野沢啓「大岡信の批評精神」(「イリプスⅢ」8、2024年07月25日発行)
野沢啓「大岡信の批評精神」の最後の部分に、こんなことを書いている。(31ページ)
《すべての書を読んだ》マラルメのひそみにならって言えば、詩のことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている。批評とはそうしたことばの深淵のなかにおもむき、そこから無限の富を引き出してくる試みであって、そこには限りというものがない。
詩人がことばのなりたちやその歴史を深く知ること、ことばにたいする豊富な経験をもつことがその直観力、着眼力などをどれだけ高めるものであるかを知らなければみずからの詩の営為に対する批判力をもつことはできない。
その通りだと思う。
そして、同時に、ここに書いていることは、野沢が「言語暗喩論」で展開してきたこととはまったく逆のことではないか、と私は感じる。野沢は、詩のことば「暗喩」は「突然」誕生すると言っていなかったか。そのために初めて雷鳴を聞いた(体験した)人間の発する驚愕の声や、初めて海を見た人間の発する声について語っていなかったか。「ことば」にならない「声」のようなものから詩、暗喩を語り始めていなかったか。
私は、そういう野沢の「言語論」に与することはできないと言いつづけた。
詩のことばにかぎらないが、「ことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている」。これを「色や形はあらゆる色や形との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば、絵画や彫刻についての批評となるだろう。さらに「音はあらゆる音との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば音楽に対する批評になるだろう。「肉体はあらゆる肉体との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおすことから、バレエ論、ダンス論(ブレイクダンスを含む)を語ることもできるだろう。あらゆる芸術は、すでに存在するもの、既存のものに対する「批評」の形で生まれる。それは言いなおせば、既存の「ことば」「色/形」「音」「肉体」がなければ「芸術」は生まれないということである。
さらには「数字はあらゆる数字の深い相互関係のなかで生きている」「素粒子はあらゆる素粒子との深い相互関係のなかで生きている」「細胞はあらゆる細胞との深い相互関係のなかで生きている」という意識を深めていくことで、現代の科学は進展してきているかもしれない。
詩に戻して言えば、詩は、すでに人間が「ことば」をかわして生きているという事実があるからこそ、その現実に対する批評として生まれてくる。それは、はじめて雷鳴を体験することや初めて海を見るときに発する「ことばにならないことば」とは関係がない。そして、そういう「創造」は詩の特権ではない。絵画でも彫刻でも音楽でもダンスでも、それぞれ「創造する力」をもっている。「哲学」も同じだろう。
なぜ、詩を「特権化」するのか。それが、野沢の「言語暗喩論」に対する私の疑問である。
「ことばとことばの相互関連」「ことばのなりたちや歴史」を、私は「ことばの肉体」と呼んでいる。人間の「肉体」の、たとえば「手」、たとえば「腎臓」。それはそれだけを取り出してあれこれ言うこともできるが、「本体」と切り離すと「いのち」ではなくなる。ことばも同じで、それは「肉体」とおなじように相互関連のなかで動いている。
今回の野沢の論は、大岡信のことを書いているのか、藤原俊成のことを書いているのか、藤原定家のことを書いているのか、はたまたは紀貫之のことを書いているか判然としないが、それはそれでいいのである、と思う。大岡も俊成も定家も貫之も、そして野沢も日本語を生きており、そのことばは「独自」に見えても深いところで「相互関連」を生きている。
そして、そのとき野沢は意識するかどうかわからないが、「文学」のことばだけではなく、ほかの分野のことば(色であったり、音であったり、手の動かし方であったり)とも関係しているし、そこにはあらゆる「識別」を超えた「運動」の「相互関連」もある。
「暗喩」は、そうした「相互関連」を明るみに出すすべての「法(絶対理)」のようなものであるだろう。それが成立するためには、言及の対象が「現前」していないといけない。「存在」のないことろに「暗喩」は生まれない。「暗喩」とは「いま目の前にあるもの」をつかって、「可能性としてあるもの」をリアルに表現するものだからである。それを明確化するのは直観と粘り強い論理の冒険力である。そして、その「可能性としてあるもの」は、「発明される」というよりも「発見される」もの、つまりすでに存在するものである。
「新しいもの」とは、すでにありながら「けっして古びないもの(これまで気づかれなかったもの)」のことかもしれない。それを論理(ことばの運動)で探し出すのが人間の仕事(特権)というものだろう。
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