの行動)」はできない。金がなくても、自由にものは考えられる。金がなくても運動できる。金がなくても詩は書ける。小説は書ける。音楽活動はできる。「詩集出さなくたって、詩を書いていれば詩人でしょ?」「音楽活動ってコンサートだけじゃないでしょ? 家で一人で歌っていても音楽でしょ?」
 こういうことは、すべて実際に、そういうことをしていないひとの主張。
 すぐれた学問、芸術、スポーツには「公金」が支出されている。それは「公金」を支出することでそれを助成するためである。活動をしているひとは「公金」をもらうために活動しているわけではないだろうが、公金を受け取ることができれば、それを有効につかいさらに活動を推し進めることができる。自分の成長にもつかえるし、これから育ってくるひとのためにもつかえる。
 そして、こういうとき、どういう分野であるにしろ、何がすぐれているのかというのは「専門家」以外には判断がむずかしい。100メートル競走のようにタイムでわかることもあるが、多くのことは「客観的基準」があるようで、ない。誰に、何に「公費」を支出するかは、「専門家」に助言を受けるしかない。
 菅は「公金を支出する」権利を持っている(予算を提出できるのは与党だけである)。しかし、どの研究に金を出し、どの研究に金を出さないか(金を受け取る権利を持つ「会員」をどうやって選別するか)を決める権利を持っていない。もし、ある学問が研究に値しないというのなら、その「証拠」を示さないといけない。公金を支出しているからこそ、「公平」でなくてはいけないのだ。

 ところで。(補足だが)
 読売新聞は、とてもおもしろいことを書いている。「学問の自由」に対する学者の意見として、こうい声を紹介している。

 学術会議は17年、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に反対する声明を出したが、一部の研究者からは「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要していることこそ、学問の自由の侵害だ」と不満の声が出ている。

 これは、一見正しそうに見える。
 でも、これって、単なる「内輪もめ」の話であって、権力(政権)とは関係がない。それこそ「学術会議」が何をいおうと、その人が研究したいのなら自分で研究すればいい。菅の論法をつかえば、別に大学で研究しなくてもいい。
 言い直そう。
 読売新聞が紹介していることは、菅とは関係が6人を任命しなかったこととは関係がない。菅が「安全保障に関わる研究の禁止を大学などに強要している」わけではない。
 「学問の自由」というとき、問題としているは「(政治)権力」と「学問」の関係である。
 読売新聞は、その「政治権力」と「学問の自由」という問題を、学者内部の意見の対立の次元に引き下げて、「学問の自由を侵害しているのは学者だ(学術会議だ)」と主張することで、菅を援護射撃している。






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#安倍を許さない #憲法改正 #読売新聞



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