高橋達矢『からだを洗っていると』(思潮社、2020年09月15日発行)
高橋達矢『からだを洗っていると』の表題作。
からだを洗っていると
父がわたしにとりついてからだを洗っている
と始まる。
一行目の「からだを洗っていると」は「わたしのからだを洗っていると」という意味だろう。自分で自分のからだを洗っているのだが、「父」が「わたし」のからだを洗っていると感じる。
この錯覚のなかには、不思議な重なりがある。
「父がわたしにとりついて」は二重の意味にとれる。父がわたしにぺったりととりつくようにして、わたしのからだを洗っている。このとき、父とわたしは別々の肉体である。でも、きっとこの意味ではない。
もうひとつの読み方は、父がわたしにとりついて、わたしのからだが父に乗っ取られ、父のからだになっている。わたしのからだなのに、父のからだになってしまった、そのからだをわたしが洗ってる。
これは、わたし自身の肉体の変化に昔の父の肉体を重ねるようにして思い出し、自分のからだを洗っているのに父のからだを洗っているような錯覚に襲われるということかもしれない。
父とわたしの「肉体」の区別があいまいになる。もちろん、それが別個の存在であることは認識しているが、科学的(?)認識をうらぎって動くものがある。
この「裏切り」のような感覚は、間違いなのか、ほんとうのことなのか。
わたしは「ほんとう」と考える。そして、この科学的(?)には「間違い」でしかないもののなかに、科学では説明できない「ほんとう」があると思う。
それは、存在として別個なもの(人間)であっても、人間はどこかで「重なる」ということである。そして、この「重なり」がなければ、私たちは「他人」を信じることもできないし、生きていることも納得できないだろうと思う。
くらい世で父がわたしを洗って父自身を洗っている
わたしはもう死に体となってここでからだを洗われている
わたしのからだを洗うことが父のからだを洗うことである。これは実際に、いまのわたしの年代の父のからだを洗ったことを思い出しているのか、それとも父も昔はわたしのようなからだをひとりで洗ったのだろうかと思い出しているのかよくわからないが、それは区別しなくていいのだと思う。
「死に体」ということばを手がかりにすれば、わたし自身が父が死んだ年齢に近づいているという意識があり、その意識が父のからだとわたしのからだを重ね合わせるのだろう。その重なりのなかで、わたし(高橋)は何を感じているのか。ことばでは簡単に説明できないこと、科学的には説明できないことを感じている。
わたしと父との重なりは、こんなふうに展開していく。
からだを洗っていると
わたしは息子にとりついてからだを洗っている
あかるい浴室でわたしが息子を洗ってわたし自身を洗っている
二十歳のからだとなってだれのものともわからないわかい性を洗っている
ここに書かれている「わたし」は父かもしれない。つまり、一連目が「高橋」の視点で書かれているとしたら、二連目は高橋(わたし)にとりついた父が、父自身のことばで語っていると読むこともできる。
しかし、一連目、二連目で「主語」が交代したのではなく、二連目もそのまま高橋が「わたし」のまま、「わたし(高橋)の息子」に「とりついて」、息子のからだを洗っているのかもしれない。父がわたしにしたことを、わたしが息子にする。
「重なり」が二重から、三重になる。そして、その「重なり」で重要なのは、それが「不透明」ではないということだ。透明に重なってしまう。「だれのものともわからない」ものになってしまう。
で。
「透明」というのは何かがはっきりわかることなのに、「わからない」という「不透明」を、同時に抱え込んでしまう。
そして、不透明でわからないにもかかわらず、「わかった」気持ちになってしまう。
私は父の体を洗ったことがない。けれど、自分の体のなかに父の肉体の動きを感じたり、あのとき父はこんなことを思っていたのだろうかと思いめぐらすときがある。それは単純に私が父を思い出しているのか、それとも父が私に「とりついて」いるのか、はっきりわからない。「とりつく」というようなことばを私は好まないけれど、好まないだけに、高橋の詩を読みながら、そういうことを思うのである。
「重なる」感じ、「重なり」の印象。それは、生きている人間だけが感じる何かだと思う。そして、それは生きているものに対して感じることだと思う。相手が死んでいても、生きていたときのことを思い、生きているものとして重なる。別個の存在なのに、かけはなれているのに、そして一方はすでにこの世には存在しないにもかかわらず「重なり」を感じ、その感じを「生きる」。
三連目は、こう書かれている。
老いたからだからふとい根っこが突きでたり
若いからだから貝殻のような骨がこぼれたり
白い石室でからだを洗っていると
かたちをうしなってまじわっているものがある
私が「重なり」と読んだものを、高橋は「かたちをうしなってまじわる」と呼んでいると思う。単に重なるだけではなく、「まじわる」。そして、それは「かたちをうしなって」「まじわる」のではなく、もしかすると「まじわる」ことで「かたちをうしなう」のかもしれない。「まじわる」ことで「自我」を超える。「自我」(個別の存在)を超越するのかもしれない。
こんなこと(「かたちをうしなう」が先か「まじわる」が先か)は、たぶん、どうでもいい。それは「後先」の問題ではない。いま、ここで「かたちをうしなってまじわっている」という状態が存在することが大事なのだ。
世の中には、論理だけでは説明できないことがある。論理にしてしまうと、ややこしくなってしまうことがある。論理はどうしても不明なものを生み出すからである。答えはかならず次の答えを要求するものである。そう承知して、論理の透明と不透明を、別の何かで覆い、見たけれど見なかったことにする。このときの「覆う」は「重ねる」に通じる。その「重ね」の「媒体」として高橋は「からだ」をつかっている。単に「からだ」を「覆いもの」としてつかうのではなく「洗う」という「動詞」のなかでつかっている。
「からだ」も「洗う」も、みんな、知っていることである。その知っていること、からだが覚えていることを重ねるのである。そうすると、その重なりのなかで、父も私も息子も、それが当然のようにして動く。そして、その動きは「いのち」そのものの動きのように感じられる。
私がいま書いたことは、かなりめんどうくさいことで、整理しなおすには時間がかかる。ただ、こういうめんどうくさいことは、いつも深刻かというと、そうでもない。
つぎの詩から感想を書き始めれば、私の書いてきた「重なり」の問題は、きっと楽しい笑い話になるだろう。「秋の夢」の「3」。
あたま わき へそのした
たいせつなところに毛は生えるというけれど
あたまがハゲたのは
たいせつじゃなくなったということか
つるつるのあたまをなでてみる
いつかおばあちゃんが
かしこいかしこいといいながらなでたあたま
おやじが ふといゆびでくしゃくしゃにしたあたま
きっと仰天するだろうな
あのふたりが いま なでたら
あたまをなでる。多くの人がする行為である。あたまをなでながら、そのときあたまをなでるひとは何を感じ、何を思っているか。そういうことは、いちいちことばで説明する必要はない。ことばで説明しなくても、肉体が覚えている。私たちの「認識(ことば)」には、そういうものがある。私たちは「ことば」で考えるが(ことばがないと考えられないが)、なかには「考える」をわきにおいておいて、「肉体」そのもので納得していることがある。そのとき私たちは「自分の肉体」を「他人の肉体」と重ねあわせている。つまり、まじわっている。そこに、何か「いきる」ことの意味がある。
高橋のことばは、そういう問題と「正直」に向き合っている。この「正直」とは「他人のことば」を借りてこずに、高橋の肉体が覚えていることばをていねいに動かして、という意味である。
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