詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(31)

2018-03-15 09:14:50 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(31)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ないしょのうた」のことばの変化がおもしろい。

じめんのしたからうたがきこえる
もりのおくからも
ゆうやけのむこうからも
ほしとほしのあいだからも
ないしょのうたがきこえてくる

 「じめんのした」の「した(下)」は見えない。同じように「奥」も「向こう」も見えない。地面の下は土にさえぎられている。森の奥は木にさえぎられている。夕焼けの向こうは、たとえば山にさえぎられている。でも星と星の「あいだ(間)」と見える。
 しかし、これはまた別の言い方もできる。
 「地面の下」には何かが「ある」。「土」がある。「森の奥」には木が「ある」。「夕焼けの向こう」には知らない街が「ある」。でも、「星と星の間」には? 何も「ない」。「無」が「ある」。
 「あいだ」は不思議な「存在」である。
 二連目では「あいだ」はこうつかわれる。

しらないあいだに
わたしのからだにはいってきたうた

 この「あいだ」は「時間」である。(星と星の「間」は「空間」である。)知らない「うち(内)」にであり、知らない「ま(間)」でもある。無意識と言いなおせば、そこに「無」がある。この「無」を「無間」と仮に呼ぶことができる。「無意識時間」の省略形である。そしてこの「無間」を「空間」と比較すると、ちょっと「錯乱」のようなものが私の中で動く。「空」と「無」は、どこか通じるものがあるからだ。
 三連目は、

もしかするとしんだおとうとも
うたってる ないしょのうた

 「しんだ」おとうとは、この世にはいない。「無」である。「いた」けれど「いなくなった」のが「死んだ」。「ある」と「ない」が不思議な形で結びついている。この世に「ない」。でも思い出すとき、この世に「ある」。思い出すというのは「意識」の働きだね。さらに「死ぬ」を「空しくなる」と言いなおすと、ここに「無」と「空」が再び重なり合うものとしてあらわれてくる。
 そして四連目。

こえをあわせて
わたしもからだのなかでうたっているの
だれにもいえないことがあるとき
どうしていいかわからないとき

 「あいだ」は「なか」にかわっている。
 この「なか」にいちばん近いものは、この詩では「奥」かなあ。からだの「奥」でうたっている。「しらないあいだに」を「しらない内に」と読み替え、その「内」を借りて言えば、「からだの内で」になるかもしれない。そのとき「なか」は「無」ではないね。からだの中が「空洞」ではないのだから。
 そうすると「あいだ(間)」は四連目で消えてしまう?

 「ほしとほしのあいだ(間)」は、「ほしとほしの真ん中」と読むことができる。そうすると、そこに「なか」が入ってくる。
 ただし、この「からだの真ん中」は「ほしとほしの真ん中」のように何もないではないね。ぎっしりつまっている「真ん中」。「ま(間、隙間)」が「ない」。
 ただし、その「真ん中」(奥、内)というものが、「からだ」のなかにあらわれるのは、

だれにもいえないことがあるとき
どうしていいかわからないとき

 なのだ。
 「だれにもいえないことがあるとき」には「ある」ということばがつかわれているのでわかりにくいが、これは「言いたいことがあるのに、いえないとき」である。そして「どうしていいかわからないとき」とは「しなければならないことがあるのに、どうしていいかわからないとき」である。
 「ある」と「ない」が絡み合っているのだが、「いえない」「わからない」の「ない」の方に力点がある。
 その「ない」が「からだのなか」を刺戟して「ぎっしりつまった中」を浮かび上がらせる。気づかせる。その「ぎっしりしまった中」というのは、言い換えれば、「なにもかもがからみあった混沌」のようなものだ。「ある」のだけれど、名前がまだ「ない」何か。
 名前が「ない」から、その「ない」ものをなんとかしたくて、「うた」にする。聞こえてくる「うた」にあわせてみる。「声」をあわせてみる。「声」は「からだのなか」から出てくる。「からだのなか」には「何か」を「生み出す」力がある。「力」が「なか(間)」を埋めている。

 「ないしょ」は「内緒」と書く。(「内所」「内証」という書き方もある。)「緒」は糸口、はじまり。「端緒」ということばがある。からまっているものが、ほどけて、そこから糸(道)がのびていく。まだ、どこにもつづいていない「混沌」のようなものに通じる。
 「ないしょ」は、自分ではわかっているが、他人にはわからないこと。「からだのなか」にある「混沌」は、まだ、ことばになっていないから、だれにもわからない。けれど、自分には「わかる」。
 声をあわせるのは、どこかから「聞こえる」ものを手がかりにして、からまっている「意識の糸(こころの糸)」をほどき始めるのに似ている。

 これって、「詩」の書き始めに似ていないだろうか。あるいは、詩の読み始めにも。
 書きたいことが「ある」。でも、それはどう書けばいいのか、わからない。最初のことばが出てこない。読んで感じることが「ある」。でも、それは、どう書いていいのかわからない。
 書き始めると、ことばが四方八方にひろがり、とりとめもなくなるが。
 こういうことを「からだのなか」と結びつけて考えているところがおもしろい。

 書きながら、読みながら、「からだ」は「じめん」や「もり」や「ゆうやけ」や「ほし」という形で世界になってあらわれている。「じめん」を見ると「地面」になる。「もり」を見ると「森」になる。「ゆうやけ」を見ると「夕焼け」に、「ほし」を見ると「星」になる。





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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(30)

2018-03-14 20:27:52 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(30)(創元社、2018年02月10日発行)

 「聞きなれた歌」に書かれている「歌」は鳥の声。谷川はカッコウとホトトギスの声になじんでいる。
 その詩の最後。

 鳥の鳴き声はどんなときも私たちに生命を告げる。近ごろ街なか
の交差点で聞くことがある、電子音による鳥のさえずりがなんとも
不快なのは、あれがにせものだからだろう。にせものとほんものを
聞き分ける耳くらいは私にもまだ残っている。

 この部分の詩のポイントは「にせもの」「ほんもの」の違いなのだが。
 「にせもの」「ほんもの」が出てくる前に、私は「あっ」と叫んでしまった。
 交差点の鳥の鳴き声。「カッコー、カッコー」と「ピヨピヨ」。私は谷川のこの作品を読むまでは「ピヨピヨ」をひよこの鳴き声だと思っていた。でも、そうではなくてホトトギスだったのか。
 「電子音」をつくった人がホトトギスを意識したかどうかはわからないが、谷川はホトトギスと認識している。
 同時に、そうか、谷川は鳥の声を山へ出かけていって聞いているのか、とも思った。「幼いころから夏を群馬県の高原にある父の山小屋で過ごした」と書いている。そこでカッコーの声を聞き、それが耳になじんだ。
 ホトトギスも夏鳥なので高原で聞いたのだろう。
 そう考えると、この交差点の鳴き声を考えたひとは、谷川と同じ「体験」をしていることになる。
 そして、そこには谷川の書いたこととは別の「ほんもの」がある。「体験」の「ほんもの」。「ほんものの体験」が、人工音を識別させる。これはカッコー、これはホトトギスと。そのうえで、「にせもの」「ほんもの」と言っている。

 うーむ。

 私はカッコーの声をどこで聞いただろうか。ホトトギスはどこだろうか。谷川の詩の最後の部分で「ピヨピヨ」はホトトギスだったのかと思い出すのだから、どこかで聞いたことがあるのだと思うが、はっきりしない。
 カッコーもホトトギスも、私の住んでいた山の中(私の家の近く)では、あまり聞かない。山鳩と夏のウグイスはひっきりなしに聞く。ウグイスがいるのだからホトトギスもいるのだと思うけれど。
 「ピヨピヨ」をひよこと思ったのは、近くに鶏を飼っている家があり、そこで雛を見ているからだろう。
 耳は「保守的」な感覚器官なのかもしれない。「聞こえる音」を「聞いた音」に結びつけて判断する。「聞いたことのない音」は、もしかすると「聞こえない」かもしれない。「ほんもの」「にせもの」とは別に「聞こえる音(聞いた音)」と「聞こえない音」があるかもしれない。
 「聞き分ける」の「分ける」はなかなかおもしろいことばだとも思った。
 私の耳は「聞き分ける」までは発達していなくて、「聞き、結びつける」という感じでしか働かない。
 「分ける」というのはひとつの文化だな、というようなことも感じた。
 こういうことは、「音」だけではなく、「ことば」でも起きるかもしれない。
 「ことば」を「読み、分ける」、あるいは「読み、結びつける」。

 谷川が書いている「にせもの=深い」ということについては、また別の機会に考えることにする。







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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(29)

2018-03-13 11:46:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(29)(創元社、2018年02月10日発行)

 「夜のラジオ」から、二つのことを書いてみたい。

半田鏝を手にぼくは一九四九年製のフィルコのラジオをいじっている
真空管は暖まってるくせにそいつは頑固に黙りこくっているが
ぼくはまだみずみずしいその体臭にうっとりする

 「もの」に対する愛着。「半田鏝」「真空管」に、それを感じる。谷川はことばよりも「もの」が好きなのだ。「もの」の確かさと言えばいいかもしれない。それは「頑固」「黙りこくっている」に象徴的にあらわれている。「ことば」を拒絶している。
 この「ことばの拒絶」を愛するというのは、前に読んだ「きいている」の最終連に通じる。

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 それまで書いてきた「ことば」の運動が突然飛躍する。延長線上を動かない。それまでの「意味」を拒絶して「ねこのひげ」「さきっちょ」「きみのおへそ」が「もの」として「ある」。
 これをナンセンス(無意味)と、私は呼ぶ。
 ここでいう「無意味」というのは、「きみの言っていることは無意味だ」というときの「無意味」ではない。「意味」という連続性を断ち切って、ただ「もの」として「ある」。その「力」のことである。
 あらゆる「もの」は「意味」づけられる。ラジオを組み立てるときの「半田鏝」「真空管」もラジオの構造の中で確かな「意味(位置)」をもっている。人間の意識が「もの」を「意味」に変える。
 この「意味」の連続性を断ち切って、「もの」そのものとして「ある」がままにする。それを、私は「無意味」と呼んでいる。
 で、これから書きすすめることは、「論理的」に書けるどうかわからないのだが。(他人につたわることばになるかどうかわからないのだが。)私の感じていることは、こういうことだ。
 「半田鏝」も「真空管」もラジオ(をつくる)という過程の中では「意味」をもっている。どことどこをつなげるか。真空管をどうやってつなげるか、ということはラジオの構造にとって「意味」をもっている。つなぎ方を間違えたら、ラジオは鳴らない。
 それがわかっているけれど、谷川はここでは「意味/構造/接続」を一瞬わきにおいておいて、「半田鏝」「真空管」という「もの」を「もの」として愛している。愛着をもって、「もの」をみつめている。「意味(構造/位置づけ)」を離れて、その「存在」を納得している。
 だから、ラジオが「頑固に黙りこくっている」としても、何かうれしい。まだラジオになっていない(?)のに、ラジオを超えて、その存在が「好き」。これは、「論理的」には「ナンセンス(無意味)」なことである。でも、そこに「こだわる」。
 そして、その「ラジオ以前」に特別の「名前」をつけるところまで、ことばは動いていく。

体臭

 たしかに「真空管」にも「におい」はある。ガラスにも金属にもにおいはある。真空管独自のにおいを「真空管の体臭」と呼ぶことはできるかもしれない。でも、そのときの「体臭」の「意味」は、流通言語でいうときの「体臭」とは違う。「意味」を超えている。「意味の超越」と言ってもいいが、おおげさなことばは私は苦手なので、「無意味(ナンセンス)」と呼ぶ。
 真空管がどんな「体臭」をもっていようが、それはラジオの「構造/鳴る仕組み」とは関係がない。「におい」を利用して音が出るわけではないのだから。
 こういう「意味の構造」をこえることばが動くところに、谷川の詩の魅力がある。それは「もの」に対する愛好、「もの」が「意味づけられる」前の状態を愛するというのとつながる。
 完成された「もの」も好きだが、「完成以前のもの」も好きである。「完成以前」を「未生」と言い換えると、谷川の多くの詩を動かしている「方向性」のようなものが、そこから見える。「ことば以前のことば」を書くことが詩であるように、「完成されたもの以前のもの」に目を向け、それを「もの」として生みなおす、というのが谷川の、「もの」との関係の「詩」の行為なのだ、と思う。
 これが、書きたかったことの、ひとつ。

 もうひとつは二連目を引用しながら書いてみる。

どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ

 これは一連目を受けた「起承転結」の「承」のような連である。「黙りこくっている」は「沈黙」と言いなおされている。
 その「沈黙」を含む一行は、とてもおもしろい。
 「壊れたラジオの沈黙が懐かしい」ではなく、「壊れたラジオの沈黙」を「懐かしい声」と比喩にしている。(「声のようだ」の「よう」は、そのことばが直喩であることを明らかにしている。)
 でも、「沈黙」と「声」というのは、同じ性質のもの? 正反対だ。「沈黙」があるとき、そこには「声」はない。共存し得ない。それなのに、その共存し得ないものを「比喩」として提示する。
 そして、それが共存し得ないものなのに、つまり「比喩」としては「論理的」には破綻しているにもかかわらず、この一行を読んだとき、とても惹きつけられる。「あっ」と思い、そこに惹きつけられる。つまり、「矛盾」など感じていない。
 このことばの切断と接続には、やはり「ナンセンス(無意味)」がある。流通している「意味」を否定して、ただ「ある」ものとして存在を確立する超越的なものがある。この「超越的な何か」を「詩」と呼んでしまえば、まあ、簡単なのだろうけれど。

 で。
 ここから、もう一度、

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 に戻ってみる。
 この「ナンセンス(無意味)」と「沈黙」は、どう違うのか。
 音楽(詩)は「音/ことば」と「沈黙」の共存(拮抗)によって生み出される。そういう種類の音楽(詩)がある。
 また、詩にはもうひとつ「ことば」と「もの(意味にそまっていない存在)」が出会うことで生み出されるものがある。
 「沈黙」が「音のない状態」を呼ぶなら、「もの」は「意味のない状態」と呼ぶことができる。「無」である。「無意味」である。それは「意味」を破壊すると同時に、「意味」をあらゆる方向に解放する。完全に開いてしまう。そのど真ん中にほうりだされて、「私」がただ「ある」だけのものになる。「私」と「もの」とが、まったく新しく出合いなおす。
 そういうことが起きるのだと思う。
 そしてこのときの「無意味(ナンセンス)」のなかで起きているのは、「否定」ではない。「私の否定(自己否定)」でも、「ものの否定」でもない。逆に、「私」「もの」の「絶対肯定」なのだ。「私」が完全に存在する。どんな意味にもとらわれずに「私」で「ある」。「もの」も、どんな「意味」にもとらわれずに(アイデンティファイされずに)、ただ「もの」として「ある」。

 この詩の最後は、一行一連で、その一行がぽつんと置かれている。

生きることを物語に要約してしまうことに逆らって

 この一行を借りて言いなおせば「物語」は「意味の連鎖」である。それに逆らうのが、「意味」から解放された「もの」である。「意味」を叩きこわし、解放を手にするための出発点が「もの」という「無意味」である。







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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(28)

2018-03-12 00:03:17 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(28)(創元社、2018年02月10日発行)

 「風景と音楽」は詩か、エッセイか。こういう文章がある。

 乗り物の中で移動しながら音楽を聞くのが好きだ。窓外を流れる
風景と音楽がひとつになる快さ。

 私はこの「快さ」を体験したことがない。乗り物の中で音楽を聞くのは、たぶん乗り物の中で何もすることがないときだが、私は何もすることがないと寝てしまう。音楽を聞こうとは思わない。
 風景と音楽で思い出すのは、映画である。映画ではいろんなシーンに音楽が流れる。自然には存在しない音が、映像につけくわえられている。私はあまり映画音楽にも興味がない。音楽がない方がおもしろいかも、と思ったりする。
 風景には風景の音があり、それで十分である。
 いまでもときどき思い出すのだが、フィヨルドクルーズの船を待っていたときのことである。どこかわからないが、滝の音がする。周り中に滝があり、どの滝の音か、私にはわからなかった。風があって、その風が旗を揺らしている。ロープがポールに当たり、カンカンと音がする。それは滝の音と非常によくあっていた。いつまで聞いていてもあきない透明感があった。そして、その滝の水だろうか、空気は雪解けの冷たい匂いがした。
 自然の中に「ある」音は、あるとき別の「ある」音と響きあう。それが音楽かどうかはわからないが、私はその「ある」の交渉がおもしろいと感じる。
 これが、私の体験。

 で、谷川の書いていることを、私は一度も体験したことがないなあと思いながら、さらに読み進むと、こうしめくくられる。

 グランド・キャニオン観光のヘリコプターの中で、リヒャルト・
シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』を聞いたことも
ある。ヘリポートを飛び立ってしばらくは平地の林の上を飛ぶ、そ
の間は「炎のランナー」が流れている。突如深さ一・六キロの谷が
真下に口をあける、その瞬間音楽が『ツァラトゥストラ』に切り替
わる。気がついたら驚いたことに自分の目からボワーッと涙が溢れ
ていた。

 うーん。
 映画のシーンについて書いたが、まるで映画だなあ。
 映画でなら、こういうシーンで感動するかもしれないが、実際の風景の中で私は感動できるかどうか、わからない。音楽を忘れて、風景の方に引き込まれていく。
 私は風景と音楽を一緒に楽しむという習慣がない。
 風景(自然)の中で歌を歌うというのは、なんとなく、わかる。「肉体」を「音」にして、自然と交わるという感じ。でも、自然の中で音楽を聞くというのは、気恥ずかしい感じがする。私には。たぶん、私の育った「山の中」では「音楽」というものが日常的ではなかったためだろう。




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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(27)

2018-03-11 00:28:24 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(27)(創元社、2018年02月10日発行)

 「生きとし生けるものはみな」か。この詩では三回繰り返されている。

雪にしるした足あとは
いのちのしるしのけものみち
しるべもなしに踏み迷う
生きとし生けるものはみな

 これが一連目。三連あり、それぞれの最終行が同じ。ことばが、すべてその最終行に向かって動く。統一される。その「統一」に「音楽」があると言えるかもしれない。
 これに二行目の「……みち」という言い方も加わる。

息をひそめて立ちつくす
闇へとつづくわかれみち    (二連目)

夜のしじまに輝いて
はるかにめぐる星のみち    (三連目)

 「脚韻」のようなものが、最後に「生きとし生けるものはみな」におさまる。その「構造」がめだつのだけれど、この詩には、それとは別の「統一」もある。
 それぞれの連の三行目。

しるべもなしに踏み迷う

あしたを知らずに夢を見る

よりそいながらそむきあう

 「踏み迷う」「夢を見る」「そむきあう」という「動詞」で終わっている。この三行は、それぞれが倒置法で、主語は「生きとし生けるものはみな」ということになる。
 そして、この「動詞」は、私には何か「悲しい」ものに聞こえる。「苦しい」と言い換えてもいい。「歓び」というものがない。「夢を見る」は明るいことばなのかもしれないが、「あしたを知らずに」という否定的なことばが先にあるために、「生き生きとした夢を見る」とは読めない。
 「音楽」で言えば「短調」ということになるだろうか。「短調」で統一されている、と感じる。「音」ではなく「意味」が響きあっている。





*


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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)

2018-03-10 11:01:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(26)(創元社、2018年02月10日発行)

 「目と耳」の一連目。

見たくないものには
目をつぶればいい
だが聞きたくないものに
耳をふさいでも音はもれてくる

 「意味」はわかるが、私はつまずく。
 「音はもれてくる」? 音は耳に入ってくる、ではないのか。目をつぶれば、目には見たくないものは入ってこない。しかし、耳を(手で)ふさいでも、大きな音は耳に入ってくる。見たくないものは「拒める」。でも聞きたくないものを「拒む」というのは、「耳(聴覚)」にはむずかしい。「対」構造で考えると、そうなる。
 私自身の「肉体」で体験できることは、そういうことである。しかし谷川は「音はもれてくる」と書く。
 うーむ。
 これは、「音」が「もれてくる」というよりも、「聴覚」が「肉体(耳)」の中から外へ出ていって(もれて)、「音」そのものをつかんでしまうということなのか。もしそうだとすると、「視覚」についても谷川はそう考えているのかもしれない。「視覚」が「肉体(目)」のの中外へ出て言って対象をつかんでしまう。
 「目をつぶればいい」には、「目をつぶれば、見たくないものは目に入ってこない」とは書かれていない。ふつうはそう考えるが、谷川は「目をつぶれば、見たくないものの方へ視覚(目)はもれていかない」と考えているのではないのか。
 「世界」が見える、聞こえる。それは「世界」が自分の「肉体」のなかに入ってくるからではなく、自分の「肉体」のなかにあるものが、「肉体」の外へ出ていって、「世界」と出会う。「見る/聞く」は「肉体」の拡張である。「見えたもの/聞こえたもの」、その「接点」までが「肉体」である。こう考えているのではないだろうか。
 私は、実は、そう考えている。だが、それをどういう「動詞」を使えば言い表わすことができるのか、いままで思いつかなかった。谷川の「耳をふさいでも音はもれてくる」という一行、その「もれてくる」という「動詞」に出合い、そうか、こういうことだったのか、と気づいた。
 ここから、二連目をつづけて読んでみる。

はるか上空のドローンは
暴力を映像に変換して地上に送る
だが破壊の音をドローンは聞かない
ヒトの断末魔の呻きも

 ドローンはカメラを搭載している。カメラは「肉体」の延長である。「視覚」が「肉体」を抜け出し、はるか上空までのぼり、そこから地上を見つめる。それを「映像」にして地上に送ってくる。
 「音」についても高性能のマイクを搭載すれば、収集が可能かもしれない。必要な音だけを「拡大」し収集するマイクというものができれば、「映像」と同じように「音声」を地上に送ってくることが出きるはずだ。「聴覚」については、科学がそこまで追いついていないだけなのだろう。
 この二連目の「映像」を「目(視覚)」、「音」を「耳(聴覚)」と読み直すと、ドローンが「肉体」を拡張したものであり、拡張した「肉体」を利用して世界をとらえようとしていることがわかる。「地上」とは「自分本来の肉体(拡張される前の肉体)のことである。

はるか上空のドローン(拡張された肉体)は
はるか遠くにある暴力を「拡張された目(視力)によって」見ることができる
だが破壊の音を「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)
ヒトの断末魔の呻きも「拡張された耳(聴力)」は聞くことができない(耳は、まだ拡張されていない)

 そして、ここには、もうひとつ注目しなければならないことが書かれている。谷川は「音」を「爆発音」と「呻き(声)」と二種類にわけて書いている。「爆発音」は大きい、「呻き」は小さい。大きいものは遠くからでも認識できる。小さいものは近くに行かないと気づかない。これは聴覚(耳)だけではなく視覚(目)にも当てはまることである。
 「視覚(目)」の方は高性能カメラ(拡張された肉体)によって、この対象との「遠近」の問題を克服しているかのように見える。二連目では。
 でも、それは錯覚かもしれない。そのことが三連目に書かれている。

テレビが毎日映しだす数えきれない顔
その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない
一瞬で金を運ぶ電子の素早い動きも

 カメラ(拡張された視力)であっても「腹の中」は見えない。胃カメラとから、内視鏡というものもあるが、それはこの詩に書かれている「腹の中」ではなく、「生理的、物理的な肉体の内部」を見るだけのものである。
 簡単に言えば「こころ」が見えない。
 その「こころ」を「腹の中」と「肉体」を指し示すことばで言いなおしているところが、とてもおもしろい。
 「こころの変化(こころの中)」は表情になって顔に表れることがある。だから、それは「カメラ」を通して見ることができるともいえるけれど、それがほんとうに「こころの中」かどうかはわからない。「見えない」というしかないものになる。
 「秘密の囁き」は、聞こえないように発する「声」である。
 「こころの中」には、同じように、見えないように隠している「表情」がある。
 「隠している」ものがある。それは見えない、聞こえない。
 けれども、それは「もれる」こともある。
 ここで私は、突然一連目に引き戻される。「もれる」という「動詞」と「肉体」の関係へ引き戻される。
 「視覚/聴覚」は「肉体」の外へ出てゆき、「世界」をつかむ。「こころ」もまた「肉体」のい外へ出てゆき「世界」になる。「視覚/聴覚」というものは「こころ」と同じように、ある「動き」を語るためにある「便宜上のことば」であって、「実体」ではない。見たり聞いたり、感動したり不安になったりということは「日常的」なことなので「視力/聴力/こころ」というものは「もの」のように「ある」と思ってしまうが。
 「視覚/聴覚/こころ」は「ある」にはあるが、その「ある」はあいまいだ。「ある」けれど「ない」ようにも動く。「ない」ように装う(隠す)こともできる。逆に「ある」を強調することもできるだろうなあ。

 あ、私は、何を書いているのかなあ。
 最初に書こうと思ったこととは少しずつずれてきている感じがする。書きながら考え、考えながら書くので、どうしてもずれてくるのである。

耳を疑え 目を信用するな
たとえそれが自分のものであっても
音楽にすら時に嘘がある 偽善がある
聞こえない見えない魂を失くすな!

 「耳を疑え 目を信用するな」の「耳」は「耳で聞いたもの(音)」、「目」は「目で見たのも(映像)」と言いなおすことができる。つまり、「音を疑え 映像を信用するな」である。谷川は「目」と「映像」、「耳」と「音」を入れ替え可能なものとして書いている。自分の「肉体」を起点にするとき「耳と目」になり、「肉体の外」(拡張された肉体)を起点にするとき「音と映像」になる。
 二行目は、「たとえそれが自分の耳、目であっても」あるいは「自分の耳で聞き、自分の目であっても」、つまり「体験したものであっても」という意味であると同時に、「自分からもれたもの(出ていったもの)であっても」になる。言い換えると、自分で「視覚化したもの(描いたもの)」、自分で「音(ことば)にしたもの」であっても、ということである。
 「音楽にすら時に嘘がある 偽善がある」なら、詩(自分で発したことば、音)にも嘘があり、偽善があるかもしれない。
 それを「疑え」「信用するな」と谷川は書いている。
 ここに書かれている「音楽」は、谷川がいちばん信用しているもののことである。音楽は人間がつくりだしたもの。最高の存在だけど、そこには「嘘」「偽善」がないとは言い切れない。

 ふーむ。

 最後の一行、「聞こえない見えない魂を失くすな!」に、私はもう一度つまずく。谷川に限らず、多くの人が「魂」ということばをつかうが、私は、これがわからない。私は「魂」が存在するとは思えない。考えることができない。
 「こころ」も実は「耳」「目」のように、これが「こころ」と指し示す形では存在が「ある」とはいえない。「視覚/聴覚/こころ」などは、「動き」をあらわす便宜上のことば(方便)だと思っている。「こころ」「魂」と、二つに分けていう必要性を感じない。私の周辺(親、兄弟)では、だれも「魂」ということばをつかわなかったということも原因かもしれない。なじめないのである。
 「耳をふさいでも音はもれてくる」も、最初はなじめなかった。でも、ことばを動かしていると「なじめる」ものになる。というか、これが正しいと思う。「魂」は、しかし、どうしてもなじめない。
 だから、ここでは「魂」を、それが何なのか特定しないままに読む。

聞こえない見えない「何か」を失くすな!

 と読む。「聞こえない」「見えない」のだから、それは「特定」できない。「何か」としか言いようのないものである。「聞こえない」「見えない」は、しかし「何か」が「ない」ということではない。「ある」。けれども「聞こえない」「見えない」。
 このとき、それは何にとって「聞こえない/見えない」なのか。「主語」は何なのか。谷川の書いていることばをつかえば「魂」になるのだろうけれど。
 「主語」を「どこに」、「いつ」と言い換えると、どうなるだろう。「きこえない見えない何か」は「どこに」「いつ」あるのか。「私という肉体」の「外」にあるのか「内」にあるのか。「私」という存在が「肉体」を超えて、「外/内」の区別のないものなら、「私と一緒に」「ここに/いま」と言いなおすことができる。
 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」。そのまだことばになっていないものを「失くすな」と言っている。
 これでは抽象的すぎる。ことばが、ただ、ことばを追いかけて動いているだけだ。
 「聞こえない」「見えない」は、この詩の中で、どうつかわれていたか。「動詞」に戻って読み直さないといけない。どう、つかわれていた。

その腹の中はカメラでは見えない
秘密の囁きも聞こえない

 「腹の中」「秘密」は「見えない」「聞こえない」。「魂」とは、「腹の中」であり「秘密」なのだ。「腹の中」や「秘密」を「失くすな」と谷川は言っていることになる。
 抽象的(哲学的?)なことではなく、とても「現実的」な「処世訓」としてもよむことができるのだ。

 「私と一緒に」「ここに/いま」「ある」には「聞こえない見えないもの(腹の中の秘密)」のほかに「見たくない」「聞きたくない」ものがある。これは一連目に書いてあったなあ。この一連目と最終連の一行は、どういう関係にあるのだろうか。
 「聞こえない見えない何か/言いたくない何か(腹の中の秘密)」を守るために「見たくない」「聞きたくない」と思うのかもしれない。「言いたくない何か(腹の中の秘密)」を「失くさない」ために目をつぶり、耳を塞ぐ。
 そのとき。
 では、「もれていく」のは何だろう。
 目をつぶれば視界は「暗闇」。真っ暗。無。耳を塞げば、理想的には「無音」。静けさ。沈黙。
 「音はもれてくる」ではなく、「沈黙」がもれてくる。そのもれた「沈黙」の「場」を「音」が塞ぎに来る、ということかもしれない。
 そうであるなら、「聞こえない見えない魂を失くすな!」は「沈黙と闇」を失くすな、ということになる。
 (あ、ここからは、また「抽象」だなあ。疲れてくると、ことばは抽象へ傾く。)
 「沈黙」は「音楽」と固く結びついている。「沈黙」が「音楽の嘘/偽善」をあばくのかもしれない。「沈黙」が一緒に存在しない音楽は嘘である。

 「抽象」ついでに、さらに考えてみる。
 「聴覚がもれる」を「沈黙がもれる」と言いなおせるのならば、「視覚がもれる」は何と言えるだろうか。「沈黙」に相当するのは「闇」だが、「闇」がもれだせば世界は暗くなり、何も見えない。だから「視覚(目)」からもれだすのは「闇」ではなく「光」になるかもしれない。いや、そうではなくて、「闇」がもれだして、その空いた部分に「光」は入ってきて、それが「映像」になる。
 やっぱりだめだ。
 だんだんわからなくなってきた。
 目も痛くなり、考えるのが苦痛になってきた。
 「肉体」のなかから何かが出て行く。かわりに何かが入ってくる。そういう「交渉」が、たぶん生きるということなのだろう。
 と、書いて、きょうの感想を閉じておく。


*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(25)

2018-03-09 08:18:09 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(25)(創元社、2018年02月10日発行)

 「なんにもしたくない」の最終行は「歌うたうのももうやめた!」。それまでの行が「歌」になる。

ああなんにもしたくない
カツ丼なんか食いたくない
友だちなんか会いたくない
女となんか寝たくない
話したくない聞きたくない
(略)
ああなんにもなんにもしたくない
お日さまかんかん蝶々ひらひら
どこかで赤ん坊が泣きわめく
いまは三月それとも四月
それとも真夏の昼下がり
歌うたうのももうやめた!

 「したくない」(正確には「たくない」か)が繰り返されている。声に出すと自然にリズムができる。これが「歌」か。「うたう」か。
 「ジャズドのラマー」に、「われわれは人間の肉のリズムを拍ち、それに酔う」ということばがあった。「声」がリズムをもつと、やはり人はそれに酔う。どんどんことばがあふれてくる。
 繰り返しは「したくない」だけではない。「カツ丼なんか」「友だちなんか」「女となんか」の「なんか」。それに「なんにもなんにも」もそうだが、「ないないづくし」の「ないない」「お日さまかんかん」の「かんかん」、「蝶々ひらひら」の「ひらひら」。よく見れば「蝶々」も「ちょう」の繰り返し。(「蝶」単独でも意味は同じだからね。)「それとも」も繰り返し。
 しかし、

どこかで赤ん坊が泣きわめく

 には繰り返しがなくて、リズムが変わる。それが「終わり」を予告しているかもしれない。
 ここが、谷川の「本能」のような部分だね。
 黙読していても、はっとするが、朗読ならば黙読よりもはっきりと変化がわかると思う。
 ここに「音楽」がある、と言えるかもしれない。
 「変化」もまたリズムの重要な要素だ。
 「音楽」を知らずに育った私がいうと信憑性がなくなるが、谷川はどこまでも音楽的なのだ。



*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)

2018-03-07 09:11:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(23)(創元社、2018年02月10日発行)

 「おまえが死んだあとで」は、どんな具合に「音楽」と関係があるのか。二連目に「歌声」ということばがある。しかし私には「歌声」は聞こえない。単なる「ことば」として、そこにある、という感じしかしない。私が「音楽」を感じるのは、別なところである。

おまえが死んだあとで
青空はいっそう青くなり
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを愛し始める
残された思い出の中で
おまえはいつでもほほえんでいる

 「通俗的」な歌、古い歌謡曲を思わせる。「おまえが死んだあとで」が繰り返されるところも歌謡曲っぽい。書かれている「意味(内容)」も通俗的かもしれない。二行目の「青空はいっそう青くなり」は、そのなかでは少し変わっている。だから、あ、ここがおもしろい、と思う。
 もし谷川の詩の特徴について語るならば、ここかなあ、と考えたりする。
 二連目は、一連目を繰り返しながら別なことばも動く。繰り返しと変化(変奏)が「音楽(歌謡曲)」という印象をいっそう強くする。

おまえが死んだあとで
歌声はちまたに谺して
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえに嘘をつかない
残された一通の手紙に
答えるすべもなく口をつぐんで

 「おまえが死んだあとで」とは別に、連をまたいで繰り返されることばがある。「ようやく」と「残された」である。こういう繰り返しの構造が「歌(音楽)」の感覚を呼び覚ます。繰り返しながら変化している。そのリズムが「歌(音楽)」である。
 この連では「おまえが死んだあとで/ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」が「意味(内容)」として刺戟的である。「嘘をつかない」ではなく、「つけない」というのが現実である。「おまえ」が「いない」のだから、嘘をつきようがない。現実を別の角度から言いなおすと、そこに詩があらわれるのかもしれない。
 レトリックだね。

おまえが死んだあとで
人々は電車を乗り降りし
おまえが死んだあとで
ようやくぼくはおまえを信じ始める
残されたくやしさの中で
ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」を思い起こさせる。これも繰り返しと変化(変奏)のひとつである。
 そう思って読むと、この「変奏」の「繰り返し」にも微妙な違いが見えてくる。
 「ようやくぼくはおまえを愛し始める」「ようやくぼくはおまえを信じ始める」は「ようやく……始める」なのに、「ようやくぼくはおまえに嘘をつかない」には「始める」がない。けれど、これは「ようやくぼくはおまえにほんとうを語り始める」と言いなおせば「始める」が隠されていることになる。
 「繰り返し」も「変化」も、あまりにも自然に見えるが、どちらも「つくられたもの」(人間が創ったもの)であることがわかる。「工夫」が隠れている、というのが「つくりもの」の証拠である。
 「残された思い出」は「一通の手紙」「くやしさ」と言いなおされる。「思い出」を「感情」にまで凝縮していくところも「工夫」だし、「ちまた」を「電車」と言いなおすのも「変奏」である。
 と、読んできて。
 最後に、私は、「わっ」と声を出しそうになる。

ぼくらは生きつづけひとりぼっちだ

 「ぼくら」って、だれ?
 一連目は、「おまえはいつでもほほえんでいる」と「おまえ」が「主語」。二連目は「答えるすべもなく口をつぐんで」と主語は書かれていないが「ぼく」だろう。

残された一通の手紙に
「ぼくは」答えるすべもなく口をつぐんで(いる)

 と、ことばを補うと、繰り返しと変奏がわかりやすくなる。
 そうすると、三連目の「ぼくら」は、こう言いなおすべきなのだ。

「おまえ」と「ぼく」は生きつづけひとりぼっちだ(でいる)

 「ぼく」が「生きつづけ」「ひとりぼっち」というのは、「おまえが死んだあと」なので当然のことである。でも

おまえは生きつづけひとりぼっちでいる

 はどうか。「死んでいる」のに「生きつづける」は矛盾している。非論理的だ。しかし、ここに「残された思い出の中で」「残された一通の手紙の中で」「残されたぼくのくやしさの中で」とことばを補うと、どうなるだろう。
 「思い出の中で人が生きつづけている」という言い方は、しばしばだれもが口にする。人は死んでも「思い出の中で生きつづけている」。その人が「ひとりぼっち」なのは、「思い出」と「現実(いま)」が、接続しながら切断しているからだ。「思い出」に閉じこめられて、そこから出て来られない。「思い出」のなかで「ひとりぼっち」。
 ここには、「おまえ」と「ぼく」が切り離せない形で結びついている。「接続と切断」が、そこにある
 「おまえ」を「沈黙」、「ぼく」を「音」と言いなおしてみれば、これは谷川が語り続けている「音楽」の「構造」そのものになる。
 繰り返しと変奏という、感覚的につかみやすい部分だけを読んでいて、最後に、突然、「ここに音楽がある」と「音楽」をぶつけられたような衝撃を受ける。

 

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)

2018-03-06 10:41:16 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(22)(創元社、2018年02月10日発行)

 「あのひとが来て」は最終連に「音楽」ということばが出てくる。それまでは「あのひとが来て」はじまった一日が語られている。
 きのうは長い感想になったので、きょうは短い感想にしたい。
 最終連だけを取り上げる。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた
時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 この「音楽」とは何か。ベートーベン、モーツァルト、ショパンの曲を指しているわけではない。具体的な音を指してはいない。実際には聞こえない「音楽」、つまり「沈黙の音楽」を指している。
 それはどこにあるか。
 「対比」が「音楽」となって響く。

時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子

 この一行にはいくつかの「対比」がある。「娘(女)」と「息子(男)」の対比はわかりやすいが、ほかにもある。そのことはあとでふれることにして、

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 から見ていく。
 「夜になって」の「夜」は書かれていない「昼」ということばと「対比」することができる。「昼」は、詩の前半に書かれている。「なる」という「動詞」が「昼」を呼び出し、同時に否定する、あるいは超えていく。
 「雨」と「星」は共存しない。これも「対比」といえる。雨が「上がり」は「晴れる」。そのあとに星が瞬く。「上がる」という動詞が「対比」を「移行」(変化)として書かれているので、見落としてしまいそうになるが、「対比」である。「動詞」が「対比」されているものを接続している。連続させている。この「接続」には「雨が上がる」(雨がやむ)という「中断」が含まれている。「断絶」が「上がる」という「動詞」で「接続」されるという、おもしろい構造になっている。この構造は「暮らし」に密着しているので、ついつい見落としてしまう。
 「夜になって」が「夜になる前は昼だった」ということを意味するのだが、そういうことをいちいち意識しない。ここにも「暮らし」のなかにある「接続と切断(切断と接続)」がある。
 この「切断と接続(接続と切断)」は、

歓びは哀しみの息子

 ということばの奥にも隠れている。「哀しみ(母)」からやがて「歓び(息子)」が生まれる。それは「生む」ということばでは正確には伝えられない「変化」なのだが、私たちは確かに「哀しみ」がずっーと「哀しみ」のまま人間を苦しめるのではなく、どこからともなく「歓び」がやってくることを知っている。歓びは哀しみを超えていく。そこには「切断と接続」がある。間にあるのは不思議な「時間」である。
 その「時間」から、

時間は永遠の娘

 を読み直すと、そこに書かれているものがとても複雑になる。
 「時間は永遠の娘」ということばを単独で読んだとき、「時間」は「一瞬(いま)」と読むことができる。「永遠」という「長い時間」のなかの「一瞬(いま)」は、「永遠」という「母」から生まれた存在。「娘(瞬間)」は「母(永遠)」につながっている。
 でも、その「時間」は「瞬間」であると同時に、「永遠」ではないけれど「幅(長さ)」をもった「時間」であることもある。「幅(長さ)」があれば、そのなかで「変化」が起きる。「切断と接続(接続と切断)」も起きる。
 この「変化(動き)」を起点に考え直すと「時間」は動くが「永遠」は動かないということになる。動くものが動かないものを浮かび上がらせる、とも言える。「永遠は時間の娘」と言っていいかどうかむずかしいが、私は、一瞬混乱する。
 どちらが「母」、どちらが「娘/息子」とは言えない。
 「哀しみは歓びの息子」というようなことも「暮らし」には存在する。「遊びすぎているから、そんな痛い目にあうのだ」「怠けているから、そうなったのだ」というような言い方は「暮らし」のなかに根付いている。
 「対比されるもの」、「対」になっているものは、ときには「入れ替え」が可能なのだ。むしろ、それは固定化せずに、入れ代わるものとして「対」そのものとし把握しないといけないのかもしれない。
 そうすると「対比」とは結局何になるのだろうか。
 「対比(対)」とはことばによって「つくりだされたもの」にならないか。
 「対比(対)」という意識によって整えられないかぎり、それはただ「ある」だけのもの。
 「対比(対)」は「ことば」によってつくりだされる。「ある」だけのものが、ことばによって「対(対比)」に「なる」。

 「つくりだす」という「動詞」から「音楽」を振り返ってみる。
 谷川は「自然の音」と「音楽」を対比して、「音楽」を「人間が創るもの」と定義していた。「人間が創るもの」が「音楽」ならば、「つくりだされた対比」もまた「音楽」ということになる。「楽器」や「声」によって表現される「音楽」ではなく「ことば」でかかれた「音楽」ということになる。
 この「音楽」と「沈黙」の関係はどうなるか。「音楽」と「沈黙」は切り離せないもの。同時に固く結びついて存在するもの。

夜になって雨が上がり星が瞬き始めた

 この一行に戻ってみる。
 「雨」と「星」を「対比」させていたのは何か。なにがそれを接続し、また切断したのか。「上がる」という「動詞」である。
 「動詞」は不思議だ。「雨」や「星」は、「それ」と指し示すことができる。でも「上がる」という「動詞」は指し示せない。「動き」を「方便」として「上がる」と呼んでいるが、それは「固定」できない。
 「上がる」と「ことば」にしているが、「雨」や「星」に比べると、それは「存在」とは違う。「動き」は存在するが、それを固定化すると「動き」ではなくなる。「動詞」は、「沈黙」に相当しないだろうか。「名づけられていないもの」にならないだろうか。「動詞」は「名詞」を生み出すための、「ことばにならない」何かということにならないか。

あのひとのかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた

 最終行の「終わらない」は「動き続ける」ということである。
 「あのひと」と「私」は別個の存在である。つまり「切断」されている。けれども「触れる」ことができる。「接続」できる。二人の間で「切断と接続(接続と切断)」は繰り返され、終わることがない。「切断と接続」は、その都度「対比(対)」を浮かび上がらせる。「対」を生み出し続ける。
 それが「音楽」だ。
 「あなた」と「私」は、それぞれ個別の「音」。そのふたりの「あいだ」に「沈黙」がある。「音のない間」がある。それが「動く」。「沈黙」が動き、「あなた」と「私」という「音」を変化させる。いや、「沈黙」そのものが変化するとも言える。
 楽器ではないもの(沈黙)が奏でる「音楽」がそこにある。



 

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)

2018-03-05 00:58:36 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(21)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のとびら」は詩か、エッセイか。「ことば」であることにかわりはない。ⅠとⅡにわかれている。
 Ⅰのテーマは「言葉は音楽を語る事が出来ない」、あるいは「音楽は言葉を語れない」であり、「音楽は言葉を語る必要はない」。
 そのなかに、「音楽」を離れて、こう書いてある。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 これについては、異議を申し立てたい。
 ことばは確かに「精神」と「肉体」という表現をもっている。けれども、私は「精神即(すなわち)肉体」「肉体即精神」と思っている。切り離せないし、そのふたつのことばは入れ替え可能である。あるとき「精神」といい、別なときに「肉体」といい、さらには「精神と肉体」、あるいは「肉体と精神」という具合につかいわけるけれど、これは「方便」である。「ひとつ」の「何か」から、「何かの都合」にあわせて「精神」と「肉体」ということばが出てくる。そう考えている。
 たぶん、ここが谷川と私の考え方のいちばんの違いだと思う。
 で、ここからこんなことも思うのだ。
 谷川は「言葉」と「音楽」を、「精神」と「肉体」のように分けている。先の引用は、

 われわれは言葉と音楽を分ける。言葉すなわち音楽、音楽すなわち言葉という「考え方(ものの把握の仕方/思想)」をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせていない。

 と言い換えることができる。「われわれ」は、「人間は一般に」ということだろうが、厳密に言えば「谷川」である。
 私は、そうではないとらえ方があるのではないか、と思う。ことばと音楽には「即」といえるものが隠れているのではないか、と思う。これは予感のようなものであって、実感ではないのだが。

 こういうことは考え始めると、とてもむずかしいのだが。
 たぶん、どういう環境で育ってきたかということも影響していると思う。
 すでに書いたが、私は「音楽」というものを非常に遅くなってから知った。小学校に入学して、オルガンにあわせて歌を歌うのを聞くまでは「音楽」というものを聞いたことがなかった。両親は歌を歌わないし、歌も聴かない。兄弟とは年が離れているので、歌を聴いたことも一緒に歌ったこともない。「子守歌」めいたものは聞かされたかもしれないが、たぶん「歌」ではなく「声(呼びかけ)」としてしか私の「肉体」には聞こえていない。
 「音楽」が生まれたときから周囲(家庭)にあった谷川とは、考え方がどうしても違ってきてしまう。
 私は「音楽」というものと、「精神」のようにして「出会った」のである。「精神」はいつでも、どこでも存在しているが、子どものときは「精神」ということばを知らない。「精神」ということばを聞き、それを使いこなせるようになるまでは「精神」というものは、私には存在していなかった。「音楽」が小学校で「音楽」ということばで聞かされるまでは、私にとっては存在していなかったというのに似ている。
 「音楽」はなかったが、「音」はあった。山の中で育った私は、自然の音を聞いていた。でも、それは「聞く」という感じではない。「聞く」とは意識しなかったと思う。それは、ただ「ある」。田んぼや畑、道や、草木が「ある」のと同じ。それを「見る」とは、わざわざ言わない。ただ「ある」のだ。
 ことば(声)は、かなり違う。それは「聞く」ものだった。ことばは「精神」と「肉体」を動かす。「肉体」は、そのときあまり意識されない。「精神」ということばはおおげさだから、「気持ち」と言いなおした方がいい。ことば(声)を聞く。つまり「何か」言われる。それに対して「気持ち」がまず動き、そのあとで「肉体」が動く。
 自然のあれこれ(見えるもの、聞こえるもの)も「精神」と「肉体」を動かす。働きかけてくる。けれど、そのとき「精神」はあまり意識されない。「肉体」が反応している。川の水が音を立てて流れていると、その中には入らない。落ちないようにする。それは「精神」で判断しての動きではない。「肉体」の、一種の無意識の動きである。
 どんどん脱線してしまう。どこまで断線していいのか、わからなくなるのだが、とりあえず、そういうことを書いておきたい。Ⅱで谷川が書いていることと、少し関係があるからだ。

 Ⅱの中心的なエピソードというか、テーマは、信州の山奥でフォークソングを聞いたときの谷川の「反応」である。
 自然の音は聞いていた。(聞こえていた)。けれど「音楽」聞かない日々がつづいた。そんなある日、フォークソングのグループがやってきて、歌を歌った。その音楽に谷川は「圧倒」された、という。

 音楽は、それら自然の音とは最初の一音から別物だった。それは思わず顔が赤らむほどぶしつけなものだった。あつかましく図々しく高原の空気の中に響きわたり、私を犯した。ひとつひとつの音が、人間の肉の訴えに満ちており、トルストイがクロイツェルソナタについて言ったことを、私はまざまざと想い起こしたのである。

 この文章で私が感じるのは、「音楽」と「自然の音」というものが、私の感覚とはまったく逆であるということだ。
 「音楽」を「ひとのつくったもの」と谷川は言うが、「音楽」は谷川にとって生まれたときからそばにあった。先天的だ。「自然の音(信州の山の音)」は都会育ちの谷川にはあとからやってきた。後天的だ。
 この「先天的」と「後天的」は、「肉体」と「精神」という具合に言い換えることができる。「肉体」と「精神」はいっしょにあるもの(切り離せないもの)だが、ふつう「肉体」が先天的にあり、「精神」はあとから学ぶもの(気づくもの)だろう。
 さらに言い換えると、谷川にとっては「音楽」は「肉体」であり、「信州の山の音」は「精神」なのだ。
 「音楽」が「肉体」であるからこそ、谷川を「犯す」。
 「おかす」という動詞は「侵す」と書けば「精神を侵す」「自由を侵す」ともつかうけれど、「犯す」ならば「肉体」を「犯す」である。自然の音は「肉体」ではないから、谷川を「犯す」ことはない。
 「音楽」は谷川にとって「先天的」であり、「肉体」そのものである。
 だからこそ、こうも書く。

美と快楽と慰めに結びついているからこそ、音楽はますます奥深いものになるのである。

 これは「肉体」と結びついているからこそ「音楽は奥深いものになる」であり、「音楽の美と快楽」は「肉体の美と快楽」そのものである。「後天的(人工的)」なものではなく「先天的」なのものなのだ。

 音楽そのものが本来、理性への挑戦という一面を含んでいるのだ。音楽の精神性も、それを踏まえて考えることなくしては、単なる通俗教養主義に堕してしまうだろう。

 谷川にとって「音楽」が「先天的(肉体/自然)」だからこそ、それは「理性への挑戦」になる。「理性」は「後天的」であり「人工的」だ。「音楽」の「精神性(後天的/人工的)」なものというのは、「理性」でつくる「精神」ではなく「肉体」が本能的に身につける「身のこなし」のようなものなのだ。

 こう考えてくると、大問題が起きる。

 「自然の音」と「音楽(人工の音)」のどちらが先天的(肉体的)かという部分で、私と谷川は決定的に違う。
 この違いを超えて、詩を読み続けることはできるのか。違いを抱えたまま読み続けると、そこに何があらわれてくるのか。
 そこにあらわれてくることばは、谷川について語っているのか、私について語っているのか。
 区別がむずかしくなる。
 わけがわからなくなりそうだが、わけがわからないことを利用して、Ⅰに戻ってみる。谷川は、

音楽は言葉を語る必要はない

 と語っていた。その「音楽」を「肉体」と書き直してみよう。

「肉体」は言葉を語る必要はない

 実際、「肉体」が動くとき「ことば」を必要としない。「肉体」は「動き」を通して「他者」と交渉する。「ことば」はなくても「肉体」が何をしたいかはわかる。つたわる。
 さらに「言葉」は「後天的」に学ぶもの、「肉体」は「先天的」に存在するものだから、これはこういう具合に読み直すこともできる。

「先天的存在である肉体」は「後天的なもの」を語る必要はない

 「先天的なもの」は「ある」。「ある」だけで十分なのだ。完結している。
 これは、私の「感覚」である。「音楽(人工の音)」を知らずに育った私の「実感」に非常に近い。
 もうひとつ、私が「異議申し立て」をした部分の文章はどうなるか。

 言葉は精神と肉体を分ける。精神すなわち肉体、肉体すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 この「肉体」を「音楽」と言い換えてみよう。

 言葉は精神と「音楽」を分ける。精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神という言葉をわれわれは未だ、或いはすでに持ち合わせない。

 私は書きながら、「肉体」がぐらりと揺れるのを感じる。
 谷川はむしろ、

精神すなわち「音楽」、「音楽」すなわち精神

 ということが「肉体」にしみついてしまっているのではないだろうか。「肉体」にしみついてしまっているから、それをことばにする必要がない。
 「音楽」を「人工的なもの」(後天的なもの)と言いなおすと、肉体よりも後天的な「精神」と「即」でしっかり結びつかないか。

精神(後天的なもの)すなわち「人工的なもの(後天的なもの)」

 「後天的なもの」という「同じことば」が「即」そのものになる。

 「音楽」について谷川は「私を犯した」と書いていた。「音楽」は「肉体」であった。だから、いま「音楽」と書き直した文章をもう一度「肉体」と書き直すことも可能なはずである。
 そうすると、どうなるか。

精神すなわち肉体、肉体すなわち精神

 谷川は、こういうことばを「持ち合わせない」と書いているが、私は谷川の詩に「精神すなわち肉体、肉体すなわち精神」という「思想」が隠れてると感じる。「すなわち」のかわりに「音楽」があいだに入って「精神」と「肉体」を結びつけている、入れ替え可能にしていると感じている。

精神=音楽=肉体

 記号をつかって書けば、こういう関係があると感じる。
 「音楽」を媒介として挟み込むと、谷川にとっては「精神即(すなわち)肉体」にならないか。そしてまた「音楽」を媒介とすれば「言葉即肉体」ということも言えるのではないか。
 うまく整理できないが、私が谷川から受け取るのは「言葉(精神)=音楽=肉体」という「ひとつ」のものである。
 私は「正式な音楽」というものを知らないが、ことばのもっている「音の響き/声の響き」と「肉体」は切り離せないものだと感じている。私は「音楽」のかわりに「響き」を媒介にして「ことば(精神)=響き/声=肉体」を「ひとつ」のものと考える。
 私は谷川が「音楽」と呼んでいるものを「響き(そこにある音の肉体)」と自己流に「誤読」して、谷川の詩と向き合っているのかもしれない。

 (書いているときは、何かがわかっているつもりだったが、読み返すと何が書いてあるかわからない文章になった。)


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)

2018-03-04 09:30:20 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(20)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ケトルドラム奏者」。ケトルドラムを私は知らない。ドラムの一種だろう。

どんなおおきなおとも
しずけさをこわすことはできない
どんなおおきなおとも
しずけさのなかでなりひびく

 「どんなおおきなおとも」で始まるからケトルドラムは大きな音が出るドラムなのだろう。一連目は「おと」を主語にして語っている。「しずけさ」を「こわすことはできない」「なりひひびく(ことしかできない)」。四行目に「できない」を補って読むと、「おと」と「しずけさ」では「脇役」を演じている「しずけさ」の方が「力がある」ということがわかる。
 ここから主語(主役)が逆転して二連目へつづく。

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにそのうでにだきとめる
しずけさはとわにそのうでに

 一連目の「おと」は「ことりのさえずり」(小さな音)と「みさいるのばくはつ」(大きな音)と言いなおされ、「しずけさ」の「うで」のなかにおさまる。「しずけさ」は「おと」よりも「大きい/広い/強い」。
 だが「おと」に「大きい」「小さい」があるなら、「しずけさ」にも「大きい」「小さい」があるかもしれない。
 「ことりのさえずり」をだきとめる「うで」は「大きい」のか「小さい」のか。小さな「しずけさ」でだきとめるのかもしれない。
 「みさいるのばつはつ(音)」をだきとめる「うで」はどうか。「大きい」か「小さい」か。「おおきいおと」をだきとめるのだから「おおきい」のかもしれない。
 「おと」が「大小」を自在に変えるように、「しずけさ」も「大小」を自在に変える。だきとめる「うで」が自在に大きさ(広さ、強さ)を変えるように、自在に変化するかもしれない。
 「自在な変化」があって「ともに」が生まれ、「とわに」も生まれる。
 「ともに」と「とわに」という音(ことば)の響きあいが、「意味」を一気に広げる。

 一連目の最終行に「できない」が省略されていたように、この連の最終行には「だきとめる」が省略されている。さらにそこに「できる」を補って読む必要がある。「だきとめることができる」と。
 一連目が「できない」ということばで「おと」の「不可能性」を描いていたのに対し、二連目は「できる」と「しずけさ」の「可能性」を描いている。
 この「音」と「静けさ(沈黙)」の関係は、この詩集で繰り返されるテーマだが、この詩から別のことを考えてみることができる。
 「音」は単に「沈黙」のなかで鳴り響くだけなのか。
 前に読んだ詩の中では、こういう行があった。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するために、別の沈黙をつくっているのだ。

 音は「沈黙」を「音」そのもののなかにつくりだす。そしてその「音」は自然発生的なものではない。「音」を生み出す人がいるのだ。ジャズなら、ドラマーが。
 この詩ではケトルドラムの「奏者」がいる。
 ところが、この詩には「奏者」はなかなかみつからない。一連目は「おと」と「しずけさ」の関係を抽象的(?)に語っているだけのように読んでしまう。二連目も「ことりのさえずり(小さな音)」「みさいるのばつはつ(大きな音)」と「しずけさ」の関係だけを語っているように見える。
 でも、二連目の「しずけさ」に「そのうで」ということばがあることを思い出そう。
 「しずけさ」に「うで」はあるか。私は見たことがない。それは「比喩」である。「しずけさ」そのものは「うで」をもっていない。そこに「ない」からこそ「比喩」が動き、そこに「うで」を生み出す。
 言いなおそう。
 二連目は、

ことりのさえずりと
みさいるのばくはつとを
しずけさはともにだきとめる
しずけさはとわに(だきとめる)

 でも「意味」はかわらない。
 なぜ「うで」という「比喩」をつかったのか。「だきとめる」という「動詞」が「うで」を生み出したのだとも言えるが、ここに「ケトルドラム奏者」が反映されていると読むべきなのではないだろうか。
 この詩には具体的に「奏者」の姿は書かれていない。けれどタイトルに「奏者」がある以上、どこかで「奏者」は意識されている。
 それが、「うで」という「肉体」となって、ここにあらわれている。
 ここから、この詩をこんなふうに「誤読」することができる。(つまり、谷川が書いていないことを勝手に捏造しながら読み進むことができる。)
 ジャズドラマーが「沈黙と対抗するための、別の沈黙をつくっている」のだとしたら、「ケトルドラム奏者」も「沈黙」をつくっている。その「沈黙」は「ことりのさえずり」をだきとめることができる。「みさいるのばくはつ(音)」もだきとめることができる。ドラムをたたく、「そのうで」で、だきとめることができる。
 一連目から二連目への変化を「おと」から「しずけさ」への主語(主役)の変化として読んできたが、実は「ドラム」から「奏者」への変化でもあったのだ。「できる」の「主語」は「うで」をもった「奏者」である。

 「音楽」、人間のつくりだす「音と沈黙の結合」は、そうやって「世界」を変えていく。谷川は「音楽」にその可能性を見ている。





 

*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)

2018-03-03 11:44:44 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(19)(創元社、2018年02月10日発行)

 「奏楽」は「音楽」と「息」の関係を書いている。

きららかの
黄金の楽器に
憤る
息を吹きこめ

冴え渡る
銀の楽器に
憧れの
息を吹きこめ

ぬくもりの
木の楽器には
忘却の
息を吹きこめ

 最初の修飾語は「黄金」「銀」「木」にかかるのだが、あえてその行を飛ばして「憤る」「憧れ」「忘却」と結びつけるとどうなるだろうか。「きららか(な)憤り」「冴え渡る憧れ」「ぬくもりの忘却」。さらに言い換えて「憤りの輝き」「憧れの冴え渡り方」「忘却のぬくもり」。私には「ぬくもり」と「忘却」の結びつきが一番納得できる。「怒り」と「輝き」も納得できる。でも「憧れ」と「冴え渡る」(透明?)はなんとなくしっくりこない。「冴え渡る」を「透き通った」と読み直すと、「憧れる」ときの一途さとつながるかなあ。
 「息」との関係をみると、どうか。
 「怒る」とき「息」は燃える。だから、輝く。きらきら。
 「憧れる」とき「息」は静かだ。この「静寂」が「冴え渡る」なのかな?
 「忘却」のとき、忘れてしまったとき、「息」は複雑かもしれない。「悲しみ」も含まれるし、「なぐさめ」のようなものも含まれる。いちばん「人間的」かなあ。ひとの「ぬくもり」は、「忘却」(あるいは思い出)とともに動いている。
 金管楽器、木管楽器はあっても、銀管楽器がない。それなのに「金」「銀」「木」とことばを動かしているために、「無理」が動いているのかも。
 でも、この詩の力点は「楽器」ではなく、「奏楽」の「奏でる」の方にある。「息を吹きこめ」の方にある。
 だから、このあと「主語」がやってくる。

肉に
ひそむこころを
解き放て
地平の彼方

 「肉」には「ししむら」というルビがある。古い言い方だね。ことばが「いま」ではなく、「長い時間」へと遡っていく。「時間」の奥に「ひそむ」ものを暗示させる。その動きがひきつがれ「ひそむこころ」となる。
 「肉(体)」と「こころ」。「二元論」である。「肉(体)」のなかに「こころ」がある。その「肉体」が遠い過去とつながっているなら、「こころ」もまた遠い何かとつながっているだろう。
 この連には「息」ということばがないが、「肉」と「こころ」が結びついているのが「息」だからだろう。「息」を「肉」と「こころ」と言いなおしているのである。
 このとき「肉体」は「肉管楽器」かもしれない。

我等また
風に鳴る笛
野に立って
息を待つ

 「笛」は「楽器」、「肉管楽器」。それは「息」を吐きだす、つまり他の楽器に「息を吹きこむ」のだが、同時に「息を吹き込まれる」ことを待っている。「怒り」か「憧れ」か「忘却」か。「私ではない人の息」を待っている。

星々の
はた人々の
たえまない
今日の吐息を

 「星々」という「宇宙」につながることばが動くのが谷川だ。「人々」よりも先に「宇宙」があらわれる。「宇宙」を引き寄せてしまう。
 でも、「吐息」かあ。
 「吐息」は「吹きこむ」ものかなあ。「洩らす」ものである。「忘却」のとき、ふと「吐息」が漏れるかもしれないけれど、あるいは「憧れ」のときも「吐息」が漏れるかもしれないけれど。
 うーん、
 「吹きこめ」の強さがなくなっている。息が乱れている。




 

*


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小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)

2018-03-02 10:18:08 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(18)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽のように」には「音楽」ということばは出て来るが、それがどんな音(旋律)、リズムなのか、書かれていない。かわりに「からだ」と「心」、「迷路」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」という具合に「対」が書かれる。

音楽のようになりたい
音楽のようにからだから心への迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のようにからだをかき乱しながら
心を安らぎにみちびき
音楽のように時間を抜け出して
ぽっかり晴れ渡った広い野に出たい

 「対」は、音楽ならば「音」と「沈黙」、詩ならば「ことば」と「沈黙」という形でこれまでの作品でも見てきた。「対」になって、世界が「完全」になる。
 「からだ」と「心」の「対」は、いわば「二元論」であり、それについてはまたあとで書くが、私はこの作品では「迷路」と「たどりつく」、「かき乱す」と「安らぎ」の「対」にとても考えさせられた。
 「名詞」と「動詞」が「対」になっている。
 「迷ってたどりつけない」と「やすやすとたどりつく」、「かき乱す」と「安らぐ」ではない。「迷路」と「脱出(到達)」、「攪乱」と「安らぎ」ではない。
 谷川は、無意識に「名詞」を「動詞」に、「動詞」を「名詞」にすりかえている。
 「二元論」で考えるなら、「名詞と名詞」「動詞と動詞」の方が「対」が明確になる。「からだ」と「心」は「名詞と名詞」である。
 谷川は、そういう「単純な二元論」をどこかですり抜けている。

 どうやって?
 すぐには「答え」が出せない。
 だから、「からだ」と「心」という「二元論」に戻って、そこから詩を読み直してみる。
 「からだ」と「心」を入れ替えてみる。

音楽のように心からからだへの迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のように心をかき乱しながら
からだを安らぎにみちびき

 どうだろう。
 どっちが、「しっくり」くる?
 実は私は、この詩を、「からだ」と「心」を入れ替えながら読んだ。単純に入れ替えるのではなく、何度も入れ替える。谷川が書いていたのがどちらかわからなくなるくらいに入れ替え続ける。そうしていると、これは「からだ」と「こころ」を入れ替え続けながら読まなければならない作品だと感じてくる。
 「からだ」と「心」は、明確に区別できるものではなく「ひとつ」のものなのだ、と実感できるようになる。
 私は、「心」とか「精神」というものの「実在」を信じていない。存在しているのは「肉体」だけだと思っている。「心」「精神」というのは、ことばを動かすときの「方便」のようなもので、ほんとうは存在していない。「肉体」の「動き」の、どこが動いていると明確に指摘できないものを「心」「精神」と読んでいるだけだと考えている。
 で、この、どこが動いているかわからないけれど、動いてしまう何か。「臓腑」なのか「細胞」なのか、「遺伝子(情報)」なのか、わからないけれど動いてしまうもの。このときの「動く(動き)」というのは、「ある状態」から「別の状態」へ「変わる」ということでもある。
 これを「からだ」と「心」ではなく、「ことば」に移して考えてみる。
 「名詞」が「動詞」に変わる(動いていく)、「動詞」が「名詞」に変わる(動いていく)。「名詞」には「動詞派生」のものがある。「動詞」にも「名詞派生」のものがあるかどうかわからないが、私は「ことば」を自分のものにするとき、「動詞」を基本にして考える癖があるので、「動詞派生の名詞」と考えるのかもしれない。
 「迷路」は「迷い路」であり、それは「迷う」という「動詞」がなければ生まれないことばだと思う。道に迷ったという経験(肉体の記憶)が「迷路」をリアルに浮かび上がらせる。
 そして、この「動詞」というか、「肉体が動く」、「肉体を動かした記憶」というものは、動きを通して、「からだ」でも「心」でもない、別なものを生み出す。

音楽のように時間を抜け出して

 ここに書かれている「時間」を。
 「時間」はどうして存在するか。いつでも存在しているものなのか。
 ふつうは、いつでも、どこでも存在している「客観的」なものと考えるのかもしれない。
 けれど私は「時間」は「肉体」が動くことで「生み出される」ものだと考えている。自分の「肉体」がなければ「時間」というものもない。「肉体」の何かを語るための「方便」として「時間」というものがある。
 「方便」として生み出された「ことばとしての時間」。
 「からだ」も「心」も、「肉体」の何かを語るための「方便として生み出されたもの」と考えている。

 「肉体」があって、「肉体」が何かに触れる。そうすると「肉体」に刺戟が返ってくる。そして「世界」が姿をあらわす。「あらわれた世界」は客観的なものではなく、あくまでも「肉体」の延長である。見えているもの、聞こえているもの、認識しているもの、その広がりすべてが「肉体」であるという具合に、私は「一元論」でとらえる。
 この「一元論」の世界は、「二元論」と比べるととても不安定だ。「からだ」は「からだ」のままではない。「心」は「心」のままではない。瞬間瞬間に、入れ代わる。どちらと呼んでもかまわない、というよりも、入れ替えないが呼ばないといけないものになる。「どっちが、ほんとう?」と聞かれたら、「両方ともほんとう」と答えるしかないものなのである。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。
 谷川が、私の考えているように考えているとは思わないが、どこかでそういう考えに通じるものを抱えていると感じる。

 そうやって生み出された「時間」と「音楽」の関係を谷川は、

音楽のように時間を抜け出して

 と書いている。「音楽」は人間が生み出した「時間」を抜け出すことができる。「時間」から自由になるのが「音楽」ということになる。「人間(肉体)」にとらわれないのが「音楽」ということになる。
 このことを谷川は、また別な形であらわしている。

音楽のように許し
音楽のように許されたい

 「許す」「許されたい」。これは切り離せない。「許す」が「許される」であり、「許される」が「許す」。
 「音楽」では、「音」が存在することを「沈黙」が「許す」。「音」は「沈黙」に存在することを「許される」だけではない。「音」が「沈黙」が存在することを「許す」。「沈黙」は「音」に「許される」。それは、どちらがどちらかを「許す」、あるいは「許される」という関係ではなく、「対」の形で強く結びついている。
 それが人間がつくりだす「時間」を超えて動いていく。

音楽のように死すべきからだを抱きとめ
心を空へ放してやりたい
音楽のようになりたい

 ここでも「からだ」と「心」を入れ替え(読み替え)、また「抱きとめる」と「放す」も入れ替える(読み替える)ことが大事なのだ。「対」を入れ替え、自在に動くとき、その「対」は「音楽」になるのだ。



 

*


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樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(17)

2018-03-01 08:46:59 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(17)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ひとり」という詩のなかに、どんな音かあるのか。どんな音楽があるのか。

きらめく朝の陽差しの中で
あなたの裸の心を見たい
そよ風をわたる林の中で
かくされたのぞみを知りたい
人は傷つけあうしかないとしても
この世に生まれた初めての時に
あなたが触れた世界がいとしい

 「そよ風のわたる林」には「音」があるかもしれない。でも、ここから「音」が聞こえるというのは強引な読み方だろうなあ。
 「音」は聞こえない。
 では、「沈黙」はどうだろう。「沈黙」ももともと「音」がないから聞こえるはずがない。
 でも、こう考えてみよう。
 これまで読んできた詩で、「沈黙」は「音(音楽)」と深く結びついていた。ともにあった。
 この詩の中で、ともに「ある」けれど、書かれて「いない」(ない)ものはないだろうか。もし「ある」とすれば、それは「沈黙」ではないのか。
 「見たい」「知りたい」という動詞がある。主語は「あなた」ではない。「私」だ。
 私が「ある」のに隠されている。
 では、「私」が「沈黙」なのか。
 「あなたの裸のこころ」を「見たい」、「かくされたのぞみ」を「知りたい」。そういうとき、そこに「ない」のは「私」ではなく、「ことば」にされている「裸のこころ」と「のぞみ」である。
 「ことば」になっているものが「ない」(かくされている)。
 「ことば」をとおして、その「ない」ものと向き合っている。
 「ことば」にされていない「私」は「ある」。けれども「ことば」にされている「裸のこころ」と「のぞみ」は「ない」(見えない、知り得ない)。
 そして「あなたが触れた世界」も「いま/ここ」に「ない」。「ことば」にできる、「ことば」として「ある」けれど、「ない」。
 この「ある」と「ない」の関係が「音/音楽」と「沈黙」の結びつきにとても似ている。

 「強い結びつき」(切り離せないもの)は、「見たい」「知りたい」という「欲望」(動詞)のなかにも隠れているかもしれない。
 「見たい」「知りたい」は、単に「見る」「知る」という欲望ではない。「見る」「知る」ことで、その「見たもの」「知ったもの」と「ひとつ」になりたいということだ。
 でも「主語」が違うもの、「あなた」と「私」が「ひとつ」になれど、それは「傷つけあう」ということになるかもしれない。
 そして、この「傷つける」という動詞は「いとしい」という「ことば」と向き合っている。「いとしい」を「欲望」の形でいいなおすと「愛したい」になるかもしれない。「傷つける」「愛する」、「傷つけたい」「愛したい」は、「ある」と「ない」のように出会っている。固く結びついている。
 これもまた「音/音楽」と「沈黙」の結びつきに似ている。

 この一連目には、また「生まれる」と「触れる」という動詞がある。この動詞の主語は「あなた」である。あなたが生まれ、あなたが触れる。それと同時に世界が生まれる。世界があなたに触れる。「あなた」が世界を「生む」、世界が「あなた」に触れる。これも切り離せない。
 そこに「初めて」ということばもある。
 「初めて」は、それまで「世界」がなかった(ない)、ということを語っている。それまではなかった。それが「初めて」「ある」にかわった。
 「ない」が「ある」にかわる。
 その「初めて」という「瞬間」こそ、谷川は「見たい」「知りたい」「愛したい」と思っている。

 詩の後半には、「問い」と「答え」という抽象的な「対」が登場してくるが、前半の方が私は好きである。

 

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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(16)

2018-02-28 17:51:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(16)(創元社、2018年02月10日発行)

 「鳥羽 9」の最後の部分を、「永遠に沈黙している限りない青空の下」で始まる無題の詩の最後と対比して読んでみる。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。あのドラ
ムの音の緊張のさなかで、われわれは青空の沈黙を聞かない。ドラ
ムは最もプリミティヴに人間的なものだ。われわれは人間の肉のリ
ズムを拍ち、それに酔う。われわれはリズムのない沈黙に、人間の
リズムをもって挑戦し、沈黙までをも、それにひきこもうとする。そ
うしてしばしば勝つ。よしそれが束の間の勝利であろうとも。

 ここではジャズドラマーは「音」を「つくっている」。その「音」を谷川は「別の沈黙」をつくるという。それはあくまで「つくる」ものである。どうやって「つくる」のか。「人間の肉のリズム」ということばがある。「音」をつくることを、「人間のリズムをもって挑戦し」と言いなおしているから、人間が自然にもっている「リズム」を基本にして「音」をつくる、と言えるだろう。
 さらに「音(リズム)」をつくることを、「沈黙」を「ひきこもうとする」と言いなおしている。人間がつくりだす「音(リズム)=沈黙」に「青空の沈黙(自然がもっている沈黙)」を引き込み、「沈黙」を完成させるということだろうか。
 こういうことばの展開の中で、主語が「ジャズのドラマー」から「われわれ(人間)」にかわっているのだが、このことはあとで触れる。

 「鳥羽 9」の最後の部分は、こうである。

私は耳をおおう
かたく両手で

するとなお大きく
人の血のめぐる音が聞こえる
私に語りかける声が聞こえる
限りなく平静な声が

 「血のめぐる音」は「ジャズのドラマー」に出てきた「人間の肉のリズム」である。「拍つ」は「鼓動を拍つ」であり、「鼓動(拍動)」は「血のめぐる音」である。つまり同じものだ。
 ここでおもしろいのは、谷川が「私の」血のめぐる音とは書かずに「人の」血のめぐる音と書いていることである。「人」は「私」を超える存在である。「私」の鼓動を聞くのではなく、「私」を含む「人間(人)」の鼓動を聞く。それを「声」と受け止め、「私に語りかける声が聞こえる」と言いなおしている。
 さらにこの「声」(私ではない「人間」そのものの声)を「限りなく平静な声」と言いなおしている。「平静」の「静」に焦点を当てると、これは「静かな声」であり、「沈黙の声」につながる。
 「沈黙の声」とは何か。
 少し逆戻りする。「平静な声」の前には「語りかける声」と書かれ、その前には「血のめぐる音」と書かれていた。それが「聞こえる」という動詞で統一されていた。「声」はほんとうは「音」である。「声」は「ことば」をもっていることが多いが、「音」は「ことば」をもっていない。「ことばになる前の声」が「音」なのだ。
 ここから「平静な声」にもう一度戻る。「平静な声」は「ことばになる前の声」なのである。
 これが「私」を超えて、「人間(人)」の「肉体」をつないでいる。貫いている。「私」を超える存在の「声にならない声」(ことばにならない前のことば)は、「声になっていない」から「沈黙」と呼ぶしかないのだが、そういうものが「肉体」のなかにある。
 これを谷川は谷川自身のことではなく、「人」のすべてに通じることとして感じている。だから「われわれ」、あるいは「人」という。
 ジャズドラムを聞いている。そのとき、ドラムを叩く人がいる。聞く谷川がいる。でも、それが「聞こえる」のは、ドラマーと谷川の「肉体」が深いところでつながっているからだ。「血」でつながっているからだ。
 自分がもっている「沈黙の声」は同時に他人がもっている。他人がもっている「沈黙の声」はまた同時に自分がもっている。それが「ひとり」と「ひとり」を超えてつながっているものなら、「人」を超えて他の存在ともつながっているだろう。
 この「自分を超えるつながり(広がり)」を「宇宙」というのかもしれない。「宇宙の沈黙」と「谷川自身の沈黙」を響きあわせる。そこに「沈黙の音楽=詩」が生まれてくる。
 あ、これでは書きすぎだね。こんな「結論」を谷川は書いているわけではない。

 

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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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