詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(15)

2018-02-27 09:41:27 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(15)(創元社、2018年02月10日発行)

 「沈黙を語ることの出来るものは、」で始まっている作品。タイトルはない。「*」で七つに区切られている。その最初の部分。

 沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。では、言
葉をもって沈黙を語ろうとすることに、どんな意味があるのか。そ
れにはむしろ意味はない。何故なら、詩人にとって、沈黙を語るこ
とはひとつの戦いなのだから。

 「沈黙を語ることの出来るものは、沈黙それ自身しかない。」は直感的には「わかった気持ち」になるが、論理的には「わからない」。そのまま反復できるが、言いなおすことができない。
 これは「音楽」のようなものかもしれない。
 そこに「音」がある。「音」が動く。その動きは「直感」(感覚)としては「わかる」。でも、それを「ことば」で言いなおすことができない。
 音楽に詳しい人なら、その音を「楽譜」という形に再現できるかもしれないが。

 うーん。

 私は「音楽的人間」ではない。「論理的な人間」であるも思わないが、「論理」ならいくらか追いかけることはできるかもしれない。
 そこで、こんなことを考えた。

 「沈黙」とは「音」のない状態。「ことば」のない状態。「ことばない状態の沈黙」が「語る」ということは、論理的にありえない。語るとは「ことば」をつかって語ることだからである。「論理的にわからない」と感じたとき、私は、そう考えていた。
 どうしてこういう「論理」を語ることができるのか。

 ひとつの文章だけでは「論理」がわからない。どう言い換えているか、それを追いかけることで何が書かれているのか考えてみる。
 「名詞」がいくつか出てくる。「沈黙」「言葉」「意味」「詩人」「戦い」。どれが「主役」なのだろうか。
 「動詞」はどうか。「語る」が繰り返されている。
 沈黙を「語る」、沈黙が「語る」、沈黙で「語る」、言葉が「語る」、言葉で「語る」、意味を「語る」、詩人が「語る」。
 「戦い」という名詞は「語る」の主語にならない。「語る」は「戦い」の述語にならない。戦いが「語る」という言い方もあるが「語ることはひとつの戦い」という定義にしたがって、「戦い=語る」と読み直す必要がある。
 「戦い」は「戦う」という動詞として読み直すとどうなるか。
 沈黙で「戦う」、ことばで「戦う」、意味で「戦う」、詩人が「戦う」。
 「語る」ことと「戦う」ことは、どこかで重なる。「語る」は「戦う」という動詞になりうる。何かに対して「反対」のことを語る、「反対」という。これを「戦う」と言いなおすことができる。
 主語(名詞)ではなく、動詞に焦点をあてて読み直すと、ここに「一貫しているもの」がなんとなく「見えてくる」。ことばが「肉体」として「ひとつ」になっていることが感じられる。
 「語る」、「戦い」ということばの奥に隠れている「戦う」という動詞のほかに、まだ動詞がある。
 「ある」。これは「ない」ということばと対になっている。
 谷川は、意味が「ある」、意味が「ない」と書いているが、ほかの名詞にも「ある」と「ない」は結びつけることができる。
 沈黙が「ある」、沈黙が「ない」、言葉が「ある」、言葉が「ない」、詩人が「ある(いる)」、詩人が「ない(いない)」、戦いが「ある」、戦いが「ない」。
 「語る」「戦う」「ある(ない)」は、どこかでつながっている。三つの動詞を動かす「主語」がどこかにある。三つの動詞を「述語」としてもつことのできる「名詞(主語)」がどこかにある。

詩人にとって、沈黙を語ることはひとつの戦い

 「詩人」が主語となるとき、三つの動詞は述語となる。
 詩人は沈黙を「語る」、言葉で「語る」。それは沈黙と「戦う」ことであり、「戦う」ことでそこに沈黙が「ある」ということを明らかにし、それはまた沈黙の「意味」を明らかにすることである。
 でも、これは正確ではない。
 この読み方では、沈黙「を」語るのではなく、沈黙「について」語ることになるからだ。沈黙とはどういうものであるかを「語る」のは「間接的」である。
 谷川は「沈黙を語る」と言っている。

 沈黙とは何か。
 谷川は「定義」していない。ふつうに考えていることをあてはめると、沈黙とは「音がない」状態である。「声」のない状態である。谷川がつかっていることばを借りて言いなおせば、「言葉」がない状態である。
 この「言葉がない」をさらに言いなおしてみよう。「言葉がない」とは「言葉が存在する以前」の状態である。「言葉以前」を谷川は語る、と言う。
 このとき谷川が考えている「言葉」とはどういうものだろうか。「既成の言葉」、「流通している言葉」だろう。
 いま、ここにあふれていることば、既成のことばと「戦い」、新しいことばを動かす。それが「詩人」の仕事だとするならば、詩人とは「いま/ここ」では「聞こえない」声を出すことである。
 そのままでは「聞こえない」声。「沈黙の声」を発すること。それを「沈黙を語る」と言っている。

 沈黙「について」語るのではなく、沈黙「を」語る。それは沈黙「で」語ることである。沈黙が「ある」というという状態をつくりだすことである。沈黙を生み出すのである。

 別の断章には、こう書いてある。

 初めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変
りはない。言葉はあとから来るものだ。

 いま「ある」ことばを、「ない」にする。「沈黙」をつくりだす。それが詩人の仕事。そうやって生み出された「沈黙」が詩である。
 最初に私は、直感的にはかわるが論理的にはわからないと書いた。この矛盾した状態、わからないを作りだしながら、「わかる」と強く実感させる「衝撃」が詩である。それが「ことば」ではなく「音」で表現されるとき、それを「音楽」というのかもしれない。
 詩も音楽も、沈黙と強く結びついたまま動いている。
 「あと」からやってくるものは、自分の存在を告げるだけではなく、むしろ「まえ」からあったものを「語る」ためにやってくるのである。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)

2018-02-26 09:32:10 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)(創元社、2018年02月10日発行)

 「空耳」には「Vietnum 1969」というサブタイトルがついている。五連あるが、それぞれの間に「*」があるので、「連」ではなく「断章」かもしれない。

閉じている扉の開く音をはっきりと聞いた
笑っている子どもの泣き声を聞いた
それからすっかり静かになった
銃声は聞こえなかった

 「閉じている」と「開く」、「笑っている」と「泣き声」は矛盾している。もちろん「閉じている」が「開く」に、「笑う」が「泣く」に変わることがあるから、それは矛盾ではないかもしれない。しかし、私は「矛盾」と読む。閉じたまま開く、笑ったまま泣く、と読む。ありえないものが書かれていると読む。
 そして、そのとき「聞いた」のは、「ありえない」何かを聞いたのだ。「矛盾」を聞いたのだ。
 だから「すっかり静かになった」はほんとうの「静か」ではない。どこかに「音」がある「静かさ」である。「銃声は聞こえなかった」が、谷川に聞こえなかっただけで、それは存在する。そういう緊張感、共存の緊張感がある。
 「ピアノ」ではピアノの「音」と「沈黙と名づけられる前の沈黙」が結びついて「音楽」を生み出していた。
 同じように、ここでは「暮らしの音」と「音になる前の暮らし」が結びついて「現実(世界)」をつくっている。「銃声」さえも「暮らし」であるという厳しい共存が1969年のベトナムなのだ。

草と草がこすれるのは
風なのかそれとも人が匍っているのか
河がゆっくり水嵩を増してゆく
小鳥の鋭い囀り

 「音」には「叩いて出る音」があり、「こすって出る音」がある。叩いて出る音はドラム、ピアノ。こすって出る音はバイオリン。叩くには乱暴なイメージがある。こするには親密なイメージがある。
 風が草を動かしてこすれるのか、人が動いてこすれるのかと問うとき、風と人は同じものになる。人が「自然」になるのか、自然が「暮らし」になるのか。区別はつかない。その区別のつかないのが1969年のベトナムということになる。
 河の水嵩が増す。そのときの「音」がある。水と水は、たがいにすれあっているだろうか。水の中を水が匍っていくのだろうか。そういうことも考える。
 小鳥の囀りは、聞こえない小さい音がまわりに満ちていることを知らせてくれる。「音」はあらゆるところにある。
 「聞いた」とは書いていないが、谷川は、それを聞いたと思う。

 次の連は「転調」する。

縄がぴんと張りつめる
頑なに黙っている者の動悸
ひとつの国語と他の国語との
決して混りあわぬ囁き

 張り詰める縄に「音」はないか。「黙っている者」に「動悸」の音があるなら、張り詰めた縄にも聞こえない「動悸」があるだろう。
 混じり合わぬ国語はベトナム語とアメリカ英語であるかもしれない。「意味」は戦いの場ではすぐに「わかる」。「意味」は必要がない。「銃」がかわりに語る。「死」をつきつける。
 その「国語」の奥に、つたえきれない小さい「声(囁き)」があると、聞いてみる。聞こうとしている。「意味」ではなく、「暮らし」を、と読んでみたい。

 このあと、詩はさらに「転調」する。

沈黙などあるものか
耳を掩ってすら
沈黙などあるものか!
荒野の只中にも

 「沈黙」はない。「音」と結びつく「静けさ」がない、と谷川は言う。「静けさになる前の静けさ」がない。それはほんとうは「暮らし」のなかに、「自然」のなかにあるはずのものだが、失われている。
 かわりに何があるのか。
 他の国語には混じり合わない「囁き」がある、と読んでみようか。
 それは「声になる前の声」「ことばになる前のことば」かもしれない。
 「暮らし」の中にはそういうものが「ある」。それは、無意識に共有されるものである。それが共有されずに、「悲鳴」をあげている。共有されないから「悲鳴」になってしまうのだ。
 「孤立した声」「孤独な声」である。
 何から「孤立」しているか。「声になる前の声」から切り離されている。
 逆に言うと、「囁き(小さな声=声にならない声)」となって、あふれている。
それは「周囲」にあるのではなく、そこにいる「人間」のなかにある。ベトナムに行って、谷川はその「囁き」を自分自身の「声」として聞いた。
 耳をおおうことでは、肉体のなかから聞こえてくる「声」を拒むことはできない。

 自分の中から「聞こえる声(囁き)」は、最後は、こう書かれる。

だが今日の夜明け
ひとつの美しい旋律の終わりの無名の死は
もうどんなかすかな音も立てない

 「無名の死」は音を立てないが、谷川は音を「はっきり」と聞く。一連目のことばが最終連でよみがえる。それは谷川の「肉体」のなかに動いている。
 「空耳」とは自分の肉体のなかにある「音」を聞くことだ。その音は自分の「肉体」の「沈黙」と向き合う形で広がっている。



*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)

2018-02-25 14:56:37 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ピアノ」の前半の二連。

誰かがピアノを弾いている
塀はどこまでもつづいていて
道には人影ひとつない

誰かがピアノを弾いている
窓はわずかにひらかれていて
枯れかけた花の匂いがする

 ピアノは音、音楽。ここから始まって、二連目の最後で「花の匂い」という音楽とは関係のないもの、異質なものが出てくる。「花の匂い」は「花」と「匂い」にわけることができるが、重きが置かれているのは「匂い」だろう。
 聴覚が嗅覚を目覚めさせたのか。
 この「匂い」という「音」ではないものがあらわれたのは、どうしてなのか。
 「音ではないもの」とは「音とは名づけられないもの」、つまり「沈黙」ではないのか。
 だが「沈黙」と名づけてはいけない。「沈黙」と名づけてしまうと、それは「沈黙」が出現してしまう。しかし、「沈黙」とはほんらい「音が存在しない」ということ、そこには何の「あらわれ(出現)」もないはずだ。
 だから「沈黙」とは名づけない。
 「沈黙」と名づけないことによって、「ことば以前の沈黙」になる。
 そういう「ことばの運動」が「匂い」ということばに託されている。
 「沈黙」なのだけれど、「沈黙」と名づけずに、「匂い」と名づける。「音」に関係することばを否定する。拒絶する。「意味」をなくしてしまう。
 この「無意味化」をナンセンスと呼べば、「きいている」の「ねこのひげの さきっちょ」「きみのおへその おく」と同じもの(似通ったもの)になる。

 「スキャットまで」では「黙っているのは龍安寺の石庭」と「黙っている=沈黙」が出てきた。それと対比するとわかるのだが、この「ピアノ」では、「沈黙」の別の書き方がしめされている。「沈黙」ということばをつかわずに、新しいことばで「沈黙」を谷川は書こうとしている。

 「沈黙」とは名づけていないが、「沈黙」と同じもの。それが存在することによって「ピアノ」は「音楽」になる。音が旋律をもち、リズムをもてば、それが「音楽」になるわけではない。「沈黙」と向き合っていないといけない。「沈黙」を無意識のうちに出現させてしまうのが「音楽」なのだ。

 ここから私はまた別のことを考えた。
 この詩には「私」という「主語」は明示されていない。ここにいる人で明示されている(ことばになっている)のは「誰か」だけである。「人影ひとつない」と「ひと」の存在は否定されている。けれど「誰かがピアノを弾いている」ということを認識するひとがいる。「私」が隠れている。
 「私」と「誰か」。これは「音楽」と「沈黙」の関係に比べると、なんとなく不安定に感じる。落ち着かない。
 そう思ったとき、ふと「花」は「あなた」なのではないか、という気がしてきた。
 「私」は「あなた」という人間と向き合うことで「私」になり、「あなた」は「私」と向き合うことで「あなた」になる。「対」によって世界がしっかりと固まる。
 そういう存在を無意識に求めるこころがあって、「花」を引き寄せたのだ。
 「花」がピアノを弾くわけではない。しかし、音楽が「匂い」という「沈黙以前の沈黙」といっしょに動いているとき、「誰か」は「花」をとおって「あなた」として存在している。「私(谷川)」にとって、確かな存在になっている。
 そう感じさせる。

 では、なぜ「枯れかけた」という否定的なニュアンスのことばが「花」を修飾するかたちでそこに動いているのか。
 これは「聞こえてくる」音楽の種類(ニュアンス)を伝えるためである。予告する形で、二連目にあらわれているといえる。
 三、四連目は、こうつづいていく。

誰かがピアノを弾いている
一年が過ぎ 従妹は嫁ぎ
十年が過ぎ 都市は燃え
百年が過ぎ 国は興り--

誰かがピアノを弾いている
その部屋で鏡はまぶしく輝いて
戸口に倒れた一人の兵士をうつしている
そのむこう真昼の海をうつしている

 ここには「存在しないもの」が視覚化されている。そこにたどりつくために「枯れかけた」ということばがあった。「あなた(誰か)」にとっての「あなた」は「私(谷川)」ではなく、「一人の兵士」である。そこまで書くと、「音楽」ではなく「ドラマ」になってしまう。だからこれ以上書かない。
 この詩は「花の匂い」を「ピアノ(音楽)」と向き合わせたところで、「音楽」そのものになっている。あとは「音楽の内容(意味=ドラマ)」になる。「意味」があるところでは「沈黙」が消えると思う。



*


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田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(12)

2018-02-24 10:05:28 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(12)(創元社、2018年02月10日発行)

 「スキャットまで」は「云いたいことを云うんだ」で始まったことばが「スキャット」になるまでを書いている。
 好きな部分は二か所。

                    ワンコーラスわけてく
れ いやツーコーラス いやスリーフォー いくらでもいい

 数字のたたかみかけるリズムが気持ちいい。「スリーフォー」と続けた部分がおもしろい。「わけてくれ」が省略され、「コーラス」が省略される。その展開の速さ、加速度が欲望の音楽。
 ことばはさらに続いていく。

                            一時
間二時間六時間いや一日まるごとくれよ俺に 黙っているのは龍安
寺の石庭 叫ぶのは俺だ 俺はのどだ 舌だ 歯だ 唇だ のどち
んこだ 声なんだ

 突然挿入される「龍安寺の石庭」がおもしろい。「龍安寺の石庭」は「沈黙」の象徴。「沈黙」が「音」を遮断する。
 この詩のハイライトだ。
 でも、不思議。
 「スキャット(声)」について書いているのに、「沈黙」がいちばん印象に残るというのは。
 これが、詩というものなのだろう。

 このあと詩は、「ジャズ」という音を変奏させながら「スキャット」に変わっていく。私はカタカナが読めない。聞いたことがある音はカタカナでもなんとか読めるが、聞いたことのない音が書かれていると、まったく読めない。
 谷川がいっしょうけんめいに書いたのは、その音の変奏なのかもしれないが、私の耳には聞こえない。朗読で聞けば「聞こえる」かもしれないが、文字からは聞こえない。これは谷川のせいではなく、私の「肉体」の欠陥である。



*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)

2018-02-23 09:18:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)(創元社、2018年02月10日発行)

 タイトルのない詩がある。「*」で区切られている。

 永遠に沈黙している限りない青空の下の一発の銃声、沈黙との戦
いはそのように始められる。言葉はもはや言葉でなくてもいい、声
はもはや声でなくてもいい。沈黙を破ろうとするひとつの音、沈黙
と音との間のその緊張、そこから戦いは始まる。

 これが最初の断章。
 このあと、「言葉の非人間的な意味」、「非人間的な意味」としての「西部劇のヒーロー」、「ジャズドラマー」へとことばが引き継がれていく。
 最後の断章の前半。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。あのドラ
ムの音の緊張のさなかで、われわれは青空の沈黙を聞かない。

 「沈黙との戦い」としての「音」。その具体例として「銃声」(西部劇を含む)と「ドラム」がある。ドラムが沈黙と対抗するための別の沈黙をつくっているのだというのなら、銃声もまた別の沈黙と対抗するための音である。沈黙を破るための、沈黙とは呼ばれていない沈黙。「非沈黙」という「意味」の「沈黙」が「銃声/銃音」「ドラム」ということか。
 これは「ことば」のなかで生まれる「意味」という「沈黙」である。「聞こえない」(意味にならない)意味である。考えるとき、その考えの中で動いている「何か」である。とりあえず「意味」と名づけたが、それは「非流通の意味」(共有されていない意味)でもある。
 これは詩と呼ぶこともできるが、こういうことは書き始めればきりがない。「論理(意味)」はどこまでも自律的なものであり、暴走し続けるものである。暴走しながら「完結」を装うものである。
 だから、違うことを書く。
 私はこの詩では「青空」ということばに思わず傍線を引いた。

永遠に沈黙している限りない青空の下

果てない砂漠の上の果てない青空

われわれは青空の沈黙を聞かない

 「限りない青空」と「果てない青空」は同じものである。それは「限りない/果てない沈黙」である。最初のふたつには「限りない青空の沈黙の下」「果てない青空の沈黙」と「沈黙」を補い、最後のひとつには「限りない(果てない)青空の沈黙」と「限りない(果てない)」を補うことができる。
 そしてこの「限りない(果てない)」と「青空」「沈黙」は三つのことばで構成されているが「ひとつ」のものである。「宇宙」のことである。地球(人間)を起点にすると「青空」に見えるが、「人間的な意味」を捨て去れば「青空」を捨て去れば「宇宙」に吸い込まれていく。
 谷川は、ときどきというか、あるいは、それが基本なのかもしれないが、人と向き合うよりも「宇宙」と向き合う。
 「宇宙」と「谷川」の「間」を意識する。
 再読したとき、傍線を引いたのは、「間」である。「沈黙と音との間のその緊張」というつらなりのなかにでてくる。「間」は「その」と反復されている。ほかのことばが「強い」ので最初は見落としていた。
 ここから、こう考えた。
 「宇宙」を「沈黙」、「谷川」を「ことば/声」と言い換えると、「間」は「音楽」ということになる。
 それは「宇宙」から聞こえるのか。「宇宙」は「沈黙」しているから、「谷川」から聞こえるのか(生み出されるのか)と問うことは、あまり有効とは思えない。「間」は「あいだ」、それは両側(?)に何かがあって初めて存在するもの。そうであるなら、それは「結びつく」ことによって生まれるもの、切り離せないものになる。
 「沈黙」と「音」はいっしょになって「音楽」になる。この「いっしょになる」は、この詩では「緊張」とも「戦い」とも言いなおされている。まだ「音楽」になりきれていない、「音楽」のうまれる瞬間を描いているからだろう。

 (補足/蛇足)
 この作品は、最後を「人間宣言」のようなもので閉じている。「沈黙」と「音」との「戦い」を「人間の肉のリズム」から出発して、「勝利」という形で閉じようとしている。これは「意味(論理)」としてはわかるが、私には「強引」に感じられる。「無理」をしているように感じられる。
 谷川から私が感じるのは、「調和」ということばを思い起こさせるものが多い。「調和」の静かさ、やさしさというものが多い。「勝利」というような、何かを「制服」することによって生まれるものとは違う何か。
 「戦い」ということばで始まった詩だから「勝利」という結論を書かないと落ち着かないのかもしれないが、それでは「意味」にとらわれてしまう。つまり「音楽」を殺してしまうことになる。音楽は意味を、その内部から解き放つものだから。どこまでも広がっていくのだから。
 だからこそ、「青空(宇宙)」ということばへ引き返したくなる。「青空」が谷川なんだなあ、と思うのである。




*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)

2018-02-22 09:28:04 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)(創元社、2018年02月10日発行)

 「三月のうた」は起承転結を変形させた詩。

わたしは花を捨てて行く
ものみな芽吹く三月に
わたしは道を捨てて行く
子等のかけだす三月に
わたしは愛だけ抱いて行く
よろこびとおそれとおまえ
おまえの笑う三月に

 「捨てて行く」が繰り返され、「転」で「抱いて行く」にかわる。「愛」は「おまえ」ともとれる。まだかけだすことのできない子供(赤ん坊)を抱いて歩く。そうするとおまえが笑う。「笑う」を引き出すのが「愛」。「笑い」を抱いて歩いている、ともとれる。
 またおまえは子等のひとりになってかけだしているのかもしれない。それを見守りながらついていく。何も持っていないが、その何も持っていないことが「愛」。手ぶらで、思いをおまえに集中している。
 こういうことも、あまり書いてはいけない。こんなことにことばを費やしてはいけない。
 最終行の「笑う」がいいなあ、と思えばそれでいいのだろう。
 おまえ(子供)が笑う。それが三月だ。三月がそこにある。





*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(9)

2018-02-21 11:17:26 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(9)(創元社、2018年02月10日発行)

 「きいている」は一連目がつぎつぎに変奏されていく。「音楽」を聞いているみたいに、自然にそのリズムの中にとけこんでゆく。

あさ ことりがうたうとき
きいている もりが

ひる かわがうたうとき
きいている おひさまが

よる うみがうたうとき
きいている ほしが

 「あさ」「ひる」「よる」と時間も予想通りに進む。「うたうとき」「きいている」という動詞の向き合い方も、きちんと引き継がれている。
 「あさ」「ひる」「よる」のあとは、どうなる?
 ここから「転調」する。

いつか きみがうたうとき
きいている きみをすきになるひとが

きょう ちきゅうがささやくとき
きいている うちゅうが

あす みんながだまりこむとき
きいている かみさまが

 「うたうとき」が「ささやくとき」にかわり、さらに「だまりこむ」にかわる。
 「起承転結」でいうと「うたう」からはじまり、「ささやく」とひきつぎ、「だまる」でおおきく転換する。「声」がだんだん小さくなるから、自然に聞いてしまうけれどね。
 「ちきゅう」と「うちゅう」が出てくるところが、谷川らしいなあと思う。
 で、「結」は?

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 「音」が消えてしまう。「だまりこむ」で消えているとも言えるけれど、「だまる」には、「だまる」前の「声」がある。
 でも、この二行には「声」がない。
 同時に、それまでの「……するとき/……している」ということばの運動の「対」構造も消えている。
 「……するとき/……している」という構造は「意味」とも言い換えることができる。「意味」が消えて「無意味(ナンセンス)」になっている。音だけが響く。これが「音楽」かもしれない。
 なんとなく、笑いたくなる。
 「さきっちょ」とか「おへそ」ということばもくすぐったい。

 これ以上、「意味」を探したくない。やたらと「意味」を求めて、ことばをついやしても、どこにも辿りつけないだろう。
 ただ、あっと驚き、くすっと笑えばいいのだろう。

 わかっているのだが、私は少し書きたい。
 いま書いたことからは脱線するのだが。

あす みんながだまりこむとき
きいている かみさまが

 この二行。「意味」はわかる。でも、私はこの二行が嫌いだ。
 「かみさま」と谷川は書いているが、谷川は「かみさま」を信じているのか。そして、もし「信じる」というのなら、それは「存在」を信じているのか、「力」を信じているのか(特別な神を信仰しているのか)、そのことが私にはよくわからない。
 ここでの「かみさま」は「存在」でも「力」でもなく、「概念」のような感じがする。ただ、そういうものをあらわす「ことば」がある、という感じ。
 もし「かみさま」が「概念」なら、それまで書かれている「ことり」も「もり」も、「かわ」も「おひさま」も「概念」になってしまう。
 最終連の二行で「意味」を否定し、ナンセンスになっているが、その瞬間、それまでのことばはナンセンスを支えるための「意味」になってしまう。「ことり」も「もり」も「実在(現実)」ではなく「概念」になる。
 「ねこのひげ」「きみのおへそ」が「実在(現実)」だから、それでいいのかもしれないが、どうもはぐらかされた気になる。
 私が「神」とか「魂」とかいうものの存在をまったく感じない人間だからかもしれないが。





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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)

2018-02-19 09:07:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)(創元社、2018年02月10日発行)

 「53」には「言葉」と「沈黙」が出てくる。「言葉」は「人間」、「沈黙」は「自然(樹や草)」と言い換えられる。そのとき、「私」と「自然」は対比させられる。「言葉」と「歌」の対比があり、「沈黙」と「答え」の対比があり、「病んでゆく」と「健やか」の対比もある。
 対比の中で、「意味」が動く。

影もない曇った昼に
私は言葉の病んでゆくのを見守っていた
むしろ樹や草たちに私の歌はうたわれ
憧れはいつも地に還った

 二行目の「病んでゆく」「言葉」はだれのことばだろうか。「私の言葉」か「言葉」そのものだろうか。三行目に「私の歌」があるから「私の言葉」と読むことができる。では、このとき「病んでゆく」とはどういうことか。対比されている「歌」と比較すると「歌」ではなくなるということが「病む」になる。この「歌」はしかし「私の歌」と書かれているが、実際には「言葉」にならなかった何かである。「樹や草」は「言葉」はもたないが「うたう」ことができる。「うたわれるもの」が「歌」であり、それには「言葉」がない。「言葉」がないから「病む」ということもなく、「憧れ」のように純粋なまま、「地に還る」。自然にもどる、ということか。
 「言葉が病んでゆく」のを「見守る」。同時に、「言葉にならない歌」を「憧れ」として見ている、ということもできる。「憧れ」は「歌」にある。
 もっと、ほかの読み方もしてみなければならないのかもしれないが、一連目では、ここまで考えた。

始め不気味な沈黙から
私たちは突然饒舌の世界にとびこんでしまう
言葉は人の間で答をもつしかし
人のそとで言葉はいつも病んでゆく

 一連目の「私は言葉の病んでゆくのを見守っていた」はここでは「人のそとで言葉はいつも病んでゆく」と言いなおされている。(補足かもしれない。)この「言葉」を「私の言葉」と仮定して読むと、「人のそとで私の言葉はいつもやんでゆく」ということになる。「そと」で病んでゆくのなら、「うち」ではどうなのか。「うち」ではまだ「病んでいない」。しかし、「私のうち」にあるとき、それは「言葉」と言えるのか。「言葉」はだれかが聞き取ったとき「言葉」になる。「私のうち」にあるときは「言葉」ではない。
 「そと」とは、しかし、簡単に「うち」と対比できない。谷川は「そと」を「うち」と対比してつかっているかどうか、よくわからない。ここでは「うち」ではなく「間」という表現がある。「言葉は人の間で答をもつ」。「うち」ではなく「間」。「間」とは何か。「答をもつ」という言い方の中に手がかりがある。「言葉以前のもの」が「うち」にある。それは「言葉」となって「そと」に出て行く。「そと」に出ていって、「私」と「だれか」の「間」で「言葉」として受け止められる。受け止められたものを「答」という。しかし、「答」になってしまうと、それは「病んでいる」という状態になってしまう。「言葉になる前」の「歌」の「自然」が消えてしまう。失われてしまう。
 二連目の一行目にある「沈黙」とは何を指しているか。どういうことを言い表わしているか。「言葉以前の何か」が動いている場が「沈黙」である。樹や草がうたうような「歌」としての「言葉以前の何か」が動いている場。
 三連目で言いなおしている。

すべてがそこから生まれてきた始めの沈黙の中に
なお健やかな言葉を
私も樹や草のようにもちたいのだが--

 「すべてがそこから生まれてきた」。「そこ」にあるときは「言葉以前」、「そこ」から生まれると「言葉」になる。「沈黙」と呼ばれているが、「そこ」としか言いようのない場。谷川にははっきりと、その「肉体のうち」がわかるけれど、それは「そこ」としか呼べない。だから、谷川以外の読者には「そこ」が「どこ」かは、わからない。
 「沈黙」だから、ことば、言い換えると「名前」をもたない場である。「そこ」としかいえない場である。
 「沈黙」と名づけた「そこ」で、谷川は「病んでいない言葉」「健やかな言葉」をもちたいといっている。「樹や草のように」と言っている。「言葉」にしないまま、「歌」のままに、もちたいと。
 「歌」は「言葉」のないもの。ことばをもたないままに動き「音の動き」。「歌」とは「言葉のない音楽」のことか。

どんな言葉が私に親しいのか
むしろ私が歌うことなく
私の歌われるのを私は聞く……

 「私が歌うことなく」は「私が言葉を歌にして歌うことなく」か。最終行の「私の歌われる」はどうか。そこには「私の言葉」はあるのか。そうではなく、「言葉」がないまま、「私という存在(あり方)」そのものが「歌われる=音楽になる」のを聞くのだろう。谷川は、言葉を書きながら、その書いてしまった言葉ではなく、まだ書かれていない言葉、言葉以前の何かを「歌」にしたい。
 そういう願いが書かれている。




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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(6)

2018-02-17 10:17:31 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(6)(創元社、2018年02月10日発行)

 「それぞれの唄」は声を求めている。一連目の構造を他の連が引き継いでいく。音が記憶を呼び覚まし、記憶が新しい音を生み出していく。少しずつ変化していく。音の変化は意味の変化でもある。そして、それが同じ音でしめくくられることで、連がそれぞれ完結する。
 こんな具合。

公園の遊動円木の上で
ふたりは初めて会ったのさ
ふたりが六つと七つのとき
それがどうしたの それがどうしたの

裏町の日影の路地の片隅で
ふたりは初めてキスしたのさ
ふたりが十五と十六のとき
それがどうしたの それがどうしたの

 一種の「かぞえうた」とも言える。ふたりは愛し合い、別れる。「歌謡曲」ともいえるかもしれない。「かぞえうた」「歌謡曲」の印象が「声を求めている」という印象を引き起こす。
 最後は、

なんにもどうもしやしない
ふたりは愛しあったんだ
ただそれだけのことなのさ

 これは「反歌」のようなものか。繰り返される「それがどうしたの それがどうしたの」に「結論」を出している。「歌謡曲」に似ている。

 と、書いたら、感想も終わりそうなのだけれど。

 最初読んだとき、余白に書いたメモがある。「それがどうしたの それがどうしたの」と「ただそれだこのことなのさ」を線で結び、「それだけ」とは何か、と書いてある。これは、左のページ。
 そして右のページ(詩の書き出しの方)には、「ふたりとは何か」「わたしとあなたである」「ふたりは、わたしとは何かを問うこと」。「六つと七つのとき」の「ときとは何か」と書いてある。
 それから、少し離れた「ある、とは何か」と書いてある。
 何かを考えようとしたのである、私は。
 何を考えようとして、そのメモを残したのか。

 たぶん、こういうことである。この詩には「ある」という「動詞」が省略されている。谷川の詩を少し書き換えながら「ある」を補ってみる。

公園に遊動円木が「ある」。その上に
ふたりは「ある」(いる)、そうやって初めて会ったのさ
ふたりが六つと七つで「ある」そのとき
それがどうしたの それがどうしたの

 こう補うと、「それがどうしたの それがどうしたの」は、繰り返されている「ある」はどうしたのか、どういうものかと問いかけていることになる。
 「わたし」とは私という「自己存在」だが、それはさらに突き詰めていくと「あるとき(たとえば六歳、七歳のとき)」と切り離せない。「とき」とともに変化していく。「私とは時である」と言いなおすことができる。「時」と切り離せないなら、それは「変化」と切り離せない、「変化」と同じということになる。
 「変化」にとって、「ある」とは、どういうことだろう。「変化」とは「ある」が「ない」になることだ。「六つ」で「ある」は、六つで「ない」ことによって「十五」になる。十五として「ある」。
 キスして、愛して、別れる。愛で「ある」ものが愛で「ない」になる。

 さて、「ある」とは何か。
 谷川は最後で「それだけ(のこと)」と言っている。
 ここからわかることは、実は、ないにひとしい。何もわからない、と言ってしまえば、たぶんそれでおしまいなのだが。
 気になることがある。
 「それ」と指示代名詞で呼んでいること。
 定義できないもの。
 でも、「それ」と呼ぶことができる。
 あいまいに、ことばにすることができる。

 このことばにならない「それ」は、「未生のことば」であり、谷川が言っている「静けさ」(沈黙のことば)かもしれない。
 最初に読んだとき、どう思ったのか、手探りしていると、ことばは、こんなふうに動いた。





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岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(5)

2018-02-16 11:34:01 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(5)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ピアノを開く時」は、詩なのか。エッセイなのか。谷川の「音楽環境」がわかる。幼い時からピアノに触れている。
 昔を思い出して、ピアノに触れる時がある。

 そんな時、私の心にひろがる風景は、やはり、あのアンファンス
と呼ばれる、青春よりもさらに甘美で物哀しい時期の、匂いのよう
なとらえ難い風景である。                  (17ページ)

 このあとに、プルーストの「失われた時を求めて」のような描写がつづく。(プルーストは読んだことがないので、勝手な想像だけれど。)ここは、詩っぽい。「詩情」というものがある。
 で、この直後

 子供のまだ未分化な魂にうつっていた世界は、今では音楽によっ
てしか思い出すことのできぬほど微妙なものだったろうか。   (17ページ)

 「未分化な魂」と「音楽」が融合している。谷川にとって音楽体験は「未分化な魂」の発見だったということだろう。
 うーん。
 そうなんだろうなあ、と思うしかない。
 つづいて、こう書いている。

 少々飛躍したいい方かもしれないが、それらの曲を聞くたびに、私
は自分の階級とでもいうべきものを意識する。          (18ページ)

 私は谷川とは違う階級の人間なので、こういうことには深入りしない。
 最初に書いたが、音楽環境が、私と谷川では違いすぎる。谷川の体験を「追体験」することは、私にはできない。
 そういう私が、この作品から「詩」を感じるのはどの部分かというと。
 ピアノの小品(子供の時に弾いたことのある曲)を聞いた時(あるいは弾きなおした時)の思いを書いた部分である。

                     それは苦い反省とと
もに、甘い陶酔をももちろん含んでいて、私はそれに抗することが
できない。というよりももっと積極的に私はそこに、自分というも
のを探し求め、また時にはそこへ逃避すらしているのかもしれない。(19ページ)

 「反省とともに」の「ともに」、「というよりも」、「また時に」の「また」。この、「同時」にいくつかの「思い」を結びつける文体に「詩」を感じる。
 詩は、一言では言えない。
 詩は、言いなおすしかないものである。
 特に私が詩を感じるのは、「というよりも」という「逆説」の「論理」ではなく、「ともに」「また」という「並列」のことばの運動である。
 「逆説」というのは、何かを「掘り下げていく」感じがする。
 「並列」は、あることがらを「横に広げていく」感じ。遠いものを呼び寄せる感じでもある。実際、この詩の「また」は「求める」と「逃避する」という違った方向へ動いている。俳句でいう「遠心」と「求心」の結びつきのようなものがある。
 音楽が「匂い」を呼び寄せるように(17ページ)広がり、あるもの、あることが、それを離れて別の次元へ広がるとき、谷川の詩(詩情)はいきいきと動く。
 それは「未分化」なのものが、「分化」して「もの」になる。谷川の「肉体」の内部にあるものが「外部」のなにかと出会って、そこに結晶する感じだ。
 それを「また」で展開し続ける時、そこに「音楽」が響いてくる。
 それは、きのうのつづきで言えば「意味の和音」かもしれない。物理的な「音」の和音ではなく。





*


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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)

2018-02-15 08:25:56 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)(創元社、2018年02月10日発行)

 「和音」を読む。

東京放送は三つとも
静かな 低い男の声だった

ひとつは説教
ひとつは尋ね人
ひとつは天気予報

不思議に三つの声は
ある大きな空間を構成しているように思えた

 「三つの声」は、どうやって聞こえてきたのか。「同時」か。
 サイモンとガーファンクルに「7時のニュース/ きよしこの夜」という曲がある。「7時のニュース」と「きよしこの夜」が同時に聞こえる。
 谷川が聞いたのは、そういうものではなく、それぞれが別々の時間に放送されたものだろう。ひとつづきの時間であったにしろ、それは「同時」ではない。音は重なっていない。だから、これは「物理的(音楽的?)」には「和音」ではない。
 「三つの声」を谷川が思い出して、重ねるときに「和音」になるものである。
 それは言い換えると、谷川が「和音」にするのである。

 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース/ きよしこの夜」。このニュースは「音楽」ではない。「ノイズ」と呼んでもかまわないものだろう。
 私は音楽のことは何も知らないのだが、この「ノイズ」は「不協和音」とも言えるのではないか。
 と、書きながら、ちょっと別なことも考える。
 「和音」に「不協和音」というか、「不協」というものがあるのか。「和音」として感じ取る力が足りないときに「不協」というだけなのではないのか。
 「音感」が豊かではないとき、つまり自分の「音感」で「和音」と感じないときに「不協和音」というのではないか。「既成の和音」でない音の重なりを「不協和音」というのではないのか。
 たとえば「7時のニュース/ きよしこの夜」のニュースを読む声は「ノイズ」であり、音楽を壊すものかもしれない。しかし、それを「和音」ととらえることもできるのではないか。サイモンとガーファンクルは、そういうことを「問題提起」したのではないだろうか。
 音楽に無知だから、私は、そんなことを考えた。

 そしてまた、こんなことも。

 「説教」「尋ね人」「天気予報」の三つの声が「和音」であるというとき、その「和音」の「正体」は何なのか。「音」なのか。それとも「意味」なのか。「音」は「低い男の声」で統一されている。「音程」の基本、キーというのだろうか、は似ていても、ことばそれぞれがもつメロディー(高低差)は違うから、それが「既成の和音」で呼べるものかどうか、なかなか判断はむずかしい。
 「意味」の重なりを「和音」とは呼ばないだろうが、「和音」に通じる「響きあい」というものがあるかもしれない。「クラヴサン」に出てきた「すきとおった」と「北風」には「響きあう」ものがある。張り詰めた北風、その張り詰めた感じが透明。ふくらんだ春風、熱で濁った夏の風は「すきとおった」とは響きあわないだろう。「すきとおった/秋風」では、こんどは「定型」すぎて「和音」のようには聞こえない。そう考えると、「意味」は「和音」をつくると言えるだろう。
 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース」は何を語っているのか。英語は聞き取れないのでわからないが、「ニュースの意味」と「きよしこの夜の歌詞の意味」は響きあっているかもしれない。「音」としては「ノイズ」だが「意味」としては「和音」ということがあるかもしれない。

 詩は、このあと、こう展開する。

時間も描かれた世界地図が
ゆれながら
僕の皮膚に浸透し……

雲から和音が
整った 無色の和音が感じられた

 この二連の「意味」は、よくわからない。
 「時間も描かれた世界地図」とは「三つの声(ことば))」の「意味」がつくりだす世界の姿かもしれない。それが「僕の皮膚に浸透し」というのは、「僕」の「肉体」のなかに入ってきたということ。谷川が、その「意味」を自分と無関係なものとしてではなく、自分に関係あるものとして聞き取ったということか。
 わからないものはわからないままにして、私は最後の行の「整った」ということばに注目した。
 「整った」は「整える」。
 音楽は「整えた」音のつらなりである。「音」を「整える」と「音楽」になる。
 ラジオから聞こえた三つの男の声、三つの「意味」と「音」。
 谷川は、それを「整える」。「音楽」であるかどうかはわからないが、まず「和音」にする。重なりあえるものと、響きあえるものとして「整える」。
 このとき「整える」という「動詞」を担うのは何だろうか。何が「整える」の主語になれるだろうか。
 「耳」か「頭/意識」か。
 「頭」という感じがする。「意識」が「意味」を「整える」、そして「重ねる」。そういう「動き」があるのだと思う。
 ここから、さらに、思う。

無色の和音

 この「無色」とは何だろう。「透明」か。「すきとおった」か。
 あるいは「無色」ではなく「無音」か。
 つまり「静かさ」か。
 谷川は、その「和音」を「雲から」聞き取っているが、私は「雲から」ではなく、むしろラジオで聞いた「三つの声/意味」と読みたいと思っている。
 「三つの声」はもちろん「無音」ではない。「無音」ではないからこそ、「音のないもの=雲」を、その「統合/象徴」として谷川は必要としたのかもしれない、と感じる。
 「意味」は「肉体」のなかに入ってきて、響きあっている。けれど、それを自分の「肉体」にあるという状態ではなく、「雲」という「自然」のなかに対象化して「聞きたい」という気持ちが、そこに動いているかもしれない。







*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)

2018-02-14 09:12:53 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)(創元社、2018年02月10日発行)

 「波の音を」は「聴こえる」音か、「聞く」音か。

遠い雲から始まった僕の思いは
死というくもりガラスにぶつかって
にわかに夕暮れの空となった

烈しい現実を
映画のように
その空を見ながら
僕は自分の鼓動(みゃく)をかぞえていた

波の音を
ぶつかって砕ける波の音を
ききたかったその夕暮れ--

 「ききたかった」と「ひらがな」で書いてある。「聴こえる」「聞く」とは別な書き方である。
 さて。
 「音楽」のように人工のものではない、「自然」のものだから「聞く」「聞こえる」ということになるかもしれない。
 でも、こんな「謎解き」をするよりも、私の感じたことを書こう。
 最初に読んだとき、気になったのは「死というくもりガラスにぶつかって」という行である。「死」は「くもりガラス」なのか。「感じる」よりも「考えてしまう」。
 「くもりガラス」は不透明なガラス。ガラスは「透明」という印象といっしょにあるから、そこに矛盾のようなもの、一筋縄では理解できなものを感じ、何かを考えるのである。何を考えたのかわからないが、「考える」という方向へ意識が動いていく。
 「遠い雲」の「くも」という音が「くもりガラス」に影響しているのだとも思う。そうすると、ここにはとても「小さな」音が動いていることになる。ピアニシモの音。「雲」から「くもりガラス」への変化には、もしかすると「人工的」なもの、自然を超える「音楽」があるかもしれない。
 あ、こんなことを書いてしまうのは、「聞こえる/聞く」という谷川の分類に影響されているためだね。
 「雲」「くもり」という音のあとに「にわか」ということばがつづくと「にわか雨」を思う。この「にわか」雨は、私には「音」となって響いてくる。突然の雨音をつれてくる「にわか」雨。
 直前の「ぶつかって」は、気圧が「ぶつかって」、「にわか」雨になるという感じ。
 でも、よくわからない。
 ここに「音」はあるのか。
 「ぶつかる」は「音」を生み出すが、「死というくもりガラスにぶつかって」というとき、そこに「音」はあるか。「僕の思い」が「くもりガラス」に「ぶつかる」というのが、一行目と二行目の「意味」だが、「死」が「くもりガラス」に「ぶつかっている」と「僕」が「思っている」とも読むことができる。「死」は現実ではなく「僕」が「思っている」何か。それが「くもりガラス」に「ぶつかっている」。「僕が思っている何か/思い」が「死」である。
 そういう、ごちゃごちゃしたことが、頭の中で動く。「感じる」というより「考える」。「考え」が「考え」と「ぶつかる」。整理されていないから、方向が定まらずに「ぶつかる」。
 で、そのとき、そこに「音」はある?
 私には「音」が「聞こえない」。
 そこには「音」がなく、何か「映像」のようなものが、「音」をもたないまま動いている。「雲」「くもりガラス」「空」が広がっているが、「音」はない。「にわか」も谷川の詩の中では「にわか雨=音」にならずに、急な「動き」しか指し示さない。「急(にわか)」という映像だ。
 「雲」と「くもりガラス」のあいだに、「音」の響きあいはあるが、「音」は聞こえない。「絵」として世界が広がっている。

 二連目の「烈しい現実」の「烈しい」は「ぶつかる」という動詞を引き継いでいるが、私には「烈しい現実」とは感じられない。
 ことばは、そのあと「映画のように」と変化する。「映画」は「現実」ではなく「つくりもの」。そしてそれを「見ながら」というのだから、やはりここには(ここまでは)、「音」のない世界なのだろう。
 「音のない世界」を見ながら、言い換えると「音のない世界」に向き合いながら、「僕」は「鼓動をかぞえていた」。このとき「数える」は「聞く」と同じだろう。聞きながら、数える。あるいは「数える」ことで「鼓動」が「聞こえる」。「数える」ことで「鼓動」を「聞く」。
 ここではじめ「音」が出てくる。
 でも、それは「外」にある音、「自然の音」ではなく、「自分の音」だ。

 三連目、「場面」が突然、変化する。
 それまでは「僕」がどこにいるか、はっきりしない。けれど、ここで「波の音」が出てきて、海の近くに「僕」がいることがわかる。
 ここに

ぶつかって

 ということば、一連目に出てきたことばがもう一度登場する。
 そしてそれはさらに

砕ける

 という動詞を動かす。
 ここが、なんともいえず、おもしろい。
 「砕ける」は、ここから一連目へ引き返していく。

死というくもりガラスとぶつかって/砕ける

 何が砕ける? 「学校文法」を適用すれば「僕の思い」だが、「くもりガラス」が砕けると読むことも、「死」が砕けるとも読むことができる。
 「死」を砕きたいのだとも読むことができる。
 「死」を「鼓動」が砕くという具合に、二連目と結びつけて読むこともできる。

 そうすると、このとき「波」とは何なのか。海の水の「うねり」と簡単にいってしまっていいのか。
 「波」は何と「ぶつかる」のか、そして「砕ける」のか。
 「波」は「岩(陸)」とぶつかり、砕ける。また「波」と「波」がぶつかり、砕けるということもある。
 「波」と「波」のぶつかりあい、砕ける姿は「僕」と「僕」がぶつかり、砕ける姿の「比喩」かもしれない。
 「思い(心)」と「肉体(鼓動)」がぶつかり、砕けるのかもしれない。

 そのとき、「音」は、どこにある?
 「音」は「聞こえる」ものなのか、それとも自分で「発する」ものなのか。
 「音」は自分の「外」にあるのか、それとも自分の「内」にあるのか。

 「音」は常に谷川の「内」にある。それを「外」にあるものとして、「きく」。それが谷川の「肉体/こころ」と「音」の関係のように思える。
 このとき、「音」は「ある」にかわる。
 一連目に「音」はなかった。二連目で「鼓動」を聞き、「音」が生まれ、それが「波の音」となって谷川の肉体の「外」に「ある」。「ある」という「動詞」を中心にして、谷川と世界が交流している。ひとつになっている。「ある=音」という世界のあり方がある。
 「ぶつかって/砕ける」ということばから、そういう「音」のあり方を、私は聞く。
 自分の内部にある「音」になっていないものを、「音」として「ききたい」。
 この「音」を「ことば」と言い換えることもできる。
 自分の「内部」にある「ことばになっていないことば」、「未生のことば」を「ことば」として生み出すと、それが「詩」になる。その「詩」を谷川は、聞くのである。
 そう読むと、ここには谷川の「自画像」が書かれていることがわかる。



*


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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)

2018-02-11 09:42:11 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(2)(創元社、2018年02月10日発行)

 「物音」の、最後の二行。

どんな音もおろそかにしない
世界の静けさを信じきって

 きのうの感想で書き落としたことがある。
 「物音」は「明け方」に聞いた「物音」について書いている。「耳(聴覚)」からはじまり、触覚、視覚、嗅覚と感覚を動かしながら「音」に迫っている。「音」を描写している。
 それが最後で「音」とは違うものに触れる。「音」では「ない」ものを「静けさ」と名づけ、「静けさ」という「ことば」にしている。この「静けさ」とは何だろうか。それはすべてを受け入れる「空(虚空)」のようなものではないか、と思った。
 「空」を「音」が満たしていくのか、「音」を「空」が満たしていくのか。
 どちらであるかわからないが、そういう「音」と「空/静けさ」という「矛盾」が拮抗し、同時に支えあい、結晶するものとして「世界」がある。そういうあり方を「信じる」と谷川は書いている。
 「信じる」という「動詞」を見落としていた、と急に気づいた。
 この「信じる」ということばを説明するのはむずかしい。
 「確信している」と言い換えればいいのだろうか。
 「確信している」は「確かである」と「信じる」こと。「信じる」を「確かである」にまで高めること。その「確か」を保障するというか、証明するのが「静けさ」ということばの発見なのだ。「静けさ」ということばをみつけた、そのことばによって世界を生み出した、ということが「確か」ということなのだ。



 きょうは「クラヴサン」を読む。私は「クラヴサン」というものを知らない。はじめて聞く(読む)ことばである。それが何を指すのか、わからないまま、ともかく読む。

曇ってはいたが妙にすきとおった夜
(それは北風のせいだったかもしれない)
僕の心はクラヴサンの音に満ち満ちていた
それは
厳しい幸福の感じだった

明日は晴れる ふと僕はそうおもった

 「曇ってはいた」(曇る)と「すきとおった」(すきとおる)のぶつかりあいは、「厳しい」と「幸福」の結合に変化していく。
 「曇る」はふつうは「不透明」をさすと思う。これを否定するように「すきとおる」ということばが動く。「すきとおる」は「晴れる」ということば(これは最後に出てくる)を暗示させながら動いている。
 その動きが繰り返される。
 「厳しい」は「悲しさ」「さびしさ」「つらいさ」ということばはいっしょにつかわれることが多い。人間があまり好まない状態、否定的な感情といっしょに動くことが多い。それが「幸福」という肯定的なことばといっしょに動く。
 その瞬間、何か「新しいもの」がみえる。それまで「ことば」にならなったものが、そこにあらわれてくる。
 その「ことばにならなかったもの」を「クラヴサンの音」が支えている。
 きのう読んだ詩の「物音」と「静けさ」の向き合い方に似ている。
 「クラヴサンの音」は「静けさ」なのだ。「クラヴサンの音」が「曇る/すきとおる(晴れる)」「厳しい/幸福」という断絶したものを「ひとつ」のものにする。「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」をつらぬく「空」のようにして存在する。「空」を「曇る」から「すきとおる」、「厳しい」から「幸福」までの「断絶」がつらぬく、と言い換えてもいい。
 「満ち満ちる」という「動詞」は、「ひとつにする」「つらぬく」ということだろうと私は読み直すのである。
 「物音」が聞こえるとき「静けさ」が「満ち満ちる」、「静けさ」のなかを「物音」がはてしなく広がっていく(満ち満ちてゆく)。主語がいれかわりながら、「動詞」のなかで「ひとつ」になる。「確か」になる。
 こういうことを経験して、谷川は「晴れる(幸福)」を「確信する」のだ。「ふと僕はそうおもった」と軽い調子で書かれているが、これは「確信」である。

 ということとは別に。

 私はこの詩を読みながら、こんなことも考えた。
 二行目に「北風」ということばがでてくる。なぜ「北風」なのか。なぜ南風、東風、西風ではないのか。詩を書いたときが冬だから「北風」なのか。
 だが、私は、ちがうものも作用していると感じる。
 「すきとおった」「厳しい」という音のなかにある「き」の音。それが「北風」の「き」の音と響きあっている。「き」のなかの母音「い」は、「満ち満ちていた」のなかにある「い」とも響きあっている。
 意味をはなれた「音」そのものが呼び掛け合っているようにも感じる。
 この「音」の呼びかけあいが、私には「ことばの音楽」に聞こえる。「意味」とは関係なしに、何か、引きつけられる。私は「音読」をしないが、「耳」に「音」が響いてきて、それがとても気持ちがいい。
 「き」あるいは「い」という音は鋭い。一方「クラヴサン」という音には一種のやわらかさがある。濁音が深みを感じさせる。詩の書き出しの「曇る」という動詞に通じるものがあるのだろうと思う。「き」「い」の響きあいが、「クラヴサン」という音で、ふわーっと膨らみに包まれる。
 それは「重い膨らみ」、曇りではなく、やがて「晴れる」ことを予想させる曇りにつながるものも含んでいると思う。曇りながら、晴れていくという感じ。

 「クラヴサン」の音を聞くことがあるかどうかわからない。その音を聞くまで、この詩を覚えていたいなあと思う。



*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com



聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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