詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫集2『家族の表象』

2023-03-01 22:51:21 | 考える日記

 中井久夫集2『家族の表象』の「精神科医から見た子どもの問題」という文章。その「本筋」からふっと脇にそれる形で、こんなことが書かれている。戦争体験についてである。

空襲は台風に近い天然現象であって、恐怖ではあったが、アメリカに対する敵意は実感がなかった。

 「実感」。
 これは、とても大切なことではないだろうか。
 ロシアのウクライナ侵攻から2年、それを利用する形で「台湾有事」がしきりに話題になる。
 その話題のなかに占める「実感」というものは、どんなものだろうか。
 私は、さっぱりわからない。

 ウクライナの人は、ロシアに敵意をどれくらい持っているのか。爆撃の恐怖(死の恐怖)と敵意を比べられるものかどうかわからないが、敵意を持つよりも、恐怖を持つ方が多いのではないだろうか。
 他人の感覚はわからないが、「台湾有事」が起きたとして、そのとき私は中国に対して敵意を抱くか。それとも恐怖を抱くか。たぶん、恐怖である。そしてそれは中国に対する恐怖というよりも、死に対する恐怖だろう。私の余命は、そんなに長いものではないけれど、やはり恐怖がある。何よりも、痛いのはいやだなあ、と思ってしまう。

 そこから、こんなことを考える。
 「敵意」というのは、いったい、どういうときに生まれ、どう動くのか。いったい、ロシアのだれがウクライナのだれに対して「敵意」を持ったために戦争が起きたのか。侵略が起きたのか。個人が、どこかの「国家」という組織に対して「敵意」を抱くということが、私には、考えられない。私には、そういう「想像力」はない。
 「国家」が、どこかの「国家」に対して「敵意」を持つ、というのも、かなり論理的に飛躍した考え方だと思う。「組織」が自律的に「意識」を持つというとは、私には考えられない。
 具体的に言えば。
 プーチンが、ゼレンスキーに「敵意」を抱いた? 侵攻された結果、ゼレンスキー(ウクライ人)がロシア軍に「敵意」を持ったというのは理解ができるが、それは何か「個人の感情」とは別なものに思える。多くの人は「敵意」と同時に「恐怖」を感じたと思う。もしかすると、「敵意」を持つよりも前に、恐怖を持ったのでは、と思う。
 この「恐怖」を「敵意」に変えていくのは、かなりの精神力が必要だと思う。そして、その精神力というのは、私の感覚では「実感」ではない。何か、ある意図を持ってつくっていくものだ。そして、その「敵意」を集団を動かすものに仕立てていくというのは、こもまたたいへんな「力」がいると思う。
 そこから飛躍してしまうのだけれど、こういうことができるのは「恐怖」を感じることがない人間だけだろうなあ、と思う。自分は絶対に戦争に巻き込まれて死なないと判断している人だけだろうなあ、と思う。

 それから、こんなことも思うのだ。
 多くの国がウクライな支援のために武器を提供する。(買わせるのかもしれないが。)これはどうしてだろうか。ロシアがウクライナを超えて侵略してきたら「怖い」から? それならよくわかるのだが、しかし、わかりすぎて、変だなあと思う。自分の国が侵攻されると「怖い」から、そうならないようにするためにウクライナに戦わせる? これは、なんだか「支援」というのとは違うと思う。「利用」というのものだろう。
 どういう「利用」かというと、自分の国を攻撃されないための利用だけとは限らないだろう。
 武器を買わせて、金を稼ぐという「利用」の仕方もあるだろう。アメリカのやっていることは、これだと思う。「戦争」をウクライナにとどめておくかぎり、アメリカは攻撃されない。それだけではなく、武器を売ることができる。金儲けができる。そういう「判断」があると思う。
 それは中国や北朝鮮にもあるだろう。ロシアに武器を売るチャンスと考えている人もいるだろう。
 どちらの「陣営」にしろ、そこで金を稼いでいる人は「恐怖」は感じないだろうし、「敵意」だってもっていないかもしれない。「自由を守る」というととてもかっこいいが、かっこいいものは信じない方がいいかもしれない。自然にかっこよくなっているのならいいけれど、かっこよくみせるために、かっこをつけているのかもしれない。その人たちが感じている「実感」というものが、私にはわからない。

 かろうじてわかるのは、攻撃される人は怖いだろうなあ、ということだけである。私は戦争は体験したことがないが、「恐怖」は感じることができる。私は、いろんなことがこわい。私は老人だから、道で転ぶことさえ、とても怖い。
 プーチンが核をつかうとおどしているが、私は、広島や長崎の資料館見学だけでも「怖い」。「怖くない」というのは、もっとも「怖い」ことだと思う。岸田は先頭に立って「怖い」と世界中に語りかけるべきではないのか。侵攻したロシアが悪いのはわかっているが、どちらが正しいということは後回し死にしてでも、「怖い」と言わないといけない。ウクライナのひとたちの「恐怖」を代弁しなくてはいけないと思う。
 いま、恐怖を「実感」しない人が増えているのではないのか。

 

 

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三木清「人生論ノート」から「旅について」

2023-02-19 21:41:08 | 考える日記

 今回の文章はかなり長いので、時間内に読了できるかどうか不安だったが、30分以上余ってしまった。作文の指導に30分くらいかけているので、実質1時間で読んだことになるが、これには驚いてしまった。
 もちろんまだ読めない漢字も多いのだが「解放乃至脱出」の「乃至」を「ないし、と読む。意味はイコール(ひとしい)に近い」と説明すると「いわゆる、または、に似た感じ?」という鋭い指摘。
 三木清は反対概念を結びつけたり、ひとつのことばを別のことばで説明し直したりしながら、彼の「思想(ことば)のニュアンス」を明確にしていくところに特徴があるが、その運動を的確に追いかけることができる。
 簡単な例だが、たとえば

 旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的関係から逃れることである。

 ここには繰り返し(言い直し)がある。その言い直しの説明を求めると「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」とてきぱきと答える。「日常の生活環境を脱ける」が理解できなくても「平生の習慣的関係から逃れる」が理解できれば意味がわかる。そういう「文体」を、ほぼ完璧に把握している。(これは、多くの著述家が採用している文体であり、また日本語に限らず、他の言語でもみられることだが、この言い直し=繰り返しを発見するというのは「読解」の重要なポイントである。)
 「旅」のひとつのテーマである「発見」についても、「発明」との違いを、三木清の文章を踏まえながら、自分自身のことばで語りなおす。
 今回むずかしかったのは、最後に出てくる「動即静、静即動」の「即」の把握の仕方である。「即」は単なるイコールではない。「日常=平生」「生活環境=習慣的関係」「脱ける=逃れる」のイコールとは違う。「即」は「切り離すことのできない」であり、それが、その直後に出てくる「自由」の説明にもなっている。
 この「真の自由」を理解するためには、その前に書かれている「物からの自由」と「物においての自由」を理解しないといけない。「物からの自由」は、いわゆる「脱出」、しかし「物においての自由」は、そこに存在する「物」を形成しなおす構想力(能力)のことである。
 私の説明で、どこまで「即」の意味が通じたか、すこしこころもとないが、「物からの自由」と「物においての自由」について話し合ったとき、彼の方から「形成」という三木清のキーワードが出てきたので、たぶん半分くらいは理解できただろうと思う。

 日本語の勉強もさることながら「三木清の文章がほんとうに大好き」と言ってもらえるのは、テキストに三木清を選んだものとして、こんなにうれしいことはない。次は、最終回。「個性について」。

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三木清「人生論ノート」から「希望について」

2023-02-12 22:39:30 | 考える日記

  希望を、人生(生きること、いのち)、偶然と必然と関連づけながら、三木清は考えを進めていく。人間存在とはどんなものなのか、考えていく。「哲学」だから、ふつうのことばとは違う、というか、ふつうの「定義」ではないところへ踏み込んで行く。
 一読したあと、一段落ずつ読んでいくのだが、最初に出てくる「偶然」「必然」のほかに、私たちが日常的につかうことばで「然」を含むことばがある。
 それは何? 私は18歳のイタリア人に聞く。
 「自然」。
 その「自然」とは、どんなものだろう。そんなふうに話を向けると、
 途中に「間」ということばがあった、
 と三木清が問題にしている「核心」に切り込んで行く。「間」では、「間」にはなかったものが形成されていく。
 何が書かれているか、一読して、頭に入っている。これは、すごいことだと思う。

 さらに、希望を、欲望、目的、期待と三つのことばで言い直し(見つめなおす)部分では、目的は計画と関係する。目的を達成するためには計画が必要と言う。計画ということばは三木清の文章には出てこない。
 これも、すごいことである。

 ちょっと感心しすぎて、質問しなければならないことを忘れてしまった。
 339ページに、「間」を「根源的」と三木清は呼んでいるのだが、その理由は何か。宿題として、質問してみることにする。

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三木清「人生論ノート」から「娯楽について」

2023-02-06 17:28:52 | 考える日記

 「娯楽」について考えるとき、何から考えればいいか。娯楽の反対の概念は何か。仕事や勉強が思い浮かぶ。仕事からは、義務や責任ということばが思い浮かぶ。仕事(勉強)からの解放=自由。それが娯楽ということになるか。
 仕事と娯楽は反対。では、自由の反対は? 義務、責任はすでに考えた。ほかには? 仕事がつらいのは「強制」されていると感じるからかもしれない。強制は、支配。支配されると苦痛。苦痛から逃げられたら、自由。この自由は、幸福かもしれない。
 しかし、仕事をしないと生きていけない。生きていくとき、仕事をしなければならないと同時に、仕事だけでは苦しくて生きていけない。娯楽は、仕事からの解放。暮らしというのは、生活ということ。そうすると「生活」というのは「仕事」と「娯楽」から成り立っているのだが、このふたつということばに注目すれば「対立」とか「分裂」というこばが思い浮かぶ。「ひとつの生活」が仕事と娯楽に分裂する。対立する。遊びにゆきたいけれど、仕事がある。あしたデートの約束をしていたが、急に仕事のために会社に行かなければならなくなった。これは、つらいね。
 対立、分裂の反対のことばにどういうものがあるだろうか。統一がある。両立ということばもある。
 そういうことを話し合った後、いま考えたことばが、三木清のエッセイのなかでどんなふうにつかわれているか、注意しながら読んでいく。三木清は、美術鑑賞、音楽鑑賞という「受け身」の娯楽と、画家、音楽家という文化をつくりだす職業(仕事)を比較しながら、生活と仕事ではなく、生活と娯楽、さらに娯楽と芸術の両立(統一)についても考えている。終わりに近づいてきたところに、こういう文章がある。

 娯楽は生活のなかにあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

 この文章を読み終わったとたんに、「これが三木清の結論だね」と18歳のイタリア人が言う。娯楽には享受的娯楽(受け取るだけの娯楽)と創造的な娯楽がある。仕事が何かをつくりだすように、娯楽も何かをつくりだすものでなくてはならない。作る楽しみがないといけない。
 私が、三木清がいちばん言いたいことは、どこに集約的に書かれている(結論があるとすれば、それはどこに書かれている)と問いかける前に、読みながら「結論」を推測する。それは、つねにどの文章に対しても「考えながら読む」という習慣がついているからだ。
 感激した。感激して、ほかにどういうことを語ったのか、どういう具合に三木清の文章を読み進んだのか、忘れてしまった。読むとは、だれかの考えを理解すると同時に、常に自分の考えを整理すること、自分の考えを見つめなおすこと。そのうえで、自分に納得できるものを「結論」と判断すること。
 その考え(結論)に賛成できるかどうかは別にして。
 自分なら、どう考えるか。どう論理を進めていくか。それを考えながら、読むことは、簡単そうでむずかしい。母国語でもむずかしいが、外国語になると、さらにむずかしい。それを、ぱっとやってしまう。
 そのうえで、「三木清の考え方に賛成だ」と言う。
 ほんとうに感動した。こういう「授業」を日本人相手にできるなら、それをやってみたいなあとも思った。
 時間が余ってしまったので、マルクス・アウレーリウスの「自省録」についても雑談した。イタリア人だから知っていて当然なのかもしれないけれど。「哲学青年」なのだと思った。余談だけれど。

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三木清「人生論ノート」から「偽善について」

2023-01-29 21:41:13 | 考える日記

 「偽善」ということばは、どの国のことばでもありそうである。しかし、ことばがあるからといって、その意味がぴったりとあうとは限らない。きょうイタリアの18歳と読んだ「偽善について」は、そのことを考えさせられた。事前に書いた「偽善について」の作文で、そのことに気づいたので、ゆっくり読み始めた。
 書き出しの文章は、特にむずかしい問題を含んでいる。

 「人間は生れつき嘘吐きである」、とラ・ブリュエールはいった。「真理は単純であり、そして人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない、それはいはば出来上って、そのあらゆる完全性において、天から来る。そして人間は自分自身の作品、作り事とお伽噺のほか愛しない。」

 三木清が訳した文章だと思うが、二回目に出てくる「そして」が複雑である。
 最初に出てくる「そして」は「順接」というか、ふつうの「そして」であり、なくても自然に読むことができる。しかし、二回目の「そして」は「順接」とは言えない。
 「接続詞」のつかい方には一定の決まりがあるが、厳密ではない。なくても意味が通じる。一回目の「そして」はなくても意味が通じるだろう。二回目の「そして」は、ないとなんとなく読みにくい。直前が句点「。」で切れていることもあるが、「話題」というか「主語」がまったく変わってしまうからである。「主語」の連続性が感じられない。だから、それを「接続詞」をつかうことで連続させている。
 「そして」は一般的に「順接」である。そして、「順接」のとき、あるいは「並列」のときは、実は、省略してもそんなに不自然には感じない。一回目の「そして」はその類である。「真理は単純であり、人間はけばけばしいことを、飾り立てることをを好む」にしてしまうと、主語が変わるので少し読みにくいが、なくても「意味がわからない」というひとは少ないだろう。
 「飾り立てることをを好む。真理は人間に属しない」には接続詞がないが、おぎなうとすれば「そして」がいちばん最初の候補になるだろうか。前の文章が「真理は単純であり」を引き継いでおり、主語が変わらないので「そして」が省略されたのである。ここでは、「そして」以外の接続詞をつかうとすれば「また」かもしれない。「また」は並列だが、ここでは少し論理が転換するというか、論理が少し飛躍するので、何かしらの「逆接」めいた働きもするだろう。
 そうした文章(意識)の流れを受けての、二回目の「そして」。
 ここで、私はイタリアの18歳に質問した。「もし、ほかの接続詞をつかうとしたら、なにをつかう?」
 「しかし、をつかう」
 いやあ、びっくりしたなあ。
 「しかるに」ということばもあるが、いまはあまりつかわない。つかうなら、「しかし」がいちばん落ち着くだろう。「真理は天から来る。しかし、人間はその真理を愛さない。その真理よりも、自分自身がつくりだした作品(作り事)しか愛さない」と読むと、「論理」がすっきりする。
 「論理」をどうやって把握するか(正確に順を織ってとらえるか)ということと接続詞は緊密な関係にあるのだが、もう、教えることない、という段階。

 質問も、非常に鋭い。この書き出しの最後の文章についてであった。

真理は人間の仕事ではない。それは出来上って、そのあらゆる完全性において、人間とは関係なく、そこにあるものである。

 この「そこにある」の「そこ」とはどこか?
 答えられます? これはフランス語の「il y a」の「y 」、 スペイン語の「hay 」の「y 」、英語の「there is」の「there 」のようなものである。特定の「場」ではなく、頭のなかに浮かぶ「ある」という動詞をささえるための「そこ」としか呼べないものなのである。
 「そこ」とはどこか、と問うたとき、18歳のイタリア人は、日本語の、具体的なものとは対応していない何かに触れていて、それを言語化することを要求している。こういうことは、少しくらい勉強しただけでは質問できない。何かわからないことはない? どこがわからないか、わからない、という段階ではなく、わかることと、わからないことを明確に意識できる。
 だから、接続詞「そして」も、自分なら「しかし」をつかうと言えるのだ。

 この「偽善について」には、「偽悪」ということばも出てくる。こうした考え方(概念)はイタリア語にはないようだが、三木清が「偽悪家深い人間ではない」の「深い」ということばを手がかりに、きちんと定義することができた。

 

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中井久夫『アリアドネからの糸』

2023-01-28 17:27:29 | 考える日記

中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房、1997年08月08日発行)

 中井久夫『アリアドネからの糸』のなかに「ロールシャッハ・カードの美学と流れ」というエッセイがある。これは、とてもこわい文章である。最初に出会ったとき、こわくなって、最後まで読むことができなかった。中井がつかっていることばを借りていえば「悪夢」のような文章である。
 「悪夢」は、こうつかわれている。

 もし、ロールシャッハ・カードが別々の十枚ではなく、ブラウン管の画面にまず第一カードが映り、この第一カードが変形して第二カードになり、第二カードが変形して第三カードになり、以下同様に第十カードまでつづくならば、これは想像するだに怖ろしい。これこそ端的な悪夢である。われわれはなすすべもなく、ただおののいて眺めるか、あるいは逃げ出すしかない。(354、355ページ)

 私は十枚のカードを「ブラウン管の画面」ではなく、中井の文章のなかで、次々に変形していくものとして読んだのである。十枚が別々のものではなく、一続きの連続した「流れ」としてあらわれ、その「流れ」のなかにのみこまれていく。
 そして、それは「映像」ではなく、「誤読」を許さない完璧な「論理」なのである。「論理」が私をのみこんでいく。これから書くことを中井は否定するかもしれないが、「論理」というのは「結論」という枠のなかにひとを閉じ込める。この閉塞感が、私とにっての「悪夢=恐怖」なのである。
 しかも、その「論理」が「中井の論理」というよりも、「ロールシャッハの論理」に感じられてしまう。中井は、いわゆる「チューニング・イン」状態で、カードの持っている美学とそれぞれの「意味」を語るのだが、それがほんとうにロールシャッハの「意図」そのものとして浮かび上がってくる。私は、ロールシャッハのカードを見たことはないし(本に収録されているのはモノクロの図版)、ロールシャッハの書いたものを読んだこともないから、私が感じる「ロールシャッハの意図(論理)」というのは「空想」でしかないのだが、ロールシャッハはそう考えたに違いないと感じてしまう。私は二重の「悪夢」のなかに取り込まれてしまう。
 この感じは、訳詩について書いた文章、特に「「若きパルク」および『魅惑』の秘められた構造の若干について」を読んでも感じられる。それは中井の分析なのだが、中井が分析しているというよりもヴァレリー自身が語っているような揺るぎない「論理」なのである。中井がヴャレリーに「チューニング・イン」してしまっている。

 たぶん「若くパルク」「魅惑」の中井久夫訳を「象形文字」に掲載した前後だと思うのだが、私は、中井久夫に会いたくて手紙を書いたことがある。そのとき、中井は「私は職業柄、どうしても会った人を分析的に見てしまうので、会わない方がいいでしょう」と断られた。そのことばは、「真実」であると同時に、今から思うと「親切」でもあったのだとわかる。
 「チューニング・イン」というのは、一方においてだけ起きることではなく、二人の間で起きることである。だから「生身」の人間が相手のときは、たぶん、危険なのだ。中井にとって「危険」というよりも、私にとっての「危険」の方が大きいだろう。私は、そのころ、中井の訳詩(そのことばのリズム)に陶酔していたから、「チューニング・イン」を起こした後では、もう詩が書けなくなっていたかもしれない。
 それから何年かして、『リッツォス詩選集』を出版するとき、編集者をまじえて三人で会ったことがあるが、これは三人だからよかったのだと思う。「ニューニング・イン」が緩和される。

 中井の文章は、あるいはことばと言った方がいいのかもしれないが、それは「チューニング・イン」を経てきて、表面化される。あるテーマについて書く。そのときそのテーマとともに存在する人間がいる。その人間に「チューニング・イン」して、そのリズム、論理でことばが動いている。だから、どの世界も「中井個人」の超えて、「別の世界」が二重写しになってダイナミックに動く。奥が深いとは、こういうことを言う。
 それが詩の場合は、わあ、おもしろい、という感嘆になるが、ロールシャッハ・カードの分析では、何か、私自身が「強制的」にテストされているとさえ感じてしまうのである。
 奇妙な言い方だが、中井が死んでしまったいまだからこそ、安心して読むことができる。「チューニング・イン」が、現実ではなく、ことばのなかだけで起きるからだ。中井の訳詩については、私はこれまでいろいろ書いてきたが、エッセイについて書いてこなかった。それは、どこかでこの「チューニング・イン」の力を恐れていたからなのだろう。
訳詩を読んで、そのことばの肉体感染したとしても、私はカヴァフィスに、あるいはリッツッスに「チューニング・イン」したと言い逃れることができる。

 

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三木清「人生論ノート」から「仮説について」

2023-01-22 21:03:57 | 考える日記

三木清「人生論ノート」の「仮説について」。

仮説とは何か。「本当かどうかわからない説」というのが18歳のイタリア人の「定義」だった。
ここから、「仮説」の反対のことばは何かを考える。どういうときに「仮説」ということばをつかうか。
コペルニクスは、地動説を唱えた。最初は「仮説」(コペルニクスは、信じていたが)。それが「事実(真理)」になるまでに、どういうことがあったか。「論理」が正しいと「証明」できたとき、「仮説」が「事実/真理」になる、というようなことを雑談で話し合った後、本文のなかに出てくる「証明」ということばに注目するようにして読み進める。
三木清の書いている「仮説」は科学的な「仮説」ではなく、「思想(まだ認められていない行動指針)」を「仮説」と呼ぶことで論を展開したもの。
つまり、三木清は「仮説」とはどういうものであるか、というよりも、「思想」とはどういうものであるかを、「常識」と対比させて語っている。
「思想」とは「信念」であり、それはときには危険である。他人にとって危険というよりも、本人にとって危険である。そのことをソクラテスを例に、さらりと書いている。ソクラテスが従容として死に就いたのは、彼が偉大な思想家だったからである、と。
この論理展開の仮定で、三木清の好きな形成、構想、創造ということばが出てくる。これを18歳のイタリア人が、的確に読み進める。

私がいちばん驚いたのは、途中に出てくる「自己自身」ということばを「自分自身」と読み違え、すぐに気づいて「自己自身」と読み直したこと。「自己自身」を「自分自身」と読み違えることができるのは、完全にネイティブのレベル。意味は同じだから。「最初の文字を見たら、次の文字を連想して読んでしまう」というのだが、それができるのがネイティブ。

さすがに、ソクラテスのところに出てきた「従容」は読めなかったが、これを正確に読むことができる日本人がどれくらいいるか。「従容」をつかって「例文」をつくれる日本人が何人いるか。

 

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中井久夫『記憶の肖像』(2)

2022-12-26 22:32:34 | 考える日記

 中井久夫はカヴァフィス、リッツォスだけではなく、他のギリシャ詩人も訳している。そのことを「ギリシャ詩に狂う」に書いている。そのなかで、こういう文章がある。エリティスの詩のなかの「風」について触れている。

舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。

 あ、これは私が中井久夫の「訳詩」から感じ取ったものだ。「狂ったザクロの木」一部をエッセイのなかで紹介しながら、こう書いている。

歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。

 中井の訳もすばらしいが、私は「最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」というこの感想が大好きである。詩の陶酔は、何を読んでいるのかわからなくなることである。
 私は、この「陶酔」の感覚を、中井と共有できたのではないかと、秘かに感じている。私は中井のことばのリズムに酔った。そのことを最初の手紙に書いたと思う。そうしたら、中井から、私のことばのリズムは、ある詩人のリズムに似ている、という指摘があった。それは外国のとても有名な詩人だった。私は読んだことはなかったが、名前は知っている。別の機会にも同じことを言われた。驚いて、その全集を買ったが、「訳詩」が私には合わなかったのか、少し読んで挫折した。リズムが、違っている。「ザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままに」という感じにならないのであった。中井の訳で読んでみたいと思った。ことばのリズムに陶酔する。--それが詩を体験することだと、私は中井の訳詩(ことば)をとおして、あらためて学んだ。味わった。

 中井久夫が死んだ直後は、いろいろ書くことをためらったが、いまは少し書いてみたいと思う。私の「中井体験」は、他のひとの中井体験とは違うだろうと思う。多くのひとは「思想」について語っている。しかし、私にとっては、中井は「ことば」のひとであり、そのことばというのは「リズム」なのである。「意味」ではない。「意味」も重要だが、「意味」の前に、私は「リズム」に共感して読んでいる。
 きょう取り上げたエッセイでは、中井自身が「ことばのリズムの人」であると語っていると思う。

 写真は、中井久夫が送ってくれた「みすず」と、「みすず」のコピー。三十年前のことである。


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作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
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また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

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なぜ、いま?(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-24 13:16:46 | 考える日記

 2022年12月24日の読売新聞(西部版・14版)の一面。
↓↓↓
「特定秘密」漏えいか/防衛省 海自1佐処分へ/OB依頼 複数隊員通し(見出し)
 海上自衛隊の1等海佐が、安全保障に関わる機密情報にあたる「特定秘密」を外部に漏えいした疑いがあることが、政府関係者への取材でわかった。防衛省は近く1佐を懲戒処分にする方針だ。特定秘密の漏えいが発覚するのは初めて。
 政府関係者によると、海自OBが、知人の現役隊員に接触し、複数の隊員を経て1佐の元に依頼が届き、漏えいにつながったという。
↑↑↑
 「政府関係者への取材でわかった」と書いてあることからわかるように、これは防衛省の発表ではない。「特ダネ」である。
 どうして、わかったのだろうか、というよりも、私は「いつ」わかったのだろうか、ということの方に関心がある。
 きょうの、ふつうの新聞各紙のトップは「来年度予算」だと思う。(確認していないので、わからないが。)その内容といえば予算規模が114兆円、防衛費が今年度より6・7兆円増えることだろう。
 なぜ、そんなに防衛費だけが増えるのか。
 だれもが疑問に思うだろう。
 その疑問に答えるには、日本が攻撃される危機が強まっている、というのがいちばんである。その「攻撃の危機」は、特定秘密の漏洩という形でも起きている。日本の情報が狙われている。
 でも、どこの国が、あるいは誰が、特定秘密を手に入れたのか。それは、読売新聞の記事には、まだ、書いていない。「海自1佐」が漏洩した(処分を検討する)というところまでわかっているのだから、当然、漏洩先もわかっているはずだが、それは「政府関係者」から教えてもらえなかったのか、教えてもらったけれど、「特ダネ」の第二報に書くために残しているのかわからないが、書いていない。
 これは逆に言うと、今後もこのニュースが「一面トップ」に書き続けられるということである。そして、それは「予算」の問題をわきに押しやるということである。
 これが、このニュースのほんとうのポイントだと私は考えている。
 「安保の危機」をアピールする。その結果として、防衛費の増額を当然のこととする。その方向に世論を誘導していく。
 「特ダネ」だから、今後次々にたの報道機関がこのニュースを追いかけるだろう。つまり、このニュースのつづきが、紙面を埋める日がつづくのである。その間、防衛費が大幅に増えるということが忘れられる。あるいは、「特定秘密」まで狙われている、防衛費が拡大されるのは当然だという方向に世論が誘導される。
 そういう誘導をするための、リークである、と読む必要がある。

 で、問題はもとへもどって、「いつ」リークされたか。
 やはり、このタイミングで、リークされたのだ。予算の閣議決定に合わせてリークされたのだ。
 読売新聞の記事を読むかぎり、漏洩した人物は特定されている。そこからさらに漏洩が広がるということもない。すでに漏洩された内容も把握されている。処分することも決まっているらしい。
 海自1佐と漏洩を巡る「過去」はこれから次々に出てくるが、きょう以降(未来の時間に)漏洩が起きる可能性はない。だから、このニュースは、海自1佐を処分してからの発表でもかまわないわけである。
 だとしたら、やはりいちばんのポイントは「リークした時期」、なぜ読売新聞がその記事をきょう書いたかである。
 一面のトップ記事が予算ではなく、「特定秘密」漏洩か、という疑問形のニュースであることの意味を、私たちは考える必要がある。そのニュースは、私たちの生活に直結する予算よりも重大なニュースなのかどうか、考える必要がある。

 

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村上春樹の日本語

2022-12-19 17:02:40 | 考える日記
きょうアメリカ人と読んだ「1Q84」のなかに、次の文章がある。

(青豆は)ろくでもない三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線のわけのわからない非常階段をひとりで降りている。しみったれた蜘蛛の巣をはらい、馬鹿げたベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。
「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を辞書で調べたがよくわからない、という。「しみったれた」は「ケチ」としか載っていなかったらしい。

私がした説明は、「それは英語で言えば全部FUCK(FUCKing)になる」。
日本語は、いわゆる放送禁止にあたるようなことばは少ないが、そのかわり様々な言い換えをしている。
だから、上記の文章、「ろくでもない」「わけのわからない」「しみったれた」「馬鹿げた」を入れ替えても「意味」は通じてしまう。
こんなぐあい。

「しみったれた」三軒茶屋あたりで、首都高速道路三号線の「ろくでもない」非常階段をひとりで降りている。「馬鹿げた」蜘蛛の巣をはらい、「わけのわからない」ベランダの汚れたゴムの木を眺めながら。

つくずく、村上春樹の日本語は、外国人が日本語を勉強するのに適した文体だと思う。かならず「言い換え」がある。そのために小説が非常に長くなっている。
だから、文章を読むのに慣れた人間なら、「退屈」としか言いようのないものになる。いつまでたっても終わらない。原稿料(金稼ぎ)の文体と言い換えてもいい。
 
 
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三木清「人生論ノート」から「秩序について」

2022-12-18 22:43:35 | 考える日記

イタリア人青年と読む三木清。
「秩序について」は、散らかった書斎から、外的秩序と内的秩序の違いから書き始める。
途中から、経済、物理、国家(体制)を経て、最後の一段落は「人格とは秩序である。」という短い文章ではじまる。この「人格とは秩序である。」にことばを補うと、どういうことばが考えられるか。
私の質問は、かなり抽象的な質問なのだが。

彼は「人格とは心の秩序である」と、ほとんど即座に答えた。
びっくりしてしまった。同じように即答できる日本の高校生が何人いるだろうか。50人にひとりくらいかもしれない。選択問題なら、答えを選べるが、自分でぜんぶ考えないといけない。

途中に「今日流行の新秩序論」ということばがあって、これは三木清が生きた時代を知らないと説明がむずかしいのだが(私は歴史が苦手で説明に困るのだが)、彼は東条英機を知っている。二・二六事件まで知っていて、クーデターが成功していたら日本は違っていたかも……などと私よりも歴史に詳しかった。
日本の高校生、ムッソリーニを知っているかな?

さらに、N2検定に合格したイギリス人の作文には問題が多かったのだが、その文法的間違いを直しながら、さらに文章を分かりやすくするという課題も75%クリアできた。
「民主主義国は包含的な考え方は一番大切ながいねんだと思います。」を「民主主義国は包含的な考え方をすることは一番大事だと思う。」と直した。「包含的」は、ふつうの日本人はつかわない。漢字を見れば意味は想像できるが、日常の会話でつかうと、きっと通じない。イギリス人が言いたかったことを、「包含的」をつかわずにほかの言い方で言い直せるかと質問してみたら。
「多様な(考え方)」とぱっと答える。

ちょっとではなく、とてもすごい、と私は思う。

 

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「防衛の視座」の視座(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-18 09:48:17 | 考える日記

 2022年12月18日の読売新聞(西部版・14版)で「防衛の視座」という「作文」連載がはじまった。「安保3文書 閣議決定」を受けての、「勤勉」な作文だ。
 きのう、
↓↓↓
 防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 という記事があることを紹介した。ポイントは「米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるか」。アメリカが補完するのではなく、日本がアメリカを補完する。これが「集団的自衛権」の本質。
 連載の一回目は「「戦える自衛隊」へ脱皮」という見出し。この見出しには、「どこで」戦うかが書いてない。日本で? 違う。「外国で」(国外で)である。そして、この国外で戦うことを、あるときは「集団的自衛権」と言い、あるときは「反撃能力」と言う。どのようなことば(表現)も、必ず「言い漏らし」がある。それは「隠す」でもある。「集団的自衛権」も「反撃能力」も「どこで」を省略することで、問題の本質を隠している。ニュースの基本は5W1H。書かれていない要素を補って読まないと、書かれていることが把握できない。

 「反撃能力」について、「作文」はどう書いているか。
↓↓↓
 最大の柱が、戦後一貫して政策判断で見送ってきた反撃能力の保有だ。攻撃すれば反撃されると想起させてこそ、抑止は機能する。首相は、反撃手段を確実に得るため、米国製巡航ミサイル「トマホーク」の導入も決断した。11月13日の日米首脳会談では、バイデン大統領から優先的に取り組む約束を取りつけた。
↑↑↑
 岸田が「反撃能力」を確保するためにトマホーク(5年間に500発)の購入をバイデンに持ちかけ、バイデンは「優先的」にそれに応じる約束をした、と読売新聞は書いている。
 だが、それは本当に岸田が持ちかけたのか。バイデンが「買え」と言って、岸田が「わかりました」と答えたのではないのか。「買え」と言ったのだから、もちろん「優先的に売る」。前段の交渉が書かれていないので、わからない。
 なぜ、私が「バイデンが買えと言った」と想像するかといえば、二面にこういう記事があるからだ。
↓↓↓
【ワシントン=田島大志】バイデン米大統領は16日、日本が新たな「国家安全保障戦略」など安保3文書を閣議決定したことを受けて「我々は平和と繁栄への日本の貢献を歓迎する」とツイッターに投稿した。バイデン政権は「唯一の競争相手」と位置付ける中国との覇権争いを巡る日本の役割拡大に期待している。
↑↑↑
 バイデンは、中国を「唯一の競争相手」と位置づけている、と書いているが、何の競争相手? W杯? 軍事力? 経済力? 5W1Hの「何(what)」が欠けている。いや、ほんとうは書いてある。「覇権争い」。しかし、この「覇権争い」がまた、不透明である。軍事力の覇権争い、経済力の覇権争い。軍備のことを書いているので「軍事力の覇権争い」という点から見ていく。「どこで(where)」。これも書いていないが中国周辺(あるいはもっと絞り込めば、台湾)である。でも、なぜ、アメリカがアメリカから遠いアジアで「軍事的覇権」を握らなければならないのか。アメリカがアメリカ周辺で「軍事的覇権」をにぎり、アメリカを攻撃させないというのならわかるが、わざわざアジアまでやってきて、アジアを支配するのはなぜ? ここから「経済的覇権」の問題が浮かび上がる。中国に金もうけをさせたくない。中国がアジアで金もうけをすると、アメリカがアジアで金もうけをできなくなる。しかし、この問題は、また別の機会に書くことにして……。
 「覇権争い」に関しては、こういう記事がある。(バイデンのことばではないが。)
↓↓↓
 米紙ワシントン・ポストも16日、防衛費の増額に着目し、「日本の勇気をたたえるべきだ。アジア全域を防衛する重荷を米国単独で負うことはできない」との論評を報じた。↑↑↑
 バイデンでも、岸田でもない、「第三者」の論評だからこそ、「本音」が書かれている。読売新聞が岸田の「本音」をついつい書いてしまうのと同じだ。その本音とは、繰り返しになるが
↓↓↓
アジア全域を防衛する重荷を米国単独で負うことはできない
↑↑↑
 ワシントンポストは「アジア全域を防衛する」と書いているが、なぜ、そんなアメリカ以外の国を防衛する必要があるのか。これは防衛ではなく「軍事支配する」ということである。アメリカの軍事に対抗できないようにする、ということである。アジアはアメリカから遠い。そんなところをアメリカ単独で支配できないから、日本にそれを加担させようとするのである。
 これは、きのう引用した
↓↓↓
 防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 これと、まったく同じ視点。アメリカだけでは、間に合わない。日本がアメリカの「足りない部分」を補足する。政治家は、そういうことを言わないが、それはだれもが知っている。そのだれもが知っていることが、読売新聞やワシントン・ポストの記者を通じて漏れてしまう。隠しておけないくらい、その情報が流布しているということだろう。
 新聞は、こういうところを読んでいくのがおもしろい。私は推理小説(探偵小説)を読まないが(好まないが)、フィクションよりも、現実のなかに隠されている「伏線」を読むのがおもしろい。

 少し元にもどって。ニュースの基本の5W1H。繰り返し出てきた「5年」。最近は隠していたが「防衛の視座」では、復活してきて、きちんと説明している。
↓↓↓
 目標期限は2027年度――。16日に閣議決定された国家安全保障戦略と国家防衛戦略、防衛力整備計画の3文書では、5年後までの防衛力強化に力点を置き、「27年」が随所に登場する。今後の5年間は、計画期間の単位以上の意味を持つ。
 27年は、中国の習近平政権が3期目の集大成を図る年であり、中国人民解放軍「建軍100年」の節目でもある。安保専門家の間では、この年までに中国が台湾の武力統一に乗り出す可能性があるとの分析が広がる。
↑↑↑
 習近平はもちろん「台湾統一」をめざす。中国の指導者なら、だれでもめざすだろう。しかし、それが「武力統一」かどうかは、わからない。そういう見方をしているのは「安保専門家」である。ここが、問題。もし「経済専門家」なら? あるいは「文化専門家」「料理専門家」なら? 「旅行代理店」なら? あるいは、台湾に住んでいるひとなら? そう考えてみれば「安保専門家」だから、軍事を持ち出したというだけのことである。
 習近平は先の大会で「台湾独立を、軍事支援する外国の勢力があるなら、それとは戦う」というようなことは言っているが、「軍事統一」するとは言っていない。「安保専門家」は、「文章の専門家」ではないから、テキトウに読んだのだろう。
 でも、なぜ、そんなに「5年間」にこだわるのか。
 習近平の「任期」というよりも、今後5年で、コロナでつまずいたとはいえ、中国の経済は拡大する。経済の「覇権争い」で、アメリカはトップではいられなくなる。アメリカは、それに気づいたからではないのか。
 ロシアがウクライナに侵攻する前、ヨーロッパとロシアとの経済関係は、天然ガスや石油で強く結びついていた。それは逆に言えば、アメリカの化石燃料の販路が縮小したということである。同じように、中国がアジア諸国にさまざまな商品の販路を拡大し、経済的覇権を強めれば、アメリカの販路はそれだけ縮小する。金もうけができない。アメリカの強欲主義は、これを我慢できない。これがwhay。だから、経済覇権を守るために、軍事覇権を利用するのである。アメリカから遠い場所で戦争を勃発させ、ライバルを失墜させる。これがhowこの作戦は、アメリカの軍需産業にとっても好都合である。どんどん武器が売れる。
 5W1Hを整理し直してみる。
who(だれが)アメリカが
what(何を)戦争を引き起こす
when(いつ)5年以内に
where(どこで)台湾で
why(なぜ)中国の経済発展(台湾統一)を阻止するため
how(どのように)日本の軍事力を利用して(日本を戦争に巻き込み)

 日本経済はどんどん衰退していっている。5年以内、10年以内に、日本人は中国に出稼ぎに行くしかない。それがいやなら、中国と戦争をするしかない。戦争で、日本人の不満を収束させるしかない。それが岸田の狙っていること。
 アメリカの強欲主義が存在するかぎり、世界平和はありえない。アメリカの強欲主義のために、戦争の危機が窮迫している。
 戦争ではなく、アメリカも日本も(特に日本は)中国を最大の経済パートナー(貿易相手国)にする方法を考えないといけないのだが、それができないから、戦争に頼るのだ。

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閣議決定でいいのか(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-17 09:30:04 | 考える日記

 2022年12月17日の読売新聞(西部版・14版)は、安保3文書、税制改正一色の紙面。あ、戦争がはじまった、と私は震えてしまった。書きたいことが多すぎて、とても書き切れない。少しだけ書く。(番号は私がつけた)
↓↓↓
「反撃能力」保有 明記/安保3文書 閣議決定/戦後政策を転換(見出し)
①政府は16日、今後10年程度の外交・防衛政策の指針となる「国家安全保障戦略」などの3文書を閣議決定した。
②自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する「反撃能力」の保有を明記し、戦後の安保政策を転換した。
③中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため、防衛費と関係費を合わせて2027年度に現在の国内総生産(GDP)比2%とし、防衛力を抜本的に強化する。
↑↑↑
 私が一番問題にしたいのは、
①「閣議決定」である。
 安倍以来、いろいろなことが「閣議決定」された。「安倍昭恵は私人である」というようなくだらないものが多いせいか、閣議決定は「どうでもいいもの」として見過ごされてきた。その延長線上に「安倍国葬」があった。民主主義を破壊した安倍が、閣議決定という独断で「評価(尊敬される政治家)」されてしまった。国会で審議されることなく「実施」が決まった。そして、実際に実施された。「戦争法」さえ国会審議があったのに、「安倍国葬」は国会審議がなかった。私は、これに抗議するために、東京のデモに参加したが、デモ参加者は予想以上に少なかった。国会審議をしなくても、閣議決定さえすればなんでもできる、という「風潮」ができあがってしまった。
 今回のニュースも、それを伝えている。
 閣議決定をした、だから、これはもう変更できないのだ、国会審議の必要はない、という「論調」で読売新聞の紙面は展開する。批判の声は、四面に、立憲民主党の声、社会面に沖縄知事の短いコメントが載っているくらいである。
②と③は、よく読むと、整合性があるようで、整合性がない。
②は「自衛目的」ということばではじまっている。「敵」は、明確に書かれていないが中国、北朝鮮(さらにはロシア)を想定しているのは、これまでの報道からもわかる。この「自衛目的」が、
③で「中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため」にかわる。「敵」ということばのかわりに「中国」が登場し、「自衛」のかわりに「国際秩序を守る」があらわれる。ここには大きな飛躍がある。「国際秩序」は日本の意志だけ(閣議決定だけ)で決められることなのか。「国際秩序」を議論するために「国連」があるはずだ。
 国際紛争(いわゆる有事、戦争)が起きたとき、侵攻された国はどうするのか。もちろん抵抗(反撃)もするだろうが、国連の場で訴えるだろう。国連で、自国への支持(相手国への批判)を求めるだろう。ロシアに侵攻されたウクライナだって、そうしている。
 ウクライナは、「国際秩序」のためではなく、ウクライナ自国のために戦っている。その戦いが「国際秩序」を守ること(回復すること)につながるとしても、それは「前提」ではない。まず「自国を守る(自分たち自身を守る)」である。
 「自衛目的」から「国際秩序を守る」への表現の転換は、単なる表現の問題ではない。そこには表現を変える必要性、隠された問題があるのだ。
 本当は何をしようとしているのか。三面に、重要な分析が載っている。
↓↓↓
④防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 「日米の足し算」ということばだけを読むと、日本だけでは防衛できない部分をアメリカに助けてもらう、日本が攻撃されたらアメリカに助けてもらう(日米安全保障)と考えがちだが、高杉はちゃんと正確に言い直している。今回の「安保3文書」の目的を理解して、ぽろりと「本音」を語っている。(読売新聞の「ばか正直」なところは、それをそのまま書いてしまうところ、自分はこんなに知っていると得意顔で書いてしまうところである。)
 何と言い直しているか。
 「米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるか」
 「安保3文書」改訂は、米軍の補完のためである。
 三面の記事の見出しは「対中均衡 米と連携」となっているが、中国を封じ込めようとする動きに日本が協力する、ということである。
 中国はすでにアメリカ本土を直接攻撃する軍備を備えているだろう。(北朝鮮も開発中である。すでにミサイルはアメリカ本土を射程に入れている。)その中国(そして北朝鮮)を攻撃する(反撃する)には、アメリカ本土から攻撃(反撃)するよりも日本から攻撃(反撃)する方が効率的である。日本からならICBMをつかわなくてもトマホークで対応できる。これが「米国の足らざる部分をいかに日本が埋めの」ということだ。
 日本から「反撃」するかぎり、中国、北朝鮮はまず日本(日本にあるアメリカ軍基地)を攻撃するだろう。日本が攻撃されているかぎり、アメリカ本土への攻撃は「手薄」になる。これがアメリカの作戦である。
 アメリカを守るための「捨て石」になる。(日本をアメリカを守るための「捨て石」にする。)それが、安保3法案である。これが「閣議決定」だけで決まってしまうのだ。
 内閣支持率がアップしない岸田は、アメリカから「首相でいたいんなら、アメリカの政策に協力しろ。協力すれば、応援してやる(首相でいらせてやる)」というようなことを言われているのだろうか。
 そして、このなことのために、増税が行なわれようとしている。
↓↓↓
防衛増税 3税決定/法人・所得・たばこ 「時期」先送り/与党税制大綱(見出し)
⑤自民、公明両党は16日、2023年度の与党税制改正大綱を決定した。最も注目された防衛力強化の財源確保では、法人、所得、たばこの3税を増税し、27年度に年間1兆円強の財源確保を目指すとした。引き上げ時期の決定は先送りした。
↑↑↑
 問題は、「時期先送り」だろう。なぜ「時期」を先送りしたのか。一つは、来春の統一選対策である。増税をすぐ実施すれば選挙で批判される。票が獲得できない。だから、実施は先送り。しかし、実施を先送りするなら、いま決めなくてもいいだろう。なぜ、いま決めないといけないのか。
 アメリカに説明するためである。「トマホークを買います、そのための予算を確保しています」と「証明」するためである。「増税し、予算を確保します」と言うためである。売る方だって、本当に金が入ってくるかどうか確認する必要がある。銀行でローンを組むとき、収入を訪ねられるようなものだ。「与党税制大綱」と言うが、実際は「閣議決定(岸田の決定)」である。
 長くなるので記事は引用しないが、見出しだけ抜き書きしておく。
↓↓↓
⑥首相、増税議論を主導/防衛財源 「説明責任」強調
⑦税調、首相の要望くむ/与党税制大綱 宮沢会長「指示だから」
↑↑↑
 安倍以来、首相が言うことにしたがうだけ(そうしないと選挙のとき応援してもらえない)が、「政治」になってしまったのだ。

 ここでまた「国葬」にもどるのだが、あれを阻止できなかった野党の責任は重い。岸田は、何だかんだと言って国葬を実施した。批判されたが、もちこたえた。私は実際に東京のデモと集会に参加して感じたのだが、国会審議もなしに国葬が行なわれたことに対する怒り(恐怖)が、あまりにも小さい。
 どうして、こんなふうになってしまったのか。
 私は、太平洋戦争の前に何があったのか、実際に体験したわけではないからわからないが、いま起きている「無力感の蔓延」は、とてもおそろしい。怒りが減って、権力にすりよることで保身をはかるという姿勢の蔓延がおそろしい。ジャーナリズムが、それを率先してやっていることがおそろしい。
 いま私はジャーナリズムが率先してやっていると書いたが……。実は、ジャーナリズムは、いちばん流行に鈍感な存在である。流行をつくりだすことはない。流行が起きてから、これこれが流行しているというのがジャーナリズムズある。だから、読売新聞がやっている「リーク記事」を「特ダネ」と自慢するようなことは、ほんとうは世間で流行しているのかもしれない。他人から教えてもらって「頭」で知っているだけの知識なのに、まるで自分がそれを体験しているかのように語る風潮、それがなんというか、「自分の知らないことを知っている人(たとえば岸田)の言うことは正しい」という「風潮」につながっている。
 北朝鮮や中国がほんとうに日本を侵略しようとしているかどうかなんて、私は知らない。しかし、私は電気代、ガス代が高くなり、年金だけでは金が足りず、ちょこまかしたアルバイトでは追いつかず、貯金が目減りしつづけていることを知っている。だから、増税なんか許せない。法人税を払うわけではない、たばこ税を払うわけではない。しかし、その税金が、私の暮らしのためではなく、アメリカの世界戦略のための軍備につかわれるというのは、許せない。
 私は、基本的に、私の知らないことを一大事のようにして語るひとのことばを信じない。「正しい」と鵜呑みにしたりはしない。そういう新聞のことばを信じない。矛盾を探し、疑問を書く。
 二面にこういう記事もあった。
↓↓↓
安保支出 世界3位へ/27年度11兆円 GDB2%確保で
↑↑↑
 「生活保障、教育費支出 世界1位」というようなことこそ、見出しになってほしい。そういう世界になってほしい。岸田の身分と金もうけのために、防衛費が世界3位になることに、いったいどんな意味があるか。

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三木清「人生論ノート」から「利己主義について」

2022-11-27 20:13:17 | 考える日記

 

簡単そうで、なかなか書けないテーマ。読むのも、かなり難解なところがある。
三木清は、ときどき、数学で言う「虚数」のようなものを「仮説」として持ち出す。つまり、否定するための「径路」。論理を強固にするための「手段」。

①「利己主義」ということばを、どんなときにつかうか。だれに対してつかうか。だれかを「利己主義」と思ったことはあるか。だれかから「利己主義」と批判されたことはあるか。
②「利己主義」と批判したときと、「利己主義」と批判されたときでは、どちらがいやな気持ちがするか。
③「利己主義」に似たことばはなにか。「利己主義」の反対のことばはなにか。

このことを話し合った後、読解に進んだ。

第一段落の次の文章はなかなか難解である。

いったい誰が取らないでただ与えるばかりであり得るほど有徳あるいはむしろ有力であり得るだろうか。逆にいったい誰が与えないでただ取るばかりであり得るほど有力あるいはむしろ有徳であり得るであろうか。純粋な英雄主義が稀であるように、純粋な利己主義もまた稀である。

「英雄主義」の文章は理解できる。「取らないで与えるだけ=有徳・有力」。しかし、「利己主義」はどうか。「与えないで取るだけ=有力・有徳」。「与えないで取るだけ」は「力があるもの」なら可能だろう。しかし、それがどうして「有徳」なのか。この「有徳」が「虚数」のようなものなのである。現実には存在しない。しかし、本当に「有徳」なひとがいれば、彼は何も取らなくても、多くの人が彼のところになにかを与えようとするだろう。語弊があるかもしれないが、ほんとうに「神」がいれば、多くのひとは何も期待せず、ただ感謝の気持ちとしてなにかを「与える」だろう。「返し」を期待しないで、ただ「与える」ということがあり得るだろう。

注意しなければならないのは、三木清がここで「純粋な」ということばをつかっていることである。「純粋な英雄主義」「純粋な利己主義」。この「純粋な」は「絶対的な(論理的に正しい)」と言い換えることができるだろう。

ことば(想像力)が、したがって、このあと問題になる。想像力とは、構想力のことである。ことばをつかって、どんなふうに世界を描写するか。ことばは、それを否定するための「仮説」である。ことばを何が否定するか。倫理(道徳)=行為が、ことばを否定するというか、ことばを超越する。「道」が「ことば」を超越する。行為によって「超越」されるために「ことば」はある、と三木清は考えているかどうか知らないが、私は、そう読み取っている。もちろん、「日本語の読解」なので、こういうことまでは語らないが。

二段落目の次の文章も厳しい集中力を払わないといけない。

 我々の生活を支配しているギブ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合は意識しないでそれに従っている。言い換えると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
 利己主義者が不気味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それゆえにまた利己主義者を苦しめるのは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。

ここでは「意識(する)」が「意識的」「自意識」という具合に、少しずつ変わっていく。この「変化」を見落とすと、何が書いてあるかわからなくなる。

哲学は、あることばを別のことばで定義することと言い直せると思うが、このとき、ことばの「ずれ」「ずらし」というのは非常に微妙であり、ことばだけではなく「文体」に注意しつづけることが重要である。最初に引用した文章では「取る/与える」が「与える/取る」とことばの順序がかわると、それにつづく「有徳/有力」は「有力/有徳」と順序をかえている。そのことに気づくなら、その後に出てくることばに「純粋な」という形容動詞がついていることにも気がつくだろう。この「純粋な」は、実は、その前に存在する文章(省略した文章)にもつかわれている。つまり、三木は「純粋な」論理問題として、論を進めていることになる。

倫理と哲学は別の学問かもしれないが、三木清は倫理と哲学を接近させてことばを動かしている。それが、彼の文書をを難しくしているし、おもしろくもしている。この三木清の文章を「好き」「おもしろい」といえる18歳のイタリア人というのは、すごいなあ、と私は感心している。

写真は、きょうつかったテキストのメモ。

 

 

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三木清「人生論ノート」の「瞑想について」

2022-11-13 21:03:41 | 考える日記

三木清講読。「瞑想について」。
この文章は非常に難しい。ふつう、人が考えるような「瞑想」とは違うことを考えている。
瞑想というと、こころを落ち着かせる( 安定させる) を想像するが、三木清は「思索」「思想」「瞑想」を比較している。
いきなり読んでも、つまずくばかりなので、最初に雑談をした。
「瞑想したことがある? 」
「ない」
「じゃあ、1 分、瞑想してみようか」
ということろから、はじめた。

「瞑想できた? 」
「できない」
「どうやっていた? 」
「目をつむっていた」
「何か考えた? 」
「いろいろ、1 分たったらタイマーが鳴ると言うので、いつ鳴るかなとか考えた」
「そういうのを、雑念というのだけれど、瞑想ってむずかしいね」「どうしても何か考える」
「どうやって、考えた? 」
「えっ」
「何をつかって考えた?」
「頭をつかって」
「うーん、たとえばピカソは絵の具をつかって絵を描く。モーツァルトは?」
「ピアノをつかって。音符をつかって」
「考えるときは?」
「ことばをつかって」

 そのあと、連想ゲーム。瞑想から思いつくことば、瞑想ということばが似合う人、似合わない人、いつ瞑想できるか、どんなふうにするか。どんな時瞑想できないか。
 どうも、瞑想は黙ったまま、静かな状態でするもの、ということがわかってくる。
 そして、その「静かな状態」というのは「黙って」するもの、ということを共通の認識としてもつことができた。
 最初にやった「瞑想」疑似体験から考えたことと重ね合わせると、瞑想は「ことば」とは縁がない、むしろ「無(心)」に近いということがわかる。そのイメージを共有して、三木清が「ことば」と「瞑想」「思索」「思想」をどう定義しているかに注目しながら読み進んだ。

 書き出しの「たとえば対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。」という文章の「対談」とはどういうことか。ことばをつかって、二人が話すこと。「黙り込む」とはどういうことか。ことばを話さないこと。「瞑想」は「黙り込むこと(沈黙)」と何か関係がある、ということになる。「黙り込む」のはなぜだろう。ことばが思い浮かばないからかもしれない。ことばをつかわずに、考えているのかもしれない……、という具合。
 二時間で、なんとか「読了」できたが、とてもむずかしかった。それは、結局、瞑想をしてみるという体験がないからだ。頭では瞑想ということばを知っているが、肉体で体験したことがない。そういうことは、考えることもむずかしいし、理解することもむずかしい。
 それがわかったのが、今回の「収穫」かもしれない。

 

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