詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

特ダネ記事の「いやらしさ」(読売新聞を読む)

2024-07-01 10:25:39 | 読売新聞を読む

 能登地震から7月1日で半年。その前日、2024年06月30日の読売新聞に「輪島4地区 集団移転検討」という記事が載っていた。「特ダネ」である。なぜ「特ダネ」とわかるか。
 記事の前文。


 能登半島地震の被災地・石川県輪島市で、少なくとも4地区(計257世帯)が集団移転を検討していることがわかった。今回の被災地で計画が明らかになるのは初めて。いずれも高齢化と過疎が進む主に山あいの地区で、道路寸断などで一時孤立した。住民らは災害時に孤立するリスクの低い場所への移転を希望しており、市は実現に向け支援する方針だ。

 「わかった」と書いてあるが、どうして「わかった」か書いていない。書けないのである。読売新聞(記者)の「調べ」でわかったのではない。能登市の「だれか(行政関係者)」からリークされてわかったのである。(読売新聞の記者にだけリークしたから「特ダネ」なのである。)なぜ、そのひと(行政関係者)はリークしたのか。記事を読んで、住民がどう反応するか確かめたかったからである。つまり、この計画には「問題」があることを「行政関係者」は知っているのである。だから、記事を書くならば、その「問題点」をえぐる形で書かないと「行政の宣伝」になってしまう。
 集団移転に、どういう問題があるのか。
 記事を引用する。

 集団移転を検討しているのは、山あいの門前町浦上(143世帯266人)、別所谷町(41世帯77人)、打越町(11世帯22人)と海沿いの稲舟町(62世帯119人)の計4地区。

 移転対象を客観的に書いているだけだが、この「客観的」が、まず問題。
 どの「集団」も世界数と人数を比較するとわかるが、打越町以外は世帯数×2よりも住民の数が少ない。打越町にしても世帯数×2と同数である。これは、その集団には(打越町をのぞく)必ず一人暮らしのひとがいるということである。打越町にしても一人暮らしのひとがいる可能性はある。そして、大半が二人暮らしだと仮定してのことだが、その二人の年齢構成はどうなっているか。あるいは集団全体の年齢構成はどうなっているか。きっと高齢者だけである。もし若いひとが同居しているなら、人数は世帯数×2を上回るはずである。そこから考えれば、その「二人暮らし」のなかには「若い二人暮らし」は存在しないことが予想される。「若いひと」はみんな「故郷」を離れてしまっているのである。
 こんなことは少し過疎地を歩いてみればわかることである。リークされた記者が誰か知らないが、その記者は「現場」を見ていない。後半に打越町の区長の「意見」が載っているが、先に見たように打越町というのは他の3地区に比べると「一人暮らし」のひとのいる可能性がいちばん少ない地区だと予想できる。いちばん「めぐまれている」(あるいは活気がある)地区の区長の「声」では「実情」がわからないだろう。
 どういうことか。
 記事のつづき。

 26集落が分散する門前町浦上は、国道に近い浦上公民館周辺に集約する形での移転を希望。別所谷町は約4キロ北の国道沿い、打越町は約2キロ南東の県道沿いを移転先として検討している。いずれも今の住居から離れすぎず、市中心部への交通の便が良い地域だ。

 「移転」には、移転先の「住宅」が必要である。「住宅」を建てるためには土地がいる。「市中心部への交通の便が良い地域」だとすれば、たぶん、住民が現在住んでいる場所よりも「土地代」が高い。高い土地を買って、新しい住宅を建てるだけの余裕が、たぶん「老いているだろう二人暮らし」(あるいは一人暮らし)のひとに可能なのか。残してきた「住宅」の管理はどうなるのか。もし解体するとしたら、その費用はどうなるのか。誰が負担するのか。
 「老いた二人」が、あるいは「老いた一人」がどうやって、それを決断できるだろうか。離れて暮らしているかもしれない「家族」がそれを援助しなければならないとしたら、それはそれでまた新たな負担を生む。
 記事のつづきには、こう書いてある。

各地区は住民協議を経て全住民での移転か、希望者のみの移転かを判断する。門前町浦上と別所谷町は住民の半数近くが移転を希望している。

 さて、この部分の「情報源」は、どこなのか。そして、その「情報」の「裏付け取材」はしているのか。
 前半部分に出てくる「住民協議」。それを開くとして、その「主催者」は誰なのか。たとえば、その地区の「区長」か。違うだろうと思う。この計画を練った「行政関係者」である。「行政関係者」がリードする形で「住民協議」を開く。それは「協議会」というよりも「説明会」である。つまり、「計画推進」のための「了解」をとりつける。そのとき、「いまの説明でわかりましたか?」(この計画に賛成ですかではなく、説明はわかりましたか、と問いかけるのが行政の「手法」である。)「説明がわかったようでしたら、この計画を進めていきます」という形で計画が進んでいくのである。この段階では、たぶん、誰がどれだけ費用を負担するかの「説明」はなく、「移転先は道路が近くて便利」しか言わないだろう。行政主導の「説明会」である。
 後半の「住民の半数近くが移転を希望している」は、どうやって誰が調べたのか。記者が住民に聞いて回ったわけではないだろう。行政関係者の話を「うのみ」にして書いているだけだろう。
 この記事には「合意形成 丁寧に」という見出しで「解説記事」が書かれているが、住民の声も聞かずに、傍からこんなことを言われても住民は困るだろう。こんな形で、新聞で「意見」を誘導されてしまったら、高齢者は、なかなか反論できないだろう。

 さて。
 私の「実家」は、能登ではないが、その近くにある。そこでも地震の被害があった。姉(一人暮らし)の住んでいる家では、水洗トイレの浄化槽が壊れ、風呂も壊れた。修理には金がかかる。はたして修理してまで、一人でその家に住みつづけるのがいいのか。いまでも、病院通いや買い物のために、娘が遠くから通っているのだが。
 それやこれやで、家族会議(?)を開いて、ある娘のところに住むことになったのだが。
 問題は、これで片づくわけではない。誰も住まなくなった家を誰が、どう管理していくのか。鍵をかけておけばいい、というものではない。冬は雪が降る。屋根から雪下ろしをしないといけない。私の故郷にも、放置されたまま、壊れていった家が何軒もある。
 こういうことが、たとえ地震災害がなくても、これからつぎつぎに起きる。「地震災害」に限定してではなく、過疎化(少子高齢化)の問題と関係づけて、いま起きていることを書かなければ、「行政サイドの、こんなことをやっている」という宣伝に終わってしまう。
 最後に。笑い話にもならない、こんな話。
 私の故郷は「限界集落」をとおりこし、いつ消滅するかを待っている地区だが、そんな家の前に立派な道路がある。私の家よりもっと山にはいると、そこの集落の過疎化はもっと進んでいるし、だいたい、もうバスも通わないのである。車がないと生きていけないから、道路が必要といえばそうかもしれないが、車を運転できる「若いひと」がいないのに、なぜ、そんな道路が?
 実は、それは能登にある原発で事故が起きたとき、住民が避難してくるために必要な道だから整備しているのだと。
 これは、私が行政関係者から取材したことではなく、甥から聞いたことである。だから、確かな情報とは言えないのだが、私の故郷では、住民はそんな話をしているのである。そんな話をしながら、これからどんな暮らしが可能なのか、考えている。行政はなにも考えていない。
 先の集団移転にしても、結局、集団移転で土木関係者が「もうかる」というだけのことで終わるだろう。(もうかれば、土木関係者は、計画を進めた市長や市議に投票するだろう。)しかし、土木関係者がもうかれば「復興」が進んだことになるのか。それは、高齢者からなけなしの金を奪い取るだけのことではないのか。
 どうせ死んでいくのだから、金を残しておいてもしようがない。最後は、みんななかよくいっしょに生活することを考えて、集団移転しまうとでも「説得」するつもりなのだろうか。「親切」を装った「暴力」のように、私には感じられる。「親切(支援)」であるならば、高齢者からなけなしの金を奪い取らずに生活を支える方法を提案すべきだろう。そういう「視点」を記事のなかで展開すべきだろう。

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