詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫『記憶の肖像』

2022-12-25 22:44:14 | その他(音楽、小説etc)

中井久夫『記憶の肖像』(みすず書房、2019年10月21日発行)

 思い立って中井久夫を読み返している。みすずから「中井久夫集」が出ているが、あえて、単行本を開いた。私が持っている本のカバー写真は、裏焼きである。中井がドイツで撮ったものだが、車が左側通行している。中井自身が、わざわざ手紙で写真が裏焼きだと教えてくれた。黙っていれば、たぶん、私は気がつかなかっただろう。中井はきっと知っていることを黙ったままにしておくことができない人間なのだと思う。誰に対しても非常に誠実なのだと思う。
 そして、それはときどき奇妙な「はにかみ」のような形であらわれるときがある。
 「N氏の手紙」というエッセイがある。西脇順三郎と手紙をやりとりしたときのことを書いている。その最後の部分。

 私の友人に、未見の人の写真も一たび目に触れれば記憶に残るという映像記憶能力を持っていた男がいる。精神医学で「エイデティカー」といわれる種類の人である。彼が酒場でN氏に会った。ものおじしない彼は、相手の名前を確かめ、それはいつもの通り当たっていて、その夜は汲み交わす仲となった。氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞かれ、今どうしているか、と尋ねられたそうである。書簡往復の七年後である。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味は分からない。文学を捨てたという意味でないことは明らかである。往復書簡当時の私は法学部の学生だったから。氏は、むしろ医学と文学の二足わらじでもはこうとする心得違いを思われたのではないだろうか。私には、そのつもりはなかったのだが--。

 そのまま読めば、中井の友人が西脇と酒場で会った。西脇が中井の消息を聞いた。友人は医学の道を歩んでいると答えた。それに対して西脇は「そりゃいかん」と叫んだ。それを聞いて、中井はあれこれ思った。そのあれこれは正確には書いていない。
 私は、この「友人」を中井自身だと思って読んだ。中井は西脇の写真を見たことがあるだろう。だから西脇だと気づいて話しかけた。西脇は書簡をやりとりしたが、たぶん、中井の顔は知らない。しかし、書簡のことは覚えているだろう。それで、いまはどうしているのかと聞いたのだろう。中井は、医学の道を進んでいると答えた。
 中井が西脇と書簡をやりとりしたのは十八歳のとき。それから七年後、二十五歳である。私は医学部のシステムを理解しているわけではないが、中井が卒業した直後であろう。その当時、中井がどれくらい「文学」に向き合っていたか、私は知らないが、この「そりゃゃいかん」という叫びを聞いて、文学の道も捨てなかったのではないか、と想像している。
 中井が「エイデティカー」であるかどうかは知らないが、視力の記憶力が強いということは、中井の描いた絵を見ればわかる。私は数枚を見ただけだが、デッサンがとてもしっかりしている。文学と同じように素人の域をはるかに超えている。中井は、その目の記憶力ゆえに、西脇とすぐにわかって話しかけたのだろう。
 なぜ、こんなことを考えるかというと。
 「氏は、友人の経歴を聞いて、私を知っているのかと聞」いたというが、書簡を通じて中井が知らせた「情報(経歴)」というのは、十八歳で大学を休学中くらいだろう。法学部の学生だと名乗ったかどうかもわからない。だから「友人の経歴」を聞いて(友人が何を語ったにしろ)、中井を知っているかとは質問しないだろう。質問できないだろう。京都大学の学生は、何人もいる。中井は法学部から医学部に針路を変更しているから、法学部時代の友人がいたとしても、中井とずっと親しいと想像することはむずかしい。その友人が西脇と会った。友人が中井の話を出さないかぎり、西脇は中井のことを聞かないだろう。
 西脇は、中井に「今はどうしている」と直接聞いたのだ。もちろん、そのことを知っているのは中井だけである。どこにも、証拠はない。だからこそ、そのことを中井は「虚構」にして語っているのである。
 だいたい、中井は、他人のことを「私の友人」というようなあいまいなことばでは表現しない。「匿名」のままであるにしろ、職業や肩書を書くことで、それがどういう人物か想像できるように書く。しかし、この文章では「私の友人」としか書いていない。いや、映像記憶力の強い男と書かれているが、これでは「その友人」を直接知っている人以外には伝わらないだろう。そして、そのことは逆に言えば、中井を知っている人なら、この「友人」とは中井自身のことであるとわかるように書いているということだ。
 この少し手の込んだ文章に、私は、なんとなく中井の「はにかみ」を感じるのである。それは西脇を「N氏」と書いていることからもわかる。注釈で「N氏」が西脇であると書いているけれど、注釈で書くくらいなら、最初から西脇と書けばいいのである。そう書かないのは、やはり中井の「はにかみ」だろう。
 中井は、私のような人間にもとても親切に接してくれた人だけれど、それは中井の「はにかみ」が影響しているかもしれない。「友人」の性格を「ものおじしない」と中井は書いているが、誰かに対して「ノー」ということ、拒絶することに対しては、とても「ものおじ」のする人だったのだと思う。他人を拒むことが苦手な人だったのだと思う。

 注・西脇は1982年に死んでいる。中井がこの文章を書いたのは、1985年である。だれかが、西脇に対して、中井久夫に会ったことがあるかと確認しようにも確認できない。そういうこともあって、中井はあえて「友人」という形で、西脇との交流を補足しているのだろう。
 末尾の「私には、そのつもりはなかったのだが」にも、「はにかみ」がある。医学と文学の二足のわらじをはくつもりはなかったが、いま思うと二足のわらじ状態だ認識している。しかし、そこには後悔はない。中井は何も拒まないと同時に、自分のしていることを後悔しない人間だ。常に、前へ進む。しなやかに変化し続けて、進む。

 

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