橋本篤『Touch 山・友・家族』(編集工房ノア、2024年11月01日発行)
巻頭の「ジャン・バルジャン」には、橋本篤の、長所と短所が、いっしょになっている。もっとも長所・短所といっても、それは私の判断で、ほかのひとは私が長所と呼んだところを短所と呼び、短所と呼んだところを長所と言うかもしれない。
同志社大学の小講堂のどこかだった
クリスマス演劇だったように思う
母に手をひかれて行ったのだった
ジャン・バルジャンが
賑やかな店から追い出され
暗く冷たいパリの街路をさまよい
幸せであるはずのクリスマス・イブに
不幸へ落ちて行くように
舞台の袖へと消えていったのだ
一幕目が終わったところで
母は出ようかと 私をつれ出した
京都の冬の河原町は
いつものように底冷えしていた
私は母に何度も言ったという
なあ お母ちゃん
あのおじちゃん 行くとこないんやろ
家に泊めてあげよ
確かに そう言った気はするのだ
ただ もう七十年以上も前のことである
母がこのたわいないエピソードを笑いながら
誰彼なしに聞かせたことだけはよく覚えている
その笑いの意味を 本人の言葉で確かめたいのだが
いま百四歳になった認知症の母は
ベッドの中で 夢を追いつづけるばかりだ
知っていること(体験したこと、覚えていること)を省略せずに、正確に書く。これは橋本の長所である。脚色をしない。それが美しい形で発揮されているのが、
母がこのたわいないエピソードを笑いながら
誰彼なしに聞かせたことだけはよく覚えている
この二行のなかの「笑いながら」である。確かに「笑いながら」、橋本の母は、そう言ったのだろう。なぜ、笑いながらなのか、幼い橋本にはわからなかった。いや、そんなことはない。こどもは、こういう「大人の感情」は間違いなく直覚する。そして、間違いなく直覚したからこそ「よく覚えている」のである。決して、忘れることができないのである。書き出しの「どこかだった」「だったように思う」とは、明確に違うのである。
そして、橋本は幼いながらも、母が得意になってそのエピソードを語るのではなく「笑いながら」語ることに、母の「人柄」を直覚したはずだ。その、同じ「人柄」を橋本は受け継いでいる。
母親は、橋本の幼い日のことばを、そのことばに隠れている「人柄」を自慢していいのである。しかし、自慢しないのである。そこにこそ、母親の「人柄」がいきいきと動いている。
なぜ、母親はこどもの「人柄」を自慢しないのか。「人柄」というものは自慢するものではないからだ。さらに、幼いこどもの「人柄」というのは、幼いこどものものでありながら、同時に家庭の、つまり母親の「人柄」でもあるからだ。それがわかるから、自慢が「屈折」する。「笑いながら」でしか語れない。しかし、屈折しても、なんというか「笑い」は屈折しないし、「笑い」があることで、聞いたひとは、「人柄」に屈伏せずに、楽しいもの、ほほえましいものとして「人柄」を受け入れる。(極端に言えば「まあ、四倍と現実の区別ができないばかな子」ということば否定しながら、「ばかな子ほどかわいいんだよね」と笑いながら受け入れることもできるのである。)「人柄」よりも「笑い」を共有する。「笑いが共有できれば、それでいい」と考えるのも、これもまた「人柄」ではあるのだけれど。
で、それでは、この詩の、あるいは橋本の短所とは何か。
その笑いの意味を 本人の言葉で確かめたいのだが
この一行のなかにある「確かめたい」という「論理の強さ」である。「確かめたい」ということばを書かなくても、「確かめたい」というこころの動きは書けるはずである。
この「確かめたい」ということばが、この詩のおわりを「客観的」にしている。母を突き放している感じがする。母の見ている「夢」は、どんな夢なのか。橋本の幼い日々の楽しい記憶もそのなかにはあるはずである。夢のなかで、母は橋本と一緒に生きているはずである。「認知症」であっても、直覚できるものはあるはずだ。もちろん、これは「医学」のことを知らない私の「主観的」な感想であって、「客観的」な事実とは言えないかもしれない。しかし、読者は(少なくとも私は)、詩人のことばのなかで「客観的」でありたいと思ったことはない。「主観」を重ねたい。「主観」を直覚したい。
私は、そういう「ことば」を読みたい。
詩集という形になってしまっているが、いつの日か、この三行を書き直せる日があればいいなあ、と祈りたい。
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