詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「手でくるんで(1972)」より(7)中井久夫訳

2009-02-07 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
意識して    リッツォス(中井久夫訳)

断る。断るともう一度彼は言う。断る。断る。
着物を裏返しに着る。
自分のコップを逆さまにする。
その水を裏返す。死を裏返す。
靴を手に履く。
手袋を足にはめる。
「嘘を吐くな」と連中は彼に言う。奴等は怒る。
女が三人、バルコニーで笑う。
彼は返事をせぬ。身じろぎもせぬ。
蠅が彼の頬に止まっている。
三人の女が露台で笑う。
女たちは若い。衣ずれの音。彼のほんとうに聞きたいものだ。



 この作品にも何の説明もない。登場人物は「彼」、「連中」(奴等)、「女が三人」。何があったのか何も説明はない。ただ、「彼」がいまの状況に満足していないことがわかる。
 「彼」は若い女とセックスがしたいのかもしれない。そして、「連中」はそうしろと唆しているかもしれない。からかわれているのである。女たちも、いっしょになってからかっている。彼を見つめ、わらっている。どんな反応をするか、見ている。
 彼は何もできない。頬に止まった蠅を払いのけることさえできない。ただ、衣擦れの音を、幻のように聞いている。その音に意識を集中させている。ほかのことはすべて拒絶して。

 1行目の、「断る。」の繰り返しがいい。「もう一度」がいい。何度繰り返しても、それは何度目かではなく、彼にとっては「もう一度」なのである。それしか、彼には思いつくことばがない。その純粋さ、純情さが、美しい。
 何もかも反対にして、自分を、その場から拒絶している。


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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(6)中井久夫訳

2009-02-06 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
必要な絶叫    リッツォス(中井久夫訳)

おおよその時刻と光と色を決めなければ。
夜だ。馬車が樽を積んで通る。
車輪の一つが石膏の作品を砕く。
壁のつぎ目にひびが入る。窓ガラスの背後に
見えるのは向うの壁に白いキッチン、冷蔵庫、
老人の裸足。それから浴室の灯が消える。
カーテンがひかれる。女中が林檎を盛ったボウルをバルコンに出す。
蓄音機が鳴ってる。関係ないもの、
対照性のないものの中から選べるか。
ついに金切り声が聞こえて、ナイフが木のテーブルに突き立てられ、
紙ナプキンを突き刺した。
ナプキンには鮮やかな上下の唇の紅。
こうなると話は別だ。



 この作品も映画の1シーンのようである。そういう作品をめざしているのだろう。そして、1行目は、そういう「わざと」を明確にしている。事実を書くのではなく、フィクションとしてのことば。ある瞬間をそのまま描くのではなく、あることを書くために、「時刻」をきめる。そして、基調となる色をきめる。そこから映画をつくるように、詩をつくる。
 暗い夜の街の全景。通りの奥から馬車があらわれる。近づいてくる。車輪のアップ。たがしカメラが近づいて行くのではなく、車輪が近づいてきてアップになる。その車輪をおうようにしてカメラは動き、石膏の作品(彫像?)が砕かれるアップ。そこでカメラは止まる。馬車が通りすぎて、道の向こうに壁。窓。そして窓の奥にはキッチン。カメラは窓に近づいていき、キッチンを映しながら戸外から室へと移動していく。
 説明はなく、せりふもなく、ただ「もの」だけを映しながら。そうして、観客が自分で「ストーリー」を組み立てるのを待っている。老人が動き、女中が動き、音楽が流れる。その音楽を切り裂くようにして、かなきり声。
 突然、ナイフのアップ。紙ナプキンのアップ。ナプキンに残された口紅、唇の形のアップ。女は映らない。映ったとしても、スカートや足だけ。顔は映さない。

 リッツォスの詩の特徴(物語の特徴)は、そこに「顔」がないことだとも言える。ひとは登場する。けれども、特別な顔を持っていない。名前をもっていない。不特定多数のひとりとして登場する。名前、顔がないので、抽象的な感じがする。具体的な描写にもかかわらず、とても抽象的な印象が残る。そして、その抽象性が、一種の孤独を感じさせる。余分なものをそぎおとして、とても清潔な印象残す。
 読者は、ただ動きを見るだけである。動き、運動のなかにリッツォスは詩を感じているのだと思う。


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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(5)中井久夫訳

2009-02-05 00:23:50 | リッツォス(中井久夫訳)
怪我か死んだか    リッツォス(中井久夫訳)

連中は車付きの寝台を裏口からひそかに持ち込んだ。こちらはシャッターの隙間からじっと見てた。一人が戻って来た。
何か忘れたのだな。櫛か。表の街路では
シーツの白さが目にしみる。まだ通りの明かりは消えていない。
「やる時間があるか。気になるな」と一人が言った。消えた煙草をくわえてた奴だ。
「俺だ」と彼は言った、「連中はなんでやっこさんをかくさにゃならんのだ?」。その後ろで女が腰をかがめた。太ももがすったり見えた。通りの反対側から大きい犬が近寄ってきた。歯にくわえているのは、車付寝台にねている奴の顔と同じ仮面じゃないか。
突然、強力照明が五つ、ぱっと点いた。その下にいた、微動もせずに、
秘密警察が。新品の黒い帽子。こちらは急いで
シャッターの隙間から逃げる。部屋は隅から隅まで照らされてる、
光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。
テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。



 リッツォスの詩には映画的なものが多い。この作品もそうである。舞台(芝居)というより、映画、と感じる。それはアップがあるからだと思う。舞台にはアップはない。しかし、映画にはアップがある。
 3行目の「櫛か。」という短いことばが特徴的だ。それは舞台では見えない。映画でなら櫛のアップで、それがわかる。しかし、それは実は「スクリーン」には映し出されない。詩、だからである。ことばは意識のなかでクローズアップするだけである。ここにリッツォスの詩の一番おもしろいところがある。単なる映画ではなく、意識のスクリーンに映し出される映画なのだ。
 いったん意識のスクリーンが目の前に広がると、あとはカメラは自在に動く。つまり、遠近を自在に動く。ロングもクローズアップも、何の障害もない感じで動き回る。急速に動く。
 街路。シーツ。明かり。そして「消えた煙草」、しかも「くわえてた」という描写。「もの」から「肉体」へ、「肉体」から「もの」へ。その動きの間に「こころ」が差し挟まれる。つまり、「ことば」が。何を言っているのか、そのほんとうの「意味」はわからない。「意味」を超えて、そのときの、映像のアップがかってに物語をつくっていく。
 そして、それは「事件」。物語を超えて、もっと想像力を刺激するものだ。
 意識のスクリーンに映し出される「事件」であるからこそ、何もかもが猛スピードで動く。次々に目新しいものをカメラはクローズアップで映し出す。新しい「もの」と「もの」、映像と映像は、長回しではなく、短いカットの連続だ。カットとカットの間には暗い暗い闇があって、その闇を想像力が駆け回る。ことばはストロボ照明のように強烈に「もの」を映し出す。

光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。

 ああ、しかし、映像だけではない。映像の洪水の中に差し挟まれた、ことば。ことばでしか表現できない意識の動き。意識のクローズアップというより、意識の井戸を深く深く掘って、その瞬間にあらわれる冷たい冷たい水のような新鮮さ。
 なんとうい美しさだろう。
 そういう意識の、一種の裏切りのような鮮やかな超越。映像と意識の固い結びつき。
 そして、もう一度、映像に戻ってくる。その、余韻の孤独。ほうりだされた悲しみのような、未練をひっぱる何か。映像とこころが結びついて、そこに広がる余韻。

テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。

 いいなあ、このエンディング。このラストシーン。「片方」という不完全さが、完全さを逆に描き出す。こころのなかに。完全なものがあるのに……という悲しみとして。
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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(4)中井久夫訳

2009-02-04 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
表現されないもの    リッツォス(中井久夫訳)

夕べの空の下で全市が電灯を灯した。
なぜかあのたかさに明滅する明るい赤い灯二つ。
窓。橋。街路。タクシー。バス。
「私だった自転車くらいはあったさ」と彼は言った。「あのころ夢を見ていたんだ」
同じ部屋の女は目を逸らした。口を利かなかった。
そのドレスの右側にはステッチがしてなかった。立ち上がったら
左右の肩の高さが違うことが分かったでしょう。「それ以上は
連中についてはいえない」と彼は言った。「ひびのはいったコップみたいにそっと持って
   おいてくれ」
廃物収集が通るときにひとに頼まずに自分で持って行くようにな。
悪いことを犯しているように必死にやる。朝早くだよ。美しいコップを古新聞にくるんで
階段の手すりにぶつけないかとずっとびくびくしながら--。
ぶっつければ、まだ鳴る力があるよ。殷々と鳴る。遠くまで透る。途中で止められぬ。
窓ガラスと、風と、壁が共謀しているみたいに鳴る。
すると目の見えない楽士がやっとのことで階段を上がって来て、
さて椅子にヴァイオリンのケースを置いて、開ける。中には
三つ揃いの水飲みコップの二つがある、燦然と、疵一つなく--。



 「表現されないもの」--これはリッツォスの詩には非常に多い。きのうの「日記」にも書いたが、まず「物語」が表現されない。そこに書かれるのは「もの」だけである。それは「物語」を構成する要素だが、同時に「物語」を破壊する。「物語」からのがれて、ただそこに存在することによって「詩」になる。「詩」とは理解不能なものである。ただそこにあることを知って、ひとは驚く。そんなふうに存在しうることに驚くのである。そして、その理解できないものを自分の中にとりこみ、納得するために「物語」をつくりだす。
 だが、いつでも伝わっていくものは「物語」ではなく、「物語」を破壊してしまう「詩」だけである。なぜなら、「物語」はそれぞれのひとが必然的につくりだしてしまうものだからである。どんな人間でも、そのひと自身の「物語」をもたないひとはいない。生きていれば必ず何かがある。何かを体験してしまう。生きた「時間」が「物語」をつらぬいてしまう。そして、それはそれぞれ違う。似通っていてもまったく違う。だから「物語」を共有したと感じるのは錯覚であって、それぞれがかってに「物語」を自分に引き寄せているだけである。そのとき、他人の「物語」と自分の「物語」を結びつけるのが、「物語」から逸脱していく「詩」(もの)なのである。
 たとえば「赤い灯」。その「高さ」。あるいは、窓、橋、街路……。それはたしかに「ひびのはいったコップ」みたいなものかもしれない。いつでも壊れてしまう。「もの」であることを止めて「物語」の「時間」のなかに吸収されてしまう。
 そういうはかないものであっても、実は、壊れるときある種類の「音」を響かせる。それをひとは「さびしさ」と呼んだりする。なぜなら、そのとき壊れるのはほんとうは「もの」ではなく、「もの」をそっとかかえている「こころ」だからである。(西脇順三郎なら、絶対に「さびしさ」と呼ぶ。)そして、それは、どこまでもどこまでも、透明なまま響きわたっていく。どこまでも、というのは、時空を超えて、他人の「こころ」のなかをどこまでも、という意味である。
 それはある日、まったく忘れていたとき、つまり「物語」を放棄した瞬間に聞こえてくるかもしれない。そして、それがそんなふうに突然聞こえてくることをだれも止めることができない。

 詩とは、そういうものだと思う。

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(3)中井久夫訳

2009-02-03 01:12:59 | リッツォス(中井久夫訳)
集中営    リッツォス(中井久夫訳)

合図の笛。叫び。鞭の風を切る音。鈍い音。
水の逆流。煙。石。鋸。
殺された男たちの間に倒れた樹。
警備兵が死者たちの衣類を剥がす。死者たちのポケットから
ばらばらと音を立ててこぼれる。まず電話用のコインが一つずつ。
小さな鋏。爪切り。小さな鏡。
禿げた勇者の空っぽのかつら。
その藁くずまみれの長い髪。
こわれたコップ。針。
耳の上にはさんでいかタバコの吸いさし。



 名詞の羅列で構成された作品。何の説明もない。けれども、そこから何人もの「死者」の物語や人間性が浮かび上がってくる。ことばが「もの」と対等に向き合うとき、その「もの」が持っている「時間」がことばをとおってあふれだす。そして、「時間」はいつでも「物語」になろうとする。「もの」自体の「物語」を超えて、読者がひそかに共有している「物語」を刺激して動きはじめる。リッツォスはいつでも「物語」を語るのではなく、読者の意識の中にある「物語」を刺激するのである。
 たとえば「電話用のコイン」。男は誰かに電話をかけていた。かけることを日常としていた。それは妻か、恋人か。あるいは「爪切り」や「鏡」。身だしなみを大切にする人柄が浮かぶ。同時に、そんなふうにして日々を大切にして生きている感覚。さらには「かつら」「タバコの吸いさし」。そこにも「物語」がある。「タバコの吸いさし」も単なる吸いさしではなく「耳の上にはさんでいた」ということばがいっしょにあるとき、それは具体的な「肉体」と「くらし」を呼び寄せる。どうしても「物語」がそこからはじまってしまう。
 その、どうしてもはじまってしまう「物語」をリッツォス自身は語らない。「空白」にしておく。「空白」だから、そこにはいろいろなものが含まれる。その「空白」にむけて、読者はどんな「物語」でも投げ込むことができる。

 句点で区切られた。「もの」と「もの」。「ことば」と「ことば」。その間の「空白」。それは、私にはセザンヌの「塗り残し」の「白」にも見える。セザンヌはその「塗り残し」の「白」について、「それにふさわしい色が見つかったら、塗る」というようなことを言ったと思う。何色でもある「白」なのだ。
 その「空白」はどんな物語を受け入れる「空白」なのである。


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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(2)中井久夫訳

2009-02-02 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
詩人の仕事    リッツォス(中井久夫訳)

廊下に傘、オーヴァーシューズ、鏡。
窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。
窓の中には向かいの病院の門が。
病院にはいら立つ長い行列。常連の供血者だ。
前のほうのはもう腕まくりをしてる。
奥の部屋では救急患者が五人死んだ。



 「詩人の仕事」とは何だろうか。「ことば」を発見することである。そしてことばを発見するということは「もの」を発見することとほとんど同じである。
 廊下に傘がある。オーヴァーシューズがある。鏡がある。その「事実」は誰が見てもかわらないだろう。しかし、それを「ことば」にするかどうかはひとによって違う。傘、オーヴァーシューズ、鏡を見ても、それをことばにしないひとがいる。また、ことばにするにしろ、その順序でことばにするかどうかはわからない。リッツォスは、その順序でことばを並べた。そのときに詩がはじまる。
 そうした「もの」の発見があって、はじめて、次の行、

窓は鏡に映って、すこし静けさが高まる。

という意識の内部へ侵入していくようなことばの動きが可能なのだ。「もの」を発見し、それを「ことば」にする。すると「ことば」を動かした意識は、「ことば」のもっている力を借りて、おのずと動きはじめる。その動きを忠実に、もういちど「ことば」そのものに還元できるのが「詩人」である。

 いったん動きだしたことばは、もう作者の手を離れる。(読者の手にゆだねられる、という意味ではない。それはもう少しあとのことだ。)
 ことば動く。どこまでも動く。「廊下」からはじまるリッツォスのことばは、最終行で思わぬ現実と向き合っている。こういう動きは、リッツォス自身が狙って動いたものではない。ことばが、ことば自身の力で動いていって、そこにたどりついたのである。こういう動きを、詩人は制御できない。そして、制御せずにことばに運動をまかせてしまうのが詩人である。

 そんなことを考えた。

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リッツォス「手でくるんで(1972)」より(1)中井久夫訳

2009-02-01 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
秘密の犯行    リッツォス(中井久夫訳)

あの夜の犯行は神聖だ。そうぼくらは言ってた。
あれは口を割らぬと誓ってた。だが、分からぬ、
きみにも分からぬ、あれがいつまで黙っておれるか。
きみもだ。いつまで口を割らぬか。ひょっとすると
あれに先を越されぬようにバカみたいにゲロを吐くぞ。
窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に
群衆の中に椅子がどさっと落とされ、ガラスが割れ、
それから「奴」が、ほっぺたに傷跡のあるあいつが、眼を血走らせ、
筋肉の盛りあがった腕をのばして、きみを指さす時には--。



 「犯行」はもしかすると「犯罪」ではなく、戦いかもしれない。たとえば自由を守るための。「聖戦」という名の行動かもしれない。そういう戦いにおいて、誰が何をしたかは絶対的な「秘密」である。知っているけれど知らないということにしなければならない。けれども、たとえば拷問にあったとき、どうなるだろうか。いつまで黙っていられるか。それはいつでも厳しい問題である。
 こういう詩の中にあって、

窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に

 という行は美しい。
 それを美しいと感じるのにはわけがある。「雨」には感情がないからだ。「雨」は人間の感情に配慮しない。人間が悲しんでいようが苦しんでいようが関係なく、ただ降るだけである。その、人間と「無関係」という関係が美しい。なぜなら、それは「無関係」ゆえに人間を裏切らないからだ。
 「レストランのネオン」も同じである。それは「自然」(気象)ではなく、人間がつくったものであるけれど、やはり人間の感情、人間の精神を配慮しない。人間の作り上げたものには、人間が作り上げたにもかかわらず、そういう要素がある。人間とは「無関係」という要素が。
 そういう人間と「無関係」、さらに言えば、私とは「無関係」な存在が私を孤独にし、私を同時に洗い清める。あらゆる人間関係を、ぱっと切って捨ててしまう。
 人間も、そんなふうに他者を切って捨ててしまうことができれば、とても美しくなれる。それは「裏切る」ということではなく、逆の行為を指して言っているのだが。つまり、ほんとうに仲間を完全に自分とは「無関係」と言ってしまえる精神力があれば、という意味で言っているのだが。同じ「犯行」を犯した仲間、その誰彼を、「雨」や「ネオン」のような存在になってしまって、「知りません」と言ってしまえるだけの、人間を超越した精神力があれば、あらゆることは美しくなるのに……。

 リッツォスがそんなふうに考えたかどうか、わからない。けれど、私は、そんなふうに考えてしまう。「窓をしたたり落ちる雨をみつめ、レストランのネオンをみつめている時に」という1行があまりにも美しいので。何か悪いこと(?)をしたあと、雨の降る日、レストランのネオンをひとりでみつめてみたい気持ちにさせられる。孤独を感じ、絶望を感じ、そしてその孤独や絶望を感じる力を、雨やネオンと通い合わせてみたいのだ。そのとき、きっと何かが美しくなる。そんな気持ちにさせられる。

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(6)中井久夫訳

2009-01-31 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
本質的な   リッツォス(中井久夫訳)

彼はボタンをコートに縫いつける。
不器用な手つき。太い針。太い糸。
彼の独り言。

パンを食べたか。よく寝たか?
しゃべれたか。腕を伸ばせたか?
忘れずに窓から外を見たか?
微笑したか、ドアを叩く音を聞いて?

叩く音が間違いなく「死」でも、死は二着だ。
一着はつねに自由である。



 この作品も「意味」が強い。「思想」が強い。言いたいことは最終連の2行である。死を恐れない。自由を求める。そういう強い意志を語っている。
 その部分よりも、私は書き出しの3行が好きだ。ことばになってしまった「思想」よりも、ことばにならない行為の中の「生き方」が好きだ。不器用であっても、自分のことは自分でする。そこにこそ「自由」がある。太い針、太い糸は「不器用」にあわせて彼が選びとったものである。そういう選びとり方にこそ、ほんとうの思想がある、と私は思う。そういうものを短いことばでぱっとつかんで放り出すリッツォス。
 そして、同時に、そうした時代を生きる不安を、「本質」とからめながら書いた2連目もいい。食べる、寝る、しゃべる。それはたしかに人間の基本的なことである。基本的なことをできるのが自由である。そのあとに、二着に「死」がくる。


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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(5)中井久夫訳

2009-01-30 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
パノラマ   リッツォス(中井久夫訳)

ハタンキョウの樹の列。
彫像の列。
雪をかぶった高い山。
墓の並び。
ハンターがオリーヴの幹に穿った孔。

晴れやかな美と晴れやかな果敢なさは
姉と妹のように矛盾し合う。
生の果敢なさと、死の果敢なさとは
まるごと矛盾する。

霊柩車は
ハタンキョウの花を載せて
通って行った。
彫刻は窓越しに
外を見張っていた。



 「廊下と階段」は死の色濃い詩集である。(中井が訳出している詩しか知らないのだけれど。)それも、天寿をまっとうしたという死ではなく、人生の半ばで死んで行った死。そういう死への追悼にあふれている。
 一方に変わらぬ自然がある。非情な自然がある。人間の作った「芸術」(彫刻、彫像)という非情もある。そのふたつの非情の間で、人間は生きている。これは、たしかに「矛盾」である。自然の美しさも、自然の美しさも、人間が「美しい」というから「美しい」。その「美しい」という人間だけが、そして死んで行くのである。自然も芸術も死ぬことはない。
 この矛盾を、リッツォスは「果敢なさ」と定義している。

 人間は、自分の人生をより「美しく」生きようとして、死んで行く。「美しく」生きようとすればするほど早く死んでしまう。それはたしかに「美しい」のだが、その「美しさ」は当人にはわからない。死んでしまうのだから。この矛盾。矛盾という形でしか定着しない真実--それを「果敢なさ」と定義しているように思う。

 きのう紹介した「軽率に・・・」で、その作品を「論理的」ということばでとらえたけれど、この詩集には、とても論理が強く動いている。感性よりも理性の方が強く動いているように感じられる。


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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(4)中井久夫訳

2009-01-29 00:39:25 | リッツォス(中井久夫訳)
軽率に   リッツォス(中井久夫訳)

古代の壁の後ろ、
壕の穴をすかし、
石の位置のずれが作った穴をとおして、
死者たちは
物質にかえった眼を見開いて
眺めていた、
若いハンターが
円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。

だから、人生が嘘を吐くなら
死も嘘を吐くのさ。



 墓地。若いハンターがオシッコをしている。それを、「死者」の視線で描いている。墓の蓋がずれている。そこから「死者」が見える、というのではなく、「死者」が、若いハンターがオシッコをするのを見ている、と。
 若いハンターはオシッコをしたということを認めないだろう。つまり、嘘をつく。そうであるなら、死者もまた嘘をつく権利を持っている。若いハンターがオシッコをするのを目撃したと。死者に口なし、などということはない。死者は口をもっている、という嘘をついたってかまわない。
 --論理的には、そういう構造の作品である。

 詩はしかし論理ではない。論理をおもしろがっても仕方がない。
 この詩は、「円柱の壊れた柱頭にオシッコをするのを。」を起点にして、大きく転換する。その転換点として「オシッコ」という「俗」が存在するということだろう。
 リッツォスは何度も「俗」と「聖」をぶつけ合う。「俗」と「聖」がぶつかるとき、笑いの中でその両方が輝く。両方もっているのが人間の「いのち」のありかたなのだ。リッツォスは、その両方を肯定している。


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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(3)中井久夫訳

2009-01-28 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
虚ろな中で   リッツォス(中井久夫訳)

石の上に水が落下しつづける。
冬の陽の中での水の音。
独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。
言いたいことは?ころは何か?
どんな肯定が言いたいのか?
高い空からつぶてのように
駐車したバスの上に落ちつつあると。
観光客満載のバス。
何世紀も前に死んだ客たち。



 どんなことばも「時代」とともにある。その「時代」がわからないと、ことばの悲しみがわからない。私はリッツォスの生きたギリシャのことを知らない。「時代」を知らない。だから、この作品のことばのほんとうのところはわからない。
 ほんとうのところはわからないけれど、最終行の「死んだ客」ということばの、「死んだ」という修飾語にリッツォスの悲しみと怒りを感じる。「死んだ」はほんとうは「殺された」であろう。「肉体」は生きている。「精神」も生きてはいるのだが、それはかろうじて悲しみを、絶望を生きているにすぎない。だから「死んだ」と修飾せずにはいられない。悲しみ、怒り以外にもし生きているものがあるとすれば、そういう状態を「死んだ」と修飾する理性である。
 もっとほかの生き方があるのはわかっている。わかっているけれど、それを実現できない。そのとき、人間を「虚ろ」がつつんでしまう。そういう状況でリッツォスは世界を眺めていることになる。

独りの鳥の叫びが
虚ろな空の中で
もう一度ぼくらを捜す。

 リッツォスは、その一羽の鳥である。

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(2)中井久夫訳

2009-01-27 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
逃げられぬ・・・    リッツォス(中井久夫訳)

裏通り。通りの向う側。非常口が並んでる。
壊れた植木鉢。割れた水指し。
犬の死体。虫の死骸。死んでいる銀蠅。
金物屋たちがオシッコをしてる。肉屋も。旋盤工も。
こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。
星たちは叫ぶ。みんないなくなってしまうみたいに--。
銅像のことは二度と俺に言うな。そう彼は言った。我慢ならぬ。わかったか。
もう言い訳は利かぬ。下の大きな地下室では
やせた女たちが細長い腕でボイラーの煤を集めて、
さて、塗りたくる。自分の眼を、歯を、台所の戸を、水指しを、
こうすると見えなくなると思って、いや、目につかないくらいにはなると思って。
だが、彼らが壁に身をすりつけてひそかに出入りしても、
柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。
黄色い草むらの中で探照灯がくっきり照らし出す。



 短い単語を積み重ね、状況を描写する。しかし、説明はしない。この説明を拒絶した文体がリッツォスの魅力のひとつである。それは良質の映画のようである。いや、良質な映画がリッツォスの詩に似ているのである。
 「もの」にはそれぞれ「物語」がある。「時間」がある。そして、その「物語」「時間」は「もの」と「もの」との出会いで、一定のものが浮かび上がってくる。たとえば「裏通り」「非常口」「壊れた植木鉢」。そたには、隠れされた「物語」がある。人目にさらすことのできない「物語」というものがある。そこでは「オシッコ」をする人間もいる。見せるためではない。隠れた「暮らし」である。
 そういう状況を描写したあとで、人間が動き出す。そこでは、どうしても人間は隠れた動きをする。隠れた動きをするしかない「時代」なのだ。隠れても隠れても見つけ出されてしまうが、それでも隠れて暮らすしかない悲しみ。
 そうしたことばのなかにあって、

こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。

 がとても美しい。チェホフの短編だったと思うが、泥棒が跋扈しているとき、星が美しく輝いているという描写があった。泥棒に脅える人々。泥棒。そういう人間とは無関係に(非情に)、星は輝く。そこに宇宙の美しさがある。その絶対的な美しさをこどもは無意識にかんじとってしまい、脅える。
 同じように、

柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。

 もとても印象的だ。「鏡」の非情さ。何もかも映し出してしまう非情さ。人間は、そういう非情なものといっしょにくらしている。非情さが人間のかなしみを洗い清める。

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リッツォス「廊下と階段(1970)」より(1)中井久夫訳

2009-01-26 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
一九七〇年、アテネ    リッツォス(中井久夫訳)

この街の通りを
人々が歩いている。
人々が急いでいる。
急いで去ろうとする。(何から)去ろうとするのか?
(どこへ)向かおうとするのか?
私は知らない--顔も
--真空掃除機、長靴、箱--
彼等は急ぐ。

この街の通りを
大きな旗とともに過ぎた
過去の日(思い出す、聞いたものを)。
その時の彼等は声を持っていた。
ちゃんと聞こえる声を。

今、彼等は歩く、走る、急ぐ。
急ぎつつ不動。
列車が来る。彼等は乗る。押し合う。
信号が青から赤に。
車掌はガラスの仕切りの後ろ。
売春婦、兵隊、肉屋。
壁は灰色。
時間よりも高い壁。

彫刻の像よりもものが見られないところ。



 ギリシャの現代史を知っているひとなら、この作品の背景がわかるかもしれない。私はギリシャの現代史を知らない。
 ここに書かれていることばだけを手がかりに言えば、過去にはギリシャの街、アテネを「大きな旗」が通りすぎた。そのとき、人々は声を持っていた。声とは、主張である。いまももちろん主張はあるだろうが、それを声にするひとはいない。だから、何も聞こえない。
 過去にははじめて出会うひとも、みな知り合いだった。同じ目的(同じ主張)を持っていて、顔がわかった。いまは、顔の知らないひとばかりだ。つまり、主張のわからないひとばかりだ。彼らは無言で歩く。急ぐ。
 最後の3行が、とても切ない。
 そこには具体的なことは何も書かれていない。リッツォスのことばは「もの」としっかり結びついたものが多い。「もの」のなかには「過去」があり、「物語」がある。しかし、この3行に登場する「壁」は「過去」をもたない。いや、もちろん「過去」はあるのだが、それは閉じ込められている。その「物語」は現実のなかに溢れ出て来ようとはしない。しっかりと「過去」の扉を閉ざしている。そのしっかり、「過去」をとざしているという感じ、それがわかることが切ないのだ。
 どんな「もの」のなかにも「物語」はあって、それはいつでも、現在を突き動かして未来へゆきたいと願っている。それができず、ただ閉じ込められている。
 「過去」を未来へ向けて解放し、突き動かすことができない--というのは、「夢」を見られないということである。「彫刻の像」は肉眼をもたないが、その作品のなかには「夢」がある。「理想」がある。(それは、作者が託した「夢」であるが。)その「彫刻の像」さえもが見ることのできる「夢」を、いま、アテネを行き来する人々は見ることができない。
 厳しく、寂しい、いま、という時間。

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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(14)中井久夫訳

2009-01-25 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
地下室付三階建    リッツォス(中井久夫訳)

三階には貧乏学生が八人。
二階にはお針子が五人と飼い犬が二匹。
一階には地主とその養女と。
地下室には籠類と瓶類とねずみと。
三つの階の階段は共通だった。
ねずみは壁を登った。
夜、汽車が通る時、ねずみたちは
煙突から屋根に出て、
空を眺めた。雲も。庭の柵も。
料理店の灯も。
その下ではお針子が鎧戸を閉めた、
口にいっぱい針をくわえて。



 静かなスケッチである。
 6行目からはじまる「ねずみ」の描写がおもしろい。ねずみがほんとうに空を眺めたり、料理店の灯を眺めたりすしたかどうかは、わからない。ねずみはほんとうはそんなことをしないかもしれない。けれど、そうさせたい。ねずみに、そういう行為をさせたい。--それは、その建物のなかにいる人間たちの夢である。ねずみに託して、そういう夢を見ているのだ。それは、そこに住む人間たちがしたくてもできないことなのだ。時間がなくて……。
 人間は、たとえば「お針子」は、ねずみになって、ずーっと何かをみつめているという夢を「鎧戸」を閉ざすように閉ざして、仕事にもどる。

 ほんのひとときの、つましい夢。ねずみによって、それがいきいきしてくる。そして、そんな気持ちで読み返す時、5行目が、とても美しく見える。

三つの階の階段は共通だった。

 貧乏学生が通る。お針子が上る。地主も養女も上る。ねずみは「壁を登った」とあるけれど、ときには(人間がだれもいないときには)階段を上ったかもしれない。だれもに「共通」の階段なのだ。おなじように、ねずみの夢も人間の夢と共通なのだ。生きているもの、いのちがあるものに「共通」の夢なのだ。

 「共通」ということばが、とても美しい。
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リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(13)中井久夫訳

2009-01-24 00:00:00 | リッツォス(中井久夫訳)
輪    リッツォス(中井久夫訳)

同じ声だ。今はもっとしゃがれてる。それがあえぎつつ彼に告げる。
「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」。そう、いつも変わらぬ
繰り返しの輪。輪の中にあるのは
空の寝台。テーブルにランプだけが載って、
二本の手があてどなく
裏返し、表返すのを照らしている、
柔らかい黒皮の手袋のすっと長いのを二つ。



 この詩は、なんとなくエロチックな妄想をかきたてる。「声」が最初に出てくる。「しゃがれてる」「あえぎつつ」。そういう声が「「俺はここでやめて、ここからもう一度始める」と告げる。「彼に」。カヴァフィスの詩なら、完全に男色の世界になってしまうが、リッツォスの場合には、どうも違う。「彼」というのは、そこにいる誰かなのか。私には、なぜか「俺」が「俺自身」を「彼」と呼んでいるように感じられる。自分自身に「告げる」。--こういういことは、ふつうは「告げる」とは言わないかもしれない。特に「彼に、告げる」とは言わないかもしれない。
 けれど、なぜか、ここにふたりの(あるいはもっと多数の人間がいる)という感じがしない。孤独な感じがする。それは「空の寝台。テーブルにランプだけが載って、」という描写が、人気(ひとけ)を感じさせないからかもしれない。
 「俺」は「空の寝台」をみつめ、テーブルの脇で、テーブルの上のランプの明かりで手元を照らして、手袋を繰り返し繰り返し、裏返し、表に戻すという「無意味」なことをしている。何の気晴らしかわからない。けれど、そうせざるを得ない。「もう、やめよう」と思いながらも、繰り返してしまう。「ここでやめて」と言いながら、同じことを繰り返す。止めることのできない繰り返し--そこに、孤独がある。

 この詩は、その繰り返しの孤独ゆえの魅力とは別に不思議な味がある。前半は「声」、そして聴覚。そのあとランプ。視覚。そして、最後に手。触覚。感覚が次々に移っていく。その移り変わりのあり方、かわってしまってもとにもどらぬ旅の感覚が--また、孤独を、ひとりきりであることを、せつなく浮かび上がらせる。

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