詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

2020-10-09 15:16:00 | 映画
バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

監督 バーツラフ・マルホウル 出演 ペトル・コラール(2020年10月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 これは語りづらい映画である。ということは、映画そのものである、ことばにするとつまらない、ということなのだが。
 ホロコーストを逃れた少年が体験する「日常」を描いている。しかし、「日常」なのに「瞬間」でしかない。「いま」しかない。過去もなければ、未来もない。過去に経験したことが何の役にも立たないし、これから先、何が起こるかわからない。
 唯一、これから起きることがわかるのは、少年がナイフを拾った場所を教えに行くシーン。そこでは少年は「うそ」をつく。「うそ」というのは、かならず「計画」を含んでいる。つまり、そこには「未来」が予想されている。予想されている「未来」のために「うそ」をつく。
 このシーンが、いわゆる「普通の映画」らしい唯一の部分。そして、ひとつのクライマックスでもあるのだけれど、このわかりやすいシーンだけが、なんといえばいいのか、興ざめするのである。主人公に感情移入して、「やったね」と言ってしまうのだが、つまり共感してしまうのだが、その共感がこの映画を壊してしまう。このシーンがなければ、私は★を5個にした。マイナス1ではすまない、マイナス2という感じで、よくないのである。
 このほかのシーンは、少年には、何が起きているのか、さっぱりわからない。どうすれば生き延びることができるのか、「計画」が立てられない。場当たりで、反応するしかない。
 女とのセックスのシーンがそれを端的に語っている。女は少年にクリトリスを舐めさせ、快感にふける。次にセックスに誘う。少年は慣れていないから(まだ10代の前半、もしかしたら10歳以下かもしれないので、あたりまえだけれど)、あっという間に射精する。女は怒りだす。さらには、山羊とセックスして見せる(そういう素振りをする)。こんなことは、少年には絶対に想像できない。わからないことが、次々に起こる。目の前で「他人の行動」として起きるだけではなく、自分の「肉体」そのものが、そういう「現場」に誘い出されてしまう。
 少年は最終的に生き延び、父と再会するのだが、あまりに過酷なことを体験しているので、どうしても「未来」がわからない。父親と少年は一緒にバスに乗って我が家へ帰るのだが、そのとき父親は「未来」がわかっているから、安心して思わず眠ってしまう。けれど、少年は「眠り」に身をまかせることができない。父親の手に刻まれた数字を見て、自分にはそれがないことを思う。そして、自分の名前を、バスの窓に書く。「いま」自分は「ここにいる」と。「いま」「ここ」を「名前」で結びつけて、生きていくしかないのだ。
 映画のタイトルは、エピソードのひとつからとってる。野鳥の羽にペンキを塗って空に放つ。すると、仲間の鳥が「色違い」の鳥を見つけて、一斉に攻撃をし始める。小鳥は力尽きて墜落し、死んでしまう。少年はかろうじて「異端の鳥」のように死なずに生きている。しかし、それは偶然である。
 しかし。
 あまりの残虐さ(陰湿さ)に、耐えられない人がいるかもしれない。私は怖いシーン、血が飛び散るシーン、残酷なシーンは大好きな人間だが、この映画には、ちょっとまいった。どのシーンも、それがストーリーとなって動いていくのではなく、ただ「いま」としてそこにあるだけだからだ。普通の映画なら、このシーンは残酷だけれど、ストーリーをこんなふうに「説明」している、と言えるのに、この映画では、ただ「残虐」なだけでからである。









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クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

2020-09-28 19:41:58 | 映画
クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、ケネス・ブラナー

 大音響、という評判だったので敬遠していた。耳が痛くなるのは耐えられない。一方、私は大音響の中でも眠ることができるという特技を持っている。MRI検査。大音響と暗闇の密封感が怖いと言われていたけれど、私は、寝てしまった。検査がおわって、揺り起こされた経験がある。
 で、この映画、やはり大音響がつづくと私の肉体が「自己防衛」してしまうのか、うつらうつら。見ているのが面倒くさくなって、寝てしまった。
 だから、見落としがあるのを承知で書くのだが、ぜんぜん、おもしろくない。時間を逆行すると言ったって、ねえ。基本的には「ターミネーター」と、どこが違う? 「ターミネーター」のように悪役に魅力がない。ぜんぜん、こわくないじゃないか。
 あ、私は、ケネス・ブラナーが好きなんです。実は。声が。それで、ケネス・ブラナーが出ているなら見てみようと思って見たんだけれど、動機が不純だった? だからおもしろくない?
 いやいや。
 「時間逆行」のハイライトがはじまる寸前、カーチェイスというか、消防車などをつかった大がかりな車の暴走シーン。そのとき、主人公の乗っている車のバックミラーが壊れている(ひびが入っている)のを映し出す。これは、この車が実は未来でトラブルを体験してきたことがある。そのトラブルは、こういうこと、という導入部になっている。それが、見た瞬間にわかる。「さあ、見てください」とスクリーンいっぱいに映し出しているでしょ? 親切といえば親切だけれど、別にここまで親切にしてくれなくてもいいよ、と言いたくなる。
 タイトル前のオペラハウスで、椅子に開いた穴が、銃弾が逆戻りして塞がるシーンは、まあ、この映画のテーマが「時間の逆行」と説明するのに必要なんだろうけれどね。
 それにしても、笑ってしまうよなあ。「時間の逆行」といいながら、その時間は順行の時間とパラレル(平行)を、一枚のガラスを挟んで同時に見せるんだから。こんな種明かし(?)見たくないようなあ。「何が起きている?」と驚く前に、こんなばかな(図式的な)映像じゃ、「時間体験」にならないなあ。
 それにしても。
 悪役のケネス・ブラナー。彼には子供がいる。これが、この映画の最大のミス。脚本のミス。子供がいる、ということは、もうそこにはケネス・ブラナーの手の届かない「未来」(時間の順行)がはじまっているということ。どんなにあがいてみたって、ケネス・ブラナーは負ける、勧善懲悪というと変だけれど、ジョン・デビッド・ワシントンが最後には問題を解決して勝ち残る、ということがわかりきっている。いや、映画は別にストーリーを見るためのものじゃないから、結論がわかってもかまわないのだけれど、「時間」の問題の基本が提示され、そこに結論が浮かびあがるというのは、なさけない。あじけない。
 「ダンケルク」では、陸の時間、海の時間、空の時間を、「映画を見ている時間」に重ねあわせるという画期的なことをやった監督なのに、「未来」を描くのは苦手みたいだなあ。
 (2020年09月28日、t-joy 博多スクリーン9)


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ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

2020-09-25 08:51:05 | 映画
ロン・ハワード監督「パヴァロッティ 太陽のテノール」(★★★)

監督 ロン・ハワード 出演 ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ボノ

 俗に三大テノールという。ルチアーノ・パバロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス。私は音楽に詳しいわけではない。オペラは見たことがない。だから、いい加減に書くのだが、この三人は、私の感覚ではどうみても「同等」ではない。だから「三大」というのは奇妙な感じがする。(では、だれが三大かと言われたら、こたえようがないのだが。)
 まずホセ・カレーラスの声がピンと来ない。プラシド・ドミンゴは声よりも顔が目立つ。顔で人気が出たんだろうなあ、と思う。ルチアーノ・パバロッティは美声もあるが、何よりも「大声」という感じがする。そこが、非常に魅力的だ。こんな大声を出すことはできない。ホセ・カレーラスは完全に見劣りがする。
 で、再び、なぜ「三大テノール」か。この映画では、その秘密が明かされる。ホセ・カレーラスが白血病で入院した。彼を励まし、退院したのをきっかけに「三大テノール」として、一種の「応援コンサート」をやったのだ。これが成功し、「三大テノール」が誕生した。ホセ・カレーラスが見劣りがしたのは、単に声が小さい、体が小さいだけではなく、病み上がりという問題があったのかもしれない。
 つかわれている音源は古いものもあり、音質的には問題があるのかもしれないが、それでもパバロッティは飛び抜けて魅力的である。声が大きくて、まっすぐという印象が非常に強い。こんなふうに大声が出れば、私は音痴だが、音痴であっても歌うのは楽しくなるだろうと思う。
 声について、ボノがおもしろいことを言っている。パバロッティがオペラに復帰したとき、全盛期の声とあまりにも違う、と悪評だった。しかし、ボノは「つかいこんだ声の魅力がある」という。それを証明するように、プラシド・ドミンゴの指揮で、死んでゆく男かが歌うシーンがある。その声が、非常に切実である。若いときの、まだまだ大声が出せるというような感じではなく、限界を知って、それを受け入れる声の不思議な「なつかしさ」のようなものがある。
 ああ、そうなのか、と納得する。
 オペラともパバロッティとも関係ないのだが、「声」で思い出すのは、美空ひばりの「津軽のふるさと」である。少女時代の音源がCDとして発売されている。クリアな音ではないのだが、私のこの古い音源が非常に気に入っている。おとなになってから(?)の「津軽のふるさと」も何度か聞いたが「なつかしさ」が違う。少女なのに、大人以上に「なつかしさ」を知っている。一生に一度だけ体験する「ほんとうのなつかしさ」。その「なつかしさ」は、どこかでパバロッティの「なつかしさ」に似ている。それは「代表作」のひとつではあっても、「最高傑作/絶対作(?)」ではない。しかし、「これしかない」というものを内に抱え込んでいる。思わずこころが惹かれ、動くのである。
 ひばりは音符が読めない、と言われた。パバロッティも「どうして譜面どおりに歌わないのか」と批判されたとき「音符が読めないんだ」と応えたという逸話がある。(映画には出てこなかった。)そのことと関係するかどうかはわからないが、パバロッティがジュリアードで教えたとき、女性に「君の場合は、演奏よりちょっと速く歌った方が魅力が出る」というようなことを言う。「楽譜」として存在する音よりも、自分の「肉体」のなかにある音を解放する、その力にまかせるということだろう。こういうエピソードを聞くと、ああ、パバロッティはただただ歌うことが好きだったんだ、自分の「肉体」の声にしたがって歌っていたのだ、ということがわかる。自分を解放している。だから、あんなに伸びやかなのだ。
                 (キノシネマ天神1、2020年09月24日)

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太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

2020-08-23 12:10:07 | 映画
太田隆文監督「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」(★★★★)

監督 太田隆文

 「ドキュメンタリー」というよりは「インタビュー」。沖縄戦を生き残った人たちの証言と、当時の記録フィルムを合体した作品。
 この証言から、私はふたつのことを学んだ。
 ひとつは、沖縄は「日本本土」の「捨て石」にされた。「防波堤」というよりも、時間稼ぎの「捨て石」。沖縄を守ろうという気持ちは日本軍には少しもなかった。
 その視点(沖縄はどうなってもかまわない、日本本土さえ守れればいい)は、そのまま現在の政権に引き継がれている。
 さらに、この「沖縄捨て石(沖縄防波堤)」の考えは、いまはアメリカと共有されている。当時アメリカが沖縄を拠点にして日本を攻撃しようとしたように、いまは沖縄を中国や北朝鮮を監視する拠点にしている。もちろん、いざというときは「捨て石」の戦場にするつもりでいる。沖縄を戦場にしているかぎり、アメリカ本土への攻撃は遅れる。
 ここには沖縄県民(民族、歴史、文化)への蔑視が潜んでいる。同等の人間とは見ていない。
 これは、私がこの映画から学んだ、もう一つのことへとつながる。
 同等の人間と見ない、というのは、一方的な「人間観」を押しつける教育になる。「理想の日本人」を育てる、という教育につながる。それは簡単に言い直せば「洗脳教育」である。
 天皇を絶対視する。ことばを強制的に統一する。(これは、沖縄だけではなく、朝鮮半島でも行われたことである。ほかの国に対しても行われたことである。)この「ことばの統一」は単に「共通語/強制的に使用させる」というだけではない。
 ことばは、どこの国にとっても(そこにすむひとにとっての)、思想の到達点である。ことばをとおしてしか、私たちは考えられない。ことばを奪われることは考えることを奪われること、批判する力を奪われることである。
 それに関して、非常に興味深いエピソードが紹介されている。濠に避難し、「集団自決/日本軍による強制死」を迫られたとき、アメリカに住んだことのあるひとが濠から出てアメリカ軍と交渉する。アメリカ軍が、住民に「殺さないから出てこい」と呼びかけたことからはじまる交渉だが、彼は、アメリカ軍と交渉する。その結果、その濠に避難していたひとたちは全員助かる。別の濠に避難していたひとの多くは「強制死」の犠牲になる。
 かれは、なぜ、交渉ができたのか。英語が話せる、というだけの理由ではない。他人のことばを聞き、それが真実であるかどうかを自分で考えることができたからだ。どちらの考え方が正しいか、自分で判断できたからだ。こういう考えが育つためには、人間はいろいろな意見を持っているということをまず知らないといけない。そのうえで、自分に何ができるか、どうすれば生きられるかを考える必要がある。そのとき、必然的に「批判」というものが生まれてくる。
 もうひとつ、これに関連して。
 「強制死/集団自決」が手榴弾をつかって、はじまる。しかし、不発弾が多くて、なかなかうまくいかない。そうこうするうちに、一人の母親が「どうせ死ぬにしろ、いまここで死ぬ必要はない。生きられるだけ生きよう、逃げよう」と子どもたちをつれ、「強制死」の現場を脱出する。母親の「本能」といえば本能なのかもしれないが、ここでも力を発揮しているのは、自分で考えること。そして、自分のことばで語ること。母親は自分のことばで、こどもたちを説得したのだ。
 「教育」と「洗脳」は、かなり似通ったところがある。そしてそれはいつでも「ことば」の強制と同時にはじまる。
 ここから、私はこんなことを考える。映画からかなり離れるが、考えたことを書いておく。
 いま、「国語教育」の現場で「文学」が排除され、「論理国語(?)」というものが幅を利かせようとし始めている。社会に流通している「文書」を正確に読み取り、ひととの交渉をスムーズにする、ということが目的らしい。
 だが、人間の「交渉」にはいつも「論理」以外に「感情」もまとわりついてくる。そのまとわりつき方は微妙で、正確に把握するのはむずかしいが、ともかく「感情」にひとは直面する。その「感情」というか、「思い悩み」(ことばにしにくいあれこれ)をことばをとおして学ぶのが「文学」である。「文学」はたしかに「契約書」の内容を正確に把握するには効力を発揮しないかもしれないが、意外な力を発揮することもあるはずだ。「このことばは、どういう意味だろう」だけではなく、「なぜ、いまここで、こんなことばをつかっているのだろう」と疑問を抱く。そこから「契約書」の秘密(隠しておきたいこと)が見えてくることもある。様々なことばを知り、それについて自分で考える力を身につけることは、どんなときでも必要であり、それは「実用以外のことば」に触れることでしか身につかない。
 だから、こんなことも考える。ジャーナリズムには、いつでも「権力からリークされた新しいことば」があふれかえる。「新しいことば」を知っていること、それをつかいこなせることが「正しい」ことのように書かれている。しかし、「新しいことば」は不都合な何かを隠すために考え出されたものであることの方が多い。いままでつかっていたことばでは間に合わない。そのとき、国民をだますために「新しいことば」がつくりだされる。「おまえはこの新しいことばを知らないのか。知らない人間が何を言うか。黙って、新しいことばをつかうひとの言うことを聞け」。こういうことが平然と行われる。
 最近では「新しい生活様式/3密回避」というのがある。どこが新しいのか。不便なだけだろう。大勢が集まり、大声で議論し、より親密な関係をつくりだしていく。これは「民主主義」の理想ではなかったのか。だれもが自分の意見を言う。意見を聞いて、はじめてその人の生きている現実がわかる。現実をどうかえていけば、みんなが幸福になれるか。それを考えるのが「民主主義」である。その、人間の基本的な生き方を否定するのが「新しい生活様式/3密回避」である。ひとは権力によって「分断」される。情報(ことば)は、権力が一方的におしつける。それが「正しい」かどうか、いろいろな立場で検証してみないとわからない。様々なひとが「自分の立場」を自己主張し、その自己主張に耳を傾けないと、「政府情報」が「正しい」かどうかわからない。安倍政権がやろうとしているのは、この「国民には何が起きているのかわからない」という状況をつくりだして、一方的に支配力をつよめるということである。
 「PCR検査をしない」「GOTOキャンペーンは経済を救う」。そこには「情報操作」が行われている。「情報」とは「ことば」である。限られたことば、政権にとってつごうのいいことばだけがジャーナリズムをとおして、強制的に流通させられている。
 もっと手の込んだ「情報リーク」というものもある。新聞の片隅をつつくと、そういうものがどんどん出てくる。
 どんなことでも、自分のことばで言い直す、ということが必要なのだ。もちろん、個人が知っていることは限界がある。だから、間違える。しかし、この「間違い」が必要なのだ。「間違い」つづけるかぎり、「政権の言いなり」にはならない。「洗脳」されることはない。「間違い」は時間をかけて、日々の暮らしのなかで、ひとつずつ正していけばいい。いずれ、「正しい」に出会う。それまでは、自分のことばを動かしつづけるだけである。
 この映画には、「自分のことば」で語りつづけるひとが次々に出てくる。そして、絶対に「自分のことば」以外では語らないを、決意している。ことばの強さが、この映画を支えている。そういう意味でも、この映画は「ドキュメンタリー」ではなく「インタビュー」であることをもっと強調してもいいのではないのか。
                 (中洲大洋スクリーン3、2020年08月20日)
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アイラ・サックス監督「ポルトガル、夏の終わり」(★★★★)

2020-08-14 16:40:58 | 映画
アイラ・サックス監督「ポルトガル、夏の終わり」(★★★★)

監督 アイラ・サックス 出演 イザベル・ユペール、マリサ・トメイ、ブレンダン・グリーソン

 映画館でポスターを見かけ、その緑の美しさに目を奪われた。チラシに書いてあることを読むと、おもしろい映画とはいえない。イザベル・ユペールは、きっとわがままな役を演じるんだろうなあ。フランス人はたいていがわがままだから、地でやるんだろうなあ。あまり見たくはないが、緑が気になる。
 ということで見に行ったのだが。
 なんと美しい。もう美しいということばだけを並べ立てて感想をおしまいにしたいくらいに緑が美しい。
 アジア・モンスーンの、ひたすら強靱な緑とは違う。イギリス、アイルランドの暗い緑(黒い緑)とも違う。
 たとえて言うと。春先の若い緑がやわらかさを抱えたまま重なり合い、いくつものの緑に分かれていく。そこにはもちろん夏にしか存在しない強い緑もあるのだが、その周辺にはまだまだ硬くならないままのみどりがそよいでいる。
 そしてそれが朝の光、昼の光、夕方の光のなかで、反射に、陰を抱え込み、どこまでもどこまでも変化する。さらに雨まで降ってくる。雨もアジア・モンスーンの雨とは違うし、イギリスの雨とも違う。やわらかく、深く、霧のようにやさしく緑をつつむのだ。
 舞台のシントラという街が少しだけ出てくる。ポルトガルは石畳の坂の街。壁には独特の装飾。路面電車の街。それはシントラも同じで、石畳の坂と路面電車と、壁の装飾も出でくる。赤い煉瓦色の屋根や、様々な色の壁。そのすべてが、変化する緑に抱かれている。海さえも、なんといえばいいのか、山(緑)と向き合い、拮抗するというのではなく、遠慮がちに存在しているように感じられる。身を引きながら、緑を抱きしめているという感じか。
 映画は、この多様で、傷つきやすいような、しかしいろいろな変化を受け入れながら育っていく緑、様々に変化する緑のように、人間が生きているということを教えてくれる。人間のそれぞれが一本の木。それぞれの緑は似ているようで違う。違うけれど、光と水と風といっしょに生きて、違うものがあつまることで、一本ではあらわせない美しさを奏でる。音楽のように。ぶつかったり、はなれたり、あつまったり。その瞬間瞬間に、同じ緑に見えていたものが、違った緑に見える。それがおもしろい。
 映画の最後のシーンは、緑とは少し違うのだが、みんなが山の上に大西洋に沈む夕日を見に行く。ばらばらのシルエットが山の上に描かれる。しばらくして、登場人物がみんな坂を下りて帰ってくる。映画では描かれない「夜の緑」のなかへ。その描かれなかった「夜の緑」を見るために、シントラへ行ってみたい、と思わせる映画である。夜、窓からもれてくる灯。人工の光、うごめく人間の影を、シントラの緑はどう受け止めているのか。
                   (KBCシネマ2、2020年08月14日)
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ジョージ・ミラー監督「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(★★★)

2020-08-01 17:00:11 | 映画
ジョージ・ミラー監督「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(★★★)

監督 ジョージ・ミラー 出演 暴走車、砂漠、トム・ハーディ、シャーリーズ・セロン
 コロナウィルス拡大のため、客が入りそうな(人気のあった)過去の映画が再映されている。「マッドマックス 怒りのデス・ロード」もその一本。初公開は2016年。目の調子が悪いときだった。予告編で、おもしろそうだけれど目が疲れるだろうなあと思い敬遠して見なかった。いまも目の調子は悪いが、調子の悪さにも慣れたので、見てみた。
 予想通り、目が疲れた。
 映画は、ひたすら「映像」と「音楽」に終始している。オペラのようなものだ。ここまでやってしまうと、快感である。ストーリーなんか、どうでもいい。シャーリーズ・セロンが出ているが、美形であろうがなかろうが、もうほとんど関係がない。
 タンクローリーのような車でシャーリーズ・セロンが逃げる。それを「トラック野郎」軍団が追いかける。ひたすら逃げ、ひたすら追いかける。うーん。なつかしいなつかしい、「激突」の世界。
 スピルバーグは1対1の逃げる、追いかけるを「人間」を排除して描くことで、タンクローリー(だったっけ?)に「人格」を持たせた。タンクローリーの面構えが魅力的だった。逃げる車なんか、どうでもいい。踏み切りで、列車が通りすぎるのを待つ。そのときタンクローリーがぐいぐいと押す。セダンの男は必死になってブレーキを踏む。そのとき、「がんばれ」と応援してしまうのは、逃げる男に対してではなく、タンクローリーに対してだ。もっと押せよ。それくらいのパワーはあるだろう。思いっきり感情移入してしまう。だから、最後、タンクローリーが、クラクション(というより警笛ということばの方がぴったりくる)を鳴らしながらがけ下へ落ちていくのを見るときは、それが悲鳴に聞こえてしまう。あと、もうちょっとだったのに……。
 この映画は、それを踏襲していることになるだろう。逃げる方も、追いかける方も人数が増えているので、悲壮感(?)はない。お祭りだ。だから、オペラになる。人間なんか、どうでもいい。トム・ハーディやシャーリーズ・セロンがどんな過去を背負っているか、どんな未来を夢見ているか。そういう「説明」がカットバックで入ってくるたびに、ああ、めんどうくさいと思ってしまう。
 そういう「時間(ストーリー)」は放り出して、ただ逃げる、追いかける、攻撃する、というのがわくわくする。どうせ映画なのだから、現実にはありえないものをどれだけ繰り広げるかだけが重要なのだ。妊婦の事故死(?)もシャーリーズ・セロンやトム・ハーディの不死身も、ありえないからこそおもしろい。トム・ハーディは、メル・ギブソンに比べて「美形度」が落ちるのが残念だった。こういう荒唐無稽には「絶対的美形」が必要なのだ。まあ、それでシャーリーズ・セロンが駆り出されているのだろうけれど。
               (中洲大洋、スクリーン1、2020年08月01日)



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イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

2020-07-26 12:31:03 | 映画
イ・ウォンテ監督「悪人伝」(★★★★★+★★★★★+★★★★★)

監督 イ・ウォンテ 出演 マ・ドンソク、キム・ムヨル、キム・ソンギュ

 これは、もうわくわく度がとまらない大傑作。
 何が傑作の理由かといって……。
 チラシに、こう書いてある。

極悪組長×暴力刑事vs無差別殺人鬼

 さて、あなたがこの映画の出演依頼を受けたとしたら、だれを演じたいですか? この「問い」にどう答えるべきか考えると、傑作の理由がわかる。
 映画でも小説でも、それが「傑作」であると感じるのは、自分を主人公に重ねて、主人公のこころの動き(行動)に心酔するからだ。こんな風に生きたい。こんな風に言ってみたい。
 さて、「これが私の夢の生き方だ」と、言いたいのはだれ?
 見終わっても、「答え」が見つからない。

 社会の常識からいえば、まあ、刑事がいちばん無難。暴力刑事ではあるけれど、社会のために働いている。他人から「後ろ指」さされることもない。与えられた仕事をするだけではなく、「正義感」もある。その「正義感」から暴走するのだけれど、この手の刑事はいままでも映画で描かれてきたしなあ。
 それに、この暴力刑事が魅力的なのは、極悪組長と無差別殺人鬼がいてこそなのだ。どちらかひとりでは、そんなにおもしろくない。平凡。そう考えると、「主役」じゃないよね。
 タイトルからわかるように、主役は極悪組長。彼は無差別殺人鬼に襲われ、重傷を負う。面子が丸つぶれ。だから加害者を探し、仕返しがしたい。仕返ししたということを、みんなに示したい。そのために刑事と手を組んで、「捜査情報」をたよりに無差別殺人鬼を追いかける。
 ストーリーとしては、この暴力刑事と極悪組長が手を組むというところにおもしろさの秘密があるのだが、それを支える(?)のが無差別殺人鬼。彼次第では、単なるストーリーになる。なぞというか、殺人鬼の「快感」を体現しなくてはいけない。殺したいと思うことと、実際に殺すこととの間には大きな隔たりがあるのだけれど、その隔たりを感じさせず、接着剤のようにして「快感」がないといけない。「憎しみ」ではなく「快感」。人間として許されることではないのだが、だからこそ、映画なら、そんな「人生」も体験してみたいと思うでしょ?
 だから、たとえば。
 クライマックス。屋上にいるところを見つかり、走って逃げる。そのあとカーチェイスが始まる。結末はわかっている(想像がつく)にもかかわらず、殺人鬼に対して、「逃げろ、逃げろ、逃げ抜け」と私は応援してしまう。これって、「反正義」の感覚だよなあ。「逃げろ、逃げろ」と応援しながら、わくわくする。追跡の途中で刑事の車と組長の車が衝突すると、「やったぜ」と思ったりする。
 その一方で、刑事の車と組長の車が協力して殺人鬼を追い詰めるのを期待している。
 矛盾しているねえ。
 でも、こういう「矛盾」した感覚を引き起こすというのが、「傑作」の基本。
 どうせ、映画なんだから。
 自分が現実には体験できないことを、リアルに感じたい。
 で。
 自分の現実で、いちばん実現(実行)できないのは、どっち?
 極悪組長? 暴力刑事? 無差別殺人鬼?
 全部できないから、全部やってみたい。

 この映画は、荒唐無稽であるだけではなく、細部が非常に綿密。法廷で展開される証言につかわれる「メモ」。その「主語」を破り捨てて、目的語、述語の部分だけを利用するというところなど、うなってしまう。いや、叫んでしまう。
 「うまい!」
 脚本が、完璧。

 でも、なんといっても、この映画はマ・ドンソクの演技につきるかなあ。
 極悪組長とはいっても、この丸顔、しまりのない唇、憂いを含んだ(?)目つき。矛盾した愛嬌というか、かわいらしさがある。それを隠しながら「極悪」を生きているのだが、ときどき「憎しみ」ではなく「よろこび」をあらわす瞬間があり、そのときの表情がいい。
 暴力刑事が部下を殴りつけるとき、「おまえ、やるじゃないか」という表情をしたりする。最後の最後には、刑務所に収監されるのだが、その刑務所に殺人鬼がいるのをみつけ、「ここにいたか、待ってろよ」という感じで、にやりと笑う。いや実際に「にやり」までいかない。「にやり」を隠して、相手を見据える。
 こんなこと、私はしたことがない。
 だから、やってみたい。
 映画なんだから。

               (KBCシネマ、スクリーン1、2020年07月26日)









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エミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」(★★★★★)

2020-07-18 12:25:05 | 映画
エミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」(★★★★★)

監督 エミリオ・エステベス 出演 エミリオ・エステベス、アレック・ボールドウィン、クリスチャン・スレイター

 大作というのでもない。傑作というのでもない。けれど★5個をつけたくなる映画というものがある。このエミリオ・エステベス監督「パブリック 図書館の奇跡」が、それである。
 父親はマーティン・シーン、弟はチャーリー・シーン。ふたりに比べると「地味」だが、足が地についた「主張」がある。だから脚本も監督もやるのだろう。
 この映画でのエミリオ・エステベスの「主張」とは何か。
 ことばはだれのものか。必要としている人間のものだ、につきる。
 そして、この「必要としている人間のもの」はことばだけではなく、ほかのものにもあてはまる。音楽も美術も。この映画では「図書館」が「寒さを避けるための空間(室内)」として求めれている。この「求め方」はほんらいのあり方とは違う。違うけれど、そういうものが求められたとき、どう人間は対応できるか。自分の「肉体」をとうして「再現(実行)」できるか、それが、問われている。
 オハイオ州シンシナティ。寒波に襲われた街。行き場のないホームレスが「図書館」を占拠する。どう対応するか。それがテーマ。図書館は、ホームレスのシェルター(受け入れ場所)ではない。でも、追い出してしまうと、彼らは凍死する恐れがある。
 そのやりとりの過程で、エミリオ・エステベスが「怒りの葡萄」を引用する。
 ここで、私は涙が出てしまう。おさえきれない。しばらくはスクリーンが見えなくなってしまう。エミリオ・エステベスは、無意識のうちに「怒りの葡萄」のことばに支えられて生きてきた。何か言わなければならなくなったとき、そのことばを語る。それは彼のことばではない。けれど、それを口にしたとき、それはスタインベックのことばではなく、彼のことばなのだ。
 このとき、エミリオ・エステベスは、「一個の肉体(ひとりの人間)」なる。「ことば」ではなく「声」を生きる。ことばを「肉体」にしてしまう。
 このとき、そのことばは、それを聞いているホームレスのことばでもある。「声」にならない「声」が、いま、エミリオ・エステベスがスタインベックの「ことば」を生きることで「声」になり、共有されて、ホームレスの「肉体」のなかで動いている。
 ことばの共有は、最後にまた違った形で展開される。
 警官が突入することを知ったエミリオ・エステベスとホームレスたちは裸で逮捕されることを望む。無抵抗の象徴として裸になる。そのとき、エミリオ・エステベスが歌い始める。その歌をホームレス全員が歌う。音楽の共有だけれど、その音楽は、そのとき何よりも、ことばなのだ。いいたいことが、そのことばのなかにつまっている。他人の書いたことば(歌詞)だが、歌うとき、そのことばはホームレスの「声」となって彼らの「肉体」を結びつける。
 ことばはだれもが話すが、だれもが語れるわけではない。でも、語らないといけないときがある。自分でことばを組み立てる必要がある。だれにでもできるわけではない。そういうときは、知っていることばに頼る。覚えていることばに頼る。覚えているのは、そのことばが彼を支えてくれていたからである。ことばは、覚えられて、肉体になる。肉体になって「共有」が広がっていく。
 こういうことが、図書館を舞台に繰り広げられる。
 図書館はことば(情報)の宝庫だ。そこにやってくるひとたちは、「情報」を求めている。なかには、「実物大の地球儀はない?」というとんでもないものもあるが、世の中にはとんでもないものを「情報(ことば)」として求めている人もいるのだ。そういうものを図書館はもっていない、図書館にはない情報(ことば)もある。それを、どうやって獲得するか。その「答え」のひとつが、「怒りの葡萄」と「歌」によって表現されている。「共有」は図書館にはないのだ。共有できる「ことば(情報)」を提供できるが、「共有」そのものを提供できない。「提供」を獲得するとき、ことばも情報もかわっていく。そこから現実のドラマが始まる。「生きている」ということが始まる。
 ことばをあつかう仕事をしてきたこと、ことばを読んだり書いたりすることをつづけている私には、ひとつの「理想」を見る思いがする。そういうことも★5個の理由だな。
 それにしても、「交渉人」「テレビのレポーター」も組み合わせ、ことばの「共有」の問題を、ことばがいっぱいの図書館を舞台にして、ドラマにする脚本には細部に目配りがきいていて、エミリオ・エステベスの演技同様、浮ついたところがなく、とてもいいと思った。
              (KBCシネマ、スクリーン2、2020年07月18日)





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大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

2020-07-14 18:13:06 | 映画
大森立嗣監督「MOTHERマザー」(★★★★★)

監督 大森立嗣 出演 長澤まさみ、奥平大兼、阿部サダヲ

 予告編を見て、非常に気になった映画である。何が気になったかというと、カメラの演技が少ない。最近の映画は、訳者が演技していないものをカメラの切り取り方で演技にしてしまう。それが、どうも気に食わなかった。この映画は、そういう部分が少ない。カメラの枠のなかで、役者が充分に演技をしている。そして、その「肉体」がきちんと伝わってくる。
 唯一(?)、カメラが演技をするのは、長澤まさみが奥平大兼にすがりつき、「もうお母さんには修平しかいない」と泣くシーン。カメラは二人の全身から、奥平大兼の握りしめた拳へのアップへと動く。そのぎりぎりの抑制で震える拳に奥平大兼の感情があふれているのだが、ここはそのまま全身のままでとめておいてほしかった。奥平大兼が、長澤まさみから平手打ちされ、そのままぴくりとも動かない。顔は殴られたとき横に動き、斜め下を見ている。その動かない奥平大兼に長澤まさみがすがりつくのだが、そのままがいい。私の好みからいえば、もしカメラが演技をするのだとしても、それはアップではなく、むしろ引いてほしい。引いた画面の端に(離れたところで)、妹が遊んでいる姿が入ってきたら、私は泣いてしまっただろうなあ、と思った。
 長澤まさみは、私は初めて見たのだが、とてもよかった。子どもを育てる力がないのだが、「私の産んだ子ども、私の一部」という感じが、せりふだけではなく、肉体から発散されている。自分の肉体そのものだから、彼女自身が肉欲におぼれる自分を許すように(性交することによって、その後何が始まるのか、それから起きることを受け入れるように)、子どもの「肉体/精神」が傷ついていくことを許してしまう。「修平なら、こういうことを自分の肉体で乗り切ることができる」と信じている。そして、その「信じていること」が暴走して、奥平大兼に祖父母(長澤まさみにとっては両親)殺しをさせてしまう。このときの、ふたりの全身の演技はとても素晴らしい。(カメラは演技を放棄して、ただ「枠」に徹している。)殺人を押しつける方も、引き受ける方も、どうしていいかわからなくなっている。長澤まさみは「息子が殺人を侵しても、その肉体も精神も傷つかない、そういう力を持っているはずだ。私の子どもなのだから」と思っている。奥平大兼は「もし祖父母を殺さなければ、殺して金を手に入れなければ、母は肉体も精神も傷ついて死んでしまう」と思っている。いや、ふたりは思っているというよりも、思い込もうとしている。互いの思いを了解した上で、自分の肉体を動かす。「これは、私の肉体」。ふたりが、互いのことをそう思っている。精神の苦悩も「これは、私の苦悩」と思っている。私は便宜上わけて書いたが、ふたりは、それをわけることができないところにまで追い込まれている。この緊張感がすごい。
 ふたりには、結局何が起きたのかわからないのだと思う。わかることは、「私は息子が好き」「私は母が好き」ということだけなのだ。その「好き」のためにはいろいろなことができるのだけれど、その「いろいろ」を想像できない。「好き」という感情が強すぎて、他の人が「こうしたらいいのに」(親ならこうすべきだ/こどもならこう生きるべきだ)ということばを受け入れることができない。
 倫理や正義をもちだすと、この映画は、とんでもないものになってしまう。長澤まさみの行為も、奥平大兼の行為も、社会(良識)は決して受け入れることができない。しかし、良識を超越しているものが、この世にはあるのだ。「いのち」そのものが、すべてを超越しているだろう。ひとが死んでも、どこかしらないところで「いのち」そのものはつづいているのだから。
 ここから思うことは、たったひとつ。私の母は母の肉体を「分割」するように私を産み落としてくれた。「ひとり」として産んでくれた。そうであるなら、私はぜったいに「ひとり」にならないといけない。
 そういう思いに至ったとき、ふっと、ラストシーンで長澤まさみも奥平大兼も「ひとり」であることを受け入れることができるようになっている、と思った。信じられないような「つながり」で「ひとつ」になっていた「ふたり」だが、最後は「ひとり」であることを受け入れて、自分と他人をみつめている。そこに静かな「安らぎ」のようなものがある。悲惨なストーリーだが、超越的な美しさがある。長澤まさみも奥平大兼も、非常にいい役者だ。
(T-joy 博多、スクリーン3、2020年07月14日)  




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ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

2020-07-12 13:31:51 | 映画
ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

監督 ウッディ・アレン 出演 エル・ファニング、ティモシー・シャラメ

 最近のウッディ・アレンは弱い光のなかで、輝いたり陰ったりする「人肌(女性の肌)」の変化に執着している。この映画でも、最初からそういうシーンで始まる。大学のキャンパスでエル・ファニングとティモシー・シャラメが話をする。夕方の色づいた光がエル・ファニングを染め上げる。金髪がやわらかに輝き、ほほが朱色(黄金?)にそまる。エル・ファニングが美しいのか、夕暮れの光が美しいのか、判断に迷う。そして、迷っている瞬間、私は、私がウッディ・アレンになっていると感じる。
 言い直すと。
 もしエル・ファニングが魅力的に見えたとしても、それは彼女自身の力によるものではない。ウディ・アレンの演出、特に光の演出によって、この世を超えた存在になっているのである、とウディ・アレンは言っているのだ。
 ここではウディ・アレンは「自己分裂」していることになる。
 ふつうはミューズに出会い、ミューズに引かれて、さまざまな活動が始まる。しかし、ウディ・アレンの場合、それは「女性」であるだけではだめなのだ。その「女性」をウディ・アレンが求める光のなかに存在させることで、彼女はミューズに生まれ変わるのだ。ミューズがウディ・アレンを育てるのではなく、女性をミューズに生まれ変わらせることで、ウディ・アレンの創作欲は動き始めるのだ。
 ミューズによってウディ・アレンは生きているということを装い、ウディ・アレンは次々にミューズを取り換えていく。ウディ・アレンにとってミューズは突然やってくるのではなく、ウディ・アレンの「創作」でもある。同じミューズを使っていたら「自己模倣」になる。「自己模倣」を乗り越えるためには、次々にミューズを「更新」しなければならない。
 そういうことが、非常によくわかる映画である。ダイアン・キートンからはじまり、エル・ファニングにたどりつくまでの「女性の変遷」を見ていると、とくにそう感じる。
 ウディ・アレンの「好み」は「成熟」というよりは、「未成熟=未完成」である。「ブルー・ジャスミン」のケイト・ブランシェットさえ、「未完成」を生きている。「わがまま」を貫いている。(ダイアン・キートンは、唯一、未成熟とは無縁の女性に見えるが、未成熟を感じさせないことがウディ・アレンには耐えられず破綻したのかもしれないし、そこで破綻したからこそウディ・アレンの女性遍歴=ミューズ探し、ミューズづくりがはじまったかのもしれない。ウディ・アレンには「未熟、未成熟」と「純粋」のあいだには大きな違いがあるということが明確に認識されていないのかもしれない。「未成熟」なら「純粋」と思い込んでいる感じがある。)

 ということを書いてもしようがないが。

 私は、エル・ファニングが生理的に嫌いである。
 こう書き始めた方がよかったかもしれない。
 なにが嫌いか。「童顔」が嫌いである。「童顔」は「未成熟」とは違い「未熟」である。まだ「成熟」に手がかかっていない。
 でも、これは考えようによっては、「成」の気配さえないのだから、どんなふうにでも育てられる。変化させることができるということかもしれない。それは、逆に言えば、手を着けたいけれど、どこから手をつけていいかわからないということでもある。
 この映画のなかでは、恋人のティモシー・シャラメのほかに三人の「成熟」した男が出てくる。彼らは、ティモシー・シャラメに対して、どうしていいか、さっぱりわからない。したいことが「ある」のだけれど、それを具体化できない。ディエゴ・ルナは自宅に誘い込むが、スカーレット・ヨハンセンが帰って来て、したいことができない。自分の「未熟」をさらけだしてしまう。
 ウディ・アレン(ティモシー・シャラメ)も、結局、何もできない。
 自分のしたいことをエル・ファニングに明確に伝えるが、エル・ファニングは目の前にあらわれる「魅力」に右往左往して、エル・ファニングを「支えている」ティモシー・シャラメを、ほんとうに「つっかえ棒」のように利用しているだけである。そして、その自覚もない。
 ここには、どうすこともできない「分裂」がある。
 そして、この分裂は、最初に書いた「ウディ・アレンの自己分裂」に、そのまま重なる。
 ティモシー・シャラメはエル・ファニングに魅力を感じるが、それはティモシー・シャラメの求めている「陰影」を背負ったときのティモシー・シャラメなのだ。セントラル・パークの馬車のなかで、ティモシー・シャラメは「街路の騒音と、部屋の中の沈黙」というようなことを言う。だれのことばだろうか。私は知らない。それに対して、その出典を「シェイクスピアね」とエル・ファニングが言う。このとき、ティモシー・シャラメは、エル・ファニングに「陰影」を与えることは絶対に無理だと悟る。エル・ファニングは「陰影」を生きる人間ではないのだ。

 「陰影」好みなんて、スノッブだ。全体的な美は「無垢」にある。でも、「無垢」のままは嫌い。「陰影」を与えたい(自分の好みにしたい)、というのは「かなわぬ恋」である。
 この映画は、エル・ファニングとティモシー・シャラメを描いているが、ふたりがいっしょに行動するシーンは非常に少ない。「恋」は、「ミューズはほんとうにいるのか」というストーリーのための「枠組み」に過ぎない。そのことも、「かなわぬ恋」を雄弁に語っている。
 ウディ・アレンの映画を見ると、私はたいてい登場人物が大好きになるが、この映画ではかろうじてジュード・ロウが年をとっていい男になったなあと感じたくらいで、ほかの登場人物(役者)には「共感」というものを感じなかった。「凡作」だと思った。しかし、ウディ・アレンとミューズとの関係がとてもよくわかった気がしたので★をひとつ追加した。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2020年07月12日)


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ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

2020-07-08 15:43:01 | 映画
ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ

 非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
 この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
 この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
 手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
 少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
 これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
 さて。
 ここで、私は悩む。
 この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
 と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
 少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
 何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
 だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
 握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
 このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
 この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
 ああ、よかった、と思う。
 私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。

(KBCシネマ2、2020年07月08日)


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ペドロ・アルモドバル監督「ペイン・アンド・グローリー」(★★★★)

2020-06-19 17:44:35 | 映画


監督 ペドロ・アルモドバル 出演 アントニオ・バンデラス、アシエル・エチェアンディア、レオナルド・スバラーリャ、ペネロペ・クルス

 ペドロ・アルモドバルの映画は絵画(色)と音楽が強烈だ。この映画でも色が鮮やかだ。そして、その色の鮮やかさが最後に光に変わる。そこに、この映画のすべてがある。
 
 有名監督が、肉体の痛みに苦しんでいる。栄光はあるが、新しいことは何もできない。ただ生きているだけ、という状態だが、こういう状態をさらに苦しめるのが「過去の栄光」というものなのか。栄光を思い出すが、気分は晴れない。過去を思い出せば出すほど、つらくなる。
 それが、最後の最後の瞬間。
 アントニオ・バンデラスは一枚の絵を見つける。そこには幼い自分が描かれている。太陽の下で本を読んでいる。それを見たとき、アントニオ・バンデラスは「最初の欲望」を思い出す。
 家の修理をしている若い男。(この男が、少年時代のアントニオ・バンデラスを描いたのだ。)仕事をして体が汚れたので、水を浴びる。その姿を少年は、ベッドでうたた寝しながらみつめている。健康な体に水しぶきがはねる。光が散らばる。若い男が体の向きを変えると、体に隠れていたペニスが見える。「タオルをとってくれ」。少年はタオルを持って若い男に近づく。正面からペニスが見える。少年は、気を失う。
 日盛りの下で本を読んでいた。熱射病が原因だが、それだけではない。少年は、そのときはじめて「欲望」を知ったのだ。「el primer deseo 」は「欲望の最初」と訳したい感じがする。少年は、自分に「欲望」というものがあったと知る。「欲望」を発見するのだ。
 それは太陽の光そのもののように輝かしい。

 映画の冒頭、アントニオ・バンデラスはプールに沈んでいる。背中の痛みをやわらげるためなのだろうが、この不思議なシーンは、最後の「欲望」の発見の「水」ともつながっている。少年は「欲望」を発見しただけてはなく、「欲望」のなかに自分の理想像をみたのだろう。水をはじいて、きらきら輝く肉体。

 しかし、少年は、成長し、その欲望のままに生きるわけではない。欲望を殺し、「愛」に生きる時代もあった。薬物中毒に苦しむ恋人に寄り添い、旅をする。恋人が薬物中毒から立ち直るのを待って、マドリッドに帰ってくる。そういう時代があった。
 その後、その恋人との生活を何度も映画化している。それは忘れられない「祝祭」であり、「栄光」よりも輝かしいものに違いない。その「忘れらない」感情を、体力が落ちたいまは「芝居」にしている。それを演じるのは、一度は仲違いした役者であり、それを昔の恋人が偶然に見て、主人公は自分だときづく、というシーンもある。
 私の書き方は逆になったが、映画は、いまと過去を交錯させながら、最後に「最初の欲望」を発見するという展開になっている。そういう展開だからこそ、最後の「欲望」の発見が、とても美しい。
 この「欲望」の発見は、また、「欲望の法則(La Ley del deseo)」を思い出させる。アントニオ・バンデラスが出演した。「Dolor y gloria」という原題も音が美しいが、タイトルは「el primer deseo 」の方がよかったのではないか、と私は思った。この文字がパソコン画面をさっと横切っていくシーンも非常に美しかった。

(キノシネマ天神、スクリーン2、2020年06月19日)



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ワン・シャオシュアイ監督「在りし日の歌」(★★★)

2020-06-14 15:56:39 | 映画
ワン・シャオシュアイ監督「在りし日の歌」(★★★)

監督 ワン・シャオシュアイ 出演 ワン・ジンチュン、ヨン・メイ

 映画はいつでも「いま」を描くものである。
 この映画は、中国の「ひとりっこ政策」の時代から「現代」までを、しっかりと俯瞰している。俯瞰している、というのは、「いま」から「過去」をみつめていると言うことである。しかし、この「過去」をみつめるという「動詞」はなかなかやっかいなものである。「思い出した」瞬間、それは「過去」ではなくなる。「いま」になる。40年前が、「きのう」よりも鮮やかに「きょう」のとなりに存在する。それは「いま」を突き破って、「未来」にさえなってしまう。映画のラストシーンは、まさに「それ」である。「過去」が「過去」にとどまっていてくれない。「過去」の「夢」(見たかったけれど、みることのできなかった夢)が、「いま」を突き破って、主役二人の「未来」を語るのだ。その美しい「夢」は、「いま」がどんなに哀しいかを語る。「未来の夢」は「過去」にそれを夢みたときよりも不可能になっている。不可能を知って、それでも「夢みる」という「いま」がある。それは、「過去」を生きるということにつながる。

 あ、何が書いてあるか、わからないでしょ?

 わからなくて当然なのです。実は、私もわかって書いているわけではないのだから。私がわからずに書いていることが、読んだ人にわかるということは、ありえない。それを承知で、しかし、私は書く。わかりたいから。

 と書けば、これがそのまま映画のストーリーにもなる。「事件」のストーリーではなく、主人公たちの「こころのストーリー」になる。
 「わかる事実」と「わかることのできないこころ」があり、その「わからないこころ」は「わからない」がゆえに、こころを占領してしまう。これを言い直すと、いま思っていること、それ以外はわからないということになる。
 だれもが自分の苦悩だけて手いっぱいになり、自分の行動が相手にどう影響するのか。その結果、社会がどうなるのか。そんなことは、わからない。わかるのは、自分がこんなに苦しんでいるということだけである。そして、だれもがそうなのに、「わかるでしょ?」「知っているでしょ?」と迫る。
 そうなのだ。
 みんな、「わかる」のだ。わかるから、「わからない」としか言えないところに追い込まれる。ひとは一人で生きているのではないのだから。
 この複雑なこころのドラマを、主役の二人が熱演する。後半の、子どもの幼友達の話を聞くシーン、子どもの墓参りをするシーン、そしてラストの電話のシーンでは、思わず涙がこぼれる。とくに、最後の電話のシーンでは、もうスクリーンが見えなくなる。私は中国語がわからないから、字幕を読み間違えているかもしれないが、字幕を読み間違えたいほど(つまり自分の感じを優先させてスクリーンを見てしまうほど)、感動的で美しい。
 この映画に問題があるとすれば、あまりにも「ストーリー」になりすぎているということだろう。どこにでもありそうで、どこにもないかもしれない。「特異」すぎるのだ。そして、その「特異」を消すためにカメラが非常に大きな演技をしている。時間の流れの中で、かわらないものがある。たとえば「地形」。あるいは見すてられた「生活の場(古い家/室内)」。これをアップでとらえる。このときのき「アップ」というのは接近してとうよりも、「人間」を小さいな存在として、「人間」よりも「地形」や「室内」を大きなものとして、浮動のものとしてとらえるということである。「大小」そのものでいえば、人間はいつでも小さいが、映画はその小さいはずの人間をスクリーンに拡大し大きくして見せるものである。この映画は、逆をやる。人間はあくまでも小さい存在である。「自然」「地形」「室内(家庭という場)」の方が大きい。それは、ちいさな人間が死んでも、なにもなかったかのようにつづいていく。
 そして、ここから、この映画の重要なテーマが浮かびあがる。
 ひとりの人間よりも、複数の人間の方が大きい。ひとりの人間の苦悩は、複数の人間によって共有されることによって大きくなり、それは「時間/時代」を超えて存在し続ける。私たちは、ひとりの人間の苦悩を、ひとりの固有のものとしてその個人にまかせてしまうのではなくて、私たちのものとして引き受けていかなければならない。
 こういうことは、しかし、わかってはいけないのだ。「わからない」まま、「わからない何か」として、そこに存在しなければならないのだが、カメラが「わかるもの」にしてしまっている。
 わたしには、そんなふうに見えた。
 コロナ感染拡大の影響で、2か月半ほど映画を見ていなかった。その間に、映画の見方を忘れてしまっているかもしれないが、どうも落ち着かないのである。あまりにも「わかる」が堂々として、そこに存在していることに。まるで、ふるさとの(つまり、熟知した、忘れられない)山や河を見ている感じがするのである。



 と書いたあとで、少し反省。
 この映画の、たとえば主人公(夫)が、いつも鍵の束を腰にぶら下げている(「ET」の冒頭に出てくる警官?のように)小道具のつかい方、妻の方はいつも料理をつくっている最中であるとか、人間を浮き彫りにするときのキーワードのようなものをきちんと「演出」しているところは、見ていて非常に気持ちがいい。
 こういう「細部」を中心にして語りなおすと、まったく違った映画として見えてくるかもしれない。子どもの墓参りのあと、妻が墓前にそなえた蜜柑(?)を手に取り、皮をむき、半分を夫に渡すシーン、あるいは食事のとき妻が饅頭を半分に割って、その半分を夫に渡すシーンとか。繰り返し繰り返し積み重ねてきた時間が、無言で「日常」を完成させる。その二人がことばを必要としないまま重なるということが、最後の「ことばの重なり」という美しいシーンにつながる。
 「ニューシネマパラダイス」のラストシーン。カットされたキスシーンが続けざまに映し出された。あれを見たとき、わたしはやっぱり涙がとまらなかったが、この映画のラストシーンはそれに似ている。このシーンだけ、もう一度、いや、何度でも見てみたいなあ、と思う。
 ほんとうは、とてもいい映画なんですよ。
 私は、ひさびさに映画を見たので、やっぱり映画についていけていないのだなあ、と思いなおした。

(KBCシネマ1、2020年06月14日)




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ジュリアス・オナー監督「ルース・エドガー」(★★+★)

2020-06-13 16:47:01 | 映画
ジュリアス・オナー監督「ルース・エドガー」(★★+★)

監督 ジュリアス・オナー 出演 ナオミ・ワッツ、ティム・ロス、ケルヴィン・ハリソンJr

 ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦というのは、あり得ない。私は、そう思うのだが、この「思い込み」は「偏見/先入観」である。「偏見/先入観」がテーマである映画を、私は「偏見/先入観」をかかえたまま見に行くのである。
 なぜ、ナオミ・ワッツとティム・ロスが夫婦が夫婦であってはいけないのか。
 ナオミ・ワッツは「透明」である。ティム・ロスは「不透明」である。そんなふたりが夫婦なら、そこで起きることは「透明/不透明」の間をゆらぎつづけ、最後はナオミ・ワッツが「不透明」になり、ティム・ロスが「透明」になるということが、あらかじめ予測できてしまうからである。
 これは「偏見/先入観」というよりも、「定型」に属する事柄である。
 映画は、この「定型」をどれだけ揺さぶることができるか。それがいちばん問題になるが、揺さぶりきれていない。もちろん、テーマがナオミ・ワッツとティム・ロスの問題ではないのだから、ナオミ・ワッツとティム・ロスの「定型」を揺さぶる必要はない、という見方もできるのではあるけれど。

 ちょっと「前置き」長くなったが。
 映画を見始めてすぐ、ぜんぜん映画らしくない、と感じる。長い間、映画を見ていないから、映画の「感触」を忘れてしまったのかと思ったが、最後まで映画を見ている気がしない。
 最後になって、クレジットで、この映画が「舞台」を脚色したものであることを知らされる。それで、はじめて納得がいく。この映画は、映画ではなく、「舞台」なのだ。つまり、「肉体」よりも前に「ことば」があるのだ。ここで展開されるのは「ことば」のドラマなのだ。
 また振り出しに戻るが、ナオミ・ワッツもティム・ロスも「ことば」で演技する俳優ではない。言い直すと、「ことばの論理」を演じる役者ではない。「肉体の論理」を演じる役者である。まあ、だからこそナオミ・ワッツとティム・ロスを夫婦にしたのかもしれない。
 ドラマは、ケルヴィン・ハリソンJrと女性教師との間で展開する。その「引き金」になるのがケルヴィン・ハリソンJrの書いたエッセイというのが、「ことば」こそがこの映画のテーマであると語る。
 ケルヴィン・ハリソンJrは歴史上の人物の思想を「代弁」する主張をエッセイに書く。そのことばは、ケルヴィン・ハリソンJrの主張なのか、それとも歴史上の人物の思想なのか。その歴史上の人物というのが危険な思想の持ち主の場合、とくに、その識別がむずかしくなる。
 いったい、「だれのことば」が人間を動かしているか。
 これは非常にむずかしい。もしこのストーリーを「小説」にすると、「ことばはだれのもの」というテーマが浮かびあがりにくくなる。小説では、だれが言ったかという印象よりも、言ったことばそのものが浮かびあがる。芝居だと、つねに目の前に「ことば」を話す人間がいるので、だれが言ったかが前面に出て、「だれのことば」かという問題は背後に隠れる。だからおもしろくなる。言い直すと、「ことばの論理」より前に、いま目の前にいる人間(役者)の存在そのものを判断の基準にしてしまうという「錯誤」が舞台では起きるのだ。
 これを、そのまま映画で踏襲している。テーマにしている。
 黒人の高校生がいる。成績が優秀でスポーツもできる。ルックスもいい。私たちが彼を判断するとき、何を基準にして判断するのか。「成績(スポーツを含む)」を判断するのは、ひとりひとりの考えではない。ルックスについては「好み」があるが、それにしたって顔だちがととのっている、背が高い、太っていないというような「判断基準」は、何か個人の判断を超えたものを含む。つまり「偏見/先入観」がどこかにある。「偏見/先入観」で見てしまった「人間」を、私たちは少しずつ「修正」していく。
 ややこしいのは、この「修正」に、「社会的価値(?)」のような「基準」が作用してくることである。「社会が求める価値」に合致しているから、このひとは人間としてすばらしい、という「評価」が生まれる。ひとは「見かけ」で判断してはいけない、内面(精神、頭脳)を重視して、価値判断すべきである、というのもまた「社会的基準」なのである。「社会的理想」が「人間」に「修正」を迫るのだ。
 それは判断するひとに対する作用だけてはなく、判断されるひとについても言える。つまり、「社会的評価」に合致するように行動できるひとを社会は受け入れると判断し、それにあわせるということが起きる。
 このとき、だれが正しくて、だれが間違っている?
 もし、流通している「社会的評価」のありよう、それを支えるすべてのひとが嫌いだとしたら、ひとはどう行動できる?

 これに対する「答え」は、簡単には出せない。だから、映画は「答え」を用意していない。
 「Black lives matter」の問題を考えるとき、私たちは、この映画(戯曲)が問いかけているところまで考えないといけないのだということを指摘している。それは、とても重要な指摘だが、やはり「映画」では何か無理がある。「ことば」を「肉体」が隠してしまう部分がある。舞台でこそ、より刺戟が強烈な作品だと思った。
 「Black lives matter」が世界的風潮となっているいまではなく、それ以前に見れば、また違った感想(評価)になったかもしれないとも思うが。
(キノシネマ天神、スクリーン3、2020年06月13日)




*

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豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」

2020-03-22 15:28:06 | 映画
豊島圭介監督「三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実」(★★★★★)

監督 豊島圭介 出演 三島由紀夫、芥正彦

 いろいろなことが語られているが、見せ場は「解放区」についての討論。「他人」「もの」「時間」をどうとらえるか。このテーマは、三島のテーマというよりも、この時代のテーマでもある。だからこそ、全共闘の芥正彦との対話が成り立っている。(ついでに書いておくと、私が大好きな安部公房も、他人、もの、時間について書いていた。つまり、解放区について。)
 私が理解した範囲で語りなおすと。
 三島は、「もの」のなかには「もの」が「もの」として存在するまでの過程としての「時間」を含んでいる。いま、ここに「机(もの)」がある。それが「机」として存在するのは、木を加工し、机という形にととのえたひとがいて、またそこに労働があるからだ。これを破壊しバリケードとしてつかう。壊してつかうことも可能だし、そのままの形としてつかうこともできる。いずれにしろ、そのとき、机をつくったひとの「時間/労働」は否定される。「時間」が否定され、「もの」が瞬間的に「空間(場)」を構成(形成)するものとしてあらわれる。これが「解放区」。そして、この「解放区」を構成する「もの」を「他人/他者」と呼ぶことができる。ただ「自分」の欲望のためにだけ存在する「対象」のことである。これに「人間(自分)」がどうかかわっていくか。自分の中には「自分の時間」がある。また、ともに存在する他の人間(他者ではない)へどうつなげてゆくか。言い直すと「連帯」するか。それを「もの」の破壊(解放)にあわせて、どうつくりかえていくかという問題でもある。そのとき、三島は「時間」と直面する。自己延長としての「時間」である。
 芥はこれに対して、途中までは三島と意見を一致させるが、「時間」の問題と向き合うときから、完全に違ってくる。「自己延長」としての「時間」(他者を自己に従属させるということになる)は「解放区」を否定する。持続(連続)としての「時間」を存在させてはならない。常に「解放区」は「解放区」として存在しなければ存在の意味がない。「解放区」を出現させ続けることが「革命」だ。
 論理としては、芥が完全に三島を論破している。
 しかし、「論理」の問題は、どちらが勝ったかということではケリがつかないところにある。三島の論は論として「完成」している。だから、どんなに芥に論破されようと、三島は三島の「論理」に帰っていて、そのなかで「自己完結」できる。
 芥は芥で、三島を「論破」したところで、それから先に何があるわけでもない。芥の論理は論理として「完結」している。つまり、それを実行できるのは芥だけであり、結局はだれとも共有できないのだ。
 もちろん一部のひととは共有できる。だから、生きている。
 私がここで書く「共有」とは、たとえばボーボワールの「女は女に生まれるのではない。女に育てられるのだ」というような、だれもが納得し、常識として定着するということである。だれもがそれを指針として行動できる。女性差別をやめる、という具体的な行動としてボーボワールの哲学は「共有」されるが、三島の「論理」も芥の「論理」も、そういうひろがりを獲得できない。
 それは、言い直せば、あくまで「個人限定」の「論理」であり、「個人の思想」なのだ。ひとりで生きるしかないのだ。そしてふたりはそれを生きている。(三島は、生き抜いて、死んだ。)
 この激烈な対立をわくわくしながら見ていて、ふと思ったのが「演劇」である。三島は小説以外に「演劇」を書いている。芥は(私は見たことがないのだが)、演劇をいまもつづけている。
 演劇が小説と違うところは何か。
 演劇は基本的に「過去」を語らない。小説はあとから「過去」を追加できるが、演劇は役者が出てきたら、それから起きることだけが「勝負」である。もちろん「せりふ」で実はこういう「過去」があったと言うことはあっても、それは「過去」を語らなければならない事態が発生したということにすぎない。だから、役者は舞台に登場したときに、すでに「過去」を背負っていなければならない。(存在感がなければならない。)
 そして、それぞれの人間が「過去」を背負っているにもかかわらず、舞台の上で起きるのは、その「過去」を否定して、新しい「もの」としての人間として相手とぶつかることである。芝居とは、いわば「解放区」そのもののことなのである。
 で、こう考えるとき。
 というか、こう考えて、この映画を思い出すとき、二人がいかに「演劇」としてそこに存在していたかがわかる。ふたりはそこで討論しているのではない。「演劇」の瞬間を生きているのだ。
 芥が幼い娘(?)をつれて壇上に登場する。それ自体が「演劇」だ。ほかの学生とは違って、「赤ん坊を持っている」という「過去」を背負っている。「存在感」がほかの学生と完全に違っている。彼が発することば以上に、赤ん坊が「過去」を語るのだ。しかし、芥は当然のこととして、その「過去(赤ん坊)」を無視して、ことばそのものを三島にぶつける。
 三島は、そのときすでに知られていたように「作家」という「過去」を背負っているが、そしてボディービルで肉体を鍛えているという「過去」も背負っているが、そんな「虚構」でしかない「過去」、ことばで説明するしかない「過去」では、赤ん坊という「現実」そのままの「過去」に太刀打ちできるはずがない。
 もう、それだけで三島は芥に負けているのだが、二人とも「演劇」を生きる人間だから、「存在感」の勝負はわきにおいておいて、ことばを戦わせる。あいまにタバコのやりとりというような「間」の駆け引きもみせる。
 勝利を確信した芥は、途中でさっさと姿を消す。ほかの学生にはわからなくても、三島には芥が勝った(三島が負けた)ことは明瞭だから、それでいいのだ。三島を「もの」にして、芥の「解放区」は出現した。三島のことばは破壊された机、バリケードに利用される机のように、「もの」そのものとして三島の作品から切り離され、「単発の論理」としてそこに存在するだけのものになったのだ。それは「持続」させる必要はない。瞬間的にそれが出現し、その衝撃が、ほかのひとを揺さぶればそれだけでいい。最初に書いた芥の「解放区」をそのまま、そこに実行したのだ。だから、知らん顔して赤ん坊(過去)と一緒に帰っていく。
 三島は、そういうわけにはいかない。敗北の形であれ、それは確かに「解放区」であり、それが「解放区」である限りは、三島は三島の「論理」を完結させるために、それをことばで「時間」として存在させなければらならない。これは、まあ、矛盾しているというか、悪あがきなのだが、三島がすごいのは、その悪あがきをきちんと最後まで、「演劇」でいえば、幕が下りるまで実行するところである。これは、偉い。思わず、そう叫びたくなる。
 芥が「天才」だとすれば、三島は「秀才」を最後まで生きるのである。「秀才」だから、一度自分で決めた道は決めた通りに歩かないと「実行」した気持ちになれないのだろう。それが自衛隊での自決につながる。芥は「天才」だから、何かを「実行」するにしても「規定路線」など気にしない。自分で決めた道であっても、瞬間的にそれを否定し「解放区」を新たに出現させ、「解放区」と「解放区」を断絶させたまま生きるのだ。「解放区」を持続させる人間と、「解放区」さえももう一度「解放区」にしようとする人間の生き方の違いだ。

 それにしても。
 あの時代はすごかった。ことばがことばとして生きていた。ことばをつかって「時間」を断絶、拒否するのか(芥)、ことばをつかって「時間」を持続させるのか(三島)。どちらを目指すにしろ、ことばをないがしろにしていない。
 この映画では(討論では)問題になっていないが、いま、私が聞きたいと思うのは「ことばの肉体」についてふたりがどう思うかである。しかし、こういうことは聞くことではなく、ふたりのことばを読むことで、私自身が考えなければならないことである。
 肉体がことばであるように、ことばも肉体である。そのことばの肉体を動いている「時間」はどういうものか。
 私はぽつりぽつりと考えているだけだが、まあ、考え続けたい。

(中州大洋スクリーン2、2020年03月22日)

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