高橋睦郎『深きより』(28)(思潮社、2020年10月31日発行)
「対話 半世紀ののちに」
「対話 半世紀ののちに」には「跋に代へる」書いてある。三島由紀夫と高橋の「対話」が書かれている。三島も登場するが、高橋自身が登場しているということが要点だと思う。二十七の作品で高橋はだれかに「なりすまし」てきた。しかし、ここでは高橋はだれかに「なりすまし」たりはしていない。三島は、高橋が高橋になるための「方便」である。もちろん高橋が高橋に「なりすまし」ていると読むこともできるのだが、「なりすまし」てでもあらわしたい高橋の本質が書かれているととらえれば、ここには高橋の「正直」があらわれているといえる。
高橋は三島に向かって、こんなことを言う。
あなたが拘はられた男根切除願望の
もう一つの根にあるものは何か。僕の推理のつづきを言へば、女性といふ
真の虚になること、真の虚になつて真の実有の訪れを待ち受けること。そ
れこそが古へ詩人であることを女性から奪はうと企てた男性の究極の自
己実現ではないでせうか。
なぜ「あなた/僕(三島/高橋)」の対極に「女性」を置くのか。なぜ「高橋/三島」を「男性」と規定するのか。「男根」があるから、と言えばそれまでだが、この考え方そのものが「男根主義」であり、その究極にあるのが「男根切除願望」ということになるだろう。「男根」がなければ「切除願望」も生まれない。
なぜ、こんなことを言うかというと……。
高橋がこの詩集で試みていることは、高橋が「女性」になることではない。たしかに「女性」が主人公の作品もあるが、登場人物が「男性」であれ、「女性」であれ、高橋が「偽装」しているのは「他人」である。
高橋が書いている「女性」を「他人」と言い換えると、こうなる。
「他人」といふ真の虚になること、真の虚になつて真の実有の訪れを待ち受けること
「他人」がなぜ「真の虚」か。「僕(高橋)」が「真の実」なのに、その存在を排除しているからである。女性の詩人になりかわったときは、たしかに高橋の書いていることがそのままあてはまるが、高橋がやったのは「古へ詩人」になり、「真の実有の訪れ」の現場を再現するということである。だから、高橋の書いている「女性」をそのまま「女性」と読むわけにはいかない。
詩集の後半には「式子内親王」以外の女性は出てこない。「源実朝」以降は「男性」しか出てこない。もちろんそこに出てくる「男性」も、実は「男根切除願望」をもった「男性」であり、実は「女性」だったと読むことができないわけではないが、そういう複雑な過程を経なくても「他人」という「項目」を立てればすむ話である。
それなのに、「他人」ではなく「女性」にこだわる。ここに、私はとても不思議なものを感じる。錯綜した意識を感じる。
高橋の欲望の奥底には、「自分は女性である。男(性)ではなく女(性)を生きている。だから真の実有を表現できる。もし男性の(高橋以外の)男根を切除してしまえば、世界の人間は真の実有(詩)だけでつくられたユートピアになる」という考えがあるのではないか。高橋を「男」ではなく「女」にしてしまう「男」にあこがれ、同時にその「男」の「男根を切除」することで、「男」を「女(自分=高橋)」の世界に招き入れ、「真の虚」にさせ、「真の虚」になった二人で「真の実有」を共有する。詩を、あるいは言語によって構築された美を共有する。
それはそれで「論理」としては一貫するのかもしれない。(高橋は「論理」ではなく、「推理」ということばをつかっている。)
でも、そのとき、女の性をもって生まれてきた「他人」との世界はどうなるのか。高橋の「論理」は、男性的な、あまりにも男性的な「虚構」に見える。
女性が「私は虚ではない」と主張したとき、高橋の「論理」はどう立ち向かうことができるのか。高橋は、それを考えたこと(推理したこと)がないかもしれない、と思った。そこに高橋の「正直」と「うさんくささ」を私は同時に感じてしまう。
*
この詩集には「伝統という冥界下り」というしおりがついている。「重ねての代跋」というサブタイトルがついている。この文章は、タイトルを見てもわかる通り「旧かな」ではなく「現代かな」で書かれている。つかわれている漢字も「常用漢字体」である。
詩集の「跋」なのだが、あきらかに詩集とは切り離されている。
これは、私から見れば、あまりにも「うさんくさい」。だから、「うさんくさい」とだけ書いて、あとは何も言わない。
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