三木清講読。「瞑想について」。
この文章は非常に難しい。ふつう、人が考えるような「瞑想」とは違うことを考えている。
瞑想というと、こころを落ち着かせる( 安定させる) を想像するが、三木清は「思索」「思想」「瞑想」を比較している。
いきなり読んでも、つまずくばかりなので、最初に雑談をした。
「瞑想したことがある? 」
「ない」
「じゃあ、1 分、瞑想してみようか」
ということろから、はじめた。
「瞑想できた? 」
「できない」
「どうやっていた? 」
「目をつむっていた」
「何か考えた? 」
「いろいろ、1 分たったらタイマーが鳴ると言うので、いつ鳴るかなとか考えた」
「そういうのを、雑念というのだけれど、瞑想ってむずかしいね」「どうしても何か考える」
「どうやって、考えた? 」
「えっ」
「何をつかって考えた?」
「頭をつかって」
「うーん、たとえばピカソは絵の具をつかって絵を描く。モーツァルトは?」
「ピアノをつかって。音符をつかって」
「考えるときは?」
「ことばをつかって」
そのあと、連想ゲーム。瞑想から思いつくことば、瞑想ということばが似合う人、似合わない人、いつ瞑想できるか、どんなふうにするか。どんな時瞑想できないか。
どうも、瞑想は黙ったまま、静かな状態でするもの、ということがわかってくる。
そして、その「静かな状態」というのは「黙って」するもの、ということを共通の認識としてもつことができた。
最初にやった「瞑想」疑似体験から考えたことと重ね合わせると、瞑想は「ことば」とは縁がない、むしろ「無(心)」に近いということがわかる。そのイメージを共有して、三木清が「ことば」と「瞑想」「思索」「思想」をどう定義しているかに注目しながら読み進んだ。
書き出しの「たとえば対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。」という文章の「対談」とはどういうことか。ことばをつかって、二人が話すこと。「黙り込む」とはどういうことか。ことばを話さないこと。「瞑想」は「黙り込むこと(沈黙)」と何か関係がある、ということになる。「黙り込む」のはなぜだろう。ことばが思い浮かばないからかもしれない。ことばをつかわずに、考えているのかもしれない……、という具合。
二時間で、なんとか「読了」できたが、とてもむずかしかった。それは、結局、瞑想をしてみるという体験がないからだ。頭では瞑想ということばを知っているが、肉体で体験したことがない。そういうことは、考えることもむずかしいし、理解することもむずかしい。
それがわかったのが、今回の「収穫」かもしれない。