小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波現代文庫、2019年12月13日発行)
小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』には、単行本に追加した三篇がある。そのうちの「きみとしろみ」はゆで卵の「黄身と白身」なのだが「きみ」は同時に「君」をも含んでいる。岩本正恵が訳したクレア・キーガンの「別れの贈り物」(『青い野を歩く』の一篇)を読むという体裁をとっている。
そのなかにこんな文章が出てくる。
読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく形作られていった。
(166ページ)
このことばは小池の「本質」のようなものをあらわしている。「他人」なのに、それが「わたし」の内部で「女」を生み出していく。主人公を自分のことのように感じる、と言い直してしまえば、誰もが感じることなのかもしれないが、それを「女」と対象化し、しかも「生々しく」とつかむのが小池の特徴だと思う。
「生々しさ」については、小池は、こう言い直している。
ゆで卵をつくるとき、殻が割れて白身がはみだすときがある。このはみだした白身を岩本は「リボン」ととらえている。小池は、
それを「脱腸」のようだと思いながら、いつだってその様子をじっと見ていた。その無為の時間の肌触りが、こんな箇所を読むと、蘇る。そうして読む時間をふくらませる。
(176ページ)
「時間をふくらませる」(時間がふくらむ)。時間が、それまでと「異質」なのものになる。異質といっても、それはむしろ「ほんとう」になる、ということだ。あ、この時間こそが「ほんとう」だと感じる。
それを「生々しい」と読んでいる。
「生々しくない」時間は、客観的に描写できる「物理」の時間ということになるかもしれない。けれど人間は、時計で測れる物理の時間を生きているのではない。時計では測れない時間を生きている。「ふくれた」は、つまり、時計の時間から「はみだした時間」ということになるだろう。
問題は、と書くと、語弊があるかもしれないが。
問題は、そういう時計の時間からはみだした「ほんとう」の時間は、ゆで卵からはみだす白身のような形をとるとは限らないということだ。
「別離」には、そのことが書かれている。梅酒をつくっている。梅酒の梅はもいでつくる。しかし、なかには自然に落下する梅もある。その梅は青梅ではなく、むしろ成熟している。それが枝から落ちる瞬間を、梅が木から「別離」する瞬間を見たことがないなあ、と「わたし」は思う。
この見たこのない完全な別れ(ほんとうの別れ)について考えているうちに、「わたし」は「将来を約束した」男と別れたときのことを思い出す。「わたし」は「約束」を信じていたが、男は「黙って」去った。
あの時、はっきりとした破棄の言葉があれば、別れの言葉があれば、わたしは前に進めただろう。長く、この衝撃を引きずったけれど、歳月は流れ、わたしはその後を生き、今も生きていて、この顛末も忘れた。けれど落下した梅について書くうちに、なぜかあの時の記憶が蘇ってきた。
(226ページ)
ここにもまた「ほんとう」がある。そしてこの「時間」もまた、過去から「ふくれあがって」、いまを突き破ってあらわれたものだといえるだろう。
「蘇る」は「生き返る」であり、それは常に「生々しい」。小池の書いている「蘇る」の前に「生々しい」ということばを補うと、小池が書こうとしているものがよりはっきりと見えてくると思う。実際、いま引用した文章の二つの「蘇る」の前に「生々しく」を補って、「生々しく蘇る」という形にして読んでみるといい。小池が直面しているのは「生々しさ」だということがわかる。
また最初に引用した文章から「生々しく」を省略してみればいい。省略しても「意味」は通じる。
読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が形作られていった。
しかし、何かが物足りない。逆に「形作られていった」を「蘇った」にしてみるとどうなるか。
読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく蘇った。
小池が、主人公を自分自身と感じていることが実感できる。一人の女の「時間」が「ふくれて」、生々しく「蘇った」のである。つまり、小池は、そうやって自分自身になるのである。「ほんとう(ほんもの)」になるのである。
「生々しく」は小池のことばの運動の「キーワード」である。
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