詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林達夫「切支丹運動の物質的基礎」

2023-08-20 12:16:39 | 考える日記

林達夫「切支丹運動の物質的基礎」(林達夫著作集2)(平凡社、1982年03月23日、初版第9刷発行)

 林達夫「切支丹運動の物質的基礎」は、キリスト教の布教は、どうやって日本でおこなわれたのか。彼らが日本で布教できたその背景の、経済的基盤はどうなっていたのか、ということについて書いている。私は学校教育の「歴史」は好きではないが、こういう文章を読むと「歴史」というのはとてもおもしろいと思う。「過去」のできごとではなく、「いま」の問題としても見えてくる。
 いや、実際、彼らが日本に来て、どうやって布教したのか。「情熱」や「使命感」だけではできない。そこには何らかの「戦術」というか「政略」がないと、できない。
 林達夫は、彼らが、日本とポルトガルとの貿易のなかに割り込んで、商人となることで金を稼いだということを明らかにしている。彼らは、世界に支店をかまえる「ヨーロッパ最大の商業会社」だったのだ。
 びっくりして、目が覚めてしまった。
 スペインを中心とした国がアメリカ大陸に進出し、「布教」したのも、その背景には「商業主義」があった。金儲けがあった。金儲けをしたい集団と手を組んで、布教はおこなわれた。これは日本でも同じだ。

 宗教(キリスト教)が「金儲け」をしていいのか。私は信徒ではないから、そういうことは気にしないのだが、どんな世界にだって、人間が生きていくとき、「理念」から逸脱していく何かがある。そこに、人間の生き抜く力がある。
 それを肯定するか、否定するかは、これは別問題なのだが。

 ここから、私は、ぜんぜん関係ないことを思い出すのだ。
 私はかつて仲間と一緒に詩の同人誌「象形文字」を発行していた。そのときの同人のひとりに阿部泰久がいる。彼の詩は、なんというか「理念」を書いていなかった。言い直すと、「荒地派」のような詩ではなかった。むしろ、キリスト教の「商業活動」のように、どこか「生活」に密着しているものがあった。別なことばで言うと、そんなこと詩にしなくたっていいじゃないか。隠しておいた方が、詩(理念)っぽくない?というようなこと。詩集がどこかにあるはずだが、ちょっと見つけ出せないので、具体的な引用はしない。そこには「理念」ではなく、生きている人間の「視点」の確かさがあった。
 阿部は、この「視点」を掘り下げる形で、詩から俳句へとことばの運動を変えて行った。
 この「視点」は、別の「視点」から見ると、なんというか「間違い」であった。つまり、その当時の流行の詩からは少し「ずれていた」。そのためにとんでもない批判、こころない批判をするひともいた。しかし、どんな「間違い」にも、それぞれの「存在理由」がある。
 それはキリスト教布教が貿易に関与し、商業会社として動いてもいたということに少し(かなり)似ている。

 ここからまた脱線するのだが。
 私は詩の講座で詩を教えている。日本語教師として、外国人に日本語を教えている。日本語教師として大きな声では言えないが、私が目指しているのは「間違える」ことを教えたい。
 私は「学校の先生」にはいい印象を持っていないが、それは「先生」が「正解を教える」ことに忙しくて、「間違える」ということを教えないからだ。
 いつ、どこでも「間違い」は存在する。「正しい回答」と同じように、存在する。存在してしまう。
 それはなぜなのか。
 なぜ人間は間違え、その間違いを後で修正するにしても、間違えるという瞬間はなぜ存在してしまうのか。言い換えると、ひとはなぜ間違えることができるか。
 これは、私が「永遠の課題」のようにして考え続けていること。
 人間は、間違えることができる。そこに人間のヒミツガあると思う。
 どんな間違いの中にも、何かしらの真実、一理がある。それなりの理由がある。そこに「生きる力」のヒミツがある、と私は考えている。
 これは、また逆のことも言える。
 どんな「正解」のなかにも、「間違い」のきっかけはある。物理の発見が、ただ人間の幸福のためにだけ役立つかといえばそうではなく、原爆が開発され、多くの人が犠牲になったように。もし物理学者が「間違い」つづけていたら、1900年にわかっていることだけが「真実」だったら、原爆は完成しなかっただろう。また別の武器が開発されたかもしれないが。

 林達夫の書いている文章の趣旨とは関係がないが、つまり、こういう感想は、学校作文(論文)では「間違い」なのだが、いまの私には、こういうことを書くだけの「理由」がある。書かずにはいられない「理由」があるということだろう。それは、他人に説明しても、たぶん、わからない。「間違い」だから。

 

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チャットGPTの精度

2023-07-28 13:29:48 | 考える日記

 「チャットGPTの精度が落ちた」というニュース(見出し)を読売新聞で読んだ記憶があるが、検索しても出てこないので、テキトウな感想になるのだが。
 私は、これを当然だと思っている。
 世の中には「正確な情報」よりも「間違った情報」の方が多い。というか、「正確な情報」というものは、たいていの場合「修正」を重ねることで「正しい情報」にかわっていくものである。
 「情報」を「知識」と言い直して考えてみれば、すぐわかる。
 「天動説」が「地動説」にかわるまでに、どれだけ時間が必要だったか。「地動説」が登場して、すぐに「天動説」が修正されたわけではない。科学の世界でさえ、そうなのだから、「科学」ではない「人事」が動いている世界では、それがあたりまえだろう。
 さらに問題は、ひとは簡単には「間違い」を認めない、というか、「間違いを訂正して正しい情報に書き直す」ということをいちいちしない。たいてい、ほったらかしにしておく。
 ほんとうに正直な人間だけが、「あれは間違っていた、修正すます(訂正します)」と報告する。そして、そのとき、そのときの「情報」の大半が正しくて、ただ一点だけ間違っていたとしても、ひとは「やっぱり、あの情報は間違っていた」と間違いだけをとりあげて情報全体の価値を否定することが起きる。
 具体的偽は書かないが、「慰安婦問題(報道)」では、そういうことが頻繁に起きた。
 記者が責任をもって書いた「報道」では「訂正」がおこなわれるが、情報が匿名で発信され、拡散される世界では、「訂正」は拡散されず、「間違いの指摘」だけがひろがり、「正しい情報」が「間違った情報」になり、「間違った情報」が「正しい情報」にかわってしまうこともある。このときの「基準」が、その「情報の引用回数」で判断されると、それはとんでもないことになる。
 チャットGPTがどうやって情報を集めるのか知らないが、そしてそれが正しいか間違っているかどう判断するか知らないが、間違った情報を集めてしまう限り、どうしてもその「結論」は間違ったものになるだろう。
 いまはまだ「専門家」がチェックしている段階だから「精度が高い」のであって、だれもがつかい始めると精度はどんどん落ちるだろう。
 私がインターネットを始めたころ、「誰もが必ず一度はPLAYBOYを覗きに行く」と言われたが、いまはその手の情報は、PLAYBOYどころではなくなっている。PLAYBOYが掲載していた写真など、いまでは幼児向けの絵本みたいなものだろう。同じことが起きるだろう。

 私は情報と呼ばれるものが、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットと変化してきた時代を生きてきたが、その変化に伴って「正しい情報」が広まると同時に、「間違った情報」が広がるもの目撃してきた。そして、思うことはただひとつ。「正しい情報」は確かに維持されるが、「間違った情報」はかぎりなく「拡散する」ということである。「正しい/間違っている」は機械的には判断できない。「間違い」を修正し「正しい」に変えていくことができるのは、「良心」だけである。「良心」の定義が難しいが。「倫理」が必要だというと、自民党の政策みたいになるが、あれは「良心」を失った強欲集団がつくったものだから、私は、いつも「少数派」のなかにこそ「倫理(良心)」の「基本」のようなものがあると考えることにしている。「多数派」にはつねに疑問を持つことが必要だ。
 最初に戻って言い直すと。
 「間違っている」ことを認識し、それを「正しい」に変えていくひとは少ないし、さらにそれを「記録」として残すひとはさらに少ない。情報社会では、そうやって確立された「正しさ」は非常に少ない。チャットGPT、それを見逃すだろう。そうしためだたない「正しさ」を収集しきれないだろう。
 
 チャットGPTが、「多数(派)」への疑問を持つことができるかどうか、「少数(派)」が維持する疑問を正確に認識できるかどうか。それが課題なのだが、強欲集団がつくりだしたものが、そういう基本的性質を持つとは考えることができない。10年後、私は生きてはいないだろうが、そのころはきっとチャットGPTの「誤作動」が大きな問題になっているだろうなあ。

 

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頭と肉体(感覚、あるいは実感)

2023-07-15 10:44:30 | 考える日記

 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。窓からスカイツリー(の頂点)と金星と北極星が見える。その3点を結ぶ。三角形ができる。その三角形の内角の和は? 簡単に考えてしまうと180度。でも、実際に測るとそうではないね。頭は180度を思い浮かべる。たしかに自分が立っている位置を無視して3点を結ぶ「平面」を想定すれば180度になるかもしれないが、自分の立ち位置がつくりだす「場の歪み」のようなものが影響して180度にならない。
 もっと簡単なわかりやすい例で言い直すと。
 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。(ごくふつうのホテルでもいいし、自分の部屋でもいいのだが。)天井と壁の三面がつくりだす天井のコーナー。それぞれの面のコーナーは90度。三つ重なれば、それは270度。でも、ベッドに寝転んで(あるいは椅子に座って)、その三面のつくりだす角度を見ると、なんと270度ではない。どの角も90度を超えている。(視覚の問題。)さらに、それを紙に描いて見ると(平面上に展開してしまうと)、その合計は360度になる。
 なぜ、どうして? 「立体だから」(空間だから)と言えばそれまでだが、立体だから(空間だから)を、それではわかるように数学的に説明できるか。三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの隅の角度の合計は270度のように説明できるか。まあ、証明できる人もいるだろう。でも、ふつうは、できない。
 そういうことは、「日常」にはたくさんある。
 きのう「神は死んだ」という日本語について書いたが、「無意識」が修正する「正しさ」のようなものが、どこかにあって、それは「正しい」と同時に「まちがい」でもある。それが「世の中」を動かすことがある。
 私は日本語を教える一方、スペイン語を勉強している。その教室で「わいろ」についての「ディベート」というと大袈裟だが、考えていることをスペイン語で話さなければならないことになった。その前に「政治」の話、「国際関係」、日本の「組織」の話をしていたので、私は、ふと田中角栄のことを思い出した。
 田中角栄の失脚の引き金は、立花隆が「金脈」を告発したことにあるが、問題は、そんなに簡単ではない。その前に、ベトナム戦争があり、アメリカは日本に自衛隊の派遣を要請した。角栄は、憲法9条を盾に拒否した。(韓国は派兵している。)怒ったアメリカは、角栄を追放することを決めた。(首相を交代させることを画策した。)それがどんなふうに実行されたか、それは知らないが、ともかく角栄は逮捕され、失墜した。これを見た政治家は、アメリカに逆らえば失墜するということを「頭」ではなく「肉体」で感じた。そして、それは多くのジャーナリズムのトップにも感染した。ここから、ずるずると「論調」はアメリカべったりになっていった。
 「頭」では、自分がアメリカによって、いまある地位からひきずり降ろされるということは起きないとはわかっていても、もしかしたらという「不安」が、肉他のどこかに残ってしまう。それは、人間をじわじわと蝕んでいく。いろいろなトップだけではなく、トップの姿勢は、その下で働く人にも。
 あ、少し脱線したか。あるいは、非常に脱線したか。
 私は、角栄に起きたのと同じこと(あるいは、それに近い圧力)が、世界中で動いていないか、疑問に感じている。それは何も、「中立」であることをやめて、NATOに加わわろうとするいくつかの国のことだけではなく、ロシアそのものにおいても。プーチンは、アメリカがプーチンをひきずり降ろそうとしているという「動き」ではないのか。それに対抗する形でウクライに侵攻した、ということもあるのではないだろうか。習近平や金日恩は、そうした「圧力」、同じように「追い込まれようとしている」と感じていないか。
 このアメリカの、すべてをアメリカの思うがままにという「圧力」は、多くの国が(多くのリーダーが)感じているかもしれない。なんとか、アメリカに対抗して、自分の国を守りたい(独自路線を貫きたい)と思っている国は多いだろう。ベネズエラは石油資源を盾にアメリカに抵抗している。南米で多くの左翼系の政権が誕生している。これは、アメリカへの「抵抗」ではないだろうか。この「抵抗」を感じるからこそ、アメリカはヨーロッパやアジアでアメリカの「圧力」を強めようとしているのかもしれない。

 飛躍しすぎる論理かもしれないが。

 アメリカの帝国主義は、たとえば三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの角の角度の輪は270度というのに似ている。それは、現実(立体空間、世界のなか)で「体感すること」とは違うのではないか。「頭」で考えるだけではなく、何か、私たちは「体」で感じるものを抱えて生きている。そして、それは「正しい」ことなのか、「まちがっている」ことなのかわからないが、人間を深いところで動かしている。「肉体」で感じることを、自分に言い聞かせるようにして、自分の見ている世界を受け入れている。
 なぜ、部屋の片隅の、三つの面の角は90度であるはずなのに、90度に見えないのか。一つ一つの角を測れば90度なのに、離れて見た瞬間90度ではなくなるのはなぜなのか。そして、90度ではないのに、それは90度であると判断できるのはなぜなのか。この問題を、いろいろな「世界」にあてはめるようにして考えてみたいと私は思っている。
 別の言い方で言えば。
 どちらが「正しい」か「まちがっている」か、簡単に判断しない。いま、自分は、どちらを選んでいるのか、どの立場で世界を見ているのか、それを忘れないようにしたいと思う。


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「神は死んだ」(日本語を教える)

2023-07-14 17:40:20 | 考える日記

 「死ぬ」という動詞のつかい方は難しい。私の授業のときではないのだが、ある生徒が「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」という文章を書いた。それに対して、「動物の場合は、亡くなったとは言わない」と別の先生が教えた。これは、まあ、正しい。そのあと「死ぬ、死亡、死去、逝去、崩御」というようなヒエラルキー(?)も学んだらしい。
 まあね。
 動物は「死ぬ」。「死亡」は「豪雨で7人死亡」(名前を具体的に出さない、自己や災害のおおきさをあらわす)。「ミラン・クンデラ氏死去」(固有名詞とともにつかわれる。有名人だ)。「エリザベス英女王逝去」(ミラン・クンデラよりも偉い、といっていいかどうかわからないが、肩書がかなり違う限られた人)。「天皇崩御」(天皇クラスにしかつかわない)。
 で、ね。
 これからが問題。日本語検定試験ならそれでいいけれど、ことばは「生きもの」だから簡単に割り切れないのだ。
 たとえば父親。私は「きのう私の父親が亡くなりました」ということばを聞くと、ぞっとする。何か、違う。これは「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」よりも、ぞっとする。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には犬に対する愛情が感じられるが、「きのう私の父親が亡くなりました」には愛情が感じられないのだ。「他人行儀」な感じがしてしまうのだ。肉親の場合、とくに憎しみがこもっていない限りは「父が死んだ」がふつうなのではないか。少なくとも、私は、そう言う。
 「死んだ」ということばを発するとき、何か身を切られる思いがある。こころが強く結びついているとき、「死んだ」と言うのではないか。
 これは、こう考えてみるとわかる。
 私はちょっと意地悪な質問を生徒にしてみた。死なない存在が神なのかもしれないが、「もし、神が死んだら、何という?」
 「ことばのヒエラルキー」に従ってだろうが、「神が崩御」という答えが返ってきた。でも、そんな言い方は絶対にしない。「神が死んだ」としか言わないだろう。なぜか。神とは、こころと直接、しっかり結びついた存在だからである。そういう「親密」な関係にある存在に対しては「死亡/死去/逝去/崩御」などとは絶対に言わない。
 ことばの奥には「こころのルール」がある。そして、それは「文法(形式?ルール)」では説明できないのである。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には、こころがある。「父が死んだ」にもこころがある。「父が亡くなった」にもこころがある。その「こころ」をどう読み取るかは、これまた、ひとりひとり違うから、まあ、ことばはほんとうにおもしろい。

 「検定試験」の合格が目的なら「犬は死んだ」と覚えないといけない。しかし、いま日常的に、「犬に餌をやる」ではなく「餌をあげる」という人が増えているし、数学の計算でも、「まず、括弧のなかの掛け算をしてあげて、それから括弧の外の数字を足してあげる」(これとこれを先に計算してあげて、それから……)という言い方をする教師もいる。昔なら「あげて」とは言わず「やって」と言っただろう。

 脱線したが。
 「死ぬ」ということばをどうつかうかは、ほんとうに難しい。私は、私が尊敬する人物について書くときは「死んだ」と書いてしまう。ミラン・クンデラが死んだ、という具合に。ミラン・クンデラが死亡した、とは書けないなあ。

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日本語を教える、あるいは教えることをとおして学ぶ(2)

2023-06-28 23:21:26 | 考える日記

 「翻訳コース」の生徒のつづき。日本語のニュアンス、使い分けを知りたい(論文を書くときの参考にしたい)ということなので、ベルグソンの「笑い」、ボーボワールの「アメリカその日その日」をテキストに、ことばの使い分け、文体の工夫などについて考えた。
 たとえば、ベルグソンは「検討」と「研究」をつかいわけている。(訳文は、つかいわけている。)

(1)先覚者たちの考えを徹底的に検討し、
(2)いくつかの研究が発表された

 (2)を「いくつかの検討が発表された」とすると、すこし違和感があるかもしれないが、(1)が「先覚者たちの考えを徹底的に研究し」であっても、違和感は少ないだろう。しかし(1)は「検討」と書いている。どう違うのか。
 「検討」は「研究」を含むのである。そして、「検討」は、そこに書かれていることの「当否」を検討するのである。「比較検討」ということばがあるが、そこには何かを比較し、選ぶ、という動きがある。
 だからこそ、(1)の文章は、「笑いに関する理論のしかるべき批判を打ち立てるべきではないかとも考えた」とつづいていく。「検討し」「批判を打ち立てる」。「批判する」よりももっと強いことばがつかわれている。どの「笑いの理論」が的を射ていて、どの「笑いのす理論」が間違っているか、はっきり識別する。
 「検討する」ということばには、そういう「論理展開」が準備されている。それを踏まえてことばが動いているから、「文体」にスピードが出て、強く響いてくる。こういうことも、どのことばを選ぶかということには重要な問題である。
 いま、追加で書き加えた文章の中の、

(3)笑いに関する理論

 この「理論」は「論理」とどう違うか。「理論」はまとまったひとつの体系。「論理」は考え方(思考の動かし方、ことばの動かし方。だから、たとえば「理論」はアインシュタインの理論(相対性理論)というようなつかい方をするが、アインシュタインの論理、相対性論理とは言わない。これは、セロリーとロジックのような関係。フランス語では、日本語ほど字面(音)が似ていないから混同しないが、日本語学習者は混同する危険性が高い。

(4)意識的に、あるいは暗々裏に、

 「暗々裏」は「ひとに知られずに(隠すように)」とか「内々に」とか「秘密に」という意味を持っているが、これは「意識的」にしかできないことである。だから「意識的に、あるいは暗々裏に」というときの「あるいは」は単なる「別の何かの提示」をするときの「または」とは違う。しかし、「または」とも言い換えることもできる。
 ここには皮肉というか、批判をこめた「強調」がある。
 気づくひとは気づくだろうが、気づかないひとは気づかないだろう。しかし、私は書いている、という意味がふくまれる。

 ボーボワール「アメリカその日その日」は、もっとおもしろい例がある。

(5)幾筋かの光の刷毛が、赤や緑の信号灯のきらめく地面をさーっと掃く
(6)あっという間に赤い滑走路照明灯が地べたに叩きつけられる

 「地面」と「地べた」。ボーボワールがフランス語でつかいわけているかどうか。フランス語では、どういうことばがつかわれていると思うか、と質問しながら、日本語を考えるのだが。
 私の感覚では「地べた」は肉体と深くつながる。地面に倒れた、地べたに倒れた、を比較すると「地べた」の方が肉体の記憶が強く呼び覚まされる。倒れたときの感情が強くよみがえる。
 ボーボワールは、私にとっては、論理的であると同時に、いつも「女の肉体」を感じさせる何かがある。それが、たとえば、この「地べた」ということばにある。訳者が、ボーボワールの「文体」(ことばの動くときの調子)を再現しようとしているのだと思う。

(7)祝祭の晩、夜のお祭り、私の祭りだ。

 この文章のおもしろさは、おなじ意味のことばが繰り返されること。「晩」と「夜」。「祝祭」と「祭り」。これは、受講生も気づいている。この似たことばの動きのなかで、最後に「私」が浮き上がってくる。
 このリズムも、翻訳のときは、とても重要だろう。
 「祝祭の晩、晩の祝祭、私の祝祭だ」では、いきいきした感じがぜんぜん伝わってこない。「文体」は、作家の命である。

(8)表情にそう書いてある。

 これは、フランス語なら「表情に出ている(あらわれている)」という感じになると思う、と受講生が言った。そして、「なぜ、書いてある、ですか? 描いてある、という漢字ではないのですか?」(書くと描くのつかいわけを、受講生は知っていて、そう質問する。)
 「表情にそう書いてある」はさっと読みとばしてしまうが、もっと日本語らしく「翻訳」するならば「顔に書いてある」だろう。訳者は「顔に書いてある」ということばを思い出したけれど、それをそのままつかってしまうと、あまりにも「日本人の感覚」になる。だから、ボーボワールが日本人ではないということを、意識的に、あるいは暗々裏に気づかせるために「表情に」と訳しているのだろう。そして、その「表情」は、たしかにフランス語を「直訳」したものなのだろう。訳者は二宮フサだが、そういう配慮ができる訳者なのだろう。
 
 こんなことを書きながら思うのは。
 私は、「思想(意味、内容)」が好きなのではなく、その「結論(要約)?」の細部を支えることばの選択にこそ関心があり、そこにこそ「その人の思想=生き方、肉体」を感じているんだなあ、ということである。
 思想の意味は、みんな、おなじ。「どうしたら人間は幸福になれるか」ということを考え、答えをその人なりに出している。ほかの「結論」なんかは、ない。だからこそ、「結論」ではなく、その「過程」で動いていることばの在り方だ重要なのだと思う。「ことばの肉体」ということばをつかうとき、私は「こそばそのものの肉体」と同時に「ことばにまぎれこんだ人間の肉体」を感じている。ボーボワールは、私は日本語でしか読んだことがないが、彼女のことばにはいつも「肉体」がまぎれこんでいる。
 追加で書いておく。

 


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日本語を教える

2023-06-21 15:03:03 | 考える日記

 きのうの生徒は「翻訳コース」の生徒。翻訳といってもジャンルによってことばが違うので、何を求めているのか、何を教えればいいのか、実はわからなかった。学校のカリキュラムに従って「小説」などの読解をすることにしたのだが。
 一回目に読んだ「海辺のカフカ」は、生徒の求めているものとは違っていた。「ノンフィクション」の「翻訳」を目的としている、という。二回目は、新聞・雑誌の日本語に触れた。新聞の読み方(見出しを読んで本文を推測する、見出しに助詞などを補い短文にする)を勉強したのだが、これも、何かピント外れな感じがする。授業が終わったあと、次回(つまり、今回)の相談をした。フランス人なので、フランス語から翻訳されたものを読むのもいいかもしれないと思ったが、それでは「日本語」にじかに触れることにはならない。それで、中井久夫がバレリーについて書いた文章、あるいはプルーストについて書いた文章を読んでみようということになった。
 そして、今回。
 「思索」ということばに出会った。意味がよくわからないというので、あれこれ説明していると、突然。
 「思考、思索、思想はどう違うのか。どうつかいわけるのか」
 という質問があった。
 実は、こういうことを知りたかったらしい(学びたかったらしい)。
 大学院生で、いま、論文の準備をしている。そのとき、たとえば、ある文脈で「思考」ということばをつかうべきなのか、「思索」ということばをつかうべきなのか、あるいは「思想」を選択すべきなのか。
 マルクスの思想とは言っても、マルクスの思索とは言いにくい。マルクスの貨幣に関する思索、となら自然に言える。思想は、いわば全体像をさすが、思索はある部分を深く掘り下げるときにつかう。研究に近いか。思索の索は索引の索であり、検索の索でもある。全体をおおうというよりも、やっぱり追求するに似ている。これは、長い間いろいろな文章を読んでいる内に自然につかみ取るもの。区別を意識するのは、多くの文章に(ことばに)触れる人だ。
 そうだねえ。
 論文を提出したら、「ここは思想ではなく、思索」という具合に注意されても、それだけではなかなかわからない。それが知りたかったのか、と驚いた。
 中井久夫の文章のなかに出てきた、実存主義、構造主義(もう古いか)はすぐに理解できるし、ヴァレリーはもちろん(「カイエ」や「若きパルク」を含む)、ヴォーボワール、ソシュール、デリダ、ラカンもわかる。しかし、おなじ中井久夫のエッセイでも「けやき」について書かれたものがわからない。木の名前がわからないし、どの木のことを描いているかわからないから、描写が「映像」にならない。けやきを知っている日本人なら、その美しい描写に感動するが、感動できない。
 ことばは「簡単(日常語に近い)」ければわかる、「難解(学術語)」ならわからない、ということはないのだ。むしろ「学術語」の方になじんでいることもあるのだ。
 
 似たようなことは、他の生徒にも感じた。
 林達夫をいっしょに読んでいるのだが(林達夫の文章には特に難解なことばがでてくるわけではないのだが)、何度もつまずく。そして、そのつまずいた部分を説明するのが、非常にむずかしい。林達夫は、なんというか、「趣味人」で、日常のささいなことを非常に細かく掘り下げて、いま起きている問題点を描き出す。現実の細部から出発し、その細部の「根本」にまでさかのぼり、そこから「いまの現実」を再構成することで、現実の問題点をダイナミックにとらえ直す。だから、とても、おもしろい。「鶏を飼う」など、非常におもしろいが、それは鶏の種類、餌の種類、あるいは餌の流通がどうなっているかなどがわからないと、ちんぷんかんぷんである。いちどでも鶏を買ったことがある人なら納得ができるが、そうでないと馬鹿馬鹿しいエッセイに見えてしまうだろう。林達夫の「思想」の「深み」、「思考」の「運動」のダイナミックな切れ味がわからないだろう。

 どんなことばを生徒が求めているか。それを把握しないと、語学の指導はむずかしい。日本語検定の問題などは、いかに受験生を不合格にするかを狙っているとしか思えないものが多い。いまどき、「拝啓」につづき、時候のあいさつを書いて、そのあと「本題」にはいるというような手紙の書き方をする人はいない。それに、教えている先生にしても「前略」はともかく「草々」は知らない、見たこともないという人がいる。それなのに(そういう人がちゃんと働いて給料をもらっているのに)、外国人にそういう日本語をもとめるなんて、「日実用的」だろう。

 ときどきアルバイトをするだけだが、いろいろなことがわかるのが、やはり働くことのおもしろさだなあ。

 それにしても。
 「私は、こういうことをするために、こういう日本語が習いたい」と正確に言えるなら、日本語学校へなど来ないだろうなあ、と思う。つまり、学校の方で、生徒の「要望」をていねいに引き出すことが必要なんだと思う。

 

 

 


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村上春樹の日本語

2023-06-17 21:45:56 | 考える日記

村上春樹の日本語

 私は外国人に日本語を教えるとき、村上春樹の小説をつかうことが多い。とても便利だからである。村上春樹の文体には「繰り返し」が多い。そして、そのことが日本語を教えるのに好都合なのである。
 「繰り返し」の特徴のひとつの「述語」の省略がある。
 きのう読んだ「シェラザード」の最後。わかりやすくするために省略された述語の部分を(***)で示しておく。

 羽原は目を閉じ、シェラザードのことを考えるのをやめた。そしてやつめうなぎたちのことを想った。石に吸い付き、水草に隠れて、ゆらゆらと揺れている顎を持たないやつめうなぎたちを(1***)。彼はそこで彼らの一員となり、鱒がやってくるのを待った。しかしどれだけ待っても、一匹の鱒も通りかからなかった。太ったものも、痩せたものも、どのようなものも(2***)。そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 (1***)は「想った」、(2***)は「通りかからなかった」。ともに、直前の文章の末尾の熟語を省略している。重ねて書くと「うるさい」ということがあるのかもしれないが、それなら文章をふたつにわけずにひとつにすればいいのだが、そうすると長くなる。だから、こんな「工夫」をしている。
 これがどうして日本語を教えるのに有効かというと。
 日本語の会話は(会話だけではないが)、最後まで聞かないと意味がわからないというがほんとうはそうではなく、途中まで聞けば末尾は推測できる。その末尾の推測能力を鍛えるのに、とても役立つのである。
 末尾を推測するというのは、そんなに複雑なことではなく、日本人ならだれもが自然にやっていることだが、外国語の文体は「動詞(述語)」が主語につづいて、文頭近くに出てくるので、それを推測するということには、外国人はあまり慣れていない。
 「(1***)のあとには述語(動詞)が省略されているけれど、それは何?」
 と、私は生徒に質問する。さっと答えられたら、その生徒の日本語能力は高い。これは日本人相手にやってみても、きっと有効な「能力検査」になる。じっくり読めば、わかる。そうではなくて、即答できるかどうか。
 私が教えている18歳は、これができる。読めない漢字がいくつかあるが、これは「知識」の問題。述語の推測は「知識」ではなく、「理解能力」の問題。彼は、それをクリアーしている。

 この「シェラザード」の末尾には、村上春樹を教材に使う別の理由もある。最後の文章。

そしてやがて日が落ち、あたりは深い闇につつまれていった。

 この文章は、小説を読み慣れた人なら「そしてやがて日が落ち」まで読めば、「(あたりは)深い闇につつまれていった。」が推測できる。「常套句」で成り立っている。村上春樹の小説は「常套句」の宝庫である。「そしてやがて日が落ち」まで読み、それにつづくことばを推測できれば、これは完全に日本語をマスターしているといえる。
 私は生徒にここまで質問はしないが、推測できるようになれば、きっと村上春樹の文体が、たまらなく「退屈」になる。私は、退屈で仕方がない。だから、村上春樹の小説は嫌いだが、日本語教材としては、とてもいい。だいたい「語学教材」というのは、退屈なものだ。

 もうひとつ、村上春樹の「文体」の特徴に、ちょっと「わかりにくいことば」をつかったあとは、必ず、それを「説明する」というものがある。「わからなことば」に出会っても、つづけて読んでいけば、その「意味」を推測できる。
 「木野」という小説に、妻を寝取られた男(木野)が登場する。木野は、妻の浮気に気がついていなかった。浮気現場を目撃して、はじめて気がつく。
 そのあと、こんな文章。

木野はそういう気配にあまり聡い方ではない。夫婦仲はうまくいっていると思っていたし、妻の言動に疑念を抱いたこともなかった。もしたまたま一日早く出張から戻らなければ、いつまでも気づかないまま終わったかもしれない。

 この文章の「聡い」ということばは、かなりむずかしい。しかし、末尾の「いつまでも気づかないまま」が、それをていねいに説明している。(余分なことだが、さらに、このあと段落をかえて、実際に妻の浮気の現場が描写されるのだが、これもまあ、なんというか、想像力を刺戟しないというか、即物的(説明的)である。
 村上春樹は、細部まで即物的に説明しないと何が起きているか(主人公が何を感じているか)、理解できないと思っているのかもしれない。
 脱線したが、「わからないことば」に出会ったとしても、一文を全部読ませる。ときには、一段落を全部読ませる。そのうえで、「聡い」の意味をどう考える?と問いかければ、上級の日本語学習者なら推測できる。そういう推測ができるような「文体」が村上春樹の特徴である。

 きのうは、もうひとり38歳とも村上春樹を読んだ。「海辺のカフカ」。彼は「語感」が鋭くて、日本人がしないような質問をする。新潮文庫の17ページに「薄手の服」ということばが出てくる。「薄い服」ではなく「薄手の」。
 「薄い」と「薄手」はどう違うか。「最近の若い人は、薄いというでしょ?」。まあ、「薄手」よりも「薄い」の方が通じるかもしれない。「手」は何を意味しているか。手でさわった感触である。そして、それは「感触」というよりも、なんというか「肉体の参加」である。そこには「親身」というのに近い感覚がある。
 おなじ「手」のつかい方は、おなじページの次の文章の中にある。

 15歳の誕生日は、家出をするにはいちばんふさわしい時点のように思えた。それより前では早すぎるし、それよりあとになると、たぶんもう手遅れだ。

 「手遅れ」と「遅い」の違い。「手遅れ」の方が「親身」である。抽象的(物理的)というよりも具体的、実感的である。先に「肉体の参加」と書いたが、「手」は「実感」を代弁しているのである。
 この38歳は、ここに注目すると同時に、いま引用した文章の「想われた」にも注目する。「思った」ではなく「思われた」。「思った」は主幹、「思われた」には、どこか客観的なもの(主体だけではないという印象)がある。そして、彼はここから、この小説の主人公は15歳の設定だが、どこか父親の意識を引き継いでいると指摘する。
 とても、鋭い。
 彼もまた漢字の読解には問題があるのだが、小説の読解については、問題はない。むしろ、私の方が耳を傾けなければならないとさえ感じる。

 漢字の問題については、ちょっとおもしろいことがあった。「木野」のなかに「寡黙」ということばが出てくる。その意味を、18歳は「寡占」と結びつけて、「完全に沈黙しているわけではないが、それに近い沈黙」と定義した。「寡占はほとんどだが、独占なら完全。寡占の寡があるから、そう思う」。
 この「推測」は完璧。
 私は常に漢字熟語が出てきたときは、それぞれの漢字を含む別の熟語を紹介することで、意味を「ふくらませている」のだが、18歳には、これができる。だから、「読む」ことはできないくても「理解」(推測)ができる。
 「語学」というのは、結局、「推測能力」のことだと思う。村上春樹の文体とは直接関係ないが、書いておく。

 

 

 

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ろくでもない、の意味は?

2023-06-09 16:44:23 | 考える日記

 日本語学校で、村上春樹の「海辺のカフカ」(テキストは新潮文庫)を読んだ。生徒はカナダ人。38歳。
 高校1年のとき、日本に留学していた。しかし、多くの漢字を忘れている。だから、漢字はときどき読むことができないのだが、「小説」の読解能力は、超一流。
 15ページに「二重の意味」ということばが出てくる。この「二重の意味」は、いわばこの小説のキーワード。小説のなかでは、あらゆるものが「二重の意味」のなかを展開していく。その「予測」を、「二重の意味」ということばにつづいて書かれている「光と影。希望と絶望。……」ということばをつかって語り直すことができる。つまり、「予測」ができる。(あ、繰り返しになってしまった。)
 私がさらに驚いたのは、16ページ。
 「土地のろくでもない連中とかかわりあうことなる、の『ろくでもない』は、どういう意味ですか? ろくに漢字はありますか?」
 「ろくは漢字で書けば、禄。財産とか、金の意味する。(昔は、給料を意味した。)昔は、金持ちは、正しい、という印象。だから、ろくでもないは、正しくない、というような意味。ろくでもない連中は、ギャング、マフィア、やくざみたいな感じ」
 「ちんぴら、ですね」
 「あ、そうそう」
 「先生は、いろんなことを知っているけれど、現代の俗語(?)は、私の方が知っている」
 「あ、ほんとうに、そう」(私は、いまの若い人がつかうことばは理解できるが、自分でつかうことはない。だから、ちんぴらも聞けばわかるが、自分では思いつかなかった。そういう意味で、とても教えられた。)
 というやりとりのあと、つぎの一言がすごい。
 「村上春樹は、ここでは少年に『ちんぴら』ではなく『ろくでもない連中』ということばをつかわせることで、少年の育ちの良さを表現している」

 まさに、そのとおり。

 たとえば何かの試験で「村上春樹が、ここで『ちんぴら』ということばをつかわずに、『ろくでもない』ということばをつかった理由は何か、どう考えられるか」という設問が出たとき、彼のように答えられる日本の学生が何人いるか。
 9ページの「砂嵐想像ゲーム」の場面で、ここで「カラスと呼ばれる少年」と「僕」が同一人物であることがわかるのだが、このとき、デービッドはそれを即座に理解した。
 「日本人の読者のどれくらいの人が、ここで同一人物とわかるか」という厳しい質問が出たが、たぶん、1割だろう。小説を読まないひとは、ほとんど「理解」しないだろうし、「同一人物である」という根拠を「目を閉じる」「暗闇」「ため息/静かに大きく息をする」「共有」ということばをつかって論理的に説明し直すとなると、かなりむずかしいと思う。

 私は村上春樹は好きではないのだが、日本語を教えるには最適の教材だし、その「最適の教材」の「最適」な部分にきちんと反応する生徒に出会うと、とても楽しくなる。

 

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「死」について

2023-05-24 09:07:00 | 考える日記

 見知らぬ人からメールが届く。ふと気になってメールを開く。友人の友人と名乗る人からのメールで「友人は3年前に死んだ」と言う。突然メールが途絶えた理由は、それだったのか。
 私自身の年齢とも関係するのだろうけれど、近年、訃報に接する機会が増えた。友人、友人の家族、あるいは愛犬。

 死は、ほんとうに不思議だ。私は、「一元論者」である。ただし、「一元論」の定義は、ふつうに言われているものとは違うかもしれない。私は、私の意識が及んだところまでが世界であると考えている。私の意識が「世界」という「一元論」。そういう私にとって、死とは何か。
 「世界」が突然、そこで終わるのだ。
 ある人と一緒に見ていた世界から、その人が消えると、その向こう側がなくる。父が死んだとき、はっきり、それを感じた。「世界」の見え方がぱっと変わった。父が隠していたもの、父だけが知っているかもしれないことが存在しなくなり、目の前に突然「壁」ができた感じなのである。
 私の家の前の道から、碁石が峰という山が見える。いちばん高い山だ。父が死んだあと、姉が「父が死ぬ前、碁石が峰を見ていた」と言った。父が立っていただろう道から碁石が峰を見てみた。巨大な大きさで山が迫ってきて、そのあとぱっと消えた。元の位置にある。だが、その山の向こうに何があるか、それが一瞬、思い描けなくなったのである。山の向こうには、何もない。碁石が峰が世界の果だ、という感じ。もちろん、私はその向こうに何があるか知っているし、その向こう側を歩いたこともある。向こう側の海まで泳ぎに行ったこともある。それなのに、あの瞬間、それはすべて消えた。そのあとにあらわれてのは、父が見ていた碁石が峰と父が知っていた碁石が峰ではなく、私が別の人といっしょに(たとえば友だちといっしょに)知っている「別の世界」なのだ。ひとつの「世界=父の世界」は存在しなくなったのだ。

 この衝撃は大きい。ある詩人が死んだとき、私は、私の書いてきた詩が消えてしまったと感じた。ある翻訳家が死んだとき、やはり、そのことばの世界が消えてしまったと感じた。この「消えた」は、ほんとうは正しくない。「動かなくなった」と言い直せばいいだろう。
 しかし、まだ「ことば」が残されているときは、いい。
 「ことば」を読み返すとき、何かが動く。動き始める。まだ、いっしょに歩き始めることができる。まだ「世界」を広げていくことができる。
 それを頼りに、私はまた動き始める。つまり「世界」を少しずつ広げることができる。

 とはいうものの、「ことば」があれば、それでいいというものでもない。三島由紀夫が死んだとき、私はやりは「三島の世界が動かなくなった」と感じたが、それをもう一度動かして、私が見ることができな何か(三島だけが知っている何か)を見てみたいという気持ちは起きなかった。三島の死後、何冊か本を読んだが、やはり、その「世界」は動かなかった。そこに存在するが、それは存在とは言えないような何かだった。

 なぜ、こんなことを書いているのだろうか。書く気になったのか。よくわからない。友人の死を知ったことがきっかけであるには違いないのだが。死が近いのかなあ、死の準備をして始めているのかなあ、と感じる。
 私には何か「離人症」のようなものがある。(「離人症」を誤解しているかもしれない。)「死んだかもしれない体験」を私は二度している。一度は15メートルほどの高さから、下の田んぼに落ちたとき。落ちながら、このままでは頭をぶつける。体を回転させれば尻から落ちる。田んぼだから、やわらかくて助かるかもしれない。小学5年のときだ。そして、実際にそのとおりにして、私はケガをしなかった。もう一度は、中学1年のとき。雨の日、傘を差して自転車で学校へ向かった。風が吹いてきた。あおられて5メートルほど下の川に転落した。私は泳げない。(病弱だったので、泳ぐことは禁じられていた。)川は増水している。どうするか。川底に着いたら、川底を蹴ればいい。そうすれば浮き上がるだろう。そして、実際にそうした。その結果、助かった。後ろを走っていた上級生が、大慌てで近くの家に「(私が)川に落ちた」と知らせに言った。だから、人もやってきた。私は、そのときの自分の動きを、まるで「映画」でも見ているように、「外」から見ていた。
 最近、いろいろな訃報を聞くためだと思うが、「死ぬまであと〇年あるなあ、その間に、この本とこの本は読むことができるなあ」と思い、実際に、読み始めている。まるで崖から落ちたとき、増水した川に落ちたときのように。今度は、はたして助かるのかどうかわからない。「こうすれば助かる」ではなくて、「ここまでは読める(だろう)」という「予感」だけだから。

 

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広島サミット

2023-05-11 13:47:44 | 考える日記

 2023年05月11日の読売新聞(西部版・14版)が広島サミットについて書いている。
↓↓↓
 政府は、19~21日に広島市で開く先進7か国首脳会議(G7サミット)に合わせ、インドや韓国など、招待国8か国の首脳に広島平和記念資料館を訪問してもらう方向で調整に入った。岸田首相と8か国首脳がそろって訪問する案も検討している。
 複数の政府関係者が明らかにした。資料館訪問を巡っては、G7各国首脳がそろって行うことが既に固まっており、G7の枠を超え、核軍縮の重要性を国際社会に広く強調する狙いがある。
↑↑↑
 これが実現するなら、とてもうれしい。(バイデンは、債務問題で欠席する可能性がほうどうされているが。)
 この記事を読みながら思ったのは、「戦争」そのものについてである。

 「戦争」は、いつのころからかはっきりしないが(私は歴史が苦手)、兵士と兵士(軍隊と軍隊)の戦いではなくなっている。かならず一般市民がまきこまれるようになっている。その最大の悲劇のひとつが、広島、長崎への原爆投下である。敵の軍隊に勝利したら戦争は終わりではなく、なんというか、「敵の国民」を殲滅しない限り、戦争はおわらないという状態になってしまっている。

 そこから、ふと思うのだけれど。

 最近、活発に語られる「敵基地攻撃」なのだけれど、そんなことで戦争が防げるのか。戦争は軍隊と軍隊の決着という時代は、もうとっくの昔になくなっている。敵基地を攻撃し、ミサイル攻撃を一時的にしのいだとしても、戦争はつづく。
 戦争が話題になると、多くのひとが「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」。私は「一緒に逃げよう」とは言うが、いざとなったらひとりだけ逃げるかもしれない。家族のために戦う、というようなことは、言っても実行はできないなあ。
 ということよりも。
 「敵が日本に上陸してきたら、どうするんだ。戦わないのか。家族をおいて逃げるのか」という質問、おかしくない? 敵の軍隊が、一般市民を殺すということを前提にした意見だと思う。つまり、戦争とは国と国(組織)の戦いではなく、ある国民が別の国民を殺すことが戦争である、という定義で話していると思う。国(自民党・公明党政権)だけでなく、多くの日本国民が「戦争の定義」を変更してしまっていることになる。
 もし、「戦争」というものが、多くの軍備増強派が定義するように、軍人が一般市民を平気で殺すことを意味するのなら、「敵基地攻撃」というのも、実は「敵の国民を全滅させる」ということではないのか。それは、「核による抑止力」というよりも、「核によって殲滅させるぞ」ということではないのか。

 戦争は、軍人と軍人が正々堂々(?)と戦い、それによって決着するという時代は、もう遠い過去のことなのだ。広島と長崎の原爆は、核兵器によって国民が殲滅させられるという恐怖を感じ、国が国民の命を守るためには降伏する(敗北を認める)と言わない限り終わらないのだ。その「証拠(記録)」が広島と長崎に残されている。
 これは、ぜひ、見てもらいたい。実感してもらいたい。多くの市民が犠牲になったというだけではなく、現代の戦争は、いったんはじまれば軍隊と軍隊の戦いで終結しないことを実感してもらいたいと思う。

 

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中井久夫『中井久夫集6』(2)

2023-04-10 22:57:16 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(2)(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫「訳詩の生理学」は、翻訳するときのことを書いているのだが、「詩を読むときの生理学」として読むことができる。

二つの言語、特に二つの詩--原詩とその訳詩--の言葉は、言語の深部構造において出会う                               (54ページ)

 わたしは、この文章で、思わず、息をのんだ。このことばは、こう読み直すことができる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造において出会う。

 たしかに私は中井の訳詩を読んだとき、中井のことばと私のことばが出会ったのだと感じた。ほかの人の詩を読み、それに感動するときも、だれかのことばと私のことばが出会っているのだと感じる。「出会う」ということは、その「出会い」によって、私のことばがかわっていくということでもある。
 だが、私が息をのんだのは、そういう「意味」を追いかけてのことではない。
 「意味」にも強く刺戟されるが、「意味」にしてしまうと、何かがこぼれ落ちていく。その「こぼれ落ちていく何か」に私は息をのんだのである。
 私が言い直した「意味」、--「意味」とは、必ず言い直すことができるものである--から何が「こぼれ落ちた」のか。「言い直せない」何かはなんだったのか。
 「おいて」ということばである。

 こう言い直せばいいだろうか。
 先の文章は、こうも言い直せる。

 だれかの詩を読む。そのとき、二つの言語、つまり詩を書いた人のことばと、詩を読んでいる人のことばが、言語の深部構造「で」出会う。

 何かが「出会う」。そこには「場所」と「時間」がある。そして、それは「で」という便利なことばで言い直すことができる。
 ところが、中井は、「で」をつかわずに「において」と書いている。その「において」の「に」はやはり「場」「時」を指定するときにつかうことがある。学校「に」行く。九時「に」会う。
 「おいて」には、何か、「に」では言い足りないもの、「で」ではあらわせないものを含んでいるのだ。
 「おいて」ということば、この文章では「キーワード」なのである。

 なぜ、「おいて」ということばを書かなければならなかったか。
 それは「深部構造」ということばと関係している。「深部」で出会うのではない、深部「構造」においてで出会うのである。
 どんな「構造」を詩のことばはもっているか。私は(あるいは翻訳する中井は)、どんなことばの「構造」をもっているか。「表面的な構造(これは、意味と言い換えうるかもしれない)」が出会うので葉手歩。「深部構造」そのもの同士が出会う。詩人のことばの「深部構造」が、読者の(翻訳者・中井の)ことばの「深部構造」に出会う。「構造」は「意味」をつくる(ささえる)かもしれないが、「意味」ではない。「意味」以前だ。
 「深部構造」を中井は、55ページで「ミーティング・プレス」と言い直しているが、「おいて」は簡単には言い直せない。言い直そうとすると、とても長くなる。
 しかし、中井は、とても親切な書き手であるから、きちんと「おいて」を説明している。「深部構造」を説明するかたちで、こう書き直している。

音調、抑揚、音の質、さらには音と音との相互作用たとえば語呂合わせ、韻、頭韻、音のひびきあいなどという言語の肉体的部分、意味の外周的部分(伴示)や歴史、その意味的連想、音と意味との交響、それらと関連して唇と口腔粘膜の微妙な触覚や、口輪筋を経て舌下筋、喉頭筋、声帯に至る発生(谷内注・発声の誤植か?)筋群の運動感覚(palatabilityとはpalate口蓋の絶妙な感覚を与えるものであって私はこの言葉を詩のオイシサを指すのにつかっている)、音や文字の色彩感覚を初めとする共感覚がある。さらに非常に重要なものとして、喚起されるリズムとイメジャリーとその尽きせぬ相互作用がある。
                                 (54ページ)

 「ことばの肉体(肉体のことば)」「ことばの響きあい」(ことばの交感)という表現を私はよくつかうが、それは中井の影響を受けたのか、中井のことばを知る以前からそういう表現をつかっていたのか、私ははっきり思い出せないが、ここに書かれていることは、私が中井と「文通」していたときに、くりかえし語り合ったテーマである。(ただ、palatabilityに関して言えば、これを「オイシサ」と定義したのは中井であり、私は、そのことを鮮明に覚えている。それは私が絶対に思いつかないことばだからである。)
 この、何と言うか、「要約」できないいくつもの「構造」は、たしかに「構造同士が出会う」、構造に「おいて」出会うとしか言えないものなのだ。たぶん、私は、そういうものにおいて、中井のことばに出会ったのだと、あらためて思う。

 この「おいて」は、前に書いたことに関連して言えば「即」でもある。原詩のことばの深部構造「即」中井のことばの深部構造というところから、中井は翻訳のことばを動かしている。「深部構造」が同一なら(区別できないなら)、その「表面」が違っていたとしても、そんなことは重大ではないのだ。原詩がギリシャ語、フランス語であり、翻訳が日本語であっても、問題はない。「深部構造」において出会い、それが共有されているとき、表面は「バリエーション」と考えることができる。バリエーションを楽しめばいいのだ。私の「感想」が『リッツォス詩選集』におさまっているのは、強引に言えば、それは読み方のバリエーションなのだ。

 これまで書いてきた「いずれにしろ」とか、「他方」とか、今回の「おいて」とかということばを、多くの人は注意を払って読まないと思う。
 今回書いた部分で言えば「深部構造」というこばを「思想」のキーワードと呼ぶ人はいるかもしれないが、「おいて」がキーワードであるという人は、たぶんいないと思う。しかし、私は、論理の「つなぎことば」のようなものにこそ、筆者の「肉体(肉体のことば/ことばの肉体)」が動いているのだと感じる。

 「意味の思想」はだれかが書くだろう。私は「ことばの肉体の思想(ことばの生理学、と中井なら書くだろうか)」について書きたいと思っている。

 

 

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中井久夫『中井久夫集6』

2023-04-09 13:26:01 | 考える日記

中井久夫『中井久夫集6』(みすず書房、2018年04月10日発行)

 中井久夫は「注」を膨大に書く。『中井久夫集6』の巻頭「一九九六一月神戸」の本文は1ページから8ページ(実質7ページか)までなのに対し、その注は8ページから32ページまでつづいている。3倍以上の注である。注の文字が小さいことを考えると4倍の分量の注になる。私は目が悪いこともあって、注はめったに読まない。必要なことは本文に書いてある、と考えているからである。
 注とは、いったい何なのか。なぜ、中井は注をつけるのか。そう思って、今回は読んでみた。12ページにこんな一行がある。

 他方、レジャーに行く人に代わって宿直を頼まれた人もいたわけである。

 私が注目したのは「他方」ということばである。「代わる」ということばである。
 中井が書いているのは、阪神大震災が起きた1995年1月17日は三連休の翌日の早朝だった、三連休だから仕事を休む人がいれば、病院などでは宿直を代わる人もいた、という病院の「実情」である。
 中井は、ある「事実(行楽に行く医師がいる)」があるとき、「他方」には「別の事実(病院には宿直の医師がいる」があるということである。かならず「別の事実」というものが存在する。そしてそれはときには頼まれて「代わる」ことによって起きてしまうことでもある。中井は、ここでは、本文には書かれなかった「事実の他方」があると告げているのだ。そして、その「他方」は本文で書かれたものよりも多いのである。常に、書かれたものよりも書かれないものの方が多い。
 以前、中井の思想について書いたとき「いずれにしても」ということばをとりあげた。病院があり、入院患者がいる。そのとき、「いずれにしても」だれかが宿直しないといけない。「いずれにしても」は「事実の多面性」を意味している。「他方」も「事実」の多面性」を意味している。
 中井は、それを見逃さない。というよりも、「事実」に見落としがないか、それを常に点検し、自分が気づいた「事実」のなかから、自分にできる最良のものを選ぼうとしているということだろう。
 それは、22ページのことばを借りれば、

他者に「おのれのごとくあること」をもとめない

 という姿勢でもある。他人には他人の選択肢がある。(23ページに「別の選択)ということばがある。)
 中井は医師である。患者がいる。患者が何かをするとき、中井は患者の選択を優先し、自分の選択を押しつけるわけではない。中井は患者に「チューニング・イン」しながら、患者が何を選択できるかを一緒に探すということだろう。それは少しことばを代えて言えば、患者に「代わり」、患者の苦しみを少し負担するということなのかもしれない。苦しみを少し負担するから、いっしょに生きる可能性を探そう、という誘いかけなのかもしれない。(もちろん、中井は、ことばにだしてそういうことを言わないが、私には、そういう声が聞こえた、ということである。)

 そこまで考えて、私は、再び、中井との共著『リッツオス詩選集』(みすず書房)を思い出したのである。出版の誘いを受けたとき、私は「私の感想は、詩が書かれた背景(事実関係)を無視している。つまり、誤読の類だけれど、共著にしてしまったら、中井の訳を損ねることにはならないか」というようなことを言った。中井は「(いずれにしても)詩なのだから、かまわない」という返事だった。
 中井は、それまでの訳詩に多くの注をつけている。『リッツオス詩選集』の場合、「あとがき」の詩に注をつけているが、それ以外はつけていない。それは中井の読み方のほかに、別の読み方もありうる。つまり「他方」、谷内はこう読んでいるということの、その「他方」を尊重してくれているのだろう。
 いまになって、私は、中井の「他方」ということばの思想(生き方)を、それが確かに存在すると実感している。

 そして思うのだが、私は、知らず知らずのうちに、この中井の「他方」の存在を意識することに共鳴し(チューニング・インし)、自分の考えを整えていたかもしれない。私は詩の講座でいろいろな人の詩を読んでいるが、そのとき一緒に読んでいるひとたちに呼びかけることは、たったひとつ。「私の読み方は、あくまで私の読み方であって、結論ではない。詩には結論はない。みんなが、それぞれ、ここが気に入った、ここが気に食わないということを見つけ出し、それを語り合えるようになりたい」。
 結論に向かって「収束」するのではなく、むしろ結論があるとしても、そこから離れ、遠ざかる。その遠く離れた部分で、新しく重なり合うもの(チューニング・インできるもの)を見つけ出し、そこから、自分自身のことばを動かしていく。それがおもしろい。結論(意味)は、各人がそれぞれ持っている。自分自身の結論をつかむことは当たり前のことだが、他人の結論には絶対に同調しないということも必要なのだ。自分であるためには。
 それは、別なことばで言えば「和音探し」ということかもしれない。「他方」を認めながら、むしろ「他方」が存在することを認識するとき生まれてくる何か。「私」と「他方」があって、はじめて響きあう何かを探すこと。
 それが文学かもしれない。

 そんなことを思っていたら、こんな詩ができた。

 「間違わなければならない」というのがたどりついた解だが、解を拒否する権利があるし、その権利を否定する思想があってもいいという文章は、どんな快(楽)であってもその快を拒否する権利があるし、生きる愉悦を否定する欲望があってもいいという文章を剽窃し、変換したものなのだが、逆に、愉悦を拒否する権利があるし、その権利を否定する論理があってもいいという文章から派生してきたものなのか、ことばにはわからなかった。乱丁によって欠落したページがあるのか、ことばの乱調が増殖、暴走したメモのような一行を消して、「間違わなければならない」ということばからはじまる文章のあとに、街角に雨が降ったということばが手書きで挿入される。雨にぬれる花屋のバケツには名前の知らない薄い色の花があって、その名前を知らない薄い色は雨のために変色したのか、花屋の黄色い明かりのために生じたのかわからなかった。立ち止まったままでいると、「知らないのかい?」ということばが、ことばの肩をつかんだ。それは花屋で見た花に似た造花のある部屋で繰り返され、それは後に、虫に食われて枯れた薔薇の造花のある部屋の詩では、聞こえなかったふりをする権利、返事をすることを拒否する権利があるし、他方、どのような権利も拒絶し、論理の破壊を推敲するしなければならないという欲望があってもいいということは知っているだろう?と付け加えられた。「知っているだろう?」というのは、しかし、あるいは(と、ことばは接続詞で迷った)、それは「知っている、わかっている」ということばを引き出すための罠だったということもできたのだが、こうしたことばの動きは正しくない(論理的ではないから理解できない)と削除されてしまうものであり、その誤謬のなかには、論理や倫理を踏み外したときにだけ、瞬間的に存在してしまうものがある。「間違わなければならない。わかるだろう?」しかし、耳の迷路を侵入してくる息はなぜこんなに熱いのか。

 

 

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中井久夫集4

2023-03-26 13:38:39 | 考える日記

中井久夫集4(みすず書房、2017年09月25日発行)

 中井久夫集4の「統合失調症の陥穽」に次の文章がある。

いずれにせよ、血液の選択的供給低下という事態は何らかの中枢神経内の血液分布を制御している機能があることを仮定している。             (70ページ)

 わたしは、はっとして、思わず傍線を引いた。「いずれにせよ」。これが中井の思想を雄弁に語っていると思った。
 世界の見え方は「複数」ある。「事実」はひとつかもしれないが「真実」は複数である。複数の人間が生きているのだから、それは「複数」になるしかない。中井は、このことを前提として「いずれにせよ」というのである。つまり、「複数」から、そのひとつを選んで生きる。
 そのとき、その「ひとつ」を選ばせるものは何か。中井の場合、それは何か。

だからこの陥穽は相当部分が心理的なものであり、決して宿命的なものではないと仮定しておくほうが、その反対の仮定よりもよいだろう。         (72ページ)

 「真実」は「仮定」にすぎない。つまり「宿命的」(決定的)ではない。そう「仮定するほうがよい」。
 ここには「事実」を自分で引き受ける「覚悟」がある。
 「いずれにせよ、私は、これを選ぶ」という覚悟である。

 それは同時に、中井以外の人間が、中井とは「反対の仮定」を選んだとしても、その選択を拒絶しないということである。中井の選択に従わせる、ということはしない、ということである。
 これは、実際に、私が経験したことでもある。
 中井はギリシャの詩人の作品を翻訳している。詳細な註釈も併記している。私はその註釈を無視して、ただ中井の訳(日本語)だけを読んで、私の感想を書いている。だから私の感想は、中井の「解釈」と合致しないことがある。
 リッツオスの詩について私が感想を書いたあと、中井がその翻訳の一部を変更したことがある。当然、私の感想も変わる。私が感想を書き換えると、中井が再び翻訳の一部を変更した。私もさらに書き換えた。
 『リッツオス詩選集』(作品社、2014年07月15日発行)の編集過程で起きたことである。
 これは「いずれにしろ」の「複数の仮定」の「複数」を具体的に提示して見せるということである。リッツオスの書いたことば、「事実」は変わらないが、それをどう読むかはそれぞれの読者によって違う。あらゆる解釈は「仮定」であり、同時に「真実」である。「仮定」「真実」は、いつでも変更が可能である。それは、一種の「交渉」である。中井がしていた別の仕事に関連づけて言えば「治療」ということかもしれない。それは、患者自分自身で生きる方法を探すということに似ている。中井は、それに立ち会う。立ち会うということを中井は選んでいる。
 この「交渉」の結果、中井の「真実(解釈/仮定)」と私の「真実(感想/仮定)」は一致したか。一致などしない。中井は中井の「読み方(解釈)」を私に押しつけない。中井の註釈と私の感想を読み比べてもらえばわかるが、そこには「一致」はない。
 こんなことで、いいのか。
 たぶん、ふつうの翻訳者なら、そういうことを受け入れない。ふつうの出版社なら、そういうものを受け入れない。しかし、中井は、それでいいと言った。
 はっきりとは言えないのだが、一緒に本を出そうという誘いが中井からあったとき、私は、「私の詩は、詩の背景を無視している。いわば、誤読だらけだ。中井の翻訳を邪魔することにならないか」と質問した。中井は「詩なのだから、どんな読み方があってもいい。ギリシャ語の詩、中井の訳、谷内の感想を一冊にできれば楽しい」と言った。ギリシャ語の原典を収録するという中井の夢は実現しなかったが、あのときの電話で、中井は「詩なのだから」のまえに「いずれにしろ」と言ったのではなかったか。突然、中井の「声」が耳に読みがえったのである。「いずれにしろ」を読んだとき。
 私は、実際に中井と話したことは少ない。だから推測するしかないのだが、中井はふつうの会話のなかで、ときどき「いずれにしろ」に似たことばをつかっているのではないだろうか。それは中井の「キーワード」ではないだろうか、と思ったのである。「キーワード」とは、無意識に、しかたなくもらしてしまうことばであるのだが、そして、だからこそ私はそれを「思想」と考えているのだが。 

 

 

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中井久夫集3

2023-03-20 18:54:37 | 考える日記

  中井久夫集3(みすず書房、2017年7月10日発行)を読み返していた。

 私は「解説」というものを、めったに読まない。人の書いた「解説」は、あくまでそのひとの考えであって、著作者(中井久夫)とは関係がないと思っているからである。この本でも、いままで「解説」を読んだことがなかった。最相葉月が書いている。そのめったに読まない「解説」をなぜ読む気になったのかわからないが、読んで、びっくり。私の名前が出てくるのだ。

 私は、なぜ中井久夫が、私の感想を組み込んだ『リッツォス詩選集』をつくろうと誘ってくれたのか、さっぱりわからなかった。中井の訳だけの方が売れるだろう。
 しかし、最相の「解説」を読むと、そうだったのか、と気づかされた。
 これ以上を書くのは恥ずかしいので、名前が出てくるページだけ、コピーしてアップしておく。
 ちょっと自慢してもいいかなあ、と思ったのである。

 中井から誘いの電話があったとき、私は完全に舞い上がって、自分で何かを判断したという意識がないが、この本の「解説」も私を舞い上がらせた。
 しばらく詩の感想を書いていなかったが、再び書き始めようと思った。
 とても励まされた。

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三木清「人生論ノート」から「個性について」

2023-03-05 23:07:51 | 考える日記

 長い文章。他のエッセイよりも若いときに書いたせいか「気負い」のようなものがあり、とてもむずかしい。18歳のイタリア人は、前回は読み進むことがむずかしく、前半で時間切れになったのだが。
 今回読み進んだ後半は、前半の「要約」というか、言い直しなので、一気に読み終わってしまった。最初から最後まで通読し、そのあと後半の「精読」という形で進めたのだが、すでに「個性とは個人がつくりだしていくもの」という主張が把握できているので「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」という後半の書き出しをつかみ取ると、あとは一気呵成。すべての文章が、この「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」の言い直しであると理解した。
 創造と自由について補足したかったのだが、それをすると私の三木清観の押しつけになってしまいそうなので、それはしなかった。
 あまった時間で「我が青春」と「読書遍歴」を読み進んだのだが、「人生論ノートは考えないとわからないが、これは考えなくてもわかる」。
 さらに「人生論ノート」の「後記」に書いてあった、「若いときの文章」という部分にふれて、「むずかしいのは(むずかしいことばが多いのは)、まだ背伸びして書いているからだね、君の作文みたいだね」というと、「それを言おうとしていた」という感想。
 いやあ、ものすごいなあ。自分で書いている作文の「問題点」もきちんと把握している。
 教えながら感心してしまう。
 次回からは「天声人語」をテキストにするのだけれど、難なく読みこなすだろうなあ。速読というか、多彩な語彙を身につけるために読むのだから、「天声人語」が適切だと思うのだが、「哲学を読みたい」とリクエストされてしまった。

コメント
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