杉山平一『希望』(編集工房ノア、2011年11月02日発行)
杉山平一『希望』に収められている詩はどれも短い。ことばが、ぱっと動いて、ぱっと止まる。この、自然な感じがこの詩集の味である。
タイトルになっている「希望」は、東日本大震災を契機に書かれたのだろうか。
列車がトンネルに入る。そして、トンネルを抜け出す。このとき動いているのは列車であってトンネルではない。けれど、それを承知で、杉山は逆に書く。
光が「拡がって迎えにくる」。
この事実とは違う運動--その動きをとらえることばのなかに、杉山の人生があるのだと思った。
ひとはだれでも何かをする。何らかの目的をもって動く。そして、その動きは必ずしも自分の望んだものにはつながらない。そうではなく、何かが向こうからやってくるようにして自分を変えていく。
確かにそういうことはあるのだが、それを「人生」として受け止めるというのは、若いときにはなかなかできない。
杉山は、いま97歳らしい。(帯に書いてあった。)
不幸(不運)も向こうからやってくるが、幸せも向こうからやってくる。
それを「承知する」ことはなかなかむずかしい。けれど、承知するしかないのかもしれない。それは「敗北」ではなく、それが「人生」だと杉山は知っている。そこに不思議な静けさがある。
「ポケット」という詩がある。私は、この詩を最初読み違えた。
何をどう読み違えていたかというと--最初の2行である。逆に読んでしまったのだ。つまり、
と。
自分の住んでいた町を離れる。けれどポケットに手を突っ込むと、昔歩いた町がポケットのなかにある。ポケットに手を突っ込みながら(つまり何かに働きかけるわけでもなく、ぶらぶらと)歩いた町が甦る。何もないポケットのなかで、手を広げたり、握り拳をつくったり--そうすることしかできなくて、ただそうするのだが、そうすると無為にただ時間をやりすごしたその時間が、なつかしく、忘れていた何かを連れてきてくれる。
それは「希望」のことばを借りていえば、
につながる。
何もできないときは、何もできないまま、できることをしていればいいのだ。それは「我慢する」というような消極的なことになってしまうかもしれないが、それでもそこには「する」という「自発」がある。
「自発」があるかぎり、それに答える何かがある。
それが「希望」である。
また、それは「なつかしもの/わすれていたもの」でもあると、私は、理由もなく思うのである。
「出ておいで」は、「受け身」の美しさを語る杉山らしい作品だと思う。
これは、杉山自身に呼びかけたことばなのかもしれないが、「出ておいで」と呼びかけるものを杉山はほんとうは探していた、待っていたのかもしれない。長い長いあいだ待った経験が、「逆に」杉山に働きかけ、「出ておいで」といえるようになったのかもしれない。
杉山のことばのなかには、何かしら不思議な「能動」(する)と「受動)(される)の静かな交代があり、その静かな交代のなかに美しさがある。
交代する力--交代させる力。
たぶん、その二つは出会って、はじめて「ひとつ」になる。「いま/ここ」にありながら姿をあらわすことができないものを引き出す。
それに出会うためには、ときとして「待つ」ということ、「我慢する」ということが必要なのかもしれない。
でも、ほんとうのことは「わからない」。「我慢する」ということがほんとうに幸せを運んでくれるかどうかはわからない。
「わからない」--というとても美しい詩がある。
妹は「我慢」している。その「我慢」がすべてを受け入れ、すべてを昇華する。昇華させる。そんなことを妹は自覚していない。その無自覚のなかに強い美しさがある。
この無自覚を批判するのが現代の視点かもしれないが、この無自覚を生きてみることもときには必要かもしれない。その無自覚のなかで生まれる「連帯」もある。
杉山平一『希望』に収められている詩はどれも短い。ことばが、ぱっと動いて、ぱっと止まる。この、自然な感じがこの詩集の味である。
タイトルになっている「希望」は、東日本大震災を契機に書かれたのだろうか。
夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は
列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ
負けるな
列車がトンネルに入る。そして、トンネルを抜け出す。このとき動いているのは列車であってトンネルではない。けれど、それを承知で、杉山は逆に書く。
光が「拡がって迎えにくる」。
この事実とは違う運動--その動きをとらえることばのなかに、杉山の人生があるのだと思った。
ひとはだれでも何かをする。何らかの目的をもって動く。そして、その動きは必ずしも自分の望んだものにはつながらない。そうではなく、何かが向こうからやってくるようにして自分を変えていく。
確かにそういうことはあるのだが、それを「人生」として受け止めるというのは、若いときにはなかなかできない。
杉山は、いま97歳らしい。(帯に書いてあった。)
不幸(不運)も向こうからやってくるが、幸せも向こうからやってくる。
それを「承知する」ことはなかなかむずかしい。けれど、承知するしかないのかもしれない。それは「敗北」ではなく、それが「人生」だと杉山は知っている。そこに不思議な静けさがある。
「ポケット」という詩がある。私は、この詩を最初読み違えた。
町のなかにポケット
たくさんある
建物の黒い影
横町の路地裏
そこへ手を突っ込むと
手にふれてくる
なつかしいもの
忘れていたもの
何をどう読み違えていたかというと--最初の2行である。逆に読んでしまったのだ。つまり、
ポケットのなかに町
たくさんある
と。
自分の住んでいた町を離れる。けれどポケットに手を突っ込むと、昔歩いた町がポケットのなかにある。ポケットに手を突っ込みながら(つまり何かに働きかけるわけでもなく、ぶらぶらと)歩いた町が甦る。何もないポケットのなかで、手を広げたり、握り拳をつくったり--そうすることしかできなくて、ただそうするのだが、そうすると無為にただ時間をやりすごしたその時間が、なつかしく、忘れていた何かを連れてきてくれる。
それは「希望」のことばを借りていえば、
我慢していればよいのだ
につながる。
何もできないときは、何もできないまま、できることをしていればいいのだ。それは「我慢する」というような消極的なことになってしまうかもしれないが、それでもそこには「する」という「自発」がある。
「自発」があるかぎり、それに答える何かがある。
それが「希望」である。
また、それは「なつかしもの/わすれていたもの」でもあると、私は、理由もなく思うのである。
「出ておいで」は、「受け身」の美しさを語る杉山らしい作品だと思う。
カメラを向けると
口を閉じて
髪に手をやり
とり澄まし
心を文字にしようとすると
飾ったり誇張したりする
本当の顔よ心よ
恥ずかしがらずに
出ておいで
これは、杉山自身に呼びかけたことばなのかもしれないが、「出ておいで」と呼びかけるものを杉山はほんとうは探していた、待っていたのかもしれない。長い長いあいだ待った経験が、「逆に」杉山に働きかけ、「出ておいで」といえるようになったのかもしれない。
杉山のことばのなかには、何かしら不思議な「能動」(する)と「受動)(される)の静かな交代があり、その静かな交代のなかに美しさがある。
交代する力--交代させる力。
たぶん、その二つは出会って、はじめて「ひとつ」になる。「いま/ここ」にありながら姿をあらわすことができないものを引き出す。
それに出会うためには、ときとして「待つ」ということ、「我慢する」ということが必要なのかもしれない。
でも、ほんとうのことは「わからない」。「我慢する」ということがほんとうに幸せを運んでくれるかどうかはわからない。
「わからない」--というとても美しい詩がある。
お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか
お母さんはお兄さんを叱りました
どうしてわからないの
お兄さんは妹につっかかりました
お前はバカだなあ
妹は犬の頭をなでて
よしよしといいました
犬の名前はジョンといいます
(谷内注・原文は送り文字をつかっているところがあるが、
表記の都合で書き直した。)
妹は「我慢」している。その「我慢」がすべてを受け入れ、すべてを昇華する。昇華させる。そんなことを妹は自覚していない。その無自覚のなかに強い美しさがある。
この無自覚を批判するのが現代の視点かもしれないが、この無自覚を生きてみることもときには必要かもしれない。その無自覚のなかで生まれる「連帯」もある。
杉山平一詩集 (現代詩文庫) | |
杉山 平一 | |
思潮社 |
時間だけが解決してくれること。ただ、じっとしてても、出会いはやってくるんですね。もうなにもかもあきらめた時にふっと出会いがやってきたりするんです。人との出会いに限らず。それが、光が迎えにくるということなのかな。
私なりの「希望」をよんでみたいと思います。