広田修「雨」(「妃」18、2016年09月22日発行)
広田修「雨」は、こんな「雨」。
「過去」と「内容」の関係がおもしろい。「過去」とは「体験」のことである。「体験」とは、たいていの場合「内容」のことである。
「過去/体験」から「内容」を「抜き取る」と何になるか。
ここでは、しかし、「意味」を考えてもしようがない。
こういう「論理」を動いていくことばには「意味」などない。「意味」を「結論」と言い換えてもいい。「論理」は「結論」をめざすように動いていくものであり、「論理」であることにのみ「意味」を見いだし続ける運動なのだ。
この詩で言えば「抜き取る」という「動詞」と「ない」という関係が「運動」の「数学的結論」である。詩は「ない」が先に書かれ、それを「抜き取る」という「動詞」で証明する形で動いているのだが。
つまり、
この「ない」とは何かというと、「内容」を「抜き取った」結果のことである。
私は、ちょっと興奮した。
「論理」というのは「自己循環」というか、「完結」してしまうものだが、それが「ない」へ向かうならば、一種の「自己否定/論理であることの否定」にもなる。
それを期待した。
ところが、詩はこうつづく。
「内容」は「量」とも言い換えられていると読むことができる。「量」を「抜き取る/取り除く」と「ない」になる、というのも「論理」として、私には納得できる。
しかし、「通過する」という「動詞」は「過去」と結びつくと「体験/体験する」と同じことになる。それでは「抜き取る」ということにはならない。むしろ、この「通過する」は「再認識する」である。あるいは「追認する」であり、そこからは「ない」ではなく、「ある」が必然的生まれてしまう。そこには「過去」か「ある」が明確になるだけだ。
そして、その「結果」として「過去の先端にいる」ということばがやってくるのだが、これは言いなおすと、「過去には過去の奥底と過去の先端があり、私は先端にいる、私という存在が先端にある」ということ。
「ない」が「ある」に変質してしまう。そして、最初の「詩」が消える。
「論理」が破綻する。
「論理」が破綻すると、どうなるか。「抒情」が生まれる。抒情という「論理」とは別な形の詩への欲望が動き出す。
「過去をもう一度生きた人間として」には「動詞」が省略されている。何が省略されているか。私なら「生まれる」を補うが、「生まれる」とは「いる/ある」ということ。完全に「ない」はなくなってしまった。
かわりに「もう一度」という「反復」だけが「ある」。(ここから、この数行は、先に引用した二行の言い直しであることがわかる。)こうした「過去」の「いま」への「反復」のなかで、「遠い歌」を「感情」として「反復」される。「感情」の「反復」こそが「抒情」である。それは、「いま/ここ」に「ない」感情を取り戻すことができたと勘違いすることであり、「抜き取る」ということとはまったく逆のもの。
これでは、興ざめしてしまう。
で、こんな「苦情」を書くくらいなら、感想を書かなくてもいのかもしれないのだが。次の部分は、「ない」と「抜き取る」の関係と同じように、気に入ったのである。それを書きたい。
「数える」という「動詞」がおもしろい。「数える」は「測る」ということであり、「測る」とは「比較する」ということでもあるだろう。その「比較」の部分がおもしろいのである。
「僕が数えられるよりももっと速く」には「速さ」の比較がある。
この「速さ」ということばに、私は驚いた。
雨(粒)の「量」ゆえに「数えられない」というのが一般的だと思うが、その「量」の前に「速さ/速度」があらわれてくるところが、なんといえばいいのか、見落としていた「ものの測り方(論理の作り方)」と「肉体」をゆさぶるのである。
「速さ」を比較する「機能」というか、何で「速い」と判断するのだろうか。数えている対象は「音」なので「耳」で、自分が数えるときの「音/声」と雨の「音」の間合い(間隔/時間的距離)を比較していることになる。
で、その耳が「速さ」から、
と、「遠く」へといきなり「転換」する。「空間的距離」が出てくる。「耳」が「耳」いがいのものを動かしている。「耳」にも「空間的距離」は把握できるが、「空間的距離」を測るときはもっと別な「肉体」をつかったときの方が「適切/合理的」なときがある。「耳」が無意識のうちに他の「肉体(器官)」を刺戟する。この「肉体」への刺戟と一緒に「世界」がふいに拡大する。
ここに「論理」を超える無意識の「何か」を感じ、私は、どきっとしたのである。
詩を書かずにいられない広田の「肉体」を感じたのである。
この「肉体」のことを広田は「感性」と呼び変えている、言いなおしているように思える。
で、その「感性」ということばが出てきた瞬間に、「数える/比較する」が
「探している」にかわる。「一番響く」の「一番」は露骨に「比較」をあらわしているが、その「一番」の「一」は「数える」ものではなく、「数えない」ことである。「数える」かわりに、それと「同化する」が「一」である。「探している」とは、実は、その雨音に「なる」(同化する)ことである。
この「探す/同化する」(ひとつになる)は、次のように言いなおされる。
「一つになる」が「一つ」を「聴き分ける」、合体と分離という矛盾した動きが「肉体」のなかで結びつく。その「矛盾」を先取りする形で「正と負」という「論理的」なことばが動いている。
広田のことばには、「論理」と「論理ではないもの」が衝突しているのだが、私は、この衝突がおもしろいと感じている。ただし、それが「論理」から「抒情」へと変化してしまうときは、私の好みではなくなる。
いま引用した部分でも「正と負」はいいけれど、それに先立つ「この世の」が、どうも気持ちが悪い。
まあ、これは私の好みであって、そういう部分が好きという人もいるだろう。
広田修「雨」は、こんな「雨」。
こんな快晴の日だが
ひたすら過去の雨が私を打つ
水ですらなく重さもない
透明な過去の雨が激しく降ってくる
これまで辿ってきた体験が
内容を抜き取られてひたすら雨滴となる
「過去」と「内容」の関係がおもしろい。「過去」とは「体験」のことである。「体験」とは、たいていの場合「内容」のことである。
「過去/体験」から「内容」を「抜き取る」と何になるか。
ここでは、しかし、「意味」を考えてもしようがない。
こういう「論理」を動いていくことばには「意味」などない。「意味」を「結論」と言い換えてもいい。「論理」は「結論」をめざすように動いていくものであり、「論理」であることにのみ「意味」を見いだし続ける運動なのだ。
この詩で言えば「抜き取る」という「動詞」と「ない」という関係が「運動」の「数学的結論」である。詩は「ない」が先に書かれ、それを「抜き取る」という「動詞」で証明する形で動いているのだが。
つまり、
水ですらなく重さもない
この「ない」とは何かというと、「内容」を「抜き取った」結果のことである。
私は、ちょっと興奮した。
「論理」というのは「自己循環」というか、「完結」してしまうものだが、それが「ない」へ向かうならば、一種の「自己否定/論理であることの否定」にもなる。
それを期待した。
ところが、詩はこうつづく。
私はこれだけの量の過去を通過し
そしていまこれらの過去の先端にいる
「内容」は「量」とも言い換えられていると読むことができる。「量」を「抜き取る/取り除く」と「ない」になる、というのも「論理」として、私には納得できる。
しかし、「通過する」という「動詞」は「過去」と結びつくと「体験/体験する」と同じことになる。それでは「抜き取る」ということにはならない。むしろ、この「通過する」は「再認識する」である。あるいは「追認する」であり、そこからは「ない」ではなく、「ある」が必然的生まれてしまう。そこには「過去」か「ある」が明確になるだけだ。
そして、その「結果」として「過去の先端にいる」ということばがやってくるのだが、これは言いなおすと、「過去には過去の奥底と過去の先端があり、私は先端にいる、私という存在が先端にある」ということ。
「ない」が「ある」に変質してしまう。そして、最初の「詩」が消える。
「論理」が破綻する。
「論理」が破綻すると、どうなるか。「抒情」が生まれる。抒情という「論理」とは別な形の詩への欲望が動き出す。
私の人生が強く降り注いでいる
人生の深遠が雨を振り絞っている
そして私は再び快晴の夏へ
光と熱でいっぱいの明るい夏の日へ
過去をもう一度生きた人間として
遠い歌に耳を傾けながら
「過去をもう一度生きた人間として」には「動詞」が省略されている。何が省略されているか。私なら「生まれる」を補うが、「生まれる」とは「いる/ある」ということ。完全に「ない」はなくなってしまった。
かわりに「もう一度」という「反復」だけが「ある」。(ここから、この数行は、先に引用した二行の言い直しであることがわかる。)こうした「過去」の「いま」への「反復」のなかで、「遠い歌」を「感情」として「反復」される。「感情」の「反復」こそが「抒情」である。それは、「いま/ここ」に「ない」感情を取り戻すことができたと勘違いすることであり、「抜き取る」ということとはまったく逆のもの。
これでは、興ざめしてしまう。
で、こんな「苦情」を書くくらいなら、感想を書かなくてもいのかもしれないのだが。次の部分は、「ない」と「抜き取る」の関係と同じように、気に入ったのである。それを書きたい。
雨の日に、僕は雨粒の音を数えている。僕が数えられるよりももっと速く雨粒は
降ってくるし、遠くの雨粒の音はよく聞こえない。それでも僕は雨粒の音を数え
ている。自分の感性の平原、その静寂に一番響く雨粒の音を探している。
「数える」という「動詞」がおもしろい。「数える」は「測る」ということであり、「測る」とは「比較する」ということでもあるだろう。その「比較」の部分がおもしろいのである。
「僕が数えられるよりももっと速く」には「速さ」の比較がある。
この「速さ」ということばに、私は驚いた。
雨(粒)の「量」ゆえに「数えられない」というのが一般的だと思うが、その「量」の前に「速さ/速度」があらわれてくるところが、なんといえばいいのか、見落としていた「ものの測り方(論理の作り方)」と「肉体」をゆさぶるのである。
「速さ」を比較する「機能」というか、何で「速い」と判断するのだろうか。数えている対象は「音」なので「耳」で、自分が数えるときの「音/声」と雨の「音」の間合い(間隔/時間的距離)を比較していることになる。
で、その耳が「速さ」から、
遠くの雨粒の音はよく聞こえない。
と、「遠く」へといきなり「転換」する。「空間的距離」が出てくる。「耳」が「耳」いがいのものを動かしている。「耳」にも「空間的距離」は把握できるが、「空間的距離」を測るときはもっと別な「肉体」をつかったときの方が「適切/合理的」なときがある。「耳」が無意識のうちに他の「肉体(器官)」を刺戟する。この「肉体」への刺戟と一緒に「世界」がふいに拡大する。
ここに「論理」を超える無意識の「何か」を感じ、私は、どきっとしたのである。
詩を書かずにいられない広田の「肉体」を感じたのである。
この「肉体」のことを広田は「感性」と呼び変えている、言いなおしているように思える。
で、その「感性」ということばが出てきた瞬間に、「数える/比較する」が
その静寂に一番響く雨粒の音を探している。
「探している」にかわる。「一番響く」の「一番」は露骨に「比較」をあらわしているが、その「一番」の「一」は「数える」ものではなく、「数えない」ことである。「数える」かわりに、それと「同化する」が「一」である。「探している」とは、実は、その雨音に「なる」(同化する)ことである。
この「探す/同化する」(ひとつになる)は、次のように言いなおされる。
全てが
ほとんど同じであろう雨粒の音のなかで、この世の正と負との境界を厳密に突くよ
うな雨粒の音を、たった一つでも聴き分けることができればいい。
「一つになる」が「一つ」を「聴き分ける」、合体と分離という矛盾した動きが「肉体」のなかで結びつく。その「矛盾」を先取りする形で「正と負」という「論理的」なことばが動いている。
広田のことばには、「論理」と「論理ではないもの」が衝突しているのだが、私は、この衝突がおもしろいと感じている。ただし、それが「論理」から「抒情」へと変化してしまうときは、私の好みではなくなる。
いま引用した部分でも「正と負」はいいけれど、それに先立つ「この世の」が、どうも気持ちが悪い。
まあ、これは私の好みであって、そういう部分が好きという人もいるだろう。
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