詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)

2020-12-28 10:23:59 | 映画
セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)(2020年12月26日、KBCシネマ2)

監督 セルゲイ・ロズニツァ

 スターリンの国葬のドキュメンタリーだが、なんとも不気味である。スターリンが脳溢血(?)で倒れてから死ぬまでの経過を国営放送が克明に語る。医学用語をつかった病状報告が克明すぎるのである。こんなことを知らせてどうなるんだろう、と思う。そして、こんなことが放送されるのは、他につたえることがないからではないか、と思う。あるいは、放送したこと(内容)が問題になり、「粛清」されてはたまらない、だから「科学的(医学的)事実」だけをつたえようというのか。
 その一方、続々と国葬のために集まってくるひとたちの声はひとことも聞こえない。共産党の役職者や労組(?)の代表は追悼のことばを発表するが、国民はみな無言である。そして、その無言の顔がこれでもかこれでもかというくらいに映し出されるのだが、この膨大な顔を見ても、「声」が聞こえない。想像できない。悲しんでいるのか、ほっとしているのか、見当がつかない。涙を拭いている人もいるが、その涙の意味がわからない。ほんとうに追悼の気持ちがあって涙が流れたのか、涙を流しておいた方がいいと判断したのか。
 大勢の人が集まっているが、その人と人を結びつけるものがさっぱりわからない。
 これがテーマであり、これが監督の言いたいことかもしれない。スターリンが死んだとき、国葬がおこなわれたが、その国葬に対して国民が何を考えていたか、それはそのとき語ることができなかった。国民は「声」を奪われていた。ただ、無言で、つまり権力に対していっさいの批判をせずに生きることを強いられていた。それはスターリンが死んだからといって一気に解決することではない。
 自分を抑圧しているものに対してどう戦うか。それを知らないのだ。そして、その「知らない」というか、「ほかのことを考えさせない」ために、たとえば「放送(ジャーナリズム)」がある。「ことば」の統制がある。冒頭のスターリンの死を告げる放送が、とても特徴的なのだ。
 私は最初何を言っているのか、さっぱり理解できなかったが、この理解できないは「感情移入ができない」である。つまりスターリンの死を告げる放送は、「理解できない事実」というよりも「理解する必要のない事実」だけを語る。感情移入による「共感」、感情の「連帯」が生まれないことば語り続けることで、「感情」の共有、「感情」による「連帯」を遠ざけている。「悲しみ」さえ、共有させないのだ。「国葬」で「悲しみ」を共有している国民はいないのだ。これは考えようによっては(考えなくても)、ひじょうに残酷なことである。しかし、そういう残酷を産み出してしまう、ものを考えないためのことばの統制がソ連ではおこなわれていたのではないのか。
 流通することばは、自分自身の「暮らし」とは無関係である。しかし、それを聞かないといけない。そんなことは私には関係がないと言えない。そんなことは聞きたくはないとも言えない。
 それが、そのまま「国葬」のとき、「現実」としてあらわれてくる。スターリンが埋葬された廟へいつたどりつけるかわからない。それでもその前まで行って追悼しないと、きっと追悼しなかったことを問い詰められる。反論することばがない。「悲しみ」も共有できないが、「反論(怒り/その反動としての喜び)」も共有できない。だから、群集のなかにかくれて自分自身を守る。群集の中で「個人」を守る。生き抜く。言いたいことを言わない。言いたいことが言えないという苦しさが、言いたいことを言わないと決めた瞬間から、すこし苦しくなくなる。こうしいてれば生きていける。そのほんの少しの安心を求めて、さらに無言がつづいていく。
 ここから国民がことばを取り戻すために、どれくらいの時間がかかるのか。スターリン批判はたしかにあったが、それはどのような形で生まれてきたか。ほんとうに国民の声として「暮らし」のなかから生まれてきたのか、それとも共産党の内部で生まれてきただけなのか。どちらにしろ、「批判」がことばになり、それが「行動」になるまでには時間がかかる。
 これは……。
 スターリン独裁下だけの問題ではない。独裁があるところ、かならず起きることだ。一度独裁が確立されたら、そこから国民がことばを取り戻すためには長い時間がかかる。ことばを守ることが独裁を防ぐ方法であるということを、逆説的に語ることになるだろう。
 どこまでもつづく無言の顔。それを見る必要はある。この無言の顔に対して、私はいろいろ書いたが、そのことばが彼らの無言には届かないとも思う。あの膨大な無言の顔にきちんと向き合えることばがいったいどこにあるのか、想像もつかない。ただ、「無言」にはなりたくない、とだけ思う。








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伊藤俊也監督「日本独立」(★)

2020-12-22 23:02:41 | 映画
伊藤俊也監督「日本独立」(★)(2020年12月22日、中洲大洋スクリーン4)

監督 伊藤俊也 出演 浅野忠信、宮沢りえ、小林薫

 白洲正子を宮沢りえが演じるというので見に行ったのだが。
 無惨な映画。人間がぜんぜん浮かびあがってこない。どの役者も、ほんらいなら非常人間くさい存在感を発揮するのに、この映画では単なるストーリーの紹介のための「書き割り」。いや、というよりも、宮沢りえなどはときどきストーリーを超える演技をするので、そこだけが浮かびあがって、とても奇妙。
 そして、そのストーリーも浅野忠信(白洲次郎)、小林薫(吉田茂)が中心になるはずなのに、脇に追いやられている。二人がなぜ「意気投合」しているのか、そのことがぜんぜんわからない。
 では、この映画は何を描きたかったのか。
 時間をかけて、というか、二度もくりかえされる小林秀雄のセリフが、この映画の中心になっている。
 小林秀雄は、戦艦大和の生き残りの乗組員が書いた「小説(?)」を高く評価している。それを発表しようとするが、GHQの検閲にひっかかって、果たすことができない。白洲次郎もその作品を世に出そうとするが、なかなか実現しない。(何年か後には出版されるが。)
 その小説のどこがポイントなのか。
 小林秀雄のことばは、まず小林秀雄の口から語られる。「GHQは戦争で生き残った日本人と戦死した日本人のつながりを完全に断ち切ろうとしている」と。これは、戦死した日本人の精神を否定しては日本は成り立たない、死者の思いを思想としてきちんと引き継いで行かなければならない、という意味なのだろう。それは、一回で十分であるはずなのに、その作者が小林秀雄が自分を評価してくれたと意識しながらとぼとぼと帰るシーンで、もう一度語られる。とぼとぼと帰る男の姿に、小林秀雄のことばがもう一度かぶさるのである。
 伊藤俊也が描きたかったのはこれなのである。
 しかも「ことば(セリフ)」として、描きたかった。忘れたころに、もう一度その「ことば(セリフ)」が出てくるのではなく、念押しするように、すぐにくりかえされる。なんともあからさまな「宣伝」である。
 そして、その作品の一部も、わざわざ「セリフ」をとうして紹介する(小林秀雄が朗読する)という年の入れようだし、白洲次郎にも「文字」を読ませている。
 それならそれで、「脇役」として映画にもぐりこませるのではなく、その男を主人公にして映画を作り、その背景に憲法制定をめぐる政治の動きを描けばいいのだ。そうせずに、あくまでも憲法制定をめぐる吉田茂と白洲次郎の動きを中心にし、しかもその「接着剤」として宮沢りえをもってくるという非常に「姑息」な映画のつくり方をしている。
 こういうつくり方は、正面切った「日本国憲法批判」よりもタチが悪い。
 「憲法」にどういうことが書かれているか、ではなく、アメリカがやっつけで作り、それを日本に押しつけただけが強調される。その強調の手段として、若いアメリカの女性を登場させ、憲法学者でもなんでもない女性が「自分の作成した条文がそのままつかわれている」と自慢しているという批判として映画に出てくる。これは、日本からなかなか消えない女性蔑視の風潮を利用して、アメリカ押しつけの憲法はデタラメという主張をもり立てるためのものだろう。
 繰り返しになるが、この対極(無関係なアメリカの女性の対極)にあるのが、大和の乗組員の手記なのだ。
 吉田茂については、私はよく知らないが、この映画では憲法9条の「第2項」の立役者のように描かれている。具体的には、そういう描写は出てこないのだが、再軍備の「余地」を引き出した人間として描かれている。吉田とマッカーサーの「密談」があったことは、口外してはならないという形で、この映画では「公表」されている。この部分の、マッカーサーが「公表してはならない」と言ったことを公表することで、「これが真実なのだ」と告げる(見せかける)方法をとっているのも何とも手が込んでいて、私はいやあな気持ちになってしまった。
 前後してしまうが、「戦争」そのものも、戦艦大和の生き残りの男を通してのみ描かれているのも、非常に非常に、うさんくさい。「なぜ、戦艦大和の兵士は死んでかなければならなかったのか」「死を受け入れるために、思想(ことば)をどう整えたか」。これが、憲法のことばをどう整えたかと向き合わされる形で展開する。戦争のために死んでいった人(広島、長崎の原爆の犠牲者、各地の大空襲の被害者)は、戦争と憲法から排除された形でストーリーが描かれる。
 幣原が、電車のなかで聞いた男の声から「戦争放棄」を思いついたというようなことは、当然のことながら描かれない。「国にだまされた」という男の声は、どこにも出てこない。
 GHQという勝者が押しつけることばと、大和の死んでいくしか生きる方法がない男たちのことば。それを対比することで、日本国憲法が日本人のことばではない、と主張するのである。
 日本国憲法に対して、無惨、無念の思いを抱いた男たちだけの声で、この映画は作られているのだ。
 この映画ではなく、松井久子監督の「不思議なクニの憲法」をぜひ見てください。「2018年バージョン」からは、私も出演しています。宮沢りえも浅野忠信も小林薫も出演していないけれど。








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エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)

2020-12-18 22:01:13 | 映画
エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)(2020年12月18日、KBCシネマ2)

監督 エフゲニー・ルーマン 出演 ウラジミール・フリードマン、マリア・ベルキン、アレキサンダー・センドロビッチ

 ソ連からイスラエルへ「移民」してきた(?)声優夫婦を描いている。知らない俳優ばかりなので、ちょっと知らない世界を覗き見している感じになる。
 映画のなかで「声」をテーマにするのはむずかしいし、初めて見る役者なので「声」に聞き覚えがないから、その「つかいわけ」にもついていくのがむずかしい。★2個は、映画の「でき」というよりも、見ている私の「限界」をあらわしたもの。イスラエルに住んでいる人なら、もっと★がつくだろうと思う。
 声優だから「声」を演じる。「声」を演じながら、実は「人間(人生)」そのものを演じる瞬間があり、また演じた人生によって役者が虚構から仕返しを食う、ということもあるだろう。つまり、自分が求めているものを発見する、ということが。★を1個追加しているのは、その部分が、静かに描かれていて、味わい深いからである。
 妻の方は、「声優体験」を生かしてテレフォンセックスの若い女性を演じる。そこに吃音の男から電話がかかってくる。興奮すると、どうしても吃音になってしまう。それをセックスというよりも日常会話で癒していく。それが男の好奇心を誘う。妻の方も、嘘(演技)のはずなのに、そこに日常が入り込んでしまう。「すきま風」の吹いている夫との関係とは違う「温かさ」を感じてしまう。男も女も、求めているのは「セックス」よりも「日常のこころの通い合い」なのである。そして、それこそが「セックス」なのだ。肉体がふれあわなくてもこころが触れる。そして、この「こころ」を「声」が代弁する。しかも、それは「代弁」のはず、「日常からはなれた虚構」のはずなのに、それこそ「虚構」からのしっぺ返しのようにして、ふたりを揺さぶってしまう。
 アメリカ映画なら(あるいはフランス映画なら)、ここから「新しい人生」がはじまるのだが、すでにソ連を捨ててイスラエルへ来た、「新しい人生」を踏み出している人間には、そこからもういちど「新しい人生」へ突き進んでいくというのは、なかなかむずかしい。アメリカ映画のようにも、フランス映画のようにもならない。
 この踏みとどまり方は、なかなかおもしろい。「列島改造」という角栄のやった「それまでの在庫総ざらえ決算」が一度しかできないのとおなじである。それを、イスラエルに「移民」としてやってきた人間が、肉体として受け入れていく。この問題を追及していけば、それはそれでまた第一級の映画になるが、あまり踏み込まず、さらりと描いているのは、それを「哲学」にしてしまうのは、とてもむずかしいということなのだろう。
 これは、夫が妻の仕事を秘密を知るシーンに、間接的に、とても巧みに描かれている。夫は、「魔がさした」かのようにテレホンセックスのダイヤルをまわす。そこに妻が出てくる。それは「演じられた娼婦」なのだが、その「声」を夫は覚えている。夫が妻の声を初めて聞いた、そしてその声に恋をしたのが「娼婦役」の「声」だったのだ。役者(声優)として成功するとき、すでに妻は(たぶん夫も)自分を「大改造」している。そのときの「痕跡」を夫はしっかりと見てしまうのである。
 もう、そこからは「大改造」はできない。「大改造」が引き起こしたものを、しっかりと踏みしめて生きていくしかない。残りの資産はないのだ。つまり、ふたりで、いままでの「声」をぜんぶたたきこわして、「新しい声」を生きていくというようなことは、よほどのことがないかぎりできないのだ。この問題を「さらり」と描いて、「哲学」をおしつけていないところが、この映画の見どころかもしれない。
 しかし、再び書くが、これは「耳になじんでいない役者」の「声」で聞いても、私の「肉体」にはしっかりとは響いてこない。私の耳は、どちらかといえば鈍感の部類なので、「これはまいったぞ」と思いながら見るしかなかった。
 随所に、隠し味として「映画」が出てくるが、さりげなく「声」についての「哲学」を語っているのも泣かせる。夫は、かつてダスティン・ホフマンの声を吹き替えたことがある。「クレイマー・クレイマー」の声である。夫はダスティン・ホフマンは小さいが(夫は、大男である)、声には芯があり、強い。その声を「自分の声」を獲得するのに苦労したというようなことを言うのである。なかなか、おもしろい。






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セリーヌ・シアマ監督「燃ゆる女の肖像」(★★-★)

2020-12-05 14:59:00 | 映画
セリーヌ・シアマ監督「燃ゆる女の肖像」(★★-★)(2020年12月05日、キノシネマ天神1)

監督 セリーヌ・シアマ 出演 ノエミ・メルラン、アデル・エネル

 予告編、ポスターでは気がつかなかったのだが、たぶん、真剣に見ていないからだ。実際に映画が始まると、私はかなり真剣に映像を見るのだろう。「タイトル」がスクリーンにあらわれた瞬間、映画を見終わった気分になった。フランス人はそういうことを感じないだろう。日本人だけが(あるいは中国人も)感じる「いやあな・もの」が突然映し出される。「燃ゆる女の肖像」というタイトル。「燃ゆる」の古くさい響きはまだ「気取っている」というだけで許せるが、「肖像」の「肖」に私はげんなりした。ワープロなので表記できないが「肖」の漢字が「鏡文字」になっている。「肖」は左右対称の漢字に見えるが、よく見ると左右対称ではない。第一画と第三画は「筆運び」が違うし、最後の「月」も「はね方」が違う。大きなスクリーンだと、目の悪い私にもくっきり見えてしまう。この「鏡文字」のどこに問題があるか。ストーリーを先取りしてしまっている。「文字」が演技してしまっているのだ。
 「肖像」は描かれるひとの肖像である。画家はモデルを見て、その肖像を描く。これは一方通行の視点。しかし、この映画は、そういう一方通行の視点で描かれるわけではなく、モデルがモデルでありながら画家を見つめることを暗示している。見つめ、見つめ合い、たがいに相手の中に自分を見つける。つまり「鏡」を見るようにして自分を発見していく。そういうストーリーになることが暗示されるのである。というか、暗示を通り越して、あからさまに語られてしまう。
 実際、ストーリーが予想していた通りに展開してしまうと、もう映画を見ている感じにはぜんぜんなれないのだ。なんというか……。さっさと終われよ。くどくどくどしい、と思ってしまう。タイトル文字を考えたひとは「気が利いている」と思ったのだろうが、観客をばかにしすぎている。
 せっかく二人以外の女、家事手伝いの女を登場させ、堕胎までさせる。そのときの情景を画家に描かせるというような、「描くとは何か」(見るとは何か)という問題を提起しているに、「肖」の「鏡文字」のせいで、台だしになっている。堕胎する少女の手を、まだ歩くこともできない赤ちゃんが無邪気につかむところなど、「鏡文字」がなかったら生と死の非対称の対称が浮かびあがって感動してしまうのだが、「すべては鏡文字ですよ」と最初に説明されてしまっているので、なんともつまらない。
 途中で何回が出てくる「本物の鏡」さえも「鏡文字」を明確にするためのものにしか見えない。映画がタイトル文字のために奉仕させられている。
 ラストシーンの、画家がモデルを遠くから見つめるシーンも、「鏡文字」がなければ感動的なのだが、「鏡文字」があるばっかりに感動しない。つまり、ラストシーンでアップでスクリーンに映し出されるモデルのこころのふるえ、音楽に共鳴しながす涙は、同時にそれを見つめる画家の顔なのである。同時に、それは観客の顔でもある、と最初から説明してしまっているからである。
 もう一度タイトルを映し出せ、ものを投げつけてやる、といいたい気分になる。
 途中の女たちだけの祭りで歌われる歌がとても印象的だった。映画が終わったあとのクレジットの部分でも少し流れる。フランス語なのでよくわからないが「なんとかかんとか、ジレ」と聞こえる。「わたしは行こう」なのか「わたしは行ってしまう」なのかわからないが、「別れ」のようなものが歌われていると聞いた。これに途中に出てくる「後悔するのではなく、思い出すのだ」というセリフが重なる。そういう意味ではここも「鏡文字」なのだが、フランス語の歌の文句がよくわからないだけに(字幕もないので)、勝手に想像することができて楽しい。
 なんでもそうだけれど、最初から「答え」を見せられるのは楽しくない。わからないなりに、これはなんだろう、と自分自身の「肉体」の奥にあるものをひっぱりだしてきて、いま、そこで展開されている「こと」のなかに参加していくというのが楽しいのだ。このよろこびを奪ってはいけない。
 タイトルの「肖像」がふつうの文字で書かれていたら、私はきっと★を4個つけたと思う。でもタイトルにがっかりしてしまったし、そのがっかりを促すように映画が進んでいくので、ほんとうに頭に来てしまった。「字」がかってに演技するな。







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フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)

2020-11-19 10:25:15 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「道」(★★★★)(2020年11月18日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ

 何度か見た映画である。くりかえし見る映画というのは、なんというか、その映画のどこが好きかを確認するためにある。
 私はアンソニー・クインがジュリエッタ・マシーナを捨て去るシーンが大好き。何が起きるかわかっているのに、毎回どきどきする。これは最初に見たときからおなじ。
 廃墟のようなところ(廃村、というべきか)で、ジェルソミーナが眠り込んでしまう。だんだん足手まといと感じ始めたザンパーノが、ジェルソミーナが眠り込んでいることをいいことに、そこに置き去りにして、逃げてしまう。
 そのとき、荷車のなかからマントとか衣類をとりだし、眠るジェルソミーナにかけてやるのだが。
 荷車には、ジェルソミーナが吹いていたトランペットがある。
 あ、あそこにトランペットがある。荷台から顔を覗かせている。その存在にザンパーノは気づいていない。私の方が先に気がついている。ザンパーノは気づいていない。いつ、トランペットに気がつくだろうか。トランペットに気がついて、ジェルソミーナがいつも好きな曲を吹いていたことを思い出すだろうか。ジェルソミーナがトランペットが好きだということに気づいて、それをジェルソミーナに残していく気持ちになるだろうか。
 ジェルソミーナが大好きなトランペットだ。ジェルソミーナがいなくなったらトランペットはどうなるのだろう。トランペットがなかったらジェルソミーナはどうやって生きていくのだろう。ジェルソミーナは捨ててもいい。でも、ジェルソミーナを捨てるなら、トランペットだけはジェルソミーナに渡してほしい。
 だから、早く、もっと早く、気づいてほしい。そこにトランペットがあるということに。トランペットをジェルソミーナが吹いていたことを、ちょっとでいいから思い出してほしい。
 ストーリーはわかっているのに(最初に見たときから、そうなることはわかったのに)、毎回、ここでどきどき、はらはらする。映画だから、そのシーンが変更になることはないのに、毎回、心配でならなくなる。
 ジェルソミーナが捨てられるのだから、ここでトランペットを残されたくらいでほっとしてはいけないのだけれど、私は、ああ、よかったと思い、毎回、涙が流れてしまう。私の祈りがとどいた、と思ってしまう。
 これは、どういうことなんだろうなあ。わからない。わからないから、好き。
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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)

2020-11-14 09:14:40 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★★)(2020年11月13日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、アヌーク・エーメ、アニタ・エクバーグ

 この映画のラストシーンは好きだなあ。
 海岸で巨大なエイが引き上げられる。それは巨大さゆえに美しいとも醜いとも言うことができる。ちょうど、この映画のほとんどで繰り広げられる「甘い生活」のように、私のもっている感覚を超越している。自分のついていけない世界については醜悪と拒否することも、甘美とあこがれることもできる。どちらにしろ、それは存在を「認識」だけであって、「体験」するわけではない。特にそれが映画のなかの世界ならば、なおさらだ。だから、何とでも言うことができる。醜悪といっても、甘美と言っても、私がそのことばを口にすることで私自身は傷つかない。その後のことばの展開に何も影響を受けない。いつでも表現をかえることができる。実感ではないのだから。肉体でつかみとった「事実」というものは何もない。
 でも、そのあと。ひとり仲間(?)から離れたマルチェロ・マストロヤンニに河の向こうの少女が何かを言う。聞こえない。何を言われたかわからないままマルチェロ・マストロヤンニは仲間といっしょに引き上げる。それを見送る少女の顔のアップ。
 少女はマルチェロ・マストロヤンニを知っている。手伝いに行った保養地(?)のレストランのテーブル。マルチェロ・マストロヤンニはタイプライターで小説を書こうとしている。少女は音楽が好きで、ジュークボックスを鳴らす。歌を口ずさむ。マルチェロ・マストロヤンニは音楽を止めろ、と言う。そこから短い会話がある。少女はそれを覚えている。マルチェロ・マストロヤンニはどうだろう。覚えていないかもしれない。マルチェロ・マストロヤンニが関心があるのはセックスの相手としての女だからだ。
 このシーンが印象的な理由は、ここにある。
 マルチェロ・マストロヤンニの知らないところで、だれかがマルチェロ・マストロヤンニを支えている。そして、その「支え」のなかには、ラストシーンの少女のような存在もある。明確に気づいていないけれど、気づいていない何かが影響してくる、というものがある。「支え」と書いたが、言い直せば「影響を与えてくれる」ということである。
 たとえば、それはモランディを愛し、パイプオルガンを弾く友人かもしれない。映画のなかで、その友人とは「数回会ったことがある」というセリフが出てくるが、数回でも深く影響する何かというものがある。(少女とは何回会ったか知らないが、たぶん映画にあるレストランのシーンの一回だけだろう。)あるいは、田舎に住んでいる父かもしれない。父だからひっきりなしに会っていたはずである。非常に影響を受けいているはずである。しかし、マルチェロ・マストロヤンニはその影響を受け取ろうとはしない。むしろ拒絶しようとしている。そういうときも、「無意識」のなかを動いている「影響」はある。それはマルチェロ・マストロヤンニを「支え」ているはずである。
 わかることとわからないことがある。そのなかで人間は、その日そのときの欲望で生きている。「甘い生活」におぼれるのか、「苦い生活」を生き抜くのか。どちらが「正しい」ということはない。「判断保留」を生きる。そういう生き方そのものが「甘い」のかもしれないが。まあ、そういうことは、いってもはじまらない。
 そして、人間は、こういう「影響」を与えてくれたかどうかさえわからない人間のことは、どうしても忘れてしまう。ひとは「影響」を受けたい、「影響」を受けて自分自身を変えてしまうことを夢見る存在なのかもしれない。
 象徴的なのが、「マリアを見た」という兄弟のエピソードである。「マリアを見た」という体験を共有したいと大勢のひとが集まってくる。マリアの「影響」を受けることで、自分自身の生活を変えたいのだ。「奇跡」にすがりたいのだ。でも、「奇跡」なんて、起きない。突然降り出した雨のために、体の弱っていた老人(?)がひとり死ぬだけである。マリアの助けを求めてやってきかたひとが、マリアの奇跡には遭遇せず、雨に濡れて死んでいく。
 現実というものが、こんなふうに首尾一貫しないものならば、どうやって生きていけばいいのだろう。こういうことを書き始めると「意味」になってしまうので、私は書かない。ちょっと考えた、という「経過」だけを書いておく。
 私は、この映画に出てくるような「甘い生活」というものを知らないので、もうひとつだけ、私にとってなじみやすかったシーンを書いておく。冒頭のキリストをヘリコプターで運ぶシーン。いわば、こけおどし、のシーンだが、ビルの壁にキリストの影が映り、その影がビルの壁をのぼるようにして空に消えていく。この1秒足らずの映像が美しい。フェリーニの狙いがどこにあったか知らないが、私はこのキリストの影のシーンが撮りたかったのだと信じている。アマルコルドの孔雀と同じで、影のシーンが絶対必要なわけではない。それがなくてもキリストを運んでいることはわかるのだから。でも、だからこそ、そのシーンがフェリーニには必要だったのだ。
 さらに。ヘリコプターにはマルチェロ・マストロヤンニが乗っている。彼と屋上(?)で日光浴をしている女たちが会話をする。ラストの少女との会話のように、互いに言っていることばは聞き取れないのだが。ただし、「大人」の会話なので、何を言っているかはテキトウに判断することができる。「デートのために、電話番号を聞いている」とかなんとか。少女とマルチェロ・マストロヤンニとのあいだでは、そういう「テキトウな想像(自分の欲望)」にあわせた「意味」というものは存在しなかった。このときの、女たちの「腋毛」。剃っていない。その、なまなましい自然。
 このなまなましい自然から、少女の純粋な自然までの「間」。そこにゆれ動くマルチェロ・マストロヤンニ、というふうに見ることのできる映画でもある。フェリーニの映画では、男は一種類(女の気持ちがわからないのに、女に持ててしまう優柔不断な美男子)なのに、女の方は今回の少女やジェルソミーナの純心からアニタ・エクバーグの肉体派、あるいはジュリエッタ・マシーナの素朴からクラウディア・カルディナーレの美貌、アヌーク・エーメの神秘まで、振幅(?)が大きい。でも、フェリーニは最終的には「純真」を選ぶということなのかなあ。最終ではなく、それは出発点ということなのかもしれないけれど。
 福岡(KBCシネマ)でのフェリーニ祭は9本ではなく6本の上映。私は「道」を最後に見ることになる。私が最初に見たフェリーニだ。フェリーニへの「初恋」だと思うと、見る前から胸がときめく。



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フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)

2020-11-12 21:22:07 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニのアマルコルド」(★★★★★)(2020年11月12日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 孔雀

 フェリーニの映画のなかでは、私はこの映画がいちばん好き。理由は簡単。役者がみんなのびのびしている。「特別なひと」を演じているという感じがない。もちろん小さな街の庶民を描いているのだから、そこに「特別なひと(たとえばギリシャ悲劇の主人公)」がいるわけではない。そこで起きる事件も特別変わったものではない。起きたことを覚えておかないと、あとで困るということでもない。体験したことは、たしかに人間に影響するだろうけれど、あの事件が人生を決定したというようなことは起きない。母親が死ぬことだって、だれにでも起きること、だれもが経験しなければならないことのひとつにすぎない。
 これを、どう演じるか。
 みんなのびのびと、好き勝手に演じている。「どうせ映画」と思っている。遊びながら演じている。この「遊びながら」という感じがスクリーンにあふれる映画は、意外と少ない。役者本人の部分を半分残し、残りの半分でストーリー展開のための演技をする。そうすると、スクリーンに映し出されているのは役者か役か、わかったようでわからない。別ないい方をすると、「私はこんなふうに演じます」という「リハーサルの過程」という感じがどこかに残っている。そこに、不思議な「味わい」がある。
 こういうことを感じるのは、まずルノワール。それからタビアーニ兄弟。そして、フェリーニの、この「アマルコルド」。監督なのだけれど、映画を支配するわけではない。役者を支配するわけではない。役者が動く「場」を提供し、そこで遊んでもらう。そして、その遊びを、「ほら、こんなに楽しい」と観客に見せる。
 これって、映画のタイトルではないが、「私はこんなことを覚えている(実はこんなことがあった)」と、話のついでに語るようなもの。「あ、それなら私も覚えている」と話がもりあがったりする。そのときだれかが「ほら、こんなふうに」とある人の物真似をして見せるようなもの。「精神」とか「意味」とか「感動」ではなくて、そういうものになる前の「肉体」そのものを共有する感覚といえばいいのかなあ。
 で、ね。
 そこに突然、孔雀が舞い降りて羽を広げて見せる。それも雪の降る日にだよ。雪が降っているのに、孔雀がどこかから広場に飛んでくる。伯爵の飼っている孔雀だ、というようなことをだれかが言うけれど、まあ、これは映画を見ているひとへの「後出しじゃんけん」のような説明。そんなことはどうでもいい。
 何これ。なんで、孔雀が雪の降る日に飛んできて、しかも羽を広げて見せる必要があるんだよ。
 必要なんて、ないね。必然なんて、ないね。意味なんて、ないね。
 映画を見ていないひとに、そこに孔雀が飛んできて羽を広げるんだよ、それが美しいだよ、言ったってわからない。「嘘だろう、そんなつごうよく孔雀なんか飛んでくるわけがない」と、フェリーニから思い出話を聞かされたひとは言うかもしれない。
 そう、そこには必然はない。そして、必然がないからこそ、それはフェリーニにとって必然なのだ。「遊び」という必然。ひとは「遊び」がないと生きていけない。「遊ぶ」ためるこそ生きているといえるかもしれない。不必要なことをして、必要の拘束を叩き壊してしまう。
 たぶん、これだな。
 フェリーニの映画にはカーニバルやサーカスがつきものだ。祝祭がつきものだ。それは世界の必然を叩き壊して、瞬間的に解放の場を生み出す。「解放区」だ。自分が自分でなくなる。だれかがだれかでなくなる。自分を超えて、だれにだって、なれる。その「瞬間的な生のよろこび」。そういうものがないと人間は生きていけない。祝祭のあとに、しんみりしたさびしさがやってくるが、それはそれでいい。「祝祭」の体験が、「肉体」のなかにしっかりと生きている。覚えている。思い出すことができる。それは、いつの日か、それ(解放区)を自分の肉体で「再現」できるという可能性を知るということでもある。
 あ、めんどうくさくなりそうなので、もうやめておこう。
 雪のなかで羽を広げる孔雀。ああ、もう一度、みたい。いや、何度でも見たい。
 みなさん、主役は孔雀ですよ。ちょっとしか登場しないから、見逃しちゃダメですよ。






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フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)

2020-11-11 15:57:51 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「青春群像」(★★★)(2020年11月11日、KBCシネマ2)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 知らない人ばかり

 日本公開は1959年。製作は1953年。私は、今回、はじめて見た。
 注目したのはカーニバルのシーンと、グイドという少年。グイドって、「8 1/2 」の主役(マルチェロ・マストロヤンニ)の名前じゃないか。五人の若者のひとりとこころを通わせ、彼がひとり町を出て行くとき駅で見送る。この町を出ていった青年がフェリーニであり、また見送ったのもフェリーニということになるだろう。町を捨てながら、その町にとどまり見送る少年。ここに奇妙なセンチメンタリズムがある。センチメンタルとは、現実と認識のずれを意識しながら、そのずれを見つめることからはじまる。そのとき、視点はいつでも何も知らない「無垢」(純粋)から見つめられる。この映画でも、若者が描かれるのだけれど、そしてそこには「おとな」の視点があるのだけれど、それを結晶させるのは少年の視点。「無垢」が青春の「汚れ(不純物)」を洗い清める。「不良」から「不」をとりはらう。強調しないけれど、そういうニュアンスをしっかり刻印している。「無垢」が「不良青春」を通過して、「おとなのなかのこども」として生きる。「8 1/2 」のグイドだね。その出発点が、この町。フェリーニのこころはいつもこの町にある、ということか。次に見る「アマルコルド」の舞台なのか、とあす見る映画を思い出しながら(?)見ていた。
 もうひとつ注目したカーニバル。いつものことながら「楽しい」だけではない。美空ひばりの「お祭りマンボ」ではないが、「祭りがすんだそのあとは……」というさみしさがある。さみしいけれど(さみしくなるのはわかっているけれど)、カーニバルの「発散」がなければ日々の暮らしを生きていくことはできない。このカーニバルではピエロの張りぼてが非常に印象に残る。ピエロは笑いを引き起こすが、カーニバルが終わればその顔は不気味である。また、悲しい。その張りぼてを捨てていけない。捨ててしまうことができない。捨ててしまっては、悲しみが生きていけない。ピエロをかかえ、引きずりながら、泥酔して家へ帰る若者、泥酔した若者によりそい自宅へ送り届ける若者。だれかの悲しみ(不幸)をだれかが支えている。この、無意識の「連帯」が青春というものかもしれない。支えているとか、支えあっているという意識はないんだけれどね。
 それにしても。
 不景気な時代は、青年の「自立」がどうしても遅くなる。「青春群像」とはいうものの、みんな二十代の後半、三十過ぎに見えたりする。そしてそれが、なんといえばいいのか、いまの日本の若者の姿と重なって見える。イタリアは「家族愛」が強いのかもしれないけれど、みんな「家」を出て行かない。出て行けない。親の収入に(あるいは別の家族の収入に)頼っている。貧乏なはずなのに、親がいちばんの金持ちなのだ。私は若い人とのつきあいがないのでわからないのだが、そうか、いまの若者はこの「青春群像」に出てくる若者のような「精神」を生きているのか、と思ったりした。自分の「青春」を一度も思い出さなかった。不思議なことに。
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フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」

2020-11-10 18:44:37 | 映画
フェデリコ・フェリーニ監督「魂のジュリエッタ」(★★★+★)(2020年11月10日、KBCシネマ1)

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 ジュリエッタ・マシーナ

 フェデリコ・フェリーニ初のカラー作品。黒沢明の「どですかでん」を見たときのように、何か、不安な気持ちで見てしまう。
 あとは、イタリアは中国と同じで「歴史」があるから、なんでも巨大になってしまうという感じ。ケタが外れている。しかし、ケタが外れながら、妙に「完結性」がある。けばけばしい化粧や衣裳、明確な色彩の氾濫。それは、なぜか「競合」して互いを打ち消してしまうということがない。不思議なバランスがある。
 「どですかでん」を見たときは、モノクロの方がいいのに、と思いながら見た。フェリーニの場合は、そこまでは感じないが、「色が硬い」という感じがする。人工的、といえばいいのか。でも、人工的だからこそ、そこに不思議な調和もある。繰り返しになるが、不思議なバランスがある。
 なぜなんだろうなあ。
 別の角度から、見てみる。
 この映画の特徴は、最初にあらわれている。
 ジュリエッタ・マシーナの「顔」がなかなかスクリーンに映らない。カツラをとっかえ、ひっかえする。衣裳も変える。それを後ろ姿で見せる。やっと正面を向いたと思っても、影で見えない。この逆光のために顔が見えないというシーンは何回か出てくる。
 映画で、役者の顔を見せないで、いったい何を見せるのか。
 その疑問の中に、この映画の答えがある。フェリーニが描くのは、まず、ジュリエッタ・マシーナが「見る」世界なのである。どこまでが現実で、どこからが幻想なのか、はっきりしない。目をつむって見るのが幻想とは言い切れない。目に見える幻想を消すために目をつむるということさえするのだから。
 幻想は目で見るのではなく、「魂」で見る、とフェデリコ・フェリーニは言うかもしれない。私は「魂」というものがよくわからないので、ここは保留にしておく。ただし、目以外のもので見ている、ということだけは確かだと思う。そして、この「目以外で見る」ということが明確に意識されているために、全体のバランスが崩れないのかもしれないと思った。意識の明確さが「人工的」という印象を誘うのかもしれない。
 この「目以外で見る」ということを、映画という「目に見えるもの」にするというのは、なかなか複雑であり、刺激的だ。象徴的なのが、夫の浮気を撮影したフィルム。ジュリエッタ・マシーナは、夫と愛人のデートを自分の目で見たわけではない。しかし探偵の撮ったフィルムの中には「現実」が映し出されている。自分の目で見たのではないものが、現実としてそこにある。
 私たちが映画を見るとき、それと同じことを体験している。私たちは映像を見ているが、現実は見ていない。そして現実と錯覚する。これがフィクションなら、それは単に錯覚と言ってしまえるが、夫の浮気現場となれば、見たものを「錯覚」とは言えない。
 何か、変なものがあるでしょ? この論理。
 この変なものを、映画の中で、ジュリエッタ・マシーナはどう乗り越えていくか。日々、「幻想」に悩まされているだけに、これは非常にむずかしい問題だ。
 どうやって、乗り越える?
 このことを考えると、フェリーニはいい加減だなあ、というか、男はいい加減なもんだね、と思う。フェリーニ夫婦の体験がどこかに反映されていると思うのだが(「8 1/2 」以上に「個人的体験」が反映されていると思うのだが)、男は知らん顔をしている。女には困難を乗り越える力がある、と甘えきっている。そこのところがおかしい。いまは、こういう映画はもうつくれないだろうなあ、と思う。演じてくれる女優がいないような気がする。フェリーニに言わせれば、男の問題は「8 1/2 」で描いたから、今度は女の問題を描いた、ということになるのかもしれない。
 壇一雄に「火宅の人」という小説がある。映画にもなった。主人公を作家(男)ではなく妻(女)にして展開すれば「魂のジュリエッタ」ではなく、「魂のリツ子」になるのか。
 脱線した。目で見るのは現実か、幻想か。幻想は目で見るのか、目以外のもので見るのか、というところに踏み込んで、それを目に見える映画にする、というのはとてもおもしろいテーマだと思う。


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フェデリコ・フェリーニ監督「8 1/2 」(★★★★★)

2020-11-09 20:41:43 | 映画

監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ、クラウディア・カルディナーレ、アヌーク・エーメ、サンドラ・ミーロ(2020年11月09日、KBCキノシネマ、スクリーン2)

 KBCシネマで「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」が始まっていた。一日一本、一回かぎりの上映なので「甘い生活」「道」は見逃してしまった。(気がついたら上映が終わっていた。)
 この映画で私がいちばんおもしろいと思うのは、「視線」のとらえ方である。冒頭、渋滞する車の中でマルチェロ・マストロヤンニが息苦しくなる。それをまわりの車からひとが見ている。それぞれ孤立している。孤立しているのに、すべての視線がマルチェロ・マストロヤンニに集中する。いや、集中しない視線もあるが、その視線でさえ見ないことでマルチェロ・マストロヤンニを見ている(意識している)と感じる。象徴的なのが、バスのなかの「顔のない乗客(顔が隠れている)」である。「視線」がないことによって、観客の「視線」をマルチェロ・マストロヤンニに集中させる。マルチェロ・マストロヤンニは車を脱出し、凧のように空を飛び、凧のように地上に引き下ろされる(引き落とされる)が、私はそのとき観客としてマルチェロ・マストロヤンニを見ているのではなく、スクリーンのなかの「誰か(描かれていない人間)」としてマルチェロ・マストロヤンニを見ている。マルチェロ・マストロヤンニ自身として、マルチェロ・マストロヤンニを見ているような気持ちにもなる。(これが最後の「祝祭」のシーンで、私もその踊りの輪の中に入っている気持ちにつながる。)
 最初の方の湯治場の描写も同じである。多くの「名もないひと」がマルチェロ・マストロヤンニを見つめる。その「視線」がなまなましい。「名もないひと」の不透明な肉体が「視線」のなまなましさの奥に感じられる。マルチェロ・マストロヤンニは「見られている」。そして同時に、「生もないひと」を見ている。しかも、なんというのか、「見る欲望」を見つめていると感じる。「名もないひと」は「見る」ことで何らかの欲望を具体化している。簡単に言い直せば、マルチェロ・マストロヤンニを見てやるぞ、という感じかもしれない。
 これは単にマルチェロ・マストロヤンニが有名人(映画監督という役どころ)だからではなく、人間はだれでも目の前にいる誰かに何かを感じたら、それを見てしまうものなのだ。象徴的なのが、マルチェロ・マストロヤンニがクラウディア・カルディナーレの「まぼろし」を見るシーン。クラウディア・カルディナーレが見つめている。見つめることで何かを語りかけている。愛の欲望と言い直すと簡単だ。マルチェロ・マストロヤンニは見られているというだけではなく、愛の欲望の対象として見られている(誘われている)と感じる。クラウディア・カルディナーレの視線は、それほど強烈である。
 ほかの女優たちもマスカラや眉を強調することで、「視線」のありかをはっきり知らせる「化粧」をしている。顔を見せているだけではなく、「見ている」ということを見せているのだ。
 マルチェロ・マストロヤンニのまわりには大勢の女がいる。その大勢の女の中で、クラウディア・カルディナーレ(ミューズか)、アヌーク・エーメ(妻)の対比がおもしろい。ウディア・カルディナーレの「視線」は「見ているぞ」という感じで動く。目力が非常に強い。しかし、アヌーク・エーメは化粧の関係もあるのかもしれないが、「視線」が「引いている」。なんというか、「引いた演技」をしている。「視線」だけではなく、もっと「肉体」全体でマルチェロ・マストロヤンニと向き合っている。そうか。こういう感じが「妻」なのか。長い時間をいっしょに生きてきて、「視線」だけではなく、手や足や、からだ全体の動き方で相手を受け止めている。何かを訴える、という「深さ」のようなものを感じさせるのか。
 もうひとり重要な役どころとしてサンドラ・ミーロがいるが、彼女は気晴らしの愛人か。「視線」がらみでいうと、「娼婦風に」といってマルチェロ・マストロヤンニが眉を描きくわえるシーンがおもしろい。
 マルチェロ・マストロヤンニはこの三人の間を、非常に無邪気に渡り歩く。マルチェロ・マストロヤンニの「子ども時代」を思い起こさせる少年が出てくるが、その「少年」のままの「こころ」が動いている。誰かに焦点をしぼり、そのひとと生きていく、という「決意」のようなものをつかみきっていない。それが「かわいい」といえば「かわいい」のかもしれない。けっして「汚れない」という感じ。純粋なまま、という感じ。でも、肉体はおとななんだよなあ。そこに、まあ、「苦悩」があるのかもしれない。
 まあ、どうでもいいんだけれど。
 マルチェロ・マストロヤンニには、何か、不透明になりきれない「純粋さ」のようなものがあるなあ、と感じた。
 それにしても。
 このころの映画というのは、いまの映画から見ると「絶対的リアリズム」を表現しようとしていないところが、とても新鮮だ。どこかに「リアル」があれば、あとは嘘でもいい。クラウディア・カルディナーレがはじめて登場するシーンが象徴的だが、「視線」さえリアルなら、歩き方(動き方)は逆に不自然でもかまわない。いや、不自然な方が「視線」を強調することになるから、おもしろい。ぜんぜん関係ないが、ハンフリー・ボガードの「動かない両手」のようなものである。両手を動かさず、突っ立っている感じなので、表情の微妙な動きや声の変化が印象に残るような感じかなあ。人間の「視線」さえつたわるなら、ほかの部分は「視線」を強調するための「脇役」。この映画は、そんな具合にして撮られていると思った。


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黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)

2020-10-20 15:26:45 | 映画
黒沢清監督「スパイの妻 劇場版」(★★)(2020年10月20日、KBCシネマ1)

監督 黒沢清 出演 蒼井優、高橋一生

 黒沢清は何を撮ろうとしているのか。私は、そんなに多くの作品を見ているわけでもない。見た作品も、ほとんと覚えていない。私とは、相性が悪いのだろう。
 思うことは、ただひとつ。
 黒沢は、古い映画をたくさん知っているに違いない。1950年代、あるいはそれ以前のものもあるかもしれない。スクリーンの枠組みというが、絵のなかにしめる人物の位置が、どうも古くさい。私が映画館で映画を見るようになってから見た映画というよりも、テレビで見た白黒フィルム(テレビ自体が白黒だったが)やリバイバルとしてみた白黒フィルムの感じに非常に似ている。
 この映画のなかには、実際に、主人公が妻をつかって撮ったフィルムが流されるが、それは「出色」。その映画中映画のもっているニュアンス、トーンが、まあ、黒沢が狙っている映画ということになるのだろう。
 全編を白黒で撮ると、この映画はなかなかおもしろいものになると思う。
 出だしの英国人を逮捕するときの建物の前の刑事ふたり。ひとりが白い服。一人が(忘れたが、白くない服)、その間にカーキー色の軍人(?)が入り込む。カラーだと、色がうるさくて、緊張感がそがれる。
 森の中を車が走るシーン、木の間から見える空(光)と樹木の形(影)のコントラスト。これなども、黒沢明の「羅生門」に通じるものをもっているかもしれない。モノクロ映画ならば。
 さらに、登場人物たちの、妙にのっぺりした顔(クライマックスまでは、まるで能面)のように、目鼻の輪郭があるだけで、陰影がない。モノクロというよりも、無声映画時代の「顔さえ見せておけば、セリフなんてどうでもいい」という時代の撮り方だなあ。
 これに輪をかけるのが「セリフ」に重心が置かれていること。蒼井優の「セリフ」が特徴的なのだが、「心情」をことばで説明する。映画ならば、ことばでなく、役者の肉体と顔で、感情の変化をあらわすのだが、「セリフ」をいったあとで「顔」が動いている。
 だから、クライマックスというか、見せ場はみんな「演劇(舞台)」みたいな感じ。
 最後も、あまりにも「説明」的すぎる。高橋一生(でいいのかな?)が、船の上で帽子を振っているシーン、蒼井優が「だまされた」と気づいた瞬間でおわっておけば、まだ映画の印象は違ったかもしれない。蒼井優の精神科病院への入院、そこでのやりとり(大演説)、空襲という幕切れは、完全な「紋切り型」。
 これを新しいスタイルと感じるか、時代後れと感じるかは、人によって違うだろうが、私は「時代後れ」と感じる。



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ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

2020-10-18 10:05:59 | 映画
ファラド・サフィニア監督「博士と狂人」(★★)

監督 ファラド・サフィニア 出演 メル・ギブソン、ショーン・ペン(2020年10月17日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「辞書作り」の苦労を感じたくて見に行ったのだが、肩すかしを食った感じ。
 ショーン・ペンが「ことば」にのみこまれていくのは、「ことばを読んでいるとき、自分が救われる」というような言い方で表現されている。そして、「本のなかのことば」を読んでいたときは、確かにそうだったのだが、「現実のことば」に直面すると救われるどころか、もっともっと深い苦悩に引き込まれていく。「ことば」を「現実」(自分の肉体)で定義しようとすると、どうしていいかわからなくなる。ここが、この映画のクライマックスで、こういう「矛盾」のなかに潜む「絶対的真実」(一回かぎり、その人かぎり)を具現するには、やはりショーン・ペンが必要だったというともわかる。
 こうした「ことばを超えた絶対(一回かぎりの真実)」をどうやって「ことば」としてとらえ直し、「現実を定義するか」。言い直すと、ことばはどうやってことばになるか。この哲学的問題を考えるには……。
 あ、あ、あ、あ。
 私は「英語」がわからないのだった。「字幕」にはアルファベットと日本語が交錯して映し出されるが、ここはどうしたって英語そのものの「来歴」というか「歴史」がぼんやりとでも感じられないと、起きていることが実感できない。
 困ったなあ。
 ここがクライマックスだぞ、ということはショーン・ペンの動きと、それを補足する「日本語字幕」で「ストーリー」としては理解できるが、その「ストーリー」に私の「肉体」が重ならない。言い換えると「感情移入」できない。
 英語が母国語の人なら感じるに違いない「ことばの響き(深み)」が、私の頭のなかを素通りしていく。かすめる、という感じすらしないのだ。
 まいったなあ。
 だからね、逆に言うと。
 その「クライマックス」よりちょっと前の、ショーン・ペンの人生をほんとうの苦悩に引き込む女性が、「文字が読めない」とわかった瞬間、それに対するショーン・ペンの説得というか、励まし、その後女性が文字を覚え、読めるようになっていく、ついには「ことばをこえることば」(深い真実)を書くようになるまでの、なんというか、「さらり」とした部分が、とても私の「肉体」には響いてくる。実に、実に、実に、せつせつと感じられる。
 場違いを承知で書くと、石川淳や森鴎外の、「ここはちょっと簡単に書いておくね。あとで必要になる(伏線のはじまり)なのだから」という感じの「(映画)文体」になっている。
 あ、ショーン・ペンのことばかり書いたが、一方のメル・ギブソンにも妻との愛の葛藤、家族への愛と「学問」への愛の両立というような問題が起きるのだが、その苦悩のなかに「ことば」はあまり重要な要素としては入ってこない。なんというか、「謎解き」というか、「頭脳の解釈」で完結しているように思える。これは、私が英語がわからないということと原因があるかもしれないが。
 で、また、ショーン・ペンの逸話にもどるのだが、「ことば」を覚えるということはとても危険なことなのだ。とくに「ことば」を書くということは。知らなかった自分を発見し、その知らなかった自分になってしまう。そうするともう、その知らなかった自分を信じて、それについていくしかない。「ことば」を生み出しながら、「ことば」に導かれ、「ことば」についていく。
 辞書には。とくにこの映画が題材としている「オックスフォード英語大辞典」には、そうやって「肉体(生活)」に定着してきた「ことば」の歴史(変遷/つまり揺らぎ)が書き込まれている。そのうちのなんとかということば(私はもう忘れてしまった)には、ショーン・ペンの逸話がなければわからないものがある。いや、それよりも重要なのは、この映画では「見出し言語」としては紹介されていないが、たとえば「love(愛)」というだれもが知っているようなことば、日常語になりきってしまっていて、その意味を真剣に考えることのないことばにも、それがいままでの「愛」の定義ではとらえきれないものが隠れているということを教えてくれる。

 こんなふうに感想を書いてしまうと、とてもいい映画、みたいになってしまうが。
 これはね、これはこれで、ことばの「罠」なのだ。ことばは「書きたい」と思っていることを書くとき、その他を切り捨ててしまう。その結果、「結論」がどうしても「結晶」してしまうということが起きる。
 「異端の鳥」は大傑作であるけれど、たったひとつ、通俗映画そのものに通じるエピソードのために台無しになってしまっている。この「博士と狂人」は逆に、たったひとつ、ショーン・ペンが女性の「弱点」のようなものに気づき、それを女性が「弱点」であると認識し、自覚を持って越えていく、その「超越」の向こうになにがあるかわからないが、それについていくことからはじまる「破滅」が映画を駄作から救い出している。ここだけなら、まるでギリシャ悲劇だ。
 でもね、★はやっぱり、2個のまま。肝心の「英語」がわからない。英語がわかるようになれば★4個かも。



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アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

2020-10-11 18:02:41 | 映画
アーロン・ソーキン監督「シカゴ7裁判」(★★★)

監督 アーロン・ソーキン 出演 エディ・レッドメイン、マイケル・キートン(2020年10月11日、キノシネマ天神、スクリーン2)

 「裁判映画」だから、やっぱりことばが主役。
 そして、この「ことば」のあつかいが、この映画ではとてもおもしろい。映画のなかでも「コンテキスト」ということばが出てきたが、ことばの意味は文脈によって違ってくる。何を言ったかと同時に、どういう状況で言ったか。
 エディ・レッドメインは学生の運動家である。非常に弁が立つ。しかし、そのことばは「あいまいさ」を含んでいる。「我々の」という「所有形」を多用する。彼がだれかと一緒にいるとき、つい「我々の」ということばをつかう。一緒にいても「我々」ではないことがある。
 具体的に言えば、この映画で描かれている七人は、1968年、シカゴで開かれた民主党全国大会の会場近くに集まった七人である。ただし、その七人は、それぞれ所属している団体がちがう。立場がちがう。たまたまデモを先導したという理由で「ひとまとめ」に逮捕され、ひとまとめに起訴されている。そのなかには、どうしても相性の悪い人間がいる。エディ・レッドメインはヒッピーが嫌いだし、ヒッピーはエディ・レッドメインを嫌っている。「我々」なんかではないのだ。たとえ「我々」というときがあったとしても、それぞれが自分の「コンテキスト」を生きている。しかも、自分の「コンテキスト」を守ろうとしている。
 七人のなかにひとり「ボーイスカウト」の世話係(?)のような「暴力否定主義」のおじさんがいて、こどもに「どんなことがあっても暴力はダメ」と言っているのだが、法廷で思わず法廷の官吏を殴ったりもする。自分で自分の「コンテキスト」を逸脱してしまう。七人以外にアフロ系の男も起訴されていて、彼は彼で「コンテキスト」の格差に怒りをぶちまける。
 あ、ずれてしまった。
 ことばの「コンテキスト」にもどしていうと、エディ・レッドメインのことば「友人が警官の暴行を受けて負傷した。血を流した。彼の血は我々の血だ。我々の血がでシカゴの街で埋めよう(これは正確なことばではない、私がテキトウに書いている)」というようなことを言ってしまう。これが「暴動を煽った」と認定され、七人は有罪になる。
 このエディ・レッドメインことばは、「11人の怒れる男たち」で、長引く会議、対立する意見にいらだち、陪審員のひとりが「殺してやる」と叫ぶのに似ている。ほんとうに血を流せ、街を血でみたせ、ほんとうに殺してやる(殺意をもっている)というのではなく、おさえられない怒りが「血を流す/殺す」という「比喩」を呼び寄せている。しかし、「コンテキスト」を無視すれば、これは「脅迫」になるし、「殺人の予告」(意思表示)にもなる。
 逆の「コンテキスト」も示されている。公園で集会を開きたいと言ってきたヒッピーに対して市役所の担当者がダメだという。「ダメといわれても集まる」「どうすれば解散するか」「10万ドルくれれば集まらない」。この「10万円よこせ」は状況次第では「恐喝」になる。しかし、担当者は「恐喝」とは感じていない。犯罪性を感じていない。
 というぐあい。
 そして、これは、また「ことば」が語られない「コンテキスト」をも浮かびあがらせる。この裁判自体が、政府の、ベトナム戦争に反対する学生、ヒッピーは国策の邪魔だという「コンテキスト」によって引き起こされている。暴動があったから七人を逮捕するというのではなく、七人を逮捕することでベトナム戦争反対という運動を抑えつけるという「コンテキスト」を完成させようとしている。法廷では語られないことばが、じつは裁判そのものの「コンテキスト」になっている。
 あ、ずれているのではなく、私の書いていることは徐々に「本筋」にもどっているのか。
 これが、最後の最後で、じつに感動的な「コンテキスト」を破壊することばを噴出させる。政府の意図を叩き壊す。
 最終陳述を認められたエディ・レッドメインが、裁判が始まった日から判決の日までに死んだ兵士を名前、5000人近くの名前を読み上げる。ベトナム戦争で死んだ兵士の名前。その人たちへの追悼を、自己主張にかえる。法廷が拍手でつつまれる。
 七人がやったこと。それはベトナム戦争への抗議、ベトナム戦争を拡大する政府への抗議だったのだ。アメリカ人が理不尽な根拠でベトナムに派兵され、多くの兵士が死んでいる。ベトナム人も死んでいる。この政権を許すことができない。
 「コンテキスト」と「コンテキスト」の戦い。そのなかで、ことばはどんなふうに動くか。ことばをどう動かしていけるか。これは映画であると同時に、ことばと「コンテキスト」の問題を考えさせる作品である。言い直せば、非常に政治的で、民主主義とは何かを問う作品だ。民主主義とは、ことばがどれだけ自由に自分自身の「コンテキスト」を確立し、それにしたがって他者と向き合うことができるか、どれだけ多くの「コンテキスト」を用意できるか、という問題である。つまり、「多様性」の問題である。
 いま日本では「問題ありません」「指摘はあたりません」という菅の「コンテキスト」だけが横行している。ジャーナリストに求められているのは、多くの国民と共有できる「コンテキスト」の形成だが、何人がそれを自覚しているか。菅と一緒にパンケーキを食べるという胸焼け、吐き気をもよおさせる「コンテキスト」を菅と共有しているだけだ。
 こういう映画がつくられるアメリカの自由を非常にうらやましく思う。

 マイケル・キートンが重要な役どころで、ストーリーを予告する形で登場する。「ミスター・マム」のときから、とても好きだ。マイケル・キートンが出ていると知って、見に行ったのだった。ときどき、目のなかに顔がある、という印象になる。目に引きつけられる。 











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バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

2020-10-09 15:16:00 | 映画
バーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」(★★★)

監督 バーツラフ・マルホウル 出演 ペトル・コラール(2020年10月09日、キノシネマ天神、スクリーン3)

 これは語りづらい映画である。ということは、映画そのものである、ことばにするとつまらない、ということなのだが。
 ホロコーストを逃れた少年が体験する「日常」を描いている。しかし、「日常」なのに「瞬間」でしかない。「いま」しかない。過去もなければ、未来もない。過去に経験したことが何の役にも立たないし、これから先、何が起こるかわからない。
 唯一、これから起きることがわかるのは、少年がナイフを拾った場所を教えに行くシーン。そこでは少年は「うそ」をつく。「うそ」というのは、かならず「計画」を含んでいる。つまり、そこには「未来」が予想されている。予想されている「未来」のために「うそ」をつく。
 このシーンが、いわゆる「普通の映画」らしい唯一の部分。そして、ひとつのクライマックスでもあるのだけれど、このわかりやすいシーンだけが、なんといえばいいのか、興ざめするのである。主人公に感情移入して、「やったね」と言ってしまうのだが、つまり共感してしまうのだが、その共感がこの映画を壊してしまう。このシーンがなければ、私は★を5個にした。マイナス1ではすまない、マイナス2という感じで、よくないのである。
 このほかのシーンは、少年には、何が起きているのか、さっぱりわからない。どうすれば生き延びることができるのか、「計画」が立てられない。場当たりで、反応するしかない。
 女とのセックスのシーンがそれを端的に語っている。女は少年にクリトリスを舐めさせ、快感にふける。次にセックスに誘う。少年は慣れていないから(まだ10代の前半、もしかしたら10歳以下かもしれないので、あたりまえだけれど)、あっという間に射精する。女は怒りだす。さらには、山羊とセックスして見せる(そういう素振りをする)。こんなことは、少年には絶対に想像できない。わからないことが、次々に起こる。目の前で「他人の行動」として起きるだけではなく、自分の「肉体」そのものが、そういう「現場」に誘い出されてしまう。
 少年は最終的に生き延び、父と再会するのだが、あまりに過酷なことを体験しているので、どうしても「未来」がわからない。父親と少年は一緒にバスに乗って我が家へ帰るのだが、そのとき父親は「未来」がわかっているから、安心して思わず眠ってしまう。けれど、少年は「眠り」に身をまかせることができない。父親の手に刻まれた数字を見て、自分にはそれがないことを思う。そして、自分の名前を、バスの窓に書く。「いま」自分は「ここにいる」と。「いま」「ここ」を「名前」で結びつけて、生きていくしかないのだ。
 映画のタイトルは、エピソードのひとつからとってる。野鳥の羽にペンキを塗って空に放つ。すると、仲間の鳥が「色違い」の鳥を見つけて、一斉に攻撃をし始める。小鳥は力尽きて墜落し、死んでしまう。少年はかろうじて「異端の鳥」のように死なずに生きている。しかし、それは偶然である。
 しかし。
 あまりの残虐さ(陰湿さ)に、耐えられない人がいるかもしれない。私は怖いシーン、血が飛び散るシーン、残酷なシーンは大好きな人間だが、この映画には、ちょっとまいった。どのシーンも、それがストーリーとなって動いていくのではなく、ただ「いま」としてそこにあるだけだからだ。普通の映画なら、このシーンは残酷だけれど、ストーリーをこんなふうに「説明」している、と言えるのに、この映画では、ただ「残虐」なだけでからである。









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料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★skype講座★
随時受け付け。ただし、予約制(午後10時-11時が基本)。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

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クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

2020-09-28 19:41:58 | 映画
クリストファー・ノーラン監督「TENET テネット」(★★)

監督 クリストファー・ノーラン 出演 ジョン・デビッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、ケネス・ブラナー

 大音響、という評判だったので敬遠していた。耳が痛くなるのは耐えられない。一方、私は大音響の中でも眠ることができるという特技を持っている。MRI検査。大音響と暗闇の密封感が怖いと言われていたけれど、私は、寝てしまった。検査がおわって、揺り起こされた経験がある。
 で、この映画、やはり大音響がつづくと私の肉体が「自己防衛」してしまうのか、うつらうつら。見ているのが面倒くさくなって、寝てしまった。
 だから、見落としがあるのを承知で書くのだが、ぜんぜん、おもしろくない。時間を逆行すると言ったって、ねえ。基本的には「ターミネーター」と、どこが違う? 「ターミネーター」のように悪役に魅力がない。ぜんぜん、こわくないじゃないか。
 あ、私は、ケネス・ブラナーが好きなんです。実は。声が。それで、ケネス・ブラナーが出ているなら見てみようと思って見たんだけれど、動機が不純だった? だからおもしろくない?
 いやいや。
 「時間逆行」のハイライトがはじまる寸前、カーチェイスというか、消防車などをつかった大がかりな車の暴走シーン。そのとき、主人公の乗っている車のバックミラーが壊れている(ひびが入っている)のを映し出す。これは、この車が実は未来でトラブルを体験してきたことがある。そのトラブルは、こういうこと、という導入部になっている。それが、見た瞬間にわかる。「さあ、見てください」とスクリーンいっぱいに映し出しているでしょ? 親切といえば親切だけれど、別にここまで親切にしてくれなくてもいいよ、と言いたくなる。
 タイトル前のオペラハウスで、椅子に開いた穴が、銃弾が逆戻りして塞がるシーンは、まあ、この映画のテーマが「時間の逆行」と説明するのに必要なんだろうけれどね。
 それにしても、笑ってしまうよなあ。「時間の逆行」といいながら、その時間は順行の時間とパラレル(平行)を、一枚のガラスを挟んで同時に見せるんだから。こんな種明かし(?)見たくないようなあ。「何が起きている?」と驚く前に、こんなばかな(図式的な)映像じゃ、「時間体験」にならないなあ。
 それにしても。
 悪役のケネス・ブラナー。彼には子供がいる。これが、この映画の最大のミス。脚本のミス。子供がいる、ということは、もうそこにはケネス・ブラナーの手の届かない「未来」(時間の順行)がはじまっているということ。どんなにあがいてみたって、ケネス・ブラナーは負ける、勧善懲悪というと変だけれど、ジョン・デビッド・ワシントンが最後には問題を解決して勝ち残る、ということがわかりきっている。いや、映画は別にストーリーを見るためのものじゃないから、結論がわかってもかまわないのだけれど、「時間」の問題の基本が提示され、そこに結論が浮かびあがるというのは、なさけない。あじけない。
 「ダンケルク」では、陸の時間、海の時間、空の時間を、「映画を見ている時間」に重ねあわせるという画期的なことをやった監督なのに、「未来」を描くのは苦手みたいだなあ。
 (2020年09月28日、t-joy 博多スクリーン9)


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