詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(4)

2009-02-23 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。対立。対句。そういうものに呼応する、もうひとつのことばの動き。それを「腐刻画」に感じた。

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入つてゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

 2連目は、とてもおもしろい。ここには不要な(?)ことばがある。なくても、この作品が成立することばがある。「私が語りはじめた」である。その挿入があろうがなかろうが、「彼」が「若年にして父を殺した」という文意は変わらない。
 ……はずである。
 ところが、「わざと」そのことばを挿入したために、その瞬間から、文意が変わるのではないかという疑念がわいてくる。
 それは、それにつづく「その秋 母親は美しく発狂した」で、いっそう強くなる。
 「母親」というのは、誰? 彼の母親? 私の母親? 区別がつかない。
 「私が語りはじめた」という一言によって、「彼」と「私」が、「母親」ということばのなかで融合してしまう。
 そして、「彼」と「私」が「母親」のなかで融合してしまうと、その印象は、ことばを逆流して、すべてを作り替えてしまう。「母親」が誰の母親かわからないのだったら、「父」も誰の父かわからない。「彼」と「私」と言っているが、それは「わざと」そう言っているだけであり、ほんとうは「私」のことをそう呼んでいるだけかもしれない。
 風景が「彼の眼前にある」というけれど、それは「私」の眼前かもしれない。いや、「私」の眼前でなければ、リアルにそれを再現できないだろう。「想われた」というような主観的なことばで語ることはできないだろう。「……のようでもあり、あるいは……のごとくにも」というような、複数の「思い」を語ることができるのは、それを見ている本人(私)であり、他人(彼)にはそう「想われた」というのは論理的におかしい。「彼」にそう「想われた」かどうかは、「彼」にしかわからないことだからである。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く     (「Nu」)

 耳(聴覚)と眼(視覚)が融合したように、「私」と「彼」は融合する。そしてそれは「語る」ということをとおしてのことである。
 「私」が「彼」を語るということは、一方で「彼」と距離を置くことだが、他方で「彼」と接近することでもある。語ることは対象を客観化することであるけれど、また、同時に対象と一体化しないとほんとうに語るということにはならない。対象と一体化したとき、ほんとうにその対象を語っているという印象が、そのことばのなかに生まれる。
 語るというのは、そういう矛盾した行為である。

 語る--語っていることをどれだけ意識するか。つまり、そこに書かれていることのなかに「わざと」がどれだけ含まれているか、「わざと」をどれだけ意識するかが詩にとって重要なのである。ことばに対して自覚的であるかどうか、それが「現代詩」の出発点の基本である。
 矛盾も対句も融合も、すべて「わざと」である。「わざと」という自覚こそが、詩なのである。




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田村 隆一
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