(竹内新訳)(思潮社、2024年04月25日発行)
梁平『時間ノート』の「夜に夢を見る」のなかに、次の行がある。
夏、秋、冬のなかにだって春はない
この行に出合った瞬間、私は、何かを書きたくなった。梁平の詩を貫く何かが、この一行に隠れていると直観した。
「ない」ということばが、強く私を揺さぶる。
「春はない」。しかし、「ない」と書かざるを得ない何かが「ある」。それは、まだ名づけられていない「存在」であり、「事実」かもしれないし、あるいは「ある」という強い動詞の動きかもしれない。
いや、こんなふうにひとくくりにする「概念」ではない、何かが「ある」。
「ない」と「ある」は切り離せない。「ない」は「ある」そのものでもある。それは、「誰にも古屋が」という詩のなかでは、こう書かれる。
逃れる場所は そこ以外にないのだった
「ない」は「ある」を限定している。「限定されたある」以外には、「何もない」。「逃れる場所」ととりあえず梁平は呼んでいるが、この限定には、すでに意味はない。なぜなら、
古屋はもう存在せず
なのだから。「古屋はもう存在しない」、つまり「ない」。しかし、それが「不可能性」として、いつも「ある」を浮かび上がらせながら、「ない」という形で迫ってくる。この、どうすることもできない「矛盾」。その「矛盾」のなかから、何かしら、梁平がことばにするまでは存在しなかった純化された抽象、あるいは抽象の純化の動きのようなものが浮かび上がってくる。
それは「否定」だけが描き出す美しさである。
「越西の銀細工師」には、その「否定」の力が、何もかもを純化する力として動いていることを教える美しい数行がある。
銀細工師は学問したことはなく、
村の外の漢族のしゃべる話は 聞いても分からない
彼が最も遠くへ出かけたのは西昌だが
そこの月を見上げれば 越西で見るものとそっくり
彼が銀から打ち出したものが
天に懸かっているのだ
学問をしたことは「ない」(否定)、話を聞いても、何を言っているかわから「ない」(否定)。その「否定」が逆に、銀細工師を完全な「個人」にする。すべてを「否定」しても、人間がそこにいる(私がそこにいる、そこにある)ことは、「否定」をこえて、「ある」。そして、その「ある」を通して「銀細工」と「月」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」に「なる」運動のなかで、銀細工師は、紛れもない彼自身に「なる」のだが、その「なる」は「生まれる」であり、そこに「ある」ということでもある。
中国の詩人のことばを読んでいると、私はかなりの頻度で、中国には「二」以上の数はないと感じる。あるいはいつも「一対」、つまり「二(一プラス一)」であって、それ以上は数えきれない。「無限」というよりも、それは何か「絶対」としての「存在形式」である。
ここでは「月」と「銀細工」が「一対」なのか、「銀細工師」と「月」が「一対」なのか、区別がつかないが、「月」「銀細工」「銀細工師」が「二を超越する完全な一対」になってあらわれてくるのだが、この「顕現」を支えるのが、「ない」から始まる運動なのである。銀細工師に学問があったなら、彼に漢族のことばがわかったら、きっと彼は西昌で見る月が「越西で見るものとそっくり」とは思わないし、それが彼が打ち出した「銀細工」と同じとも気がつかない。学問があれば(頭で考えれば、論理的に考えれば)、どこから見ようと月はひとつ、「そっくり」どころか、変わりようがないものだからである。
*
何を書くつもりだったのか、もう思い出せないが、「夜に夢を見る」の余白に、私は「何かを壊す、そうすると壊す先から新しく生まれてくるものがある」というメモを残している。「壊す」を「否定する」と言いなおすと、先に書いたことと何かが通じるが、それとは別に「私は間違いのある文だ」という詩の余白には「壊しながら生成する」というメモがある。
「破壊(否定)/生成」の運動を、私は梁平のことばから、強く感じているのだ。
その「私は間違いのある文だ」は、こう始まっている。
いつから始まったのか
私はものを言うのに文法の論理を失くしてしまい
言動が取り留めないものになり もう筋の通った文章が書けない
「文法の論理を失くす」(文法の論理が、ない=無)、その結果「文章が書けない」(否定)。
「書けない」けれど、書いてしまえば、ことばはそこに「あり」、「文章は生まれる」、そして、そこには、いままで存在しなかった「文法(の論理)」が立ち現れてくる。
夏、秋、冬のなかにだって春はない
「夏、秋、冬」に「春はない」のは、学校の文法(論理)では当然だが、その学校の文法の論理に頼らずに、新しいことば(表現)は存在してしまう。既成の「意味」を否定し、「意味」ではないものが出現する。「意味」でないなら、それは、なにか。「もの」か「存在」か。「運動」か……。
この答えを、私はもっていない。「答え」など、どうでもいいのだろう。「問う」ことが必要なのだろう。ただ問い続け、ことばを動かし続けることでしか、梁平が抱えている「否定の運動」の軌跡は追えない。
*
梁平の詩のなかでは「間」ということばも印象に残った。
目を開けることと閉じることの間
「都市の深い眠り」の書き出しの一行の「間」。この「間」は「時間」をあらわしているのか。そうかもしれないが、私には違う風に感じられる。「開ける/閉じる」という運動は反対の動きであるが、そこには「切断」はなくて「連続」がある。「開ける/閉じる」で「一対」であり、そこには「間(断絶)」は存在しない。「間」は、意識がつくりだした「錯覚」である。「錯覚」なのだが、しかし、「間」と書いた瞬間、それは「錯覚」ではなく、絶対的な「事実」にもなってしまう。
「文法(の論理)」とは、たぶん「ことば」と「ことば」の「間」を整えることであり、それを「間」と読んだ瞬間に「ことば」と「ことば」が「孤立」したような感じが生まれる。「ことば」を連続させるときの「接着剤」が「文法(の論理)」だとすれば、梁平はその「接着剤」を捨てて、「間」を拡大する。「間」を「自由」にする。それは「間」によって、「ことば」を自由にするということでもある。
そして、その「間」(接着剤の否定)によって「ことば」が自由になるからだと思うのだが、梁平の詩は、なんともいえずさっぱりした印象がある。あるいは何も書いていないような、さっぱりした気持ちよさがある。
で、この「何も書いていない」というのは「意味」を書いてないという意味であり、「意味」のかわりに、いままでのことばでは存在することができなかった「もの/存在」が「意味」をもたないまま、そこに「ある」ということである。
これは、とても楽しいことである。
「意味」というものなら、人間ならだれでもそれをもっている。みんなが、自分自身の「意味」に苦労している。「意味」などというものは、それぞれの読者に任せておけばいいのであって、詩人は「意味」を否定し、「意味」にならないものがあることを「ことば」で出現させれば、それでいいのだ。
「意味」を「否定」し、それを「ない」にした瞬間、その「ない」のなかから、「もの/存在」があらわれてくる。
その、私が「もの/存在」と仮に呼んだものを、「パリでカラスの鳴き声を聞く」では、こんなふうに書いている。(これまでの詩の紹介が断片だったので、この作品は全行を引用する。梁平の詩は、どれもおもしろいが、「旅行記」はその瞬間にしか書けないような、不思議な味わいがある。)
カラスかどうか確認できなかった
姿は見えず ただ鳴き声だけが耳に澄み渡り
それはパリの早朝を引き裂いた
私は習慣通りに バルコニーで深呼吸し
あらゆるものが行き交うなかで 古きを吐き新しきを吸い込んだ
共和国広場の自由の女神は
余りに長きにわたって立ち尽くし いささか疲れていた
頭のてっぺんのオリーブは枯れたようには見えなかった
かと言って鮮やかな緑が咲きこぼれるでもなかった
昨夜の広場に集結した鬨の声は
航空と鉄道 公共交通とタクシーに及び
群がり集まったカラスのようだった
彼らのスローガン、彼らの歌は 聞いても理解できなかったが
リズミカルな力強いリズムは
百年の地下鉄三号線とピッタリ息が合い
それだけが私の夢のなかに残っていた
目を覚ませば 広場はがらんとして
地下鉄の出入り口では おびただしい出入りが始まっていた
荘重と軽薄 質素と艶麗
どう見てもロマンティックではなかった
だが私の場合 カラスの鳴き声を聞いたのであり
それとは似て非なるものだったのだ
「似て非なるもの」。これが詩の「神髄」である。梁平の書いているどのことばも、私たちの知っていることばに似ている。しかし、それは「似て非なるもの」である。だから、詩なのである。そこには「否定」することでのみ到達できる「絶対肯定」がある。
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