河邉由紀恵『桃の湯』(4)(思潮社、2011年05月25日発行)
きのうの「日記」は強引に「誤読」しすぎたかもしれない。河邉の作品をおいてきぼりにして、私のことばだけを動かしすぎたかもしれない。反省をこめて(というのは、きっと最初だけかもしれていけれど)、もう一篇、詩集のなかから好きな作品を引いてみる。「おくやま」。こごみ採りに山へ行ったおじいさんが蕗の薹を見つける。
4連目を引用する。(3連目の最後に「おじ」という文字がある。)
「学校教科書」の句読点の使い方、段落(?)の分け方からすると、河邉の書き方は、あまりにも異質である。「落第」の書き方である。でも、その異質な書き方のせいで、不思議なものがみえてくる。
ことばが「文章」を無視して、ある部分だけが印象に残る。「文章」につづきがあるのだが、それが1行空きによって強引に切断されているので、その続きとは関係なく、「蝋梅のようなたまご色」が独立してそこに存在している感じがする。
そして、この詩ではたまたまなのだろうけれど、「蝋梅のようなたまご色のいたい」という具合に1行が終わる。そうすると「たまご色のいたい」が「たまご色の痛い/遺体」という具合にも読めてしまい、世界がぐらりと軸をずらして、何かを見てしまったような気持ちになる。「やわらかくて骨のない」も「やわらかな骨」のように感じてしまうのである。
たまご色の遺体は、やわらかくて骨がないのか、あるいはやわらかい骨でできているのかわからないが、それは「痛い」のだ。「痛い」と言っているのだ。その「声」を聞いたように感じてしまうのである。
こういう変な印象、「文章」というか、ことばの脈絡がもっている「意味」とは無関係に何か、「もの」と「感情」が、それぞれの連で独立して独自に動いている感じがずーっとつづいていく。
以下は、詩のつづき。
詩は、まだつづいているのだが……。
この作品では、「連」のなかのことばが、特に「独立」感がつよく感じられる。「よわい小さな足」「しんのしんまでしめった泥」「さわられることをいとわない」「かかとのうちおり」「ゆうらりゆらり」「ああらまあやなこ」「噛んだ時のにが味」……それらが不思議に独立して感じられる。
この、ことばが「文意」とは無関係に独立して存在している感じ--これは、私が、そこに詩を感じるということでもある。「文意」から逸脱し、「文意」を破壊していく「もの」(ことば)の力。そこにこそ、私は詩があると思っている。
それは作為的な1行空きによって、何やらストロボフラッシュをたいた時にみえる世界の断片のようでもあるが、それは断片でありながら、とういか、逆に(?)断片であることを強調することによって、ほんとうはそこに「連続」があるのだということも意識させる。
連から連へ、ことばが切断され、封じこめられる時、私はどうしても、その切断されたことばを連続させて読んでしまう。
「噛んだときのあのにが味や何ともいえないかぐ」の「かぐ」は、その直前に「にが味」という食感(?)があるので、「嗅ぐ」とも読めるのだけれど、それは一瞬のことで、私は「かぐ//わしい匂い」を「かぐわしい匂い」とひとつづきのことばとして読んでしまう。
「弓のよ//うにまがることを求められた」では、「弓」そのものがまず「もの」として浮かび上がり、それから「まがることを求められた」が結びつけられることで、何とも言えない不思議な気持ちになる。ある「もの」を見ていたら、それが世界から切断され、その世界とは別のものと結びつけられ、変質していく。変化していく。そして、その変化によって「もの」がよりいっそう「もの」らしくなる。いっそう「独立」してみえてくる。
さらに、この作品には「ああらあまあやなこの世のものはみんな違っている」というどこをどう区切って読んでいいのかわからないことばもある。「ああらまあ、やな(嫌な)子」「ああらまあ、やな(嫌な)、この世」「ああらま、あやな(文無/奇に--あやに、が変化したら、あやなになるかな?)、この世」。詩なのだから、どう読んだってかまわないと思うのだが、「ああらまあ、やな(嫌な)子」と読んだ時は、その部分を、姉さんの叱ることばという意味に取るのだが、--その最後の「子」は「このよ」の「こ」の「枕詞」と思って私は読むのである。
で、枕詞。
枕詞は、最初は「意味」があったのかもしれないけれど(そして今でも意味はあるのだろうけれど)、あることばを修飾する、あることばを「引き出す」ときにつかわれる。そのことばを引き出すという方法としての「連続」。そういうものが、河邉の詩のなかにはあると思う。
いくつものことばがそれぞれの「連」で独立して存在しているのだが、独立しながら、それは同時に他のことばを引き出している。他のことばを修飾する形でどこかで結びついている--そういう印象がある。
それは、河邉のことばを借りていえば、次のように要約できる。(句読点は谷内が入れた。改行は谷内が無視した。補足した方がわかりやすくなると思ったことばは、やはり谷内がかってに補足してみた。)
この世のものはみんな違っているけれど、噛んだときのあのにが味や何ともいえないかぐわしい匂いは同じひとつのものであるし、やはりどこかつながっている。
この世の「もの」は、それぞれが独立し、みな違っている。けれど、その「もの」を噛んでみれば(つまり「肉体」で直接触れ、確かめてみれば)わかることだが、ときにそれは苦い味をもっており、ときにかぐわしい匂いをもっている。「苦い味」と「かぐわしい匂い」は、「もの」と同様に「違っている」けれど、「肉体」にある感覚を呼び覚ますということでは同じ「ひとつのもの、ひとつの力」である。そして、そういう肉体になんらかの感覚を呼び覚ますものは、別々のものであっても、すべてどこかでつながっているのである。
この「ひとつのもの、つながっている何か」を河邉は「ゆるんだようななつかしいへんな気持ち」と呼んでいると思う。これまで見てきた「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」(桃の湯)など、論理的なことばでは言い換えることのできない何か。「頭」では整理できない何か。「肉体」が知らず知らずに受け止める、納得する何か。「いのち」の直感(原始)のような何か。
私のことばでは書いても書いても、たどりつけない何か。
この詩集は、すばらしい。ぜひ、買って読んでください。私の引用には「誤記」もたくさんあると思うので、買って、河邉の正確なことばを読んでください。
きのうの「日記」は強引に「誤読」しすぎたかもしれない。河邉の作品をおいてきぼりにして、私のことばだけを動かしすぎたかもしれない。反省をこめて(というのは、きっと最初だけかもしれていけれど)、もう一篇、詩集のなかから好きな作品を引いてみる。「おくやま」。こごみ採りに山へ行ったおじいさんが蕗の薹を見つける。
4連目を引用する。(3連目の最後に「おじ」という文字がある。)
いさんは見つけるそれはまだ貝のように眠っていて光
合成を受けてもいない蝋梅のようなたまご色のいたい
けな蕗のつぼみでありやわらかくて骨のない金蓮のよ
「学校教科書」の句読点の使い方、段落(?)の分け方からすると、河邉の書き方は、あまりにも異質である。「落第」の書き方である。でも、その異質な書き方のせいで、不思議なものがみえてくる。
ことばが「文章」を無視して、ある部分だけが印象に残る。「文章」につづきがあるのだが、それが1行空きによって強引に切断されているので、その続きとは関係なく、「蝋梅のようなたまご色」が独立してそこに存在している感じがする。
そして、この詩ではたまたまなのだろうけれど、「蝋梅のようなたまご色のいたい」という具合に1行が終わる。そうすると「たまご色のいたい」が「たまご色の痛い/遺体」という具合にも読めてしまい、世界がぐらりと軸をずらして、何かを見てしまったような気持ちになる。「やわらかくて骨のない」も「やわらかな骨」のように感じてしまうのである。
たまご色の遺体は、やわらかくて骨がないのか、あるいはやわらかい骨でできているのかわからないが、それは「痛い」のだ。「痛い」と言っているのだ。その「声」を聞いたように感じてしまうのである。
こういう変な印象、「文章」というか、ことばの脈絡がもっている「意味」とは無関係に何か、「もの」と「感情」が、それぞれの連で独立して独自に動いている感じがずーっとつづいていく。
以下は、詩のつづき。
うなよわい小さな足のような姿でもあるのでおじいさ
んはこごみをつんでしんのしんまでしめった泥のつい
た軍手をはずしてまだ誰も見たことのないやわらかい
小さな足を素手でそろりとなであげるおじいさんにそ
ろりそろりと触れられることをいとわない小さなやわ
らかいその足はかかとのうちおりが傾いていて弓のよ
うにまがることを求められたかなしい足でもある太っ
ても痩せてもいず小波の上を歩くようにゆうらりゆら
りゆれていた小さな足に姉さんのようなおんなのひと
は痩金蓮方や妙蓮散のなん膏薬を毎夜まいよ塗ってい
たああらあまあやなこの世のものはみんな違っている
けれど噛んだときのあのにが味や何ともいえないかぐ
わしい匂いは同じひとつのものであるしやはりどこか
つながっていると考えるうちにおじいさんはあまいよ
うなゆるんだようななつかしいへんな気持ちになって
詩は、まだつづいているのだが……。
この作品では、「連」のなかのことばが、特に「独立」感がつよく感じられる。「よわい小さな足」「しんのしんまでしめった泥」「さわられることをいとわない」「かかとのうちおり」「ゆうらりゆらり」「ああらまあやなこ」「噛んだ時のにが味」……それらが不思議に独立して感じられる。
この、ことばが「文意」とは無関係に独立して存在している感じ--これは、私が、そこに詩を感じるということでもある。「文意」から逸脱し、「文意」を破壊していく「もの」(ことば)の力。そこにこそ、私は詩があると思っている。
それは作為的な1行空きによって、何やらストロボフラッシュをたいた時にみえる世界の断片のようでもあるが、それは断片でありながら、とういか、逆に(?)断片であることを強調することによって、ほんとうはそこに「連続」があるのだということも意識させる。
連から連へ、ことばが切断され、封じこめられる時、私はどうしても、その切断されたことばを連続させて読んでしまう。
「噛んだときのあのにが味や何ともいえないかぐ」の「かぐ」は、その直前に「にが味」という食感(?)があるので、「嗅ぐ」とも読めるのだけれど、それは一瞬のことで、私は「かぐ//わしい匂い」を「かぐわしい匂い」とひとつづきのことばとして読んでしまう。
「弓のよ//うにまがることを求められた」では、「弓」そのものがまず「もの」として浮かび上がり、それから「まがることを求められた」が結びつけられることで、何とも言えない不思議な気持ちになる。ある「もの」を見ていたら、それが世界から切断され、その世界とは別のものと結びつけられ、変質していく。変化していく。そして、その変化によって「もの」がよりいっそう「もの」らしくなる。いっそう「独立」してみえてくる。
さらに、この作品には「ああらあまあやなこの世のものはみんな違っている」というどこをどう区切って読んでいいのかわからないことばもある。「ああらまあ、やな(嫌な)子」「ああらまあ、やな(嫌な)、この世」「ああらま、あやな(文無/奇に--あやに、が変化したら、あやなになるかな?)、この世」。詩なのだから、どう読んだってかまわないと思うのだが、「ああらまあ、やな(嫌な)子」と読んだ時は、その部分を、姉さんの叱ることばという意味に取るのだが、--その最後の「子」は「このよ」の「こ」の「枕詞」と思って私は読むのである。
で、枕詞。
枕詞は、最初は「意味」があったのかもしれないけれど(そして今でも意味はあるのだろうけれど)、あることばを修飾する、あることばを「引き出す」ときにつかわれる。そのことばを引き出すという方法としての「連続」。そういうものが、河邉の詩のなかにはあると思う。
いくつものことばがそれぞれの「連」で独立して存在しているのだが、独立しながら、それは同時に他のことばを引き出している。他のことばを修飾する形でどこかで結びついている--そういう印象がある。
それは、河邉のことばを借りていえば、次のように要約できる。(句読点は谷内が入れた。改行は谷内が無視した。補足した方がわかりやすくなると思ったことばは、やはり谷内がかってに補足してみた。)
この世のものはみんな違っているけれど、噛んだときのあのにが味や何ともいえないかぐわしい匂いは同じひとつのものであるし、やはりどこかつながっている。
この世の「もの」は、それぞれが独立し、みな違っている。けれど、その「もの」を噛んでみれば(つまり「肉体」で直接触れ、確かめてみれば)わかることだが、ときにそれは苦い味をもっており、ときにかぐわしい匂いをもっている。「苦い味」と「かぐわしい匂い」は、「もの」と同様に「違っている」けれど、「肉体」にある感覚を呼び覚ますということでは同じ「ひとつのもの、ひとつの力」である。そして、そういう肉体になんらかの感覚を呼び覚ますものは、別々のものであっても、すべてどこかでつながっているのである。
この「ひとつのもの、つながっている何か」を河邉は「ゆるんだようななつかしいへんな気持ち」と呼んでいると思う。これまで見てきた「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」(桃の湯)など、論理的なことばでは言い換えることのできない何か。「頭」では整理できない何か。「肉体」が知らず知らずに受け止める、納得する何か。「いのち」の直感(原始)のような何か。
私のことばでは書いても書いても、たどりつけない何か。
この詩集は、すばらしい。ぜひ、買って読んでください。私の引用には「誤記」もたくさんあると思うので、買って、河邉の正確なことばを読んでください。
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毎回、わくわくして読んでいました。
谷内さんの手にかかれて私の詩集は幸せものです。